第4話 四分の間に、五針
ドランの家へ行く朝、私は三度着替えた。
姉さんが出ていってから、十六日が経っている。
誰もその話をしない。お父様は納入の期日のことばかり口にして、お母様は仕立て屋の寸法直しの話をした。私は二人のあいだで頷いていた。頷いていれば、話は進む。
姉さんの部屋は、三日目にお母様が片付けさせた。机と椅子だけが残って、あとは何もなくなった。窓際に枠が立てかけてあった場所に、壁の色が四角く濃く残っている。
私はその部屋に一度だけ入った。入って、すぐに出た。
卓の上には、姉さんが仕上げた三点がそのまま置いてある。掛け布が一枚と、袖口の飾りが二対。荷造りの手順を書いた紙が挟んであった。字は細かくて、包み方の順番と、紐の掛け方まで書いてある。
その紙を読んだとき、私は少し腹が立った。どうして最後まで、こんなに親切なのだろうと思った。
馬車の中で、お父様が言った。
「先方は、お前の手を買っている」
「はい」
「刺繍のできる嫁が欲しいと、はっきり仰った」
「はい」
「向こうで手を見せろと言われても、慌てるな。堂々としていればよい」
私は窓の外を見る。お父様は、私が刺せると思っている。思っているというより、思わないでいる。この十年、その二つの区別を、私も考えたことがなかった。
膝の上に、五番の針を六本入れた紙包みを乗せている。姉さんが分けてくれたものだ。お父様が姉さんから受け取って、そのまま私の部屋へ回した。包みの紙には、五番、とだけ書いてある。姉さんの字だった。
包みは薄い。針は六本しかない。
姉さんの針箱には、もっとたくさん入っていた。開けるといつも同じ音がした。
私はあの箱の中身を数えたことがない。数えられていたのは、たぶん姉さんだけだ。
ドランの屋敷は、王都の南の通りにあった。石の門の内側に馬車を入れて、そこから玄関まで少し歩く。玄関の柱に、緑の絹が巻いてあった。
門の脇に、荷を積んだ荷車が三台止まっていた。屋敷というより、働く場所の匂いがした。
フィリップ様が出迎えてくださる。
「よくお越しくださいました」
「こちらこそ」
私は膝を落として挨拶をした。この所作は、鏡の前で数えきれないほど練習してある。
通された部屋には、先客がいた。
背の高い方が窓際に立っていて、こちらを向く。ハーケ様だった。
「ご一緒とは伺っておりませんでしたが」
お父様の声が、少し高くなった。
「王室納入の目利きをお願いしました」
フィリップ様が言った。
「うちは織り屋です。刺繍の目は持っておりません。取引を始める前に、確かなところを見ていただきたい」
ハーケ様は会釈だけをする。
卓の上に、布が張られた枠が置いてあった。
白い絹だった。枠はもう張ってある。糸が数色、木の皿に分けて並べてある。
「コレット殿。お願いできますか」
フィリップ様が枠を私のほうへ押す。
「花をひとつ。中心まで刺していただければ」
部屋の中が静かになった。
「今、でございますか」
「はい。祖父の代からの習いでして。刺し手をお迎えするときは、必ず一度、手を見せていただくのです」
フィリップ様は笑っていた。
お父様が私を見た。頷いてほしいのだと分かる。私は頷いた。
椅子に座って、枠を膝に乗せた。袖が手首に当たる。三度目に選んだのは、いちばん細い袖の服だった。刺すのには向かない。
絹は張りが強い。指で押すと、跳ね返ってくる。姉さんの枠はもう少し柔らかかった気がするけれど、あれは布が違ったのかもしれない。
糸の皿から、赤を選んだ。
花を刺すなら赤である。中心は濃い色で、外へ行くほど淡くする。それは知っている。姉さんの手元を、何度も見ている。
見ていたのに、思い出せるのは色のことだけだった。順番も、力の入れ方も、糸をどこで止めるのかも、頭の中にない。皿の中の赤は三種類あった。どれが濃いのかを、光に当てて確かめる。針に糸を通す。
一度で入らなかった。二度目で入った。糸の端が少し毛羽立っていて、針の穴に当たると広がってしまう。舐めて細くしてから通した。
「糸は何本取りますか」
ハーケ様が訊いた。
「三本、でございます」
「その糸は六本撚りです。三本に割かれますか」
割く。糸を割く。姉さんが指で糸を分けていたのを見たことがある。分け方は見ていない。
「二本で刺します」
私はそう言う。
ハーケ様は何も言わなかった。
布に針を入れた。
針が絹を通る音は、乾いている。この部屋は音がよく聞こえる。窓が閉まっていて、外の荷車の音が遠い。
一針目。二針目。三針目で、音が変わった。
引っかかっている。引くと、糸の表面が白く立つ。
背後で、誰かが椅子の上で座り直した。ハーケ様は動かない。フィリップ様も動かない。この部屋で音を立てているのは、私の手だけだった。
姉さんの机には、いつも黄色い塊が置いてあった。角が擦り減って、真ん中がくぼんでいるもの。あれが何なのか、私は訊いたことがない。
指で糸をしごいてみた。毛羽は寝ない。
四針目。糸が痩せている。五針目で、音が止んだ。
糸が切れた音は、しなかった。切れるときは、音がしないのだと初めて知った。
切れた糸端が布の上に残っている。引き抜こうとして、裏の目まで一緒に引いた。布が寄る。
「もう一度、糸を取り直しても」
「どうぞ」
私は糸を取り直した。今度は短めに取った。短く取れば切れないと、どこかで聞いた気がする。
刺し始めると、また同じところで引っかかった。
指が汗ばんでいる。糸を持つと、そこからまた毛羽が立つ。持ち方を変えてみる。変えると、今度は針が布に対して寝てしまって、目が長くなった。
長い目と短い目が並ぶと、花の輪郭が波を打つ。姉さんの刺したものは、どこを見ても同じ長さだった。同じにする方法を、私は一度も訊いていない。
窓の外で鳥が鳴いた。部屋の中では誰も何も言わない。
ハーケ様が卓のそばへ来た。
外套の内から、目盛りの入った細い定規を出した。私の刺した目の脇に、それを置く。
「四分の間に、五針」
数えられている。私の目が、数えられている。
姉さんの目は、いつも数えられる側にあった。年に二度、ハーケ様がいらして、定規を当てて、九針だとか八針だとか仰る。あのとき褒められていたのは、卓の前に立っていた私だった。
数字を受け取るのは私で、数字を作るのは姉さんだった。その形を、私は十年、当たり前だと思ってきた。
「もう少し、詰められますか」
「詰めます」
私は針を速く動かす。速くすると、目が斜めになる。斜めになった目は、あとから直せない。直し方も、私は知らない。
六針目で糸がまた切れた。
「コレット殿」
フィリップ様が呼んだ。
「一日にどれくらいお刺しになると、前に伺いましたね」
「日によりますわ」
声が高くなった。自分でも分かった。
「根を詰めると、目が」
「四分に五針の手で、去年の納入は九点でした」
ハーケ様が言った。声は大きくない。大きくないのに、部屋の端まで届いた。
「四分の間に五針では、納入の手ではありません」
お父様が立ち上がった。
「今日は、その、慣れない布でございますので。うちの絹とは張りが違う。それに娘は、朝から気を張っておりまして」
「男爵。糸を割かれなかったのは、慣れの話ではありません」
「いや、しかし」
「蜜蝋も引かれなかった」
蜜蝋。
黄色い塊のことだ。
あれは、蜜蝋だったのか。
お父様は言葉を続けた。祖父の代からの型があるとか、うちは代々そういう家であるとか、聞いたことのある話をいくつか並べた。並べているあいだ、お父様は一度も姉さんの名を出さない。
フィリップ様が、卓の上の枠を自分のほうへ引き寄せた。私の刺した五針を、じっと見ている。それから顔を上げた。
「サンド男爵。三年前の薄紫の一枚も、去年の九点も、この家の名で控えに載っております」
「はい」
「祖父の代からの習いだと申し上げましたが、もうひとつ理由がございます。うちは、刺し手と婚姻するつもりでおりました」
「フィリップ様」
「実演していただいたのは、どなたの技ですか」
お父様の口が動く。動いて、音にならなかった。
部屋の中の全員が、私を見ていた。
ハーケ様も、フィリップ様も、お父様も。
言えば、この縁組みは消える。言わなければ、来月にはこの家に入って、毎年、決まった数を納めることになる。納められない数を。
私は針を枠の縁に刺した。
「姉です」
自分の声が、思ったより低く出る。
「刺していたのは、姉です。十年、ぜんぶ」
誰も何も言わなかった。フィリップ様が息を吐く。お父様が椅子に手をついた。
「十年」
フィリップ様が繰り返した。
「では、こちらがお迎えしようとしていたのは」
その先は言わなかった。
お父様が何か言おうとして、私の名を呼んだ。コレット、と。呼ばれても、続きが出てこないのが声で分かった。
私は、姉さんが今どこにいるのかを知らない。出ていく日に、行き先を訊かなかった。訊かなかったのは、その日の私が、姉さんはどこへも行かないと思っていたからだ。
ハーケ様だけが、定規を仕舞いながら小さく頷いた。探していたものを、やっと見つけたという頷き方だった。
私は枠の上の布を見た。
赤い糸が、五つぶんだけ布に乗っている。斜めに傾いて、間隔も揃っていない。切れた糸端が二本、表に出たままになっている。
四分の間に、私の針は五つしか進まなかった。




