第4話 夜明け前の非常鐘
不規則で、耳障りな鉄の乱打が、重い夜の底を叩き割っていた。
教会の尖塔から響く、非常鐘の音だ。規則正しい祈りの合図ではない。
舌が引きちぎれんばかりに激しく打ち鳴らされるその音は、街の西側一帯に噴出が始まったことを告げていた。
ガタガタと音を立てて、階下の通り沿いにある商店が分厚い木組みの鎧戸を閉ざしていく。
夜明け前の薄闇の中、身の回りの荷物を抱えて東側の高台へ避難を急ぐ住民の足音が、濡れた石畳に激しく反響していた。
だが、その濁流に逆らい、西へ向かって足早にすれ違う影もまた少なくない。
革鎧に身を包み、大剣や銃身を携えた野良の狩人たちだ。
その目は恐怖ではなく、吹き上がる歪みの残滓に群がる、一攫千金の欲にギラついていた。
外套のフードを深く引き下げたシオナが、部屋の扉を開けた。
銀の髪も、側頭部の輪郭もすっぽりと布地の奥へ押し込めている。
背中には、昨夜のうちに欠片を喰わせた大鎌を、布で幾重にも巻き、背負い紐で固定している。
「まだ夜も明けてねえぜ」
「だからこそ、連中の動きも早い」
階段を駆け下り、宿の裏口から細い路地へと滑り込む。
西の空を見上げれば、夜明けの群青を押し退けるように、赤黒い気流の歪みが竜巻のように天へ立ち上っていた。
大気が不気味に震え、舌の先がピリピリと痺れる。
「西の坑道口、教会の検問所があるはずだが」
「すでに突破されているか、放棄された後だろう。正規兵の腰抜けどもが、あの濃度の噴出を食い止められるはずがない」
路地を抜け、街の最西端に位置する坑道跡へ辿り着いた時、シオナの言葉が正しかったことを知る。
普段なら鉄柵で固く閉ざされ、教会の衛兵が睨みを利かせているはずの検問所は、内側から吹き飛んだかのようにへし折れていた。
石造りの詰所は半壊し、篝火の油が地面に広がって黒煙を上げている。
衛兵たちの姿はない。逃げ散ったか、あるいは――。
折れた鉄柵を跨ぎ、黒々とした大穴の口を開ける坑道の中へと足を踏み入れる。
境界を越えた瞬間、背後の街の喧騒がプツンと途絶えた。
空気の密度が一気に跳ね上がる。全身の産毛が逆立ち、肺に吸い込んだ空気が鉛のように重く沈み込んでくる。
浅層の異界などとは比較にならない、教会の手が入っていない領域特有の強烈な圧迫感だ。
その重圧を押し返すように、背後で衣擦れの音が響く。
シオナの外套の背が内側から盛り上がり、裂け目から、透き通るような紅水晶の翼が左右へとせり出す。
深く被っていたフードを押し上げるようにして、側頭部から二本の鋭い結晶角が伸び、細くしなやかな尾が外套の裾を割って現れた。
淡い紅の光が膜のように広がり、俺の周囲を取り巻く領域の悪意を弾き返す。
膜の内側で、耳の奥が一度だけキリリと鳴った。
「……排熱が、追いつかな――」
「……何か言ったか」
背後で、シオナがわずかに首を傾げる気配がした。
「あ? 耳鳴りだ」
背中に視線を感じたが、それ以上は何も言わず、布を解いた大鎌を構え直す気配が伝わってきた。
坑道の奥へ進むにつれ、周囲の壁面は荒削りの岩肌から、血管のような赤黒い筋が走る異様な肉質混じりの石へと変貌していった。
冷え切った地下特有の湿気に混じり、腐敗した脂と錆びた鉄が入り混じったような嫌な臭気が鼻腔をつく。
泥を踏みしめるブーツの底が、脂ぎった粘液でじっとりと重くなっていった。
少し開けた坑道の側壁に、どさりと何かが崩れ落ちているのが見えた。
教会の紋章が刻まれた、重装歩兵の甲冑だ。
だが、その分厚い鋼鉄の胸当ては、まるで大型獣の牙で噛み砕かれたかのように大きく窪み、血だまりの中に捻じ曲がっていた。
兜の隙間からは、すでに凝固した黒い肉片が覗いている。
「……鎧の上から丸ごと噛み潰されてやがる。どんな顎のサイズだ」
俺は膝をつき、死体の腰の革袋を手早く漁った。
金属の冷たさと乾きかけの血の粘りを指先に感じながら、革紐を引き抜く。
真鍮の薬莢に詰められた上等な鉛弾が五発。それから、血の匂いがこびりついた銀貨が三枚。手早く自分のポケットへとねじ込む。
さらに胸の内ポケットを探ると、掌に収まるほどの真鍮の針盤が出てきた。
ガラス蓋の下で、細い指針が西を指したまま小刻みに震えている。裏面には角張った文字で一行だけ刻まれていた。
『戻らぬ針は、報告せよ』
報告する相手は、もう口がきけないがな。
俺はその真鍮の針盤も革袋に放り込む。
「死体漁りか。趣味が悪い」
シオナの声が背後から飛んでくる。
「死んだ奴に銀貨は使えねえ。生き残るためのリサイクルだ」
立ち上がり、拳銃のシリンダーを開いて、奪ったばかりの上等な鉛弾を装填する。
冷たい金属の重みが指を滑り、カチリと小気味よい音を立てて収まった。乾いた金属音が、死んだ坑道に静かに響く。
曲がり角に差し掛かる手前、崩れ落ちた石壁の表面に、青白い光を放つ文字が浮かび上がっているのが見える。
先に潜った狩人が刻み残した、古びた符牒だ。
『この先、宝あり』
「素直に信じる奴は、長生きしないな」
「同感だ」
角を曲がると、天井の高い吹き抜けの広場に出た。
かつて採掘用の櫓が組まれていたのだろう、朽ちかけた巨大な木組みと巻き上げ機が、影のように闇の中へそびえ立っている。
その中央、瓦礫の山の上に、青みがかった不気味な光を放つ塊が転がっていた。
人の頭部ほどもある、手つかずの変異核だ。
周囲に怪異の姿はなく、ただその青い光だけが、薄暗い広場を誘うように照らし出している。
俺とシオナは、示し合わせたわけでもなく、崩れた石壁の窪みに身を沈め、同時に足を止めた。
気配を殺し、呼吸の音すら闇に溶け込ませる。
「……見え見えだな」
「ああ」
広場の中央へ駆け寄る気など、毛頭起きない。
目を凝らして視線を上へと向ける。
高く入り組んだ天井の梁、その継ぎ目から、どろりとした黒い雫が一滴、核のすぐ脇の敷石へと音もなく落ちた。
じゅう、と酸が石を焼く煙が立ち上る。雨など降るはずのない地下でだ。
「天井に三匹。それから、瓦礫の陰の死角にもう一匹張り付いてるな」
「……見る目だけは確かだな」
「だろ?」
核に見えるあの青い光は、独立した獲物などではない。
瓦礫の底に潜む大型の怪異が、獲物を誘き寄せるために体表から突き出している疑似餌だ。
あの光に目が眩んで飛び込めば、天井から降ってくる取り巻きに退路を塞がれ、足元から丸呑みにされる。
俺は左手の鋼鉄ブレードの鞘の留め具を、音を立てぬよう外した。
右手には、肉芽を蠢かせる生体刀身。
「天井の三匹は俺が落とす。瓦礫の陰は任せた」
「承知した」
シオナが大鎌の切っ先を音もなく床へ滑らせ、紅水晶の翼を低く構えた。
踏み出す直前、視界の端で、広場の核がひとつ、瞬く。
右手の刀身の脈と、まったく同じ間隔で。




