第8話 この控えの十年分
雨の日の夕方、コレットが王都から戻ってきた。
馬車を降りるところを、私は窓から見ていた。傘を差さずに玄関まで歩いてくる。外套の肩が濡れている。
客間に入ってくると、何も言わずに椅子に座った。
「会えたのか」
「はい」
「話したのか」
「宿の階段の下で、少しだけ」
妻が茶を持ってくる。コレットはそれに手を伸ばさなかった。
「姉さんは、戻らないと」
「そう言ったのか」
「言いませんでした」
「では」
「わたくし、戻ってほしいと言ったのです。三度。姉さんは三度とも、いいえ、とだけ」
コレットの髪の先から、水が落ちて膝に染みた。
「顔は、怒っていませんでした。困ってもいませんでした。ただ、いいえ、と」
「王都のどこにいる」
「市の東の、宿です」
「宿住まいか」
「二階の部屋で、机に枠が立ててありました。窓の下です。北向きの」
妻がコレットの肩に布を掛ける。
「もう休みなさい。濡れたままだと熱が出ます」
コレットは動かなかった。
「お父様。姉さんの部屋の机の上に、控えの綴りがありました」
「控え」
「色番と、本数と、日数を書いた綴りです。三冊ありました。姉さんが十年つけていたものだと、宿の女将さんが」
私は椅子の背に手をついた。
その綴りのことを、私は聞いたことがない。
「それから、ドランの若旦那が宿にいらしたそうです」
「ドランが」
「取引の話をなさったと。姉さんとです」
妻が茶器を持つ手を止めた。止めて、それからまた動かした。
コレットが二階へ上がってから、私は棚から納入控えの綴りを下ろした。
卓の上に置くと、いつもより重い。表紙は擦れて角が丸い。十年分を一冊にまとめてあるので、後ろのほうは紙が波打っている。
私は最初の頁を開いた。
十年前の春。花の意匠の布が一枚。寸法、金額、工房の名。
その次。夏。襟飾りが一対。
三頁目で、私は指を止めた。
ただ、どこかにコレットの名が書いてあるはずだと思った。この綴りは、家の納入の記録である。家の納入は、娘の手で作られてきた。どちらの娘か、書いてあるはずだと。
刺し手を書く欄はなかった。
十年、私が自分でつけてきた綴りである。欄がないことを、私は今日まで知らなかった。
私は最初の頁に戻って、月ごとに数え始めた。
十年前が四点。翌年が五点。その次が五点。六点。六点。七点。七点。八点。九点。今年はまだ三点で止まっている。
数えながら、頁の隅に鉛筆で印をつけた。印をつけないと、どこまで数えたか分からなくなる。二度目に数え直したとき、五年前の冬が一点抜けていた。三度目でようやく合う。
数を合わせるのに、三度かかった。
紙の上に、数を書き出した。
合わせて六十点になる。
書き出してから、私は総額を出そうとして、そこで手が止まった。金額の欄は毎回書いてある。合計を出したことは、十年で一度もない。合計は、必要になったときに妻か、あるいは娘に頼んでいた。
頼んでいた娘は、上のほうである。
私は自分で足し始めた。
一頁ずつ、指で押さえて数字を追う。位を揃えて紙に書き写し、十点ごとに区切って小計を出す。区切らずに足そうとして、途中で二度、桁を間違えた。
三度目でようやく最後まで届く。
途中で灯りが暗くなり、芯を切った。芯を切るのは久しぶりで、切りすぎて一度消す。火を移し直しているあいだ、卓の上の綴りは開いたままだった。
雨の音が強くなっていた。
妻が客間に入ってきて、灯りを足す。
「まだそれを」
「ああ」
「そんなことを数えて、何になるのでしょう」
私は答えなかった。
妻は卓の上の紙を見る。数字が二列に並んでいるのは分かったはずだが、どちらが何かは訊かなかった。
「先日も王都から人が見えて、上の娘はどちらかと。私は答えようがありませんでした」
それきり、妻は数字のほうを見ない。
「灯りの油が、じきに切れます」
「足しておいてくれ」
「じきに、と申し上げました」
そう言って、妻は茶器を片付け始めた。
「コレットが休みました。明日は仕立て屋を断らないと。もう要りませんから」
要らない。
その言葉を、私は九月に自分で使った。
私は綴りに戻った。
数を数え終えたあとで、私は別のことに気づいた。
三年前の秋の頁に、薄紫の掛け布の図が写してある。その脇に、私が書いた覚え書きがあった。糸端の始末が甘い、と書いてある。買付方から言われたことを、そのまま写したのだ。
同じ書き込みが、四年前の夏にもある。
四年前と三年前。そのあいだの二年ぶんには、この書き込みがない。
指で頁を繰った。
書き込みのある月と、ない月がある。ない月のほうが、はるかに多い。
私は書き込みのある頁だけを並べて、日付を見た。
四年前の夏。三年前の秋。どちらも、上の娘が指を痛めていた時期だった。腫れて、七番の針が握れないと言っていた。言っていたのを、私は覚えている。覚えていて、そのときも綴りには何も書かなかった。
指を痛めた年の品には、買付方が難を言った。難がないときは、私は何も書かなかった。
書かなかった月が五十以上ある。五十以上の月、あの子の手は難のつけようがなかったということになる。
書き込みのない月は、上の娘の手が万全だった月である。
私は綴りを閉じた。閉じて、また開いた。
この控えの十年分は、全部あの子の手から出ている。
声に出していた。客間には誰もいなかった。
私は紙をもう一枚出して、二つの数字を並べて書いた。
左に、十年分の納入の総額。
右に、上の娘に渡した材料費の合計。こちらは覚えている。市の紙を持ってきたら、同じ額を渡す。年に十二回ほど。金額はほとんど変わらない。
右の数を十年ぶん足すのは、すぐに終わった。
二つの数を見比べた。
私が十年、足さなかっただけである。
階段の上で、物音がした。
コレットが降りてきて、扉のところに立っている。手に、五番の針の紙包みを持っていた。
「刺してみます」
「今からか」
「今からです」
娘は卓の端に座って、繕い物の麻布を広げた。灯りを引き寄せ、布を膝の上で押さえる。枠は使わなかった。
針に糸を通すのに、時間がかかった。糸の端を舐めて、二度失敗して、三度目で通る。
二針刺したところで糸が切れた。取り直して、また三針で切れる。三度目は、五針もった。
「糸端が」
娘が言った。
「毛羽立って、痩せてしまって」
「そうか」
「姉さんは、どうしていたのでしょう」
私は答えられなかった。十年、その工程を見たことがない。見ようとしたこともない。
あの子が窓を背にして座っていたことは覚えている。細い針が影に入ると見えないからだと、いつか言っていた気がする。聞いたのがいつだったかは思い出せない。
コレットは四度目の糸を通そうとして、途中でやめた。針を包みに戻し、包みを膝の上で握る。
「お父様。姉さんの控えの綴り、三冊とも持っていかれました」
「そうか」
「置いていったのは、仕上がった三点と、荷造りの手順を書いた紙だけです」
娘は立ち上がって、二階へ戻っていった。
雨は、まだ降っていた。
私は卓の上の二つの数字を、もう一度見る。それから納入控えの綴りを開いて、最後の頁の余白に、月ごとの点数を書き写した。
書き写しながら、月ごとの点数の下に、もうひとつ書き足した。
刺し手。
その三文字を書ける欄が、この綴りには十年ぶん、一度も作られていない。私が作らなかった。
それでも、手が動いた。
十年分の控えは、私の字で埋まっていた。




