第10話 花芯を、もう一度
初冬の朝は、光が遅い。
窓を開けると、通りの石畳が白く乾いていた。霜が下りて、それがもう乾いている。
この時期は、朝のうちは手が冷える。冷えた指では針が滑るので、湯を張った器に手を当ててから座る。屋敷にいた頃は、湯を沸かす順番が私まで回ってこない日があった。ここでは、私が最初に沸かす。
看板は先月、通りに面した壁の下に出した。木の板に、文字を彫って黒を入れただけのものである。
ミレイユ・サンド。刺繍。
字は自分で書いて、彫りは通りの向かいの指物屋に頼んだ。指物屋の主人は、彫る前に一度、私の書いた紙を裏返して透かして見た。裏を見る人だった。
通りを歩く人は、たいてい看板を見ない。見る人は、立ち止まって字を読み、それから窓を見上げる。月に何人かはいる。看板を出すまで、私はこの通りで「宿の二階の人」と呼ばれていた。今は名で呼ばれる。
作業場は、宿の二階の北向きの部屋のままである。机は二つに増えた。
一つは私の机。もう一つは、通ってくる二人の机だった。
イルマとリーゼ。イルマは十五で、市の仕立て屋の三女。リーゼは十九。去年まで洗い場にいた人である。
二人とも、女将さんが連れてくる。
「うちの客に、刺繍を習わせたいって親がいてね」と言って、最初にイルマを連れてきた。二月後にリーゼを連れてきたときは、何も言わずに階段を上がってくる。
朝は、糸の始末から始める。
「糸端は長く取らない。長く取ると、刺しているあいだに毛羽が立って、痩せて切れる」
イルマが糸を切る。切った長さを、私は指で測った。
「もう少し短く」
「これでも短いです」
「肘まで。それより長くしない」
リーゼのほうは、蜜蝋を引く手つきを見た。塊を二度なぞって、指で糸をしごく。三度なぞると乗りすぎて、毛羽が消える。消えると、その糸はもう別のものになる。
「三度目は、布によります。絹なら二度で足りる」
「どうやって見分けるのですか」
「触ります。指の腹で」
リーゼが自分の指の腹を見た。まだ何も付いていない、きれいな指だった。
その指がいつ黄色くなるのかを、私は言わなかった。言えば、待つようになる。
昼までに、イルマは襟の縁を三寸ぶん刺した。四分の間に六針。先月は五針だったので、一つ増えている。
「これで、納入には」
「足りません」
「あと二つですか」
「あと二つです。三年かかる人と、一年で届く人がいます」
イルマが手を止めた。
「姉さんは、何年でしたか」
その呼び方を、二人は私にする。
「四年です。十二から始めて、十六で八になりました」
「四年」
「そのあいだ、私の目を数える人はいませんでした。あなたには私がいます。数える人がいると、早くなります」
イルマがまた針を動かし始めた。
仕事は、ドラン家の分が年に六点。王室の紋章が年に二点。それだけで、この二階の家賃と、糸代と、二人に払う分が出る。
ドラン家の分は、二月に一点の割で入る。紋章の意匠は毎回少しずつ違う。贈る相手の家の色を、盾の縁に一色だけ足すのが、あの家の習いだった。
王室の分は、春と秋。祭壇の脇布と、儀の袖飾り。寸法が大きいので、下絵に十日かける。
先月、南の領の商会から手紙が来た。登録がなくても納められるかという問い合わせだった。受けられると返事を書いて、まだ返事は来ていない。
払う分は、日数で決めている。
イルマが最初に受け取った銅貨を、女将さんが帳場の板に並べさせていた。
「いくらで受けたの」
「日数で頂きました」
「上出来」
女将さんはそう言って、帳場の帳面に何か書きつけた。あの帳面に何が書いてあるのか、私は今も知らない。
先週、一度だけ訊いた。
「日数と、額です」
「どなたの」
「うちに泊まった刺し手の、ぜんぶ」
十九年ぶんの数を、この人は言えずに終わったと言っていた。言えずに終わった人が、他人の分を数え始めている。
その帳面の最初の頁に何と書いてあるかは、訊かなかった。
ハーケ様が来たのは、その日の午後だった。
階段を上がる音で分かった。この方の足音は、二段ずつ上がらない。
扉のところで止まって、私の名を呼んだ。
「ミレイユ殿」
「ハーケ様」
外套に霜の湿りがついている。手に、平たい包みを持っていた。布で三重に巻いてある。落とすと割れるものではないのに、そういう巻き方をしていた。
イルマとリーゼが手を止めた。二人ともハーケ様を知っている。王室の分を持っていくとき、この方が受け取りに来るからである。
「先に糸を数えておきなさい。下の帳場で」
「はい」
リーゼが先に立ち、イルマの袖を引く。階段を降りるとき、二人は一度こちらを振り返った。
二人が階段を降りてから、ハーケ様は包みを机に置く。
「これを、お返しするわけではありません」
「はい」
「見ていただきたくて、持ってきました」
包みの布を開いた。
薄紫の布だった。
三年前の秋。九月に刺したもの。指の関節が腫れていて、七番の針が握りにくかった時期のものである。糸を三本取りにして、目を少し長くした。長くしたぶん、花芯だけを詰めて釣り合いを取った。
縁の始末を見た。三年前の私は、角を三度折らずに二度で済ませている。二度でも保つが、洗うと角が丸くなる。裏を見せてもらった。渡り糸が、今より少し長い。三分の一寸を超えているところが二か所ある。
「二か所、渡りが長うございます」
「気づいておりました」
「では、なぜ」
「値を下げる理由にはなりません。私が買ったのは、下げる理由のない一枚です」
「三年前の一枚を持ってきました。花芯を、もう一度見せてください」
私は布を机の上に広げた。
窓の光を横から入れる。北向きの光は白いので、色は正しく見える。
花の中心に、指を置いた。
返し縫いが三段。糸の重ね方の順序も、あのときのままである。三年前だから、今より段が浅い。浅いぶん、光が奥まで入る。
「これは、王室の分ではありませんでした」
ハーケ様が言った。
「あの秋、納入分とは別に、私が自分で買いました。理由を訊かれたら、色が良かったと答えるつもりでおりました」
「訊かれましたか」
「一度も」
彼は布の端に手をかけて、それから引っ込める。
「三年、私の部屋の壁に掛かっておりました。毎朝、これを見て出ておりました。見ていながら、刺した人の名を確かめなかった」
「はい」
「確かめなかった三年は、返せません」
私は花芯から指を離さなかった。
返せないと言われたものを、私は今年に入って三度聞いた。組合の書面がそうだった。ドラン様の婚約の話もそう。これで三度目になる。
断らずに済む話を聞いたのは、久しぶりだった。
「ハーケ様。登録要件の三番のことですが」
「はい」
「あれを外す話は、組合で出ておりますか」
「出ています。理事長が来年の総会にかけると。私も推す側で出ます」
「それは、良い話ですね」
「良い話です。ただ、あなたの登録が先に済んだのは、あなたの綴りが十年ぶんあったからです。制度が変わったからではない」
そういう言い方を、この方はいつもする。
私は布から手を離して、椅子に座り直した。
窓の外で、荷車が一台通っていった。冬の荷車は音が高い。
「ハーケ様は、私に何を訊きにいらしたのですか」
「訊きに来たのではありません。これを見ていただきたかった。それだけです」
「それだけ、ですか」
彼が黙った。
持っている答えを、私に選ばせるために置かないでいる。この方はいつもそうする。三年前から、値をつけるときも、後見のときも、拒絶の場でも。
私は自分の机の上を見た。
引きかけの下絵が一枚。針箱。蜜蝋の塊。控えの綴りは四冊に増えている。四冊目は、王都に来てからの分である。表紙に日付を入れた。日付を入れたのは、四冊目が初めてだった。
全部、私のものだった。誰の署名も、この上には要らない。
「エルヴィン様」
「はい」
「この手で選びます。名前も、隣も」
彼は何も言わなかった。それから、机の上の薄紫の布を、私のほうへ少しだけ押す。
押し方が、値をつけるときと同じだった。
「では、これは置いていきます」
「頂きます」
「もう一度、聞かせていただいても」
「二度は申しません」
彼が笑った。笑うところを見たのは、これが初めてだった。
「では、春の祭壇布の話は、また改めて」
「仕事の話でいらしたのですか」
「半分は」
「半分は」
「半分は、これを掛ける壁が、私の部屋でなくてもよいと思ったからです」
彼は外套の襟を直し、扉のところで一度止まる。それから何も言わずに出ていった。
階段を降りていく音が、上がってきたときより速かった。
下の帳場から、女将さんとイルマの声が上がってくる。糸の数が合わないと言っている。
私は薄紫の布を壁に掛けた。机の正面ではなく、少し横にした。正面に掛けると、下絵を引くときに目が行く。
掛けてから、少し下げた。イルマの背丈で見える高さにした。四分に六針の目で、三年前の一枚を見るのは早いかもしれない。それでも、見えるところに置く。私は十二の年に、見えるところに置いてある布を一枚も持っていなかった。
それから枠に手を伸ばして、張り具合を確かめた。左が少し緩んでいる。
締め直そうとして、指が布に触れた。
爪の際を見た。
指先の蜜蝋の色は、もう抜けていた。




