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見えていたはずなのに、その手紙は読まれなかった  作者: 犬好茶々


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3/8

3

 気がついたとき、眞柴秀樹の視界は曖昧な霧に覆われていた。

 おまけに雲の上に立っているような浮遊感があった。空気の上に立たされているかのように足元が頼りなく、ふわふわとした現実感のないものが総身を包み込んでいる。思考すらまとまらず、どこか意識がはっきりしない。


 周囲を見渡すと、向かって右側に道が続いているようだった。

 自分の意思とはべつに、秀樹は足を踏み出していた。瞬間、足が自転車のペダルを回すように虚空をこいだ。慌てて姿勢を戻そうとするが遅かった。前のめりに倒れ、視界が反転する。髪の毛が空に向かってなびく。落下している――そのことを理解する前に、鋭い衝撃が秀樹の全身を突き抜けた。


 …………。


 次に脳裏が映し出したのは、見慣れた自分の部屋だった。八畳ほどの広さの洋間。

 いまいるのはベッドの上だ。睡眠をとっていたのだから横になっているはずなのに、知らずのうちに上半身が起き上がっている。目覚めるのと同時に、バネ仕掛けのように起き上がったのだろう、と秀樹は思った。そういう夢の醒め方だった。


 幼いころにも、似たような夢を見た。

 階段の一番上から転げ落ちる夢。

 エレベーターが故障して落下する夢。

 どちらも身体に衝撃を受けるような内容で、やはり飛び跳ねるように起きたのだった。


 時刻を確認しようと壁掛け時計を見てから、スマートフォンに視線を転じて感懐に耽る。

 ここ数日は静かだった。

 春日亮太からメッセージを受信しているときは鳴ってもいない着信音に怯え、夢の中でも鳴っているほどだった。いまはもう、その心配はない。

 ベッドから降りると、声が出るほどに大仰なあくびを洩らした。それから両の手を上にあげ、身体を大きく伸ばす。首に、腕や背中の節々からぽきぽきという小気味よい音が鳴った。


 そう、ここ数日は平穏だったのだ。

 だが――、


 ゴミ箱を見る。破れた封筒が数通入っている。下駄箱に入れられていた、間接的に春日亮太からもらったものだ。すべて中身を確認せずに、そのまま破り捨てていた。

 いまではもう、封筒を見るだけで気分が悪くなるようになってしまった。


 春日は決まって放課後に手紙を入れるようだった。それもかなり巧妙だ。春日がくる前に帰ってしまおうかと思ってすぐに昇降口に向かっても、すでに手紙は靴の上に置かれている。春日とは学年が違うために教室は離れている。それにもかかわらず、なぜ春日にそんな芸当が可能なのか、見当もつかなかった。


 洗面所の鏡の中では、疲弊して虚脱した顔の自分が見返していた。

 秀樹は自分の顔を眺めながら、いつからこんな顔になってしまったのだろう、と考えた。瞼には力が入っていなく浮腫んでいるように見え、目の下には隈があり、頬はこけたような気さえする。


 小さくため息をつく。

 それについては、考えても仕方がない。

 秀樹は部屋に戻って、早々に家を出る準備をはじめた。家にいるとかえって思考がはかどってしまう部分があり、陰鬱な気分に拍車をかけるからだった。

 母の用意してくれた朝食を手早く済ませて、家を出た。


 玄関を挟んでべつの世界に入り込んでしまったかと思うほどの強烈な冷気に、身を竦ませる。上を仰げば、真っ白なキャンバスに子どもが青い塗料をぶち撒けたかのような快晴が広がっていた。鳥の声が耳に入る。普段は見かけない通行人には新鮮味さえおぼえる。

 お気に入りである臙脂色のマフラーに顔を深くうずめて、秀樹は歩みを進めた。


 ◇  ◇   ◇


 秀樹の姿に気づくなり立ち去った委員長も気になるが、思考はそっちに向かなかった。

 それに触れる勇気も、それがいったいなんなのかを考える余裕もなかった。秀樹はただ棒立ちのまま眺め続けていた。唐突に怒りと悔しさが胸の中に湧き出てきた。朝の景観によって紛れていた陰鬱な気分がよみがえる。暗澹たる情念が表層に近づく。外気とは違う理由で四肢が冷たくなっていくのを感じる。


 無論、もはやなんの楽観も頭にはなかった。

 どうにかしなくてはいけない。


 もう一度、春日亮太に会って話をしなくてはならない。秀樹は自分の浅慮を恥じた。

 これまでは放課後にしか入れられていなかった手紙が、登校したこの時間に存在していたのだ。それも今日は、普段よりもずいぶんと早く家を出たのだ。

 得体の知れない恐怖に、全身が総毛立つような寒気に襲われる。



「…………」



 深呼吸をして、秀樹は心身を引き締めた。身構えるだけの時間を用意した。

 自分の下駄箱の中で、宝物のように置かれた封筒を凝視する。

 いずれにせよ、悠長に悩んでいる時間などなかった。ただいまの時刻からいって、これから続々と他の生徒が登校してくるはずだ。クラスの連中に見られるわけにはいかない。自分の沽券にもかかわるが、春日としても見られたくはないだろう。取って触って気持ちが悪くなるのは仕方がない。すぐに処分してしまえばいい。トイレに行って流してしまえばいい。

 意を決して、秀樹は手紙へと手を伸ばした。



「――お? なんだ、眞柴。早いな」

「――――ッ」



 唐突に声をかけられ、秀樹は咄嗟に手紙を鞄の中にしまっていた。声の主は担任だった。



「おいおい、なに隠したんだよ。ラブレターか?」

「まさか」



 秀樹は苦笑してみせる。そのまさかだ。



「いいよなあ、若いって。俺も青春してーよ」



 そう言って、担任の男性教諭がその場で腰を振る。



「なあ、眞柴。誰かかわいい子でも紹介してくれよ。あ、もちろんうちの学校以外のやつでな」

「なに言ってるんですか。たとえ教え子じゃなくても未成年は犯罪ですよ」

「うるせーなー、わかってんだよ、そんなことは」



 容姿は悪くないし公務員なのだからモテそうなものだが、そうではないらしい。



「おまえって、年の離れた姉とか従妹っていねーの? できれば美人で優しくて稼ぎがよくて」

「副次的な要素が強くて彼女がいない理由が垣間見えた気がします」

「で、どうなんだ? いるのか? いないのか?」

「たとえいたとしても、先生には紹介したくないですね」

「ばっ、てめ、こら」



 担任は唾を飛ばす。



「おまえそういうこと言っちゃう? そんなこと言うやつは俺の生徒じゃない。眞柴なんてもう知らねえ。赤点とっても知らねえ。俺の担当教科だって評価下げてやるからな」

「ちょ、ちょっと卑怯ですよ」



 秀樹は素直に狼狽えた。それは困る。

 慌てて上履きに履き替えて担任を追いかけたが、職員室に入るところだった。手をヒラヒラとさせながら姿を消す。まあいい、冗談であることは秀樹にもわかっていた。

 踵を返して、自分の教室へと向かう。

 この時間に登校するのははじめてのことだった。いつもに比べれば人数は少ないが、それなりのクラスメイトが登校しているようだった。その中のひとりが視界に入ると、秀樹は胸の高鳴りと頬が紅潮するのを感じた。



「あれ? どうしたの、早いね」



 秀樹に気がついたクラスメイト――八重樫千尋が近寄ってくる。

 八重樫は童顔と評される顔の造形をそのまま具現したような女子だ。とても秀樹と同じ高校二年生とは思えなかった。染めたことがないのを自慢にしている黒髪は腰のあたりにまで届く長さなのだが、色白なこともあって日本人形のようになっている。

 間違いなくかわいい部類に入る容姿ではあったが、秀樹の好みではなかった。



「あ、ああ。ちょっと早起きしたもんだから」



 八重樫に言いながらも、秀樹の視線はしかし、その先に向けられていた。



「お、おはよう。芦名さん」



 秀樹に声をかけられた女子――芦名美希が振り返り、笑顔を見せた。



「お、おはよう。眞柴くん」



 芦名は八重樫とは対を成すような、きれいと評される造形の女子だ。肩口で切りそろえされた髪の毛は温かみのある栗色で、いつも芳しい香りを振りまいている。性格も繊細で、クラスメイトだけにとどまらず、学年の男子から人気を集めている。

 秀樹もまた、彼女に惹かれているひとりだった。



「ところでさ、委員長ってどこにいるか知ってる?」

「委員長?」



 八重樫が教室をぐるりと見渡してから、目を丸くする。



「なんで?」

「いや、ちょっと話があるんだけど」

「なに、告白でもする気なの?」

「そうじゃないよ」



 秀樹が顔の前で手を振って見せる。そしてさりげなく横目で芦名の様子を確認する。なにか嫉妬心や不安のようなものを見せていないかと期待したのだ。……なかった。



「ちょっと訊きたいことあるだけだから、そんな邪推すんなよ」



 今朝の、昇降口のことで確認したいことがあるだけだ。

 どうして秀樹を見るなり走り去ったのか――。

 たまたま委員長が登校した時間とタイミングが一緒だったことも考えられるが、それだけであるならば走って教室に向かう理由にはならないはずだ。ホームルームの時間までも、まだまだ余裕がある。あれではまるで、秀樹から逃げているようだった。



「――あたしがなにか?」



 背後から聞こえた声に、秀樹は振り返った。

 そして目を瞠った。委員長の特徴である知性を強調する眼鏡が見当たらなかった。整った顔立ちはやさしさを帯びているが、委員長を務めるだけあって、性格にはきつい部分がある。



「眼鏡どうしたの?」



 本題の前に、秀樹は訊いた。



「べつに。なんでもいいでしょ」



 吐き捨てるように言って、委員長は顔を背ける。



「それであたしに用があるとかなんとか言っていたみたいだけど」

「あ、ああ、うん。さっきさ、僕から逃げなかった?」



 その言葉に、委員長は針でも刺されたみたいに身体とピクリと反応させた。



「べつになんだっていいでしょ」

「そうもいかないんだよね。大事な問題なんだ」



 秀樹は食い下がった。委員長が春日とつながっていれば、万時解決なのだ。委員長が春日に頼まれて手紙を置いたのだとしたら、朝早い時間に置いてあったことに不思議はない。もうこんなことはやめてもらうように話をとおすこともできる。

 けれど――、



「どうして?」



 睨みをきかせるように、委員長の双眸が鋭く細められた。

 なにを言っても丸め込まれてしまうほどの圧力を、その声は備えているようだった。



「い、いやさ……」



 秀樹は素直に気圧された。言葉に詰まり、二の句が継げない。



「あのね、眞柴くん。とも美ちゃんはべつに怒ってるわけじゃないんだよ」



 芦名が声を潜めて言ってきた。

 八重樫が「そうそう」と便乗するようにうなずく。



「とも美はイメージチェンジに眼鏡からコンタクトにしたんだけど、いざ学校にきてみてそれを見られるのが恥ずかしくなっただけ。眞柴くんがなにを邪推しているのかはわからないけど、さっき言った理由で教室にいるのが恥ずかしくて昇降口のあたりにいたら誰かがきた、と考えれば納得できない?」

「バラさないでよ!」



 委員長が声を荒げる。柄にもなく頬が赤く染まっている。

 その初々しくもある反応に、秀樹の中にわずかないたずら心が芽生えた。



「最初からそう言ってくれればいいのに」



 言いながら、秀樹は委員長に顔を向けた。



「ちょっと目つきがきついけど、似合ってると思うよ、僕は」



 委員長はさらに似つかわしくない照れた表情を見せたが、しかしすぐに我に返ったようで「ば、ばっかじゃないの」と捨て台詞のように言い切って自分の席に歩いていった。



「冗談のつもりだったんだけど」

「それは言わないほうがいいと思うよ。ものすごくうれしかったみたいだから」

「……だよね」



 苦笑する芦名に、秀樹がばつが悪い思いで鼻の頭をかいた。



「ところで、眞柴くんの問題っていうのは、なに?」

「あー、それは……」



 八重樫に問われて、秀樹は逡巡した。一瞬だけ相談してもいいと考えた。だが結局は、迷惑をかけてしまう気持ちが勝って、打ち明けることができなかった。



「まあ、ちょっとね」



 秀樹は濁すようにそれだけ言って、会話の流れを遮断するように自分の席に向かった。「詮索しないでほしい」の意思表示でもあった。

 芦名と八重樫は怪訝な表情を浮かべていた。ひそめられた眉には、心の底から秀樹のことを案ずる心情がうかがえた。それでも秀樹の意図を察しているのか、声をかけてくることはなかった。


 しばらくして担任が教室に入ってきた。ホームルームがはじまる。

 号令だけ対応して着席するなり、秀樹は窓の外へ視線を投げた。

 そして鞄に入ったままになった手紙の処理にだけ思考力を働かせた。

 委員長と春日につながりはなかった。

 そうなると、春日も秀樹と同様に早い時間に登校したということになるのだろうか。

 とりあえず、人がいる場所で取り出すわけにはいかない。だからといって家に持ち帰って処理をするというのも嫌だった。いくつか思案した結果、時間は要するが、放課後に破り捨てることに秀樹は決めた。


 考えがまとまったところで教壇に顔を向けると、担任が秀樹に対して睨みをきかせていた。

 虚を突かれて秀樹は自嘲気味に笑い、頬を軽く吊り上げた。

 担任の目はいたずら気に細められている。

 昇降口での一件もある。許してください――そう口パクで訴えると、こちらのそんな内心を読み取ったかのように、色素の少ない担任の口元が開き、こう言われた。



「眞柴秀樹、減点」と。



読了ありがとうございました。

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次回更新は明日を予定しています。

更新予定に変更がある場合は、X(Twitter)にてお知らせいたします。

@Inuyoshi_Chacha

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