血汐
掌に伝わる冷たさは、私の体温を無慈悲に奪い去っていった。
掌からは、未だ鮮血が溢れ出した。その赤は、暗澹たるトンネルの中にあって、眩暈を覚えるほどに鮮烈であった。
「……何を、躊躇うんだい」
清の声は、熱病に浮かされたように甘く、湿っていた。
「この刃を、這わせるだけでいい。そうすれば、僕たちは等しく傷物になる。世間が期待する『前途有望な若者』からも、家業を継ぐ『善良な職人』からも、逸脱することができるんだ。それは、どんな言葉を尽くすよりも雄弁な、この世界への叛逆だとは思わないか」
私は、彼の言葉に混じる毒を、静かに嚥下した。彼の云うことは、極北であった。しかし、その論理は、危うい楼閣に過ぎない。彼は、独りでできないのだ。度胸がないからこそ、私を奈落へ引きずり込み、孤独を薄めようとしている。
私は、握りしめたナイフを、左腕へと近づけた。鈍く光る刃先が、陽に焼けた皮膚を圧する。その瞬間、脳裏を過ったのは、父が木工所で黙々と木を削る、あの音であった。木の香りと、実直なまでの労働の重み。それは白線の内側にでも固執する、卑俗さであった。
「清。……君は、僕が君と同じくらい、この世界を憎んでいると思っているのかい」
私の問いに、清の顔から、微かな困惑が兆した。
「君は、ただ諦めている。諦めは、憎しみより質の悪い。だから、僕が救ってやると云っている」
「君は、そう呼ぶんだね」
私は、不意に、滑稽さを感じた。清の瞳に宿る狂気は、実は、選ばれし者の特権などではなく、若さが見せる幻想に過ぎない。彼は、自らが信じているほどには、特別ではないのだ。
私は、ナイフの柄を逆手に握り直すと、渾身の力を込めて、投げ棄てた。
「……何をしている」
清の声が、冷ややかに沈んだ。
「僕は、君の道連れにはならない。君が、独りで進学校へ行き、独りで孤独を飼い慣らすのが怖いからと云って、僕の腕を切り刻む権利なんてないんだ。君が云うやうに、誰かのための人生を選ぶ。それが、白線の内側だとしても」
沈黙が、重苦しく二人の間に降り積もった。外の蝉時雨が、激しく、私を叱咤するように鳴り響いた。
清は、血に濡れた掌を見つめたまま、一歩、後退した。彼の顔には、惨めな剥き出しの表情が浮かんでいた。
「……そうか」
彼は、血をシャツの裾で拭うと、トンネルの先にある光に向かって歩き出した。
彼の背中は、もう、羽化を待つ蟬のようには見えなかった。私は、独り、トンネルの闇の中に残された。
先程投げ棄てたナイフが、横たわっている。
私は、一歩を踏み出した。




