第3話 宿の灯火と噴出の予兆
石造りの階段を一段上がるごとに、ぎしり、と靴底から軋む音が響く。
崖の中腹にへばりつくように建てられたこの安宿は、湿気と石炭の煤煙が染み付いて久しい。
だが、地下のヘドロと怪異の体液にまみれた後では、この古びた木の匂いすらありがたいものに思えた。
俺は右手に抱えた紙包みと、熱を通さないよう厚手の布で包んだ素焼きの深鉢を持ち直した。
通り沿いの大衆酒場で買ってきた、豚の内臓と根菜を煮込んだ安シチューだ。温めたエールの瓶も二本、小脇に挟んである。
二階の突き当たり、三度短く、一度間を置いて扉をノックする。
内側から閂の外れる鈍い音がして、扉がわずかに開いた。
「遅かったな」
細く開いた隙間から、シオナの真紅の瞳が覗いていた。
部屋に入ると、温められたエールの瓶をテーブルへ置き、背中で扉を閉めて閂を落とす。
部屋の中には、すでに泥の臭いはなかった。
シオナは泥まみれの外套を脱ぎ捨て、ゆったりとした仕立ての簡素な麻のシャツに袖を通している。
濡れた銀の短髪からは薄い湯気が立ち上り、石鹸の淡い香りが鼻腔をくすぐった。
側頭部にも背中にも、地下で見せていた禍々しい紅水晶の角や翼はない。耳の尖った、ただの引き締まった褐色の肌を持つ狩人の姿だ。
「工房の親父が、鑑定のたびに能書きを垂れるもんでな。飯を仕入れるのも一苦労だった」
「あそこの主人の口数が多いのはいつものことだ。……それより、さっさと座れ。手が強張っているぞ」
シオナは呆れたように息を吐きながら、テーブルの向かい側の木椅子を顎でしゃくった。
言われて初めて、俺は自分の指先が寒さと冷えた泥水で赤く悴み、小刻みに震えていることに気がついた。
地下にいる間は張り詰めた神経が痛覚を麻痺させていたが、地上の暖気にあてられた途端、鈍い痺れとなってぶり返してきている。
椅子を引き、素焼きの鉢から蓋を取ると、立ち上る白い湯気とともに脂と香草の匂いが狭い部屋に充満した。
悴んだ指でスプーンを握ろうとすると、向かいからことりと乾いた音がした。
シオナが自分の前にあった木皿にたっぷりとシチューを注ぎ分け、無言のまま、手元へと押し出してきたのだ。
「……食え。身体の芯が冷え切っている」
「……ああ」
余計な礼は口にせず、木匙ですくって口へ運ぶ。
舌を焼くほどの熱さと、濃い塩気、そして煮込まれた脂の甘みが喉を滑り落ちていく。
地下で齧った、砂混じりで冷たい干し肉とはまるで違う。胃の腑へ熱が落ちていくたび、凍りついていた感覚が解けていくようだった。
「……美味いな」
「味が濃すぎる。塩の使い方が雑だ」
シオナは口元を歪めながらも、注がれたシチューを同じように口へ運んでいた。
淡々と木匙を動かす速度は決して遅くなく、空腹を押し殺していたのは彼女も同じらしかった。
温めたエールを一口飲み下すと、シオナは細い喉を鳴らし、ふうと息を吐いた。ほんの一瞬、険しい眉根の力が抜ける。
「さて、取り分だ」
シチューの鉢を空にし、俺は腰の革袋をテーブルの上へと傾けた。
ジャラリ、と硬質な金属音が響き、鈍い光を放つ銀貨が転がり出る。
「銀貨十六枚。きっちり半分に分けた」
銀貨八枚ずつ、二つの山を作る。
銀貨八枚。一般の職人や日雇いの労働者が、十日ほど額に汗してようやく手にする額だ。安宿の個室なら、温かい食事付きで半月以上は暮らせる。
シオナはテーブルの上の銀貨を見下ろし、細い指先で一枚を弾いた。チリン、と澄んだ音が部屋に響く。
「……あの渋皮の張った鍛冶屋からよくそれだけ毟り取ったな。お前の分け前に対する執着だけは評価してやる」
「執着しなきゃ、この街じゃ生きていけねえよ。大鎌の餌と整備代、これで足りるか?」
「十分だ。次に持ち込む予備の欠片も、これなら手に入る」
シオナは八枚の銀貨を素早く自分の革袋へ滑り込ませると、椅子の背にもたれかかった。
真紅の瞳が、テーブルを挟んで俺の右手をじっと見つめている。
俺は革巻きの柄から右手を抜き、作業用の油布を取り出した。金属金具の留め具を緩め、生体刀身の表面を慎重に拭う。
血糊はすでに固まっていたが、怪異の組織そのものは、まだ温もりを帯びて規則正しく脈打っていた。
ドク、ドク、と。
「……なあ、ヴァル」
「ん?」
「さっきの回廊で、お前が何を口走ったか、本当に自覚はないのか」
シオナの声は静かだったが、その奥には刃物のような鋭さが潜んでいた。
俺は油布を動かす手を止め、眉を寄せる。
「またその話か。だから、息が上がって喉が鳴っただけだ。何を言ったのか、まるで覚えがない」
「……『セグ』と、言っていた」
シオナの指先が、テーブルの木目を無意識にコツコツと叩く。
「それに続いて、接続の再試行、棄却、と。……意味の通らぬ奇妙な符牒だ。古の教会の祈祷でもなければ、この街の方言でもない。お前自身の口から出た言葉だぞ」
「知らねえよ。うわ言だろ。熱でもあったんじゃねえの」
俺は鼻を鳴らし、再び油布で刀身のボルトを磨き始めた。
本当に心当たりがないのだ。胸の奥からせり上がる奇妙な吐き気と、視界の端が滲んだ感覚は覚えているが、どんな音を発したのか、自覚はまるで残っていない。
シオナは俺の表情をじっと観察していたが、やがて探るような視線を外した。
「……ならいい。だが、記憶に留めておけ」
「何をだ」
「お前が竜化の兆候を見せれば、私がお前を斬る。それだけだ。……あの泥道でお前を処理するのは骨が折れるし、何より、今日の取り分が無駄飯代で赤字になる」
「手厳しいねえ。お前の手を煩わせないよう、せいぜい正気は保つさ」
肩をすくめると、シオナはふんと小さく鼻を鳴らした。
互いにそれ以上は言わなかった。
カチャリ、と左手の拳銃のシリンダーをスイングアウトし、布で煤を拭き取る。
乾いた金属音が響く中、俺は工房の親父から聞いた話を伝えた。
「……西か」
話を聞き終えたシオナの瞳が、すっと細められる。
「浅層の異界ではないな」
「ああ、教会の手が入ってねえ方だ。深部の歪みが一気に吹き上がるらしい」
「周期が早まっているな。前回の噴出から、まだ半年も経っていないはずだが」
シオナは立ち上がり、窓辺へと歩み寄った。
分厚いカーテンの隙間から、夜の街を見下ろす。遠く、教会の巨大な尖塔が、重苦しい夜霧の中に黒い影を落としていた。
「浅層の泥遊びとは訳が違うぞ、ヴァル。噴出が起きれば、教会の上層連中も、血に飢えた正規の狩人たちも大挙して押し寄せる。……獲物の奪い合いになる」
「上等だろ。浅層の雑魚を何十匹狩ったところで、銀貨数枚の小銭稼ぎだ。噴出の直後なら、芯の残った変異核どころか、純度の高い竜結晶がゴロゴロ転がってるはずだぜ」
「欲をかいた者から死ぬ世界だ」
シオナは冷ややかに言い捨てたが、その口元は引き結ばれていた。
シリンダーに鉛弾を滑り込ませ、カチャリと小気味よい音を立てて元に戻す。
「銀貨どころか、金貨を掴みに行くぞ。……その代わり、しっかり俺の背中を守ってくれよ、巫女様」
シオナが窓のカーテンを閉め、部屋の明かりへ振り返った。
「言われずとも。お前が死ぬときは、私の手で殺すときだけだ」




