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十年、妹の名前で刺繍を納めていました  作者: 九葉(くずは)


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3/10

第3話 下絵は置いていきません

父が私の部屋に入ってきたのは、次の週の朝だった。


戸を叩く音がして、返事をする前に開いた。この家で私の部屋の戸を叩く者はいない。


「針箱を出しなさい」


父は入り口に立ったまま言った。


「コレットが使う。ドランの家で、道具がないでは恥をかく」


私は机の前から動かなかった。針箱は机の右手、いつもの位置にある。黒く塗った木の蓋に、掛け金がひとつ。


「下絵帳も一緒に持たせる。向こうで意匠を訊かれたときに、手ぶらでは困る」


ドランの家は絹織物の元締めである。嫁いだ先で意匠を訊かれるのは、一度や二度では済まない。父はそこまでは考えている。訊かれた先で何をどう答えるかまでは、考えていない。


十二の年に、最初の納入品を仕上げた。父はそれをコレットの作として出した。九つだった妹は、その布を見たこともなかったはずである。私はそのことを、この十年、誰にも言っていない。


「下絵帳は」


言いかけて、いったん止めた。


「お父様、針箱の針は、私が買ったものです」


「家の金でだろう」


「材料費として頂いた分は、糸と布と蝋です。針は、別に」


父の眉が動く。話が長くなる予感に対する動き方だった。


私は針箱を開けた。


蓋の内側に、十年分の癖がついている。針が当たる位置だけ塗りが薄い。


針は号数ごとに刺してある。太いものから細いものへ、左から順に。


「三番が四本。五番が六本。七番が九本。九番が三本」


指で押さえながら、順に言った。


「五番の三本は、十四の年に隣の領の市で買いました。手打ちの針は折れません。折れないので、十年使えます」


「そんな話は聞いていない」


「お話ししたことがないからです」


父は黙った。廊下の窓から入る光が、針箱の縁で切れている。細い針は影に入ると見えなくなるので、私はいつも窓を背にして座る。


「七番の九本のうち、二本は先が丸くなっています。研ぎに出せば戻りますが、研ぐと少し細くなります。細くなった針は、絹の目には向きます」


「九番は、去年の秋に一本足しました。祭壇布の下描きに要ると思ったので。値は、糸の三かせ分でした」


数字を並べていくと、父の視線が針箱から外れていく。数字に弱い人だと知っている。金額の話になると、父はいつも母か私に紙を渡す。


「とにかく、コレットが使うのだ」


「五番を六本、お持ちください」


私はそう言って、五番だけを別の紙に包んだ。


「三番と七番は、太さが合いません。コレットの手には五番が合います。糸を一度に何本取るかで、針は変わりますから」


父は包みを受け取る。中身を確かめる様子はなかった。


「下絵帳も」


「下絵は置いていきません。私の手が引いたものですから」


短く言った。


父の顔が、この十年で一番はっきりと私のほうを向く。


「お前、家のものを」


「王都の控えには、工房の名で載っております。納入印は、お父様のお名前で登録されているものですから、家のものです。下絵帳は、登録の対象ではありません」


「誰がそんなことを」


「ハーケ様が、控えの様式のお話をなさったときに」


父はしばらく何も言わなかった。針の包みを持った手が、上下に一度だけ動いた。中身の値打ちを、今ここで初めて量っている。


「話は終わりだ」


出ていく前に、父の目が机の上の下絵帳へ一度だけ戻った。それから廊下へ出て、階段を降りていった。降りる足音が途中で止まり、また降りた。


その日の午後、荷を作る。


枠を外して布に包んだ。木枠は組み直せるので、四本に分けて紐で縛る。絹は外して丸めた。拡大鏡は布を三重に巻いた。落とすと割れる。


針箱は木箱の底に入れた。上に下絵帳を置き、その上に着替えを詰めた。


糸は持たない。糸はどこでも買える。


仕上がった品は、三点とも卓の上に残した。掛け布と、袖口の飾りが二対。納入の期日は来月で、荷造りの手順は書いて挟んである。手順どおりに包めば、誰が包んでも同じに届く。


そこまでは、置いていく。


書きかけの覚え書きを綴じ直して、箱の隅に立てた。色番と本数の控えである。十年分あるので、綴りは三冊になった。


昼を過ぎても、誰も部屋に来ない。


夕方、玄関を出るときに、母が客間から声だけをかけた。


「気をつけていきなさい」


顔は出さなかった。妹の部屋の戸は閉まったままだった。中で人が動く音はしている。


門を出て、坂を下りる。荷は思っていたより重い。持ち手のところで指に食い込む。途中で二度、木箱を地面に下ろして持ち直した。


乗合馬車は村の広場から出る。王都まで一日半。


広場に着いたとき、日はまだ落ちていなかった。荷を足元に置いて待つあいだ、村の女が二人、私の横を通り過ぎた。挨拶を返す。どちらもサンドの上の娘の顔を知らない。十年、私は市と屋敷のあいだしか歩いていない。


御者が荷を見て、料金を余分に取ると言った。私は払った。


馬車の中で、膝の上に木箱を乗せて座った。窓の外で、麦の刈り跡が過ぎていく。刈り跡は季節の目盛りである。この目盛りで、私はいつも納期を測ってきた。


同じ馬車に、乳飲み子を抱えた女が乗っていた。女は子が泣くたびに小さく揺すった。私は膝の上の箱を、同じ間隔で押さえている。


夜は途中の宿場で止まり、翌日の昼過ぎに王都へ入った。


門を抜けると、道の幅が変わる。石畳の音が変わる。人の声の高さも違った。


通りに面した店の窓に、刺繍の見本が掛かっていた。三軒とも、窓に顔を寄せて見た。四分の間は七針ほどである。売り物としては足りている。


宿は、市の東の通りにあった。二階建てで、看板の字が消えかかっている。扉を押した。


帳場に、白髪を後ろでまとめた女がいた。年は六十を越えているだろう。私が入っても顔を上げず、帳面に何か書いていた。


「一人ですか」


「はい。しばらく、月ぎめで」


女が顔を上げる。それから私の手元を見て、次に木箱を見た。


「その荷、自分で持ってきたのかい」


「はい」


「二階まで自分で運べるかい」


「運びます」


女は帳場を出て、木箱の縁に手をかけた。持ち上げずに、揺するだけ。


「重いね。着替えの重さじゃない」


「道具が入っています」


「枠と、拡大鏡と、あとは針だね。角の当たり方で分かる」


私は答えなかった。


「その荷を一人で持てるなら、刺し手ですね」


女が言う。


「アニェスといいます。この宿の主人です」


「ミレイユです。ミレイユ・サンドと申します」


女は名を聞いても、表情を変えなかった。


「二階の奥をお使いなさい。北向きだけど、窓が大きい。昼の光が長く入る」


そう言って、帳場の鍵を取る。


「食事は朝と夜。洗い場は裏。灯りの油は自分で買っておくれ」


「はい」


「夜に刺すのはおやめ。目をやられる」


そこまで言って、女はいったん口を閉じた。


「若い頃、工房にいたんですよ」


「刺していらしたのですか」


「十九年ね」


女は鍵を私の手に置く。


「名前は、一度も載らなかった」


それだけ言って、帳場へ戻っていった。


階段の下で、女の書きものの音がまた始まった。私はしばらく鍵を握ったまま立っている。


二階の部屋は、思っていたより広かった。窓の下に机がある。机の板は古いが、平らだった。


私は木箱を机の脇に置いた。


蓋を開けて、枠の四本を取り出す。拡大鏡を布から出して、机の端に置いた。針箱を出して、その隣に置く。


それだけで、机の上は仕事の形になった。


箱の底に手を入れて、下絵帳を取り出した。表紙の紐を結び直す。三度目の結び直しである。


窓を開けると、下の通りから荷車の音が上がってきた。北向きの窓の光は、思っていたより白い。この光なら、色を間違えない。


空になった木箱を持ち上げてみた。軽い。


箱の重さは、十年で私が増やした分だった。

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