第7話 刺した方と取引したい
朝、枠を確かめた。
四辺のうち、左が緩んでいた。夜のあいだに、いちばん強く張ったところが戻る。布はいつもそうなる。
昨夜、書面を机の端に置いたまま、私は張り具合だけを見ていた。決めるつもりはなかった。決めようとすると、条件のほうを見てしまう。条件は四つとも、私に不利ではなかった。
朝になって、左が緩んでいた。緩んだのは、いちばん強く張った辺である。
強く張ったところが先に戻る。それだけの話だった。それだけの話を見てから、私は決めた。
私は左を締め直した。それから、ハーケ様への返事を書く。
後見のお申し出は、辞退いたします。理事の推薦を集める道で参ります。時間はかかると承知しております。
それだけを書いて、あとは何も足さなかった。理由を書けば、断る理由の説明になる。
女将さんが、市へ出るついでに届けてくれた。
「断ったのかい」
「はい」
「あの人は、悪い後見人にはならないと思うけどね」
「そう思います」
「それでも」
「それでも、私の名で登録するのに、最初に誰かの署名が要るのは、私の順番ではありません」
女将さんは何も言わずに出ていった。帰ってきたときには、市の魚の匂いをさせていた。
「返事は、その場で読んでいたよ」
「そうですか」
「読んで、それから頷いてた。何も言わずに」
三日後、組合から書面が届く。
宿の帳場で受け取り、階段の途中で読んだ。
一、意匠を記した帳面および下絵の帰属は、これを引いた者にある。
二、刺繍に用いる針、枠、鏡その他の道具の帰属は、これを購入し使用してきた者にある。
三、サンド男爵より提出された返還の請求は、これを認めない。
三行だけの書面だった。下に理事の署名が三つ並んでいる。
私は階段に座る。もう一度読んだ。
十年、この帳面は家のものだと言われてきた。言われるたびに、そうではないと思っていた。思っていただけで、どこにも書かれていなかった。
書かれると、こんなに短い。
返還の請求が出ていたことを、私はこの書面で知った。組合が家に問い合わせ、家が三点の返還を求めたのだろう。針箱と、下絵帳と、枠。三点とも、私が持って出たものである。
「読み終わったかい」
女将さんが階段の下から言った。
「はい」
「泣くならお上がり。帳場で泣かれると客が入らない」
「泣きません」
「そう」
その日の夕方、もう一通。
こちらは組合の書面ではなかった。封の蝋に、サンドの型が押してある。麦の束を横に寝かせた型で、押すたびに端が欠ける。
宛名の字は父の手だった。名前の下に、王都の通りの名まで書いてある。誰かが調べたのだ。
私は封を切らずに階段を上がる。
机の上に置いて、しばらく見ていた。厚みからすると、二枚か三枚は入っている。父が三枚も書くのは珍しい。
女将さんが階段を上がってきて、扉のところに立った。
「サンドの封だね」
「はい」
「手紙は読まなくていい。読めば向こうの都合が始まりますよ」
私は封を裏返す。
「読んだら、返事を考えることになります」
「そう。考えた時点で、あんたの時間があっちに移る」
女将さんは扉の枠に手をかけたまま、それ以上は言わなかった。
私は針箱を開けて、いちばん下に手紙を入れた。針の下ではなく、箱の底の板の上に敷く形にした。上に針の仕切りを戻すと、封は見えなくなる。
捨てなかったのは、いつか数えるときに要るかもしれないからである。手間賃を数えるには、家がいつ何を言ってきたかも要る。
蓋を閉めて、掛け金を下ろす。
翌日の昼、宿の扉が開いて、フィリップ様が入ってきた。
私は帳場の脇で、繕いの糸を選んでいた。顔を上げると、目が合った。ドラン家の方が、こんな通りの宿に来る理由が思い当たらない。
「サンド殿」
「ドラン様」
「お邪魔します。少しだけ、お時間を」
女将さんが帳場の椅子を二つ出した。それから奥へ引っ込んで、扉を半分閉めた。
フィリップ様は座り、帽子を膝に置く。
「婚約を解きました」
前置きはなかった。
「先方には昨日、書面を出しております。理由は、こちらが求めた条件が満たされないことです」
「そうですか」
「妹御を責める意図はありません。刺し手を迎えると決めたのはうちで、確かめずに決めたのもうちです」
「先方は、何か仰いましたか」
「男爵は、来月まで待ってほしいと。妹御は、何も」
そこで一度、言葉が途切れる。
「実演のあと、妹御はうちの女中に針の持ち方を訊ねておられました。二度ほど」
私は膝の上で手を重ねた。
コレットのことを、私は考えなかった。あの家で起きることは、もう私の日程に入っていない。
「それで、本題です」
フィリップ様が姿勢を戻した。
「妹御ではなく、刺した方と取引したい」
「私は工房を持っておりません」
「存じております。組合の裁定も伺いました。理事のうち二名が、あなたの推薦に回るそうです」
「二名では、足りません」
「三名目は、時間の問題でしょう」
彼は膝の帽子の縁を指でなぞる。
「うちは織り屋です。金糸を扱う紋章仕事は、王室の分と、大きな商家の贈答の分があります。うちが欲しいのは後者です。年に四点から六点」
「量は、承れます」
「値は」
私は言いかけて、口を閉じた。
女将さんの声が奥から聞こえた気がした。日数を先に言いなさい、と。
「一点に、二十日かかります」
「二十日」
「金糸は継げません。置く線の長さを先に測って、必要な分を切ります。切り直しがきかないので、下絵の段階で線を決め切る日数が要ります」
フィリップ様は少し黙った。
「では、一点につき、うちの織り上がりの上級品と同じ値を出します」
私は金額を聞いて、手が止まった。
家に入っていた納入の代金の、三倍近い。
「多すぎませんか」
「刺し手に払ったことがなかっただけです。今までは、工房に払っていました」
「材料は」
「こちらで用意します。金糸は目方で買いますので、目方の控えをこちらにも一部いただければ」
目方の控え。糸の色番と本数の控えを、私は十年つけてきた。誰にも見せたことがない。見せてくれと言われたのは、これが初めてだった。
「お渡しします」
そう言って、彼は帽子をかぶった。
「見本を一枚、お願いできますか。うちの紋章で。これが良ければ、正式に」
「お受けします」
彼は立ち上がって、扉のところで一度振り返った。
「サンド殿。うちの祖父が実演をさせるのは、刺し手を見極めるためではありません。刺した人間に、その場で払うためです。祖父はそう言っておりました。私は、見極めのためだと思っておりました」
扉が閉まる。
女将さんが奥から出てきて、椅子を片付けた。
「二十日と言ったね」
「はい」
「上出来」
その夜、私は机に向かった。
ドラン家の紋章は、盾の中に麦の穂が三本と、その下に織機の梭がひとつ。線の多い意匠だった。麦の穂の芒を一本ずつ立てるなら、金糸の押さえは細かくなる。梭の曲線は、コイルの金糸を継がずに一本で回したい。回すには、置く前に長さを測る。
紙の上に線を引いた。引いて、消して、また引いた。
盾の縁は左右で幅を変える。同じ幅にすると、金を置いたときに右だけ太く見える。光の入る側を細くしておくと、仕上がりで揃う。この直しは、十六の年に失敗して覚えた。あのときの布は、家の名で王都へ行った。
芒の数を七本にした。九本だと詰まって見える。五本だと寂しい。
窓の外はもう静かで、荷車の音もしなかった。
妹の婚約が解けた日、私は下絵を一枚仕上げた。




