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見えていたはずなのに、その手紙は読まれなかった  作者: 犬好茶々


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4

 放課後の静まり返った教室で、秀樹はひとり席に残っていた。

 人がいるのといないのとでは、まるで教室内の雰囲気が違う。普段は雑然としたイメージしかなかったが、いまは自分を守ってくれる殻の中にいるような安心感があった。


 あらためて周囲を見渡し、人の気配がないことを確認する。

 秀樹は今朝下駄箱に入っていた封筒を取り出した。


 長方形で、白色。

 裏返してみると、書いた人物の情念が用紙に入り込んだかのように、ハートの形をしたシールが貼付されていた。

 表へと戻す。



『眞柴秀樹さんへ』



 いまさらながら、はじめて春日の書いた文字を見た。

 字体は春日の指のように繊細で、きれいな文字だった。それでも、そんなものは秀樹の心情には関係がなかった。眺めているうちに、腹の底からなにかがせり上がってきた。


 無意識のうちに封筒を握る力が増して、折れ目が入る。またひとつ、またひとつ――。

 陰鬱な思索が幻を呼んだのか、目の前に春日が現れた。

 実在でないことは、その姿が茫洋とかすんでいることでわかる。幻だと理解していたとしても、久しぶりに春日と相対したことで、鬱屈していた感情が秀樹の中で爆発した。



 もう、かかわらないでくれ。

 キミのせいで、

 僕は痩せてしまった。

 キミのせいで、

 母が用意してくれた食事を摂っているにもかかわらず痩せたんだ。

 キミのせいで、

 僕の顔には隈ができてしまった。

 そう、キミのせいで僕の日常は――。



 心の中で、幻視として現れた春日に罵声を浴びせた。喫茶店のときのように、春日の心情に配慮する余裕がなければ、そのつもりもなかった。感情の赴くままに吐き出した。

 このときの秀樹の表情は怒りや悔しさを持て余して引きゆがみ、恐ろしい形相になっていた。自らの武骨な指が頭をかきむしる。怨嗟を込めて、手にしていた封筒を破り捨てる。


 破いて、破いて、破いた。


 まるでそうしなければならない強迫観念に囚われているようだった。自分の意思とは関係なしに、秀樹は封筒を破り続けた。破く、破く、破く――。

 これ以上、破くことができないほどの小ささになっても、秀樹はずいぶんと長いこと指先の動きを止めなかった。止めることができなかった。そうして残されたのは、他人事のように耳に入る乱れた呼吸音と、いくら時間をかけても元には戻らないであろう封筒の破り片だけだった。


 そのときだった。

 教室の扉が動く音がした。

 突如脳裏を打ったその物音に、秀樹は慌てて視界を転じる。

 物音に振り返ってみれば、春日が教室の入り口に立っていた。なにかを案じる様子で秀樹を見ている。相変わらず男のくせして女性のようで……何分も思考の中にさまよって幻視の春日と対峙していたせいか、急激な現実感の回復に戸惑う自分がいた。


 かすまずに立体感のある人影。

 それでも視界が水彩画のようににじんでいて、どこかはっきりとしない。

 秀樹は不愉快な気持ちをストレートにぶつけた。



「なんで、おまえがいるんだよ」



 その言葉に、現れた人物が驚愕して息を呑むような気配が、空気をとおして感じ取れた。



「ご、ごめんなさい」



 声の主は震えていた。声も、瞳も、身体も。



「ッ」



 秀樹は椅子に電流が走ったかの如く動きで、素早く立ち上がった。

 ちょっと待て。

 肋骨の内側を冷たいものが這うようにしてとおり抜ける。血の気が失せる。

 春日とはまったく異なる、透きとった声音に秀樹は狼狽した。意識が完全に覚醒した。


 立っていたのは春日亮太ではなく、自身の想い人である芦名美希だった。幽霊かなにかでも見たかのような驚愕と恐怖が入り混じった表情。胸に鈍器で叩かれたような痛みが走った。

 視線が合うなり、芦名は唇を強くかみしめながら俯いた。その動きがどういった心情からもたされたものなのか、秀樹にはまったく判断がつかなかった。



「芦名さん……なんで……」



 ようやく秀樹の口から出た言葉は、あまりにも浅薄な問いだった。

 芦名は「あの、それ……」と、自分の席を指さした。



「鞄を忘れちゃって。で、でも、必要なのは違う鞄で持ち帰ってたから大丈夫なんだけど……あの、その――ほんとうにごめんね」

「待って芦名さん!」



 脱兎の如く、けっきょく鞄を取らずに、芦名はものすごい勢いで飛び出していった。

 誰もいなくなった空間を眺めながら、秀樹は場違いなことを考えていた。


 芦名は泣いていた。涙を浮かべながらやさしく微笑み、教室に戻ってきた理由を説明していた。

 好きな人のことを怯えさせてしまった。

 心やさしく、いまこの瞬間でも秀樹のことを案じていた芦名のことを、秀樹は泣かせた。

 胸の奥に、重い後悔が沈んでいく。

 それなのに秀樹の脳裏には、涙に濡れた芦名の顔が焼きついて離れなかった。あの瞬間の芦名は、どうしようもなくきれいだった。

 押し寄せる波濤のように胸中を満たしたその考えを、秀樹は慌てて振り払った。



「馬鹿か僕は……」



 自らをとがめる独白めいたつぶやきだけが、芦名がいた空気の余韻を揺らした。


 ◇  ◇   ◇


 数秒呆然と立ち尽くして、秀樹ははたとして失念していた身体の動かし方を思い出した。

 同時に、椅子にもたれかかった。なにかが抜け去ったかのように力を失う下肢とは裏腹に、思考だけは動きを止めなかった。


 春日亮太のこと。

 芦名美希のこと――。


 自分は、想いを寄せる芦名美希のことを春日亮太と錯視してしまうほどに春日のことを考えていたのか。それは、なぜなのか。ただ単純にストレスとなっているからだろうか。悩まされているのと同時に、春日のことを考えているからだろうか。

 いや、それではあまりにも短絡的過ぎるだろうと秀樹は考えた。

 では――そうなるとどうなるのか。

 自らの胸に手を当てて、秀樹はしばらく考えに沈み込んだ。


 春日亮太が女性であったのだとしたら、ここまで悩む必要はなかっただろう。幾度にもわたって確認しているが、春日は男だ。秀樹が事態を簡単に考えることができなくても無理はない。

 無意識に洩れる苦悩の吐息。

 自分は春日亮太のことをどう思っているのだろうか。忌避している。かかわりたくないと思っている。だが、想いを寄せる芦名美希のことを春日だと錯視してしまうほどに考えてしまっている。


 つい数分前の出来事を反芻する。

 涙を流した芦名を見て、秀樹はどう思った。

 同情や心配ではなく、ただきれいだと思っただけだった。

 だが、その感情は恋とは違う気がした。

 絵画や彫刻を見て息を呑むことがあるように、ただ、美しいと感じただけだった。


 秀樹は自分の想いを確認する。芦名が好きだ。芦名美希のやさしさに、声に、笑顔に惹かれている。間違いなく、芦名美希のことが好きだ。

 はたして、ほんとうにそうなのだろうか。

 春日亮太に対する想いのほうが、芦名に向けるものよりも遥かに強いのだろうか。


 間違えるなよ――秀樹は己を叱咤する。


 春日は男だ。何度も何度も繰り返すが、それが現実だ。いくら見た目が女性のようでも、立派なものがついている。入れるだけじゃない、入れられることだって考えなければならない。その事実だけは変わらない。

 想念と疑念がぶつかりあって、頭痛すら感じられる。時計を見ると、かなりの時間が経過していた。それほどまでに時間を費やしたにもかかわらず、帰結への兆しは見えてこない。


 まさか。

 僕は、春日のことが好きなのか?

 その疑念が払拭できないでいる。


 ビリビリに破られた封筒を見る。見事に破れている。狂気を感じるほどだ。


 ――まさか、そんなわけないだろ。


 秀樹の想念はけっきょく、その一言に凝固した。


読了ありがとうございました。

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次回更新は本日中を予定しています。

更新予定に変更がある場合は、X(Twitter)にてお知らせいたします。

@Inuyoshi_Chacha

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