第5話 王都の帳面から消えた家名
王都に来て二十日で、仕事が三つ入った。
一つは宿の客の襟の繕い。一つは市の古着屋から回ってきた袖口の直し。もう一つは、通りの向かいのパン屋の娘の頭巾だった。三つ合わせて、宿代の半月分に足りない。
それでも、代金は私の手に入った。
アニェスさんは、私が受け取った銅貨を帳場の板の上に並べさせた。
「いくらで受けたの」
「頭巾は、二十で」
「安い」
「初めての客ですから」
「初めての客に安く出すと、二度目も安くなるよ」
そう言って、女将さんは銅貨を私のほうへ押し戻す。
「頭巾はどれくらい掛かったの」
「三日です。合間に、ですけれど」
「三日で二十。宿代は一日で十四だよ」
数えたことがなかった。家では、日数と代金が同じ紙の上に並んだことがない。
「明日から、受けるときに先に日数を言いなさい。日数を言えば、向こうが値を言う。こっちが先に値を言うと、必ず負ける」
女将さんは帳面に何か書きつけて、それきり顔を上げなかった。
北向きの部屋は、朝から昼過ぎまで光が入る。机を窓に寄せて、枠を立てた。糸は市で買った。この土地の絹糸は、家で使っていたものより撚りが弱い。弱いぶん、刺すと表面が広がって、面がよく見える。かわりに引っ張ると伸びる。
伸びる糸には、蜜蝋を少し多めに引く。塊を二度なぞるところを三度にする。四度なぞると乗りすぎて、毛羽が消える。
二十日で、指先の黄色は少し薄くなった。屋敷にいた頃と、刺す量が違う。ここでは、繕いの合間に自分の枠を出す。
夜は刺さない。女将さんに言われる前から、そうしている。
二十一日目の午後、階下で女将さんが私を呼んだ。
「お客だよ。買付方様」
階段を降りると、帳場の前にハーケ様が立っていた。外套に埃がついている。荷物は、脇に抱えた革の鞄がひとつ。
「サンド殿」
「ハーケ様」
「先に屋敷へ伺いました」
「奥方は、あなたの居所をご存じないと仰った」
私は何も言わなかった。母は知らない。
「ご不在です、と三度言われました。三度目に、では戻られるのはいつかと伺ったら、答えがありませんでした」
「そうですか」
「私が探しているのはご息女ご本人だと、はっきり申し上げてあります」
母の顔が浮かんだ。困った顔はしない。話を別のほうへ移して、茶を勧めて、そのうち相手が諦めるのを待つ。
「ドラン家での実演のことは、お聞きになりましたか」
「妹から、聞いてはおりません」
「では、お伝えしません。私が申し上げる話ではない」
ハーケ様は革の鞄を帳場の板の上に置いた。
「あなたを探しておりました。家をではなく」
鞄から出てきたのは、紙の束だった。
「王都の控えの写しです。三年前からの、サンド家の納入分」
板の上に、順に並べていく。一枚ずつに、納入品の図が写してある。図の脇に、寸法と金額。
三年前の秋の薄紫。冬の襟飾りが二対。翌年の春の祭壇の脇布。夏の掛け布。
全部、私の手だった。
薄紫の一枚は、九月に刺した。指の関節が腫れて、七番の針が握りにくかった時期である。糸を三本取りにして、目を少し長くした。長くしたぶん、花芯だけを詰めて釣り合いを取った。
そういうことを、この紙は一枚も書いていない。書いていないのに、見ると全部戻ってくる。
「花芯のところだけ、写しを大きく取らせました」
ハーケ様が、別の紙を重ねた。花芯だけを拡大した写しが、十枚以上ある。
返し縫いの段が三つ。糸の重ね方の順序も、どれも同じ。三年前のものは、今より少し段が浅い。去年から深くなっている。
「三年で、変わっておられる」
「はい」
「良くなっています」
私は写しの端を押さえた。
「ハーケ様」
「はい」
「これを、どうなさるのですか」
「王室の紋章仕事を、あなたに出したい」
部屋の中の音が、遠くなった。
「紋章は、金糸を使います」
ハーケ様は鞄からもう一つ、小さな包みを出した。
開くと、細いコイル状の金属糸と、平たい金属の帯と、金を巻きつけた撚り糸が入っている。
「刺されたことは」
「ございます。家では二度」
「置いてみていただけますか」
女将さんが枠を持ってきた。宿の白布が張ってある。
私は椅子に座り、まず針を選んだ。金糸は布に通さない。通そうとすると、金が剥げる。表に置いて、別の細い糸で縫い止める。押さえる糸は目立たない色にして、金の巻きの谷に落とすように渡す。谷に落とすと、押さえ糸が消える。
コイルの金糸を必要な長さに切った。切るときは、糸切りではなく古い鋏を使う。金は刃を傷める。
長さを間違えると、足せない。継ぐと、継ぎ目で光が切れる。だから先に、置く線の長さを糸で測ってから切る。家では二度しか触らせてもらえなかったので、測り方だけは何度も紙の上で練習した。
布の上に金糸を置き、左手で押さえながら、右手で細糸を渡した。
一目、二目、三目。
間隔が乱れると、光の返り方が段になる。
四分の間に、押さえを九つ。
顔を上げると、ハーケ様が拡大鏡を目に当てていた。
「九です」
「はい」
「金物の押さえで九は、王都でも三人いません」
女将さんが帳場の後ろで、何かを言いかけて、やめた。
「サンド殿。ひとつ、はっきり申し上げます」
ハーケ様が拡大鏡を下ろした。
「私が買っていたのは家名ではなく、この花芯です」
褒め言葉の言い方ではない。値をつける人間の言い方だった。
「ただ、王室の紋章仕事は工房単位でしか出せません。納入印を持つ工房に対して出すもので、個人には出せない決まりです」
「サンド家には、納入印がございます」
「取り消しました」
私は顔を上げた。
「今朝、王都の帳面から外しました。刺し手が家にいないと分かった以上、印を残しておくほうが問題になります。次に納められたものが誰の手か、こちらは保証できません」
「先方には」
「書面で参ります。明後日には届くでしょう」
「取り消しは、戻せるものですか」
「印は、工房の実体に対して出します。実体がなくなったものを、書面で戻すことはできません」
紙の束が板の上で少しずれた。ハーケ様がそれを揃える。
「サンド家の名は、今日の分の帳面には載っておりません」
窓の外で、荷車が二台続けて通っていった。
十年、その名で納めてきた。私の名ではない名で、私の手が納めてきた。名が消えるところを、私は見ていない。見ていないのに、消えたことだけは分かる。
悲しくはなかった。悲しむには、その名を自分のものだと思っていなければならない。
「あなたのお名前で登録するには、後見人の署名か、同業組合の推薦が要ります」
ハーケ様が言った。
「今日はそこまでです。考える時間を持ってください」
彼は写しを鞄に戻さず、板の上に置いたままにする。
「これは置いていきます。あなたの手の記録ですから」
外套の埃を払って、彼は出ていった。
扉が閉まってから、女将さんが帳場の椅子に腰を下ろした。
「ミレイユさん」
「はい」
「今の話でね、あんたが受け取っていない分がある」
「代金は、家に入っておりました」
「そうじゃない。十年分の手間賃を、あなたの口から言いなさい」
板の上の写しを見た。
三年分で、十七枚ある。三年でこれなら、十年では五十を超える。一枚に掛かった日数を、私は全部覚えている。覚えているのに、金額に直したことが一度もない。
「今すぐ言えなくてもいいよ。でも、数えなさい。数えないと、次に安く受ける」
「数えたら、どうなりますか」
「腹が立つ」
女将さんは笑わなかった。
「腹が立ったぶんだけ、値がまともになる。私は数えなかったから、十九年で受け取った額を今でも知らない」
女将さんは立ち上がって、帳場の帳面を開く。
私は写しを胸に抱えて、階段を上がった。
部屋の机に並べ直すと、板の上より広く見えた。三年分の花芯が、こちらを向いている。
王都の帳面から、サンドという家名が消えた。




