第9話 私が針を置いた月から
審議の前の晩に、見本が上がった。
ドラン家の紋章。盾の中に麦の穂が三本、その下に織機の梭がひとつ。麦の芒は七本ずつ立てた。梭の曲線は、コイルの金糸を継がずに一本で回してある。
置く線の長さは、先に糸で測った。測って切った金糸は、余りが指の幅ほどしか出なかった。
四分の間に、押さえは九つ。
麦の芒は、根元を太く、先へ行くほど押さえを詰める。詰めると光が細かく切れて、先が鋭く見える。七本のうち、いちばん外の一本だけ、押さえを一つ多くした。外側は光が逃げるので、そのぶんを足しておく。
女将さんが灯りを持ってきて、見本の上にかざす。
「持っていくのは、これ一枚かい」
「これと、控えの綴りを三冊」
「針箱は」
私は答えなかった。持っていくつもりでいたが、
「持っていきなさい」
女将さんはそう言って、階段の途中で止まった。
「私はね、辞めるとき、道具を工房に置いてきたんだよ。自分のものだと言い張るのが、みっともない気がしてね」
「みっともなくは、ありません」
「今ならそう思う。あのときは思えなかった」
階段を降りていく音が、いつもより遅かった。
私は針箱を鞄の底に入れ、その上に控えの綴りを重ねる。鞄は肩に掛かるものを買ってある。両手が空くほうがいい。
翌朝、組合の会所へ行った。
二階の理事の部屋は、思っていたより狭い。長い卓がひとつあって、片側に理事が五人。反対側に椅子が二つ。窓側にハーケ様が立っていて、その隣にドラン様がいた。
私は椅子の一つに座り、卓の上に見本を置く。控えの綴り三冊を、その脇に重ねた。針箱は、膝の上に乗せたまま。
理事長が見本を手に取った。年配の方で、指が太い。太い指で、金の押さえの間隔を確かめている。
「外の芒だけ、押さえが多い」
「光が逃げますので」
理事長は見本を隣の理事に回す。回されたほうは、まず裏を見た。
「四分に、九」
「はい」
「王都で三人だと、ハーケ殿が仰った」
「そう伺いました」
「実績の控えは」
私は綴りを三冊とも前へ出す。
「王都の納入控えではありません。私が十年つけた、色番と本数と日数の控えです」
理事の一人が最初の一冊を開く。開いて、しばらく黙った。
「これは、納入品ごとに」
「はい。日付と、使った糸の色番、本数、掛かった日数。裏に、直した箇所と理由を書いてあります」
「理由まで」
「同じ失敗を二度しないためです。三年前までは、失敗のほうが多く書いてあります」
理事が頁を繰る速さが落ちた。
「四年前の夏の欄に、印がついているが」
「指を痛めておりました。糸を三本取りにして、目を長くした月です。長くしたぶん、花芯だけを詰めて釣り合いを取りました」
「そう書いてある」
「はい」
「十年分か」
「十年分です」
部屋の中で、紙をめくる音だけがしばらく続く。
ハーケ様は何も言わない。ドラン様も口を挟まない。二人とも、この場では証人の位置に座っている。
理事長が顔を上げた。
「サンド殿。作業場の要件は満たしておられる。実績は、この控えで足りる。あとは推薦だが、こちらの二名はすでに出しております。三人目を」
そのとき、扉が叩かれた。
書記が入ってきて、理事長に何か耳打ちした。理事長が眉を寄せる。
「通しなさい」
扉が開いて、父が入ってきた。
外套に埃がついていた。乗合馬車で来たのだと分かる。
父は部屋の中を一度見回した。理事が五人。ハーケ様。ドラン様。それから私。
家の格を測るとき、父はいつも人の並びを見る。誰がその場にいて、誰が上座にいるか。十年、私はその測り方の外側にいた。今日は、卓のこちら側に座っている。
「サンド男爵。ここは審議の場です」
理事長が言った。
「承知しております。関わりのある者として、申し上げたいことが」
「手短に」
父は卓の端に立った。
「娘のことでございます」
そこで一度、息を継いだ。
「上の娘は、十年、家の納入を支えてまいりました。私はそれを、正しく扱ってこなかった。名を控えに残さず、代金も家で受け取っておりました」
理事の一人が何か書きつける音がした。
「納入印の取消も、こちらの落ち度でございます。ただ、再交付の願いは出しております。印が戻れば、家として納入を続けられます」
「男爵。再交付の願いは、こちらで受けております」
理事長が言った。
「受理はしましたが、工房の実体をお示しいただけておりません。刺し手の名を一名、書いていただければ足ります」
父が答えなかった。書ける名がない。
父は私のほうを向いた。
「ミレイユ」
「はい」
「控えにお前の名を入れる。それで戻ってきてくれ」
部屋が静かになった。
紙をめくる音も止まっている。ハーケ様は動かない。ドラン様も動かない。
私は膝の上の針箱を、卓の上に置いた。
黒く塗った木の蓋。掛け金がひとつ。蓋の内側は、針の当たるところだけ塗りが薄い。
掛け金を外して、蓋を開けた。
「三番が四本。五番が九本。七番が九本。九番が三本」
理事たちが箱を覗き込んだ。
「五番は、六本をコレットに渡しました。あとで買い足しましたので、今は九本です」
父が口を開きかける。私は続けた。
「これは全部、私が買ったものです。十四の年から、一本ずつ足しました。家の金ではありません」
「ミレイユ、その話は」
「お父様。控えに名を入れるというのは、これからの控えのお話ですね」
父が黙る。
「私の名前は一度も控えに載りませんでした。控えごと、王都から消えたのですね」
父は何か言おうとして、言葉を探していた。探しているあいだ、誰も助けなかった。ハーケ様も、ドラン様も、理事の方々も。
「戻れば、印も戻る」
父が言った。
「家として、お前の名で納める。それでいいだろう」
「印は工房に出るものです」
「だから、家の工房として」
「家の工房には、刺し手がおりません」
父の口が止まる。
私は針箱の蓋を閉じ、掛け金を下ろした。音が、思ったより大きく鳴った。
「私の針目は、もうサンドの名では売れません。売ったのはそちらです」
父が一歩前に出て、卓に手をついた。それから頭を下げる。
私は父を見なかった。卓の上を見ていた。
三冊の綴り。木の箱。金の押さえが九つ並んだ布。
十年前の春、四点。次の年が五点。その次が五点、六点、六点、七点、七点、八点、九点。あの家の帳面の数字を、私はひとつも見たことがない。見なくても、どの月に何を刺したかは言える。
言えるのに、名前の欄がないので、証明する手立てが十年なかった。
手立ては、いま卓の上にある。私が持ってきた。
父の外套の裾が、卓の脚に触れて止まっている。
「お引き取りください」
私はそう言った。
父は頭を上げなかった。理事長が書記に目配せをして、書記が父の脇に立つ。
「男爵。審議を続けます」
父は顔を上げて、私を見る。何か言いかけて、それも言わずに、扉のほうへ歩いていった。
扉の手前で一度止まり、卓の上の針箱に目をやった。十年、家の道具だと言い続けたものである。それが今、卓のこちら側に置いてある。
書記が扉を開けた。父は外套の裾を直してから出ていった。裾を直すのは、人の目のある場所を出るときの癖である。
扉が閉まる音のあと、部屋はしばらく静かだった。
ハーケ様が窓際から動く。動いて、卓の前まで来て、理事長のほうを向いた。
「三人目の推薦を、私が出します」
「買付方殿は、後見の資格もお持ちだが」
「後見は、ご本人が辞退されました。推薦は、私の一票として出します」
理事長が頷く。それから他の理事の顔を順に見て、最後に私を見た。
「サンド殿。登録の名は」
「ミレイユ・サンドで」
サンドの名を使うことを、私は前の晩に決めていた。父の名だからではない。十年、その名で市の店に通い、その名で糸を買ってきたからである。
「異議は」
理事たちの手が上がらなかった。
「可決とします。王室の紋章仕事、年に二点。ドラン家の分は別途」
書記が名簿を持ってきて、私の前に置いた。
登録番号の欄と、名の欄と、工房の所在の欄がある。所在には、市の東の通りの宿の番地を書いた。作業場は二階の北向きの部屋である。
名の欄に、自分の字で名を書く。
書き終えてから、しばらくその字を見ていた。私の字を紙の上で見るのは、控えの綴り以外では初めてだった。
ドラン様が卓の上の見本を手に取り、光にかざす。
「うちの分は、年に六点でお願いしたい」
「四点から六点と伺っておりました」
「六点です。今日、決めました」
私は控えの綴り三冊を、鞄に戻した。針箱を、その上に乗せる。
帰りぎわ、ハーケ様が扉のところで足を止めた。
「一つだけ、申し上げても」
「はい」
「先ほどの拒絶を、私は代わりに言わずに済みました。それが、今日いちばん良かったことです」
そう言って、彼は先に階段を降りていった。
会所を出ると、日が高かった。
石畳の上に、荷車が二台並んで止まっている。市のほうから、魚の匂いがしてきた。宿へ帰れば、女将さんが結果を訊くだろう。
サンド家の納入印は、再交付されなかった。
私が針を置いた月から数えて、四十二日が経っている。その四十二日のあいだに、王都からあの家へ届いたものは、取消の書面が一通だけだった。
注文は、ひとつも戻ってこなかった。




