第2話 この花芯を刺したのは、どなたですか
買付方が来る日は、朝のうちに客間の卓を空ける。
父は前の晩から落ち着かなかった。宮廷の装身具と織物を買い付ける役人が、年に二度、王都からこの領まで下りてくる。三年前からその役目はハーケという人に代わっている。
「ハーケ様は、面倒な検分をなさる方だ」
父は誰にともなく言った。
「だが値は良い。前の方より良い」
私は納入する三点を、順に卓へ並べた。掛け布が一枚と、袖口の飾りが二対。掛け布はドラン家へ行くものとは別の意匠で、こちらは王都の商会へ回る。
前の晩に薄紙で包み直してある。たとう紙の外側に寸法を書いた札を付け、糸の色番と、使った本数を裏に控えた。控えは私の手元にしか残らない。誰も見ないが、次に同じ色を頼まれたときに要る。
「コレット、ご挨拶はあなたからね」
母が言った。
「ミレイユは、お茶の頃に出てらっしゃい」
はい、と答えた。
ハーケ様が通されたのは昼過ぎだった。背の高い人で、手が大きい。外套を着たまま、卓の前に立って、しばらく何も言わずに三点を見ていた。
それから袖口の飾りを一対だけ取り上げ、窓のほうへ向ける。
「これは去年より詰めていますね」
「はい」
答えたのは父だ。ハーケ様は飾りの縁を指で押さえ、外套の内から目盛りの入った細い定規を出して布に当てた。それから小さな拡大鏡を目の高さに持ち上げる。
もう一対のほうも同じように当てた。左右を並べ、上下を入れ替えて、また並べた。
「対の狂いがない」
「はい」
父が答えた。
「左右で目数を合わせておりますので」
合わせているのは針目の数ではない。糸の引きの強さである。同じ目数でも、引きが違うと片方だけ布が寄る。二対を同時に刺さず、片方を仕上げてから、その布の寄り方を見て次を刺す。
「四分の間に、九針」
低い声だった。数えていたのだと分かるのに、少しかかった。
「去年は八でした。八でも納入には足ります」
「詰めたほうがよろしいのでしょうか」
コレットが訊く。ハーケ様は拡大鏡を下ろした。
「詰めれば良いというものでもありません。九で保たせるのが難しい。糸が痩せますから」
私は卓から離れた位置に立っている。盆を持っていない日は、手の置き場に困る。
コレットが父の隣で背筋を伸ばした。今日は朝から髪を結い直している。
「詰めますと、目が細かくなりますでしょう。そのぶん、時間も」
「そうでしょうね」
ハーケ様は定規を仕舞い、掛け布に移った。今度は端から中央へ、布の上を手のひらで一度なでる。それから四隅を順に持ち上げ、光を透かした。
「渡りが短い」
独り言に近い声だった。彼は掛け布を裏返し、縁の始末を親指でたどった。角のところで手を止め、戻ってもう一度たどる。
「角は三度折ってありますね」
「はい」
父の返事は、いつも同じ速さで出る。中身がないぶん速い。
「引っ掛からない仕上げです。使う人のことを考えている」
コレットが微笑んだ。
ハーケ様の指が、掛け布の中央で止まった。
花の中心だった。
指の腹が花芯の上を、二度なぞる。一度目は速く、二度目はゆっくり。段を数えている手つきだった。
「三段」
そう言って、彼は顔を上げた。
「三年前から、サンド家の作を買っています。花芯だけが、いつも三段です」
父が何か言おうとした。ハーケ様のほうが早い。
「この花芯を刺したのは、どなたですか」
部屋の中の音が、いっとき止まったように感じられた。父の口が半分開いたまま止まっている。母は茶器の位置を直す手を動かしたが、直っていなかった。
答えたのはコレットだ。
「姉さんが少し手伝ってくれただけです」
父が続けて頷いた。頷きの速さが、言葉より正直だった。
「そうなのです。長女は手先が器用でして、細かいところを少し」
ハーケ様は花芯から指を離さない。
「少し」
「ええ、少し」
「では、糸の始末はどちらが」
「わたくしが」
コレットが答える。
「蝋は、どのくらい引かれますか」
コレットの目が父のほうへ動いた。半分ほど動いて、戻ってくる。
「そのときによります」
ハーケ様は何も言わなかった。花芯から指を離し、掛け布を元の位置へ戻した。
「三点とも受けます。金額は前回と同じで」
父の肩が下りる。
「ありがとう存じます。年内には、祭壇布を一枚お納めできるかと」
「祭壇布」
ハーケ様が父を見た。
「寸法は」
「四尺に六尺ほどを」
「年内に、ですか」
「ええ」
「どなたが刺されても、その寸法は年内には上がりません」
父の返事が遅れる。遅れたぶんを、コレットが埋めた。
「わたくし、根を詰めますので」
ハーケ様はそれには答えず、外套の袖を整えた。
私は茶器を下げるために客間を出る。
「長女は納入には出しておりませんので、控えのほうは今まで通りで」
父の声だった。
「ええ、控えは工房の名で結構です」
ハーケ様の声には、抑揚がなかった。
「サンド男爵。ひとつ伺いますが、三年前の秋にお納めいただいた薄紫の一枚は、どなたの手でしたか」
「三年前」
「花芯が三段でした」
父が笑う。笑って、それから娘の話をした。娘は昔から手が早く、そういう細かいところが好きで、と。
「そうですか」
ハーケ様はそれ以上訊かなかった。
私は盆を持ったまま、台所まで歩いた。器を流しに置いて、水を張る。手が濡れて、爪の際の黄色が濃く見えた。
指が冷えると針が持ちにくくなるので、冬は湯を使う。今日は湯を沸かす気にならなかった。
少し。
十年を、その二文字に入れて渡せる人がこの家にはいる。渡された人が、それを受け取った顔をしている。
腹は立たなかった。私はコレットに、あの場で本当のことを言う人であってほしいと思ったことがない。
それでも、水を止める手が少し遅れた。
自室に戻って、扉を閉めた。
机の上に下絵帳がある。表紙の紐は擦り切れて、二度結び直してある。十二の年から使っていて、意匠は全部この中にある。花芯の三段も、最初はこの帳面の余白に書いた覚え書きだった。
前のほうの頁は、線が固い。定規で引いた蔓は途中で折れて、花弁の幅が揃っていない。そこから先は、失敗した意匠の脇に小さく理由が書いてある。糸が浮く。目が透ける。裏が引きつる。
十年分の理由が、この一冊にある。
最後の一枚をめくる。
ドラン家に納める祭壇布の下絵だった。まだ半分しか引いていない。中央に置く花の輪郭と、そこから外へ広がる蔓の線。花芯は空けてある。空けたところに、いつも最後に段を決める。
この一枚を仕上げれば、控えにはまた工房の名だけが載る。
私は紙の端に指をかけた。
破る音は、思っていたより小さかった。紙は縦の目に沿って裂ける。半分に、それからもう半分に。四つになった紙を机の上に重ねて、揃えた。
揃えてから、屑入れに落とした。
階下で扉の開く音がした。ハーケ様が帰る。
私は階段を降りた。玄関の手前で、父とハーケ様が納入控えの綴りを間にして立っている。父が頁を開いて、去年の分を見せていた。
「よく整理されています」
ハーケ様は綴りの様式に目を通していた。日付、品目、寸法、金額、工房の名。
「刺し手の欄は、置かれないのですね」
「刺し手」
父が繰り返した。
「その、家で刺しておりますので」
「どちらの控えも、この様式です。王都の側でも」
ハーケ様は綴りを父に返す。それから外套の襟を直した。
戸口で、彼は私に気づいた。気づいて、少しだけ動きを止める。
「サンド殿」
「はい」
呼ばれ方が、家の名だった。この家には、その名の者が四人いる。
「良い仕上げでした」
彼は馬車には乗らず、外に出て、御者に何か言った。彼は外套の内へ手を入れる前に、自分の指先を一度見る。花芯に触れていた指だった。
それから小さな帳面を出し、戸口の柱に押し当てるようにして立った。
指が動いている。書きつけている。
私は玄関の内側から、その背中を見ていた。父はもう客間へ戻っている。
買付方は帳面を開いて、花芯を刺したのは誰かと書き入れた。




