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十年、妹の名前で刺繍を納めていました  作者: 九葉(くずは)


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4/10

第4話 四分の間に、五針

ドランの家へ行く朝、私は三度着替えた。


姉さんが出ていってから、十六日が経っている。


誰もその話をしない。お父様は納入の期日のことばかり口にして、お母様は仕立て屋の寸法直しの話をした。私は二人のあいだで頷いていた。頷いていれば、話は進む。


姉さんの部屋は、三日目にお母様が片付けさせた。机と椅子だけが残って、あとは何もなくなった。窓際に枠が立てかけてあった場所に、壁の色が四角く濃く残っている。


私はその部屋に一度だけ入った。入って、すぐに出た。


卓の上には、姉さんが仕上げた三点がそのまま置いてある。掛け布が一枚と、袖口の飾りが二対。荷造りの手順を書いた紙が挟んであった。字は細かくて、包み方の順番と、紐の掛け方まで書いてある。


その紙を読んだとき、私は少し腹が立った。どうして最後まで、こんなに親切なのだろうと思った。


馬車の中で、お父様が言った。


「先方は、お前の手を買っている」


「はい」


「刺繍のできる嫁が欲しいと、はっきり仰った」


「はい」


「向こうで手を見せろと言われても、慌てるな。堂々としていればよい」


私は窓の外を見る。お父様は、私が刺せると思っている。思っているというより、思わないでいる。この十年、その二つの区別を、私も考えたことがなかった。


膝の上に、五番の針を六本入れた紙包みを乗せている。姉さんが分けてくれたものだ。お父様が姉さんから受け取って、そのまま私の部屋へ回した。包みの紙には、五番、とだけ書いてある。姉さんの字だった。


包みは薄い。針は六本しかない。


姉さんの針箱には、もっとたくさん入っていた。開けるといつも同じ音がした。


私はあの箱の中身を数えたことがない。数えられていたのは、たぶん姉さんだけだ。


ドランの屋敷は、王都の南の通りにあった。石の門の内側に馬車を入れて、そこから玄関まで少し歩く。玄関の柱に、緑の絹が巻いてあった。


門の脇に、荷を積んだ荷車が三台止まっていた。屋敷というより、働く場所の匂いがした。


フィリップ様が出迎えてくださる。


「よくお越しくださいました」


「こちらこそ」


私は膝を落として挨拶をした。この所作は、鏡の前で数えきれないほど練習してある。


通された部屋には、先客がいた。


背の高い方が窓際に立っていて、こちらを向く。ハーケ様だった。


「ご一緒とは伺っておりませんでしたが」


お父様の声が、少し高くなった。


「王室納入の目利きをお願いしました」


フィリップ様が言った。


「うちは織り屋です。刺繍の目は持っておりません。取引を始める前に、確かなところを見ていただきたい」


ハーケ様は会釈だけをする。


卓の上に、布が張られた枠が置いてあった。


白い絹だった。枠はもう張ってある。糸が数色、木の皿に分けて並べてある。


「コレット殿。お願いできますか」


フィリップ様が枠を私のほうへ押す。


「花をひとつ。中心まで刺していただければ」


部屋の中が静かになった。


「今、でございますか」


「はい。祖父の代からの習いでして。刺し手をお迎えするときは、必ず一度、手を見せていただくのです」


フィリップ様は笑っていた。


お父様が私を見た。頷いてほしいのだと分かる。私は頷いた。


椅子に座って、枠を膝に乗せた。袖が手首に当たる。三度目に選んだのは、いちばん細い袖の服だった。刺すのには向かない。


絹は張りが強い。指で押すと、跳ね返ってくる。姉さんの枠はもう少し柔らかかった気がするけれど、あれは布が違ったのかもしれない。


糸の皿から、赤を選んだ。


花を刺すなら赤である。中心は濃い色で、外へ行くほど淡くする。それは知っている。姉さんの手元を、何度も見ている。


見ていたのに、思い出せるのは色のことだけだった。順番も、力の入れ方も、糸をどこで止めるのかも、頭の中にない。皿の中の赤は三種類あった。どれが濃いのかを、光に当てて確かめる。針に糸を通す。


一度で入らなかった。二度目で入った。糸の端が少し毛羽立っていて、針の穴に当たると広がってしまう。舐めて細くしてから通した。


「糸は何本取りますか」


ハーケ様が訊いた。


「三本、でございます」


「その糸は六本撚りです。三本に割かれますか」


割く。糸を割く。姉さんが指で糸を分けていたのを見たことがある。分け方は見ていない。


「二本で刺します」


私はそう言う。


ハーケ様は何も言わなかった。


布に針を入れた。


針が絹を通る音は、乾いている。この部屋は音がよく聞こえる。窓が閉まっていて、外の荷車の音が遠い。


一針目。二針目。三針目で、音が変わった。


引っかかっている。引くと、糸の表面が白く立つ。


背後で、誰かが椅子の上で座り直した。ハーケ様は動かない。フィリップ様も動かない。この部屋で音を立てているのは、私の手だけだった。


姉さんの机には、いつも黄色い塊が置いてあった。角が擦り減って、真ん中がくぼんでいるもの。あれが何なのか、私は訊いたことがない。


指で糸をしごいてみた。毛羽は寝ない。


四針目。糸が痩せている。五針目で、音が止んだ。


糸が切れた音は、しなかった。切れるときは、音がしないのだと初めて知った。


切れた糸端が布の上に残っている。引き抜こうとして、裏の目まで一緒に引いた。布が寄る。


「もう一度、糸を取り直しても」


「どうぞ」


私は糸を取り直した。今度は短めに取った。短く取れば切れないと、どこかで聞いた気がする。


刺し始めると、また同じところで引っかかった。


指が汗ばんでいる。糸を持つと、そこからまた毛羽が立つ。持ち方を変えてみる。変えると、今度は針が布に対して寝てしまって、目が長くなった。


長い目と短い目が並ぶと、花の輪郭が波を打つ。姉さんの刺したものは、どこを見ても同じ長さだった。同じにする方法を、私は一度も訊いていない。


窓の外で鳥が鳴いた。部屋の中では誰も何も言わない。


ハーケ様が卓のそばへ来た。


外套の内から、目盛りの入った細い定規を出した。私の刺した目の脇に、それを置く。


「四分の間に、五針」


数えられている。私の目が、数えられている。


姉さんの目は、いつも数えられる側にあった。年に二度、ハーケ様がいらして、定規を当てて、九針だとか八針だとか仰る。あのとき褒められていたのは、卓の前に立っていた私だった。


数字を受け取るのは私で、数字を作るのは姉さんだった。その形を、私は十年、当たり前だと思ってきた。


「もう少し、詰められますか」


「詰めます」


私は針を速く動かす。速くすると、目が斜めになる。斜めになった目は、あとから直せない。直し方も、私は知らない。


六針目で糸がまた切れた。


「コレット殿」


フィリップ様が呼んだ。


「一日にどれくらいお刺しになると、前に伺いましたね」


「日によりますわ」


声が高くなった。自分でも分かった。


「根を詰めると、目が」


「四分に五針の手で、去年の納入は九点でした」


ハーケ様が言った。声は大きくない。大きくないのに、部屋の端まで届いた。


「四分の間に五針では、納入の手ではありません」


お父様が立ち上がった。


「今日は、その、慣れない布でございますので。うちの絹とは張りが違う。それに娘は、朝から気を張っておりまして」


「男爵。糸を割かれなかったのは、慣れの話ではありません」


「いや、しかし」


「蜜蝋も引かれなかった」


蜜蝋。


黄色い塊のことだ。


あれは、蜜蝋だったのか。


お父様は言葉を続けた。祖父の代からの型があるとか、うちは代々そういう家であるとか、聞いたことのある話をいくつか並べた。並べているあいだ、お父様は一度も姉さんの名を出さない。


フィリップ様が、卓の上の枠を自分のほうへ引き寄せた。私の刺した五針を、じっと見ている。それから顔を上げた。


「サンド男爵。三年前の薄紫の一枚も、去年の九点も、この家の名で控えに載っております」


「はい」


「祖父の代からの習いだと申し上げましたが、もうひとつ理由がございます。うちは、刺し手と婚姻するつもりでおりました」


「フィリップ様」


「実演していただいたのは、どなたの技ですか」


お父様の口が動く。動いて、音にならなかった。


部屋の中の全員が、私を見ていた。


ハーケ様も、フィリップ様も、お父様も。


言えば、この縁組みは消える。言わなければ、来月にはこの家に入って、毎年、決まった数を納めることになる。納められない数を。


私は針を枠の縁に刺した。


「姉です」


自分の声が、思ったより低く出る。


「刺していたのは、姉です。十年、ぜんぶ」


誰も何も言わなかった。フィリップ様が息を吐く。お父様が椅子に手をついた。


「十年」


フィリップ様が繰り返した。


「では、こちらがお迎えしようとしていたのは」


その先は言わなかった。


お父様が何か言おうとして、私の名を呼んだ。コレット、と。呼ばれても、続きが出てこないのが声で分かった。


私は、姉さんが今どこにいるのかを知らない。出ていく日に、行き先を訊かなかった。訊かなかったのは、その日の私が、姉さんはどこへも行かないと思っていたからだ。


ハーケ様だけが、定規を仕舞いながら小さく頷いた。探していたものを、やっと見つけたという頷き方だった。


私は枠の上の布を見た。


赤い糸が、五つぶんだけ布に乗っている。斜めに傾いて、間隔も揃っていない。切れた糸端が二本、表に出たままになっている。


四分の間に、私の針は五つしか進まなかった。

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