第1話 回廊の怪異と泥の道
ずり、ずり、と鉄塊を引きずる鈍い摩擦音が、石造りの回廊の奥から響いていた。
澱んだ冷気の中、天井から垂れ下がる鉱物の根が、ぼんやりとした青白い光を放っている。
その頼りない明かりに照らし出されたのは、人の胴体を三つほど無造作に縫い合わせたような、肥大した肉塊だった。
手には、身の丈をゆうに超える無骨な鉄の大槌。
こちらの足音を嗅ぎつけたのか、肉塊の表面に散らばる濁った複眼が一斉に蠢く。
ブフォ、と豚のような呼気を鼻孔から噴き出すと、巨躯が前傾し、ドシン、ドシンと回廊全体を揺るがしながら突進してきた。
間合いに入ると同時、怪異は両腕で大槌を頭上高くへと引き絞る。
――振りかぶりの溜めが、嫌らしいほど長い。
恐怖に駆られて慌てて横へ跳べば、タイミングを狂わされた叩きつけにそのまま轢き潰される、無慈悲な軌道だ。
「……牽制する」
背後で、冷ややかな声が落ちた。
黒い外套の隙間から、薄闇に白く浮き上がる一束に結わえた銀髪と、引き締まった褐色の肌。側頭部からは、禍々しくも透き通った真紅の水晶――二本の角が伸びている。
シオナが背の紅水晶の翼をわずかに広げ、右手を掲げて短く息を吐いた。
「――開示、漆黒の槍」
宣言とともに、彼女の細い掌から淡い光が散る。直後、掌の先に暗い影が凝り、一本の鋭利な黒槍が生み出された。
シオナの指先がそれを押し出すと、風を裂いて飛んだ黒槍が、突進する怪異の肩口へと深々と突き刺さる。
肉を穿つ重い音が上がり、役目を終えた黒槍は黒い粒子となって霧散した。
怪異の突進が一瞬だけ鈍る。
だが、大槌を振り絞る両腕の勢いは死んでいない。
「上等だ」
俺は息を吐きながら、右手の柄を強く握り直した。
手のひらを覆う厚手の革巻きの奥から、金具越しに伝わってくるのは、冷たい鉄の感触ではない。
ぬめるような生体組織の、ドク、ドクという規則正しい拍動だ。
かつて別の怪異から切り落とされ、工房の金具とボルトで無理やり柄を溶接された、生きた怪異の右腕。
相手の血気に当てられ、刀身を固定する留め具の奥で腱がピクリと痙攣した。
大槌が頭上の頂点に達し、怪異の筋肉が収縮から解放へと切り替わる刹那。
逃げるどころか、俺は一歩、濡れた石畳を蹴ってその懐へと踏み込んだ。
左腕の袖口から滑り込ませたのは、使い込んだ回転式拳銃。
鉛の通常弾では、怪異の分厚い筋繊維を切り裂くことなどできやしない。
だが、衝撃そのものなら、骨と関節へダイレクトに届く。
狙うは、大槌を振り下ろし始めた怪異の右肘――腱が限界まで張り詰めたその一点。
皮膚に銃口を押し当て、迷わず引き金を絞った。
ドォン、と至近距離で爆ぜる、硬質な破裂音。
大口径の衝撃が怪異の肘関節を無理やり跳ね上げ、振り下ろしの軌道を強引にへし折る。
遠心力を失った大槌の自重が、怪異自身の巨体を前方へと引っ張り倒した。
ガクン、と前のめりに崩れ落ち、石畳へ膝をつく怪異。無防備なうなじが、がら空きになって目の前に晒される。
「もらった」
拳銃を懐へ滑り込ませ、左手で腰の鞘から引き抜いたのは、工房製の鋼鉄ブレードだ。
そのまま床を蹴って跳躍する。
滞空の頂点。宙空で右手の生体刀身と、左手の鋼鉄剣の基部を噛み合わせ、力任せに押し込んだ。
変形ラッチが重厚な金属音を立てて噛み合い、二振りの刃が合体して、長柄の両刃大剣へと姿を変える。
重力をすべて乗せ、切っ先を怪異の太いうなじへと叩き落とした。
肉と骨を叩き割る鈍い感触と共に、怪異の巨躯が石畳へと沈み込む。
傷口に深く突き刺さった生体刀身が、吹き出る体液を貪るように激しく脈打った。
怪異が二度、三度と大きく痙攣し、やがて大槌を取り落として完全に動きを止める。
「ふう……」
体重をかけて大剣を引き抜くと、ずぶずぶと音を立てて傷口が開き、奥から赤く発光する結晶が顔を覗かせた。
俺は腰の革袋から長いピンセットを引き抜き、直接手で触れないよう慎重にそれを挟み取る。
その瞬間、胸の奥からせり上がるような奇妙な吐き気と共に、唇が勝手に動く。
「……セグ……接続の、再試行……棄却……」
乾いた声が、自分の喉からこぼれ落ちる。
視界の端がわずかに滲んだが、瞬きを一つすると、その感覚はあっけなく霧散した。
「……おい、ヴァル」
背後から近づいてきたシオナの声には、明らかな警戒の色が混じっていた。
広げられていた紅水晶の翼は、すでに気配を消すように背中へぴったりと折り畳まれている。
尖った耳を小さく震わせ、シオナは覗き込むように真紅の瞳を向けてきた。
「今、何と言った?」
「あ? 何がだ」
「口の中で、何かぶつぶつと呟いていただろう」
「独り言なんざ言ってねえよ。息が上がっただけだ」
「……そうか」
シオナは納得のいかない様子で眉をひそめたが、それ以上は追及してこなかった。
俺は首を傾げながら、ピンセットで挟んだ結晶を目の高さに掲げて検分する。
小指の先ほどの赤い結晶だが、妙に芯が透き通っており、琥珀色の脈が走っていた。
「……ん? こいつはただの欠片じゃねえな。芯が残ってる」
「……変異の初期核か」
シオナの真紅の瞳が、僅かに瞠られた。
「滅多にお目にかかれない上玉だ。そのまま右手の獲物に喰わせたりするなよ。工房へ持ち帰れば、銀貨十枚は下らないはずだ」
「言われなくても分かってるっての。こんな上玉、丸呑みさせられるかよ」
変異核を専用の鉛張りの小瓶に封じ、大事に革袋へと収める。代わりに予備の濁った小欠片を取り出し、右手の柄へと近づけた。
刀身の表面に並ぶ細かい肉芽が蠢き、小さな欠片を嬉々として呑み込んでいく。
カチ、カチと組織が硬化し、濁った刃の表面に淡い赤の脈動が戻った。
大剣の金具を外し、二振りの刃に戻して腰の鞘に収めると、俺は革袋から薄く削られた干し肉を引っ張り出して口に放り込んだ。
奥歯で硬い筋を噛み潰しながら、息を整える。
血生臭さと塩分が舌に広がるが、地下で胃袋に突っ込めるものなどこれくらいしかない。
「……美味そうには見えんな」
「干し肉に味を求めるやつは地上で野垂れ死んでるよ。空腹で引き金を引く指がブレたら、今度は俺が肉塊だ」
「言い訳だな」
シオナは呆れたように小さく鼻を鳴らし、怪異が塞いでいた回廊の奥――鉄格子の嵌まった扉へと顎をしゃくった。
扉の脇、古びた石壁の前に立つと、何者かが床に遺した青白い文字が浮かび上がっている。
先達の狩人たちが書き残した、定型の符牒だ。
『足元に注意しろ、この先、沼があるぞ』
「……親切な警告どうも。引き返せるもんなら引き返してるよ」
干し肉を飲み込み、軋む鉄扉に手をかけてゆっくりと押し開いた。
生温い湿気と共に吹き抜けてきたのは、腐敗したヘドロと、微かに甘ったるい鉱物の臭気。
暗がりの中、膝下まで没する深さの濁った泥水が、どこまでも続く地下回廊を浸していた。
ざぶり、とブーツを踏み入れる。
泥の粘度が嫌らしいほど高く、一歩進むごとに足の裏を泥濘に掴まれるような重みがある。
跳んで駆け抜けようものなら、全身に泥を被って足を取られ、無様な的になるだけだ。靴の隙間から冷たい汚水がじわじわと染み込んできて、爪先が痛む。
俺の数歩後方を歩くシオナは、紅水晶の長い尾を高く持ち上げ、汚水に浸からないよう器用に進んでいた。
背中の翼も、天井の低い空間に擦らないよう小さくすぼめられている。
「……嫌な音だな」
「お前の足音のほうがうるさい」
シオナが即座に切り捨てる。
「右手の獲物から余計な匂いを撒き散らすなよ。この深さの腐水域には、音よりも血に群がる連中が沈んでいる」
「留め具は締めてある。余計な心配すんな」
そう言い返した、その時だった。
数歩先、淀んだ泥水の水面が、ぼこぼこと不自然な泡を吐き出し、微かに波打った。




