第2話 黒き汚水と工房の火
ぼこ、と不自然な泡が破裂した瞬間、泥水の下から黒い塊が跳ね上がった。
ヘドロとタールを塗り固めたような、骨と腐肉の這いずりだ。
指先が異様に長く発達した両腕が、水飛沫を散らしながら俺の右足首へと殺到する。捕まれば、泥の底へ引きずり込まれて終わりだ。
「チッ――!」
泥の粘度に足を取られ、後ろへ跳ぶ余裕はない。
引き金を引こうと左腕を振ったその時、頭上から風切り音が落ちた。
カチャリ、とラッチが外れる硬質な金属音。
シオナは左手の長柄を瞬時に切り離し、右手の短鎌一本へと持ち替えていた。
狭い回廊に合わせた打ち払いの刃が反転し、天井を擦ることなく、横薙ぎの弧を描く。
ズバッ、と汚水を切り裂く重い破断音。
跳びかかってきた怪異の長い腕が、泥ごと一刀両断に刈り落とされた。
黒い体液を撒き散らし、怪異は断末魔の軋み声を上げて水底へと沈んでいく。
「立ち止まるな、ヴァル!」
シオナの鋭い叱責が飛ぶ。
見れば、回廊の左右の石壁――びっしりとこびりついた鉱物の腫瘍が、脈打つように蠢いていた。
ピシュッ、ピシュッ、と微細な音を立てて、腐食性の酸液が壁一面から細い糸のように噴き出してくる。
汚水に落ちた酸液がジュウと激しい音を立て、ツンとした刺激臭を放つ白煙が水面を覆い尽くしていく。
濁った泥水の底には、さらに無数の黒い這いずりの影が蠢いていた。
「壁の噴出孔が生きてやがる! 相手にするな、走れ!」
こんな連中を律儀に相手にしても、手に入るのは濁った小欠片が関の山だ。
外套の裾を酸で焦がされながら、俺たちは泥濘を力任せに蹴立て、全力で回廊の奥へと突っ走った。
靴の隙間から染み込む汚水の冷たさに歯を食いしばり、数歩、十数歩。
ようやく泥水が途切れ、石造りの頑丈な床へと駆け上がった。
目の前には、重厚な鉄格子に囲まれた昇降機の檻。
俺は転がり込むように檻の中へ飛び込み、壁の鉄レバーを力任せに叩き落とした。
ガコン、と腹に響く重い金属音が回廊にこだまする。
滑車が悲鳴を上げ、鉄檻が重い振動を伴って頭上へと引き上げられ始めた。
足元の泥水の中から、追いつけなかった無数の這いずりが泡を立てて蠢いていたが、檻の底板がそれらを無情に切り離していく。
「……ふう、最悪の道だな」
鉄格子の隙間から冷たい外気が吹き込んできて、ようやく息を整えた。
足元を見下ろせば、ブーツは膝上まで黒いヘドロまみれで、生臭い匂いが鼻をつく。
隣のシオナも、泥で汚れないよう高く巻き上げていた尾を下ろし、不快そうに眉をひそめていた。
「次にあんな汚水へ潜る時は、お前一人で行け。尾の先まで腐臭が染みつきそうだ」
「こっちだって好きで選んだ道じゃねえよ。先達の警告通りだったな」
「……引き返す度胸がなかったお前の落ち度だ」
憎まれ口を叩き合っているうちに、昇降機は暗闇を抜け、頭上から差し込む灰色の光に包まれた。
その瞬間、シオナが短く息を吐いた。
背の紅水晶の翼はすでに跡形もなく消え、側頭部の二本の結晶角や尾も、まるで最初から存在しなかったかのように輪郭を失って消えていく。
地上では、角も翼も尾も、余計な目を引くだけだ。
フードの下から覗く銀の短髪と褐色の肌だけを残し、彼女はただの長身の狩人の姿へと戻っていた。
「……ふう。これで街を歩ける」
「いつ見ても手際がいいな」
「余計な口を利くな。お前が生きて地上を踏めているのは誰のおかげだと思っている」
ガタゴトと大きく揺れて、檻が停止する。
外へ足を踏み出すと、そこは都市の崖沿いに張り巡らされた、石造りの昇降機テラスだった。
冷たい風が、郊外の砂塵と石炭の煤煙を運んでくる。
見渡す限り広がるのは、煙突から吐き出される黒煙と、網の目のように張り巡らされた電線。
石畳を行き交う人々は、みな薄汚れた外套に身を包み、足早に歩いている。
地下の淀んだ腐臭から解放され、煤けた乾いた空気が肺腑を満たした。
「じゃあ、私は宿へ戻る。まずは身体を洗わねば気が狂いそうだ」
「ああ。俺は工房街へ寄って、刃の研ぎ直しと換金を済ませてくる」
「核を安く買い叩かれるなよ。それと……」
「ん?」
「……いや、何でもない。無駄遣いはするなよ」
シオナは何か言いかけて口をつぐむと、背を向けて人混みの奥へと消えていった。
さっきシオナが聞き咎めた『独り言』のことを気にしているのかもしれない。俺には、言った覚えがないのだが。
俺は首の後ろを一度掻いてから、煙が立ち上る下り坂――工房街へと足を向けた。
石畳の両脇には、鍛冶の槌音と蒸気機関のピストン音が絶え間なく響いている。
煤で黒ずんだ看板を掲げた、馴染みの工房の扉を押し開けた。
カラン、と乾いた真鍮の鐘が鳴る。
店内には、焼けた油と砥石の削り粉の匂いが充満していた。
カウンターの奥で、無骨な義手をガチャリと鳴らしながら、頑固そうな白髪の親父――ギルが顔を上げた。
「……なんだ、ヴァルか。また泥だらけで戻ってきやがって。床を汚すなよ」
「悪かったよ。だが、仕事道具のメンテだ。左手のブレードが少し刃こぼれした。研ぎ直してくれ」
鞘から抜いた鋼鉄ブレードをカウンターに乗せる。
ギル親父は義手の指先で刃の腹を撫で、小さく舌打ちした。
「大槌野郎の骨でも叩いたな。芯までは割れてねえが、焼き直しと研ぎで銀貨二枚だ。ツケにはしねえぞ」
「払うよ。その代わり、こいつを買い取ってくれ」
俺は腰の革袋から、以前拾って底に溜めておいた濁った小欠片を三つ、転がすように差し出した。
親父はそれをつまみ上げ、秤に乗せる。
「……どれも濁りが強いな。いつもの安物だ。銀貨三枚ってところだな。研ぎ代を引いたら、手元に残るのは銀貨一枚だ。パンと硬い干し肉を何袋か買ったら終わりだな」
親父の淡々とした査定に、俺は口の端をわずかに持ち上げた。
ここで渋い顔をして引き下がるのがいつものパターンだ。だが、今日は違う。
「――親父、本番はこっちだ」
革袋の奥から、ずしりと重い鉛張りの小瓶を取り出し、カウンターのフェルト布の上にコトリと置いた。
コルク栓を抜き、長いピンセットで中身を引っ張り出す。
薄暗い工房の中に、ふっと淡い琥珀色の燐光が灯った。
小指の先ほどの結晶。だが、中心部には濁り一つなく、透き通った赤の中に黄金の細い脈が呼吸のように明滅している。
「……あ?」
親父の動きが止まった。
金属の義手をカウンターに固定し、老眼鏡のような拡大ルーペを右の眼窩にぐっと押し込む。
脂ぎった太い指先が、ピンセットから結晶を奪い取るように受け取った。
「おい……こいつは、ただの欠片じゃねえぞ。核がそのまま生きてやがる。それも、変異の初期核だ」
「首根っこから傷つけずに引っこ抜いてきた。上玉だろ」
「上玉なんてもんじゃねえ! 結晶の芯に亀裂一つねえぞ。お前、どこの深度まで潜りやがった? こんな代物、浅層の異界で転がってるようなもんじゃねえぞ」
親父が興奮気味に身を乗り出してくる。
普段は減点方式でしか獲物を評価しないこの頑固親父が、目を丸くして息を荒げている。
その反応を見た瞬間、胸の奥でじわりと熱いものが広がった。
泥水をすすり、命を削って潜った甲斐があったというものだ。
「運が良かっただけだよ。で、いくらになる?」
「そうだな……金貨にゃ届かねえが、銀貨十五枚出してやる」
銀貨十五枚。
一般の職人が半月以上、額に汗してようやく稼ぎ出す額だ。
欠片の分と合わせて、手元に残る銀貨は十六枚。
「成立だ。その代わり、ブレードの研ぎは極上に仕上げてくれよ」
「言われなくてもな。おい、金を持ってけ」
親父は引き出しから革袋を取り出し、重みのある銀貨をカウンターにジャラリと並べた。
冷たい銀の感触を革袋に流し込むと、腰回りが心地よい重みで沈む。
「……そういや、ヴァル」
親父がルーペを外し、作業机の奥に核をしまいながら、ふと思い出したように声を低くした。
「また西の区画で、境界が揺れてるらしいぞ。教会の連中が観測針を打ち込みに行ってるが、近々、大きめの噴出が起きるかもしれん」
「……噴出か」
「ああ。深部から何が這い出してくるか分からん。腕を研いでおくんだな」
親父の言葉に頷いた瞬間――腰の鞘に収めた右手の生体刀身が、金具の奥でトクン、と小さく脈打った。




