第1話 これでもう、お前の手は要らないな
私の名前は、その布のどこにも縫い込まれていない。
夫人の指が花芯の上で止まっている。爪の先が糸の山をなぞり、返し縫いの段を数えていた。三段ある。他の刺し手なら二段で足りる。
「まあ、この花の中心のところ」
「ご覧ください。これが娘の手でございます」
父の声が、布の向こうから来る。卓に広げられているのは、三日前の夜に私が仕上げた掛け布だった。
夫人の指は、まだ花芯から離れない。
私は茶器の盆を持って、二歩下がった位置に立っている。
父は花芯を指でさして、意匠の由来のようなことを言った。聞いたことのない説明だった。
コレットが夫人の隣で微笑んでいる。
「妹御が、これを」
「ええ」
父の返事は短い。短いほど品が良く聞こえると思っている。
夫人の視線が花芯から離れ、コレットの顔へ移り、そのまま卓の向こうへ通り過ぎていった。私のところで止まらない。
十年、この家から王都へ納めてきた刺繍は、すべてコレットの名で出ている。
「娘は幼い頃から針を持たせておりまして」
父が言った。
「本当に、家中で一番の器用者でございます」
コレットが小さく肩をすくめた。褒められ慣れた者の、ちょうどよい照れ方だった。夫人が掛け布の縁を返し、裏側を確かめる。裏を見る客は多くない。
裏の渡り糸は三分の一寸を超えないように渡してある。縫い終わりの糸端は、必ず表から見えない位置で始末する。
「裏まで、これは」
夫人が言葉を切った。それから顔を上げてコレットを見た。
「お嬢様は、一日にどれくらいお刺しになるの」
コレットの答えが半拍遅れる。
「日によりますわ。根を詰めると、目が」
「そうでしょうね。目を悪くなさる方が多いと聞きます」
夫人が納得した顔になった。答えになっていない返事でも、間の取り方が良ければ答えに見える。
「糸はどちらのものをお使いになるの」
「王都のお店のものですわ」
父が銘柄を補った。この掛け布に使った糸は、隣の領の市で買ったものだ。王都の店の糸は撚りが強くて、この意匠には向かない。私は盆の縁を持ち直しただけだった。
夫人が帳面を出して、何かを書きつける。
「控えさせていただきますわ。お名前を」
「サンドで結構でございます」
父が答えた。夫人の筆が止まらずに動いた。家の名だけで足りる。
母が茶の支度をこちらへ促した。私は盆を持ち直す。
「ミレイユ、お茶を持ってきてくれる。あとは私たちで話しますから」
穏やかな声だった。命じる形にはなっていない。それでも、私は廊下へ出る。
扉は完全には閉まらない。この家の建て付けは古い。
台所で湯を沸かし直しながら、温度を計った。指の腹を器の腹に当てる。私の指先は、爪の際のあたりが薄く黄色い。蜜蝋の色だ。麻の糸は刺している途中で毛羽立ち、痩せ細って切れる。軽く蝋を引いておくと持つ。付けすぎると蝋が表面に乗って毛羽が消え、仕上がりが別物になるので、量は指で覚えるしかない。
十年かけて覚えた量が、この指の色である。
葉を蒸らす間、窓の外を見た。中庭の桶に、洗った絹が張ってある。明日には乾く。乾く日から逆算して、私の手はいつも季節より先に動く。
廊下を戻ると、話し声が扉の隙間から出ていた。
「工房をお持ちなのですか」
「いえ、家で。娘の仕事でございますから」
「まあ、それでは名も」
「王都の控えには、サンドの名で載っております」
母の声が続いた。上の娘は体が弱くて、と言っている。私は盆を持ったまま、廊下の壁際で待った。話が終わるまで入らないのが、この家の作法だった。
体が弱いという話を、私は自分の口で誰かに言ったことがない。
「ドラン様のお式には、何か新しく仕立てられるのでしょう」
「祭壇布を一枚、と考えております。年内には」
父の声だった。年内。私は廊下の壁に背を預けたまま、日数を数えた。祭壇布は寸法が大きい。下絵から数えて、目を詰めて刺せば、三月と少し。詰めなければ届かない。
盆の縁が指に食い込む。器が四つ乗っている。四つのうち、私の分はない。
夫人が帰ったのは日の傾く頃だった。玄関から馬車の音が遠ざかると、家の中の空気が一段ゆるむ。父が客間に戻り、卓の掛け布をたたませた。たたむのは私の役目だ。折り目が布の目に沿うように、端から順に合わせていく。目を斜めに折ると、二度と元の面には戻らない。
「決まったぞ」
父が言った。声が客間の天井に届くくらいの大きさだった。
「ドランのご子息だ。正式に、来月」
コレットが立ち上がった。母が両手でその肩を包む。
「よかったわね。本当に、よかった」
「絹織物の元締めだ。うちの格には過ぎる縁組みだが、先方はコレットの手を買っている。刺繍のできる嫁が欲しいと、はっきり仰った」
父は棚から納入控えの綴りを下ろし、卓に置いた。表紙は擦れて角が丸い。十年分をまとめてある。
「三年前からの納入がここに全部ある。この数字があったから話が来た」
私は布をたたむ手を止めなかった。綴りの様式は知っている。日付、品目、寸法、金額、そして工房の名。欄はそれだけだ。誰の手が刺したかを書く欄は、最初から作られていない。
父が綴りを繰った。紙の音が乾いている。
「一昨年の秋が七点。去年が九点。金額はこの通りだ」
「まあ、そんなに」
母が覗き込んだ。母がこの綴りを見るのは初めてではないはずだが、金額のところで毎回同じ声を出す。
「今年の分は、材料費を引いても十分でございましたでしょう」
母が言った。父が頷く。
私が受け取ってきたのは、その材料費だけだ。糸と針と蝋の代金。市で払った額を紙に書いて渡すと、同じ額が戻ってくる。手間を書く欄は、渡す紙のほうにも作られていない。
「ドラン家には、これから毎年、決まった数を納める」
「コレットが」
母が確かめるように言った。
「コレットの名で納める」
父が答えた。それから顔を上げ、私を見た。
十年で、父が私の目をまっすぐ見たのは数えるほどだ。
「ミレイユ」
「はい」
「これでもう、お前の手は要らないな」
言い終えた父は、卓の綴りに指を戻した。片付いた仕事の項目をひとつ消すときの、軽い息の抜き方だった。
窓の外で、荷車が坂を下りていく音。それが遠ざかるまでのあいだ、誰も何も言わなかった。
「ミレイユも、これで肩の荷が下りるわね」
母が言う。労いの形をした声だった。私が下ろす荷の重さを、母は一度も持ったことがない。
母が茶器を片付けはじめた。話は済んだという合図である。
コレットが振り向いた。
「お父様、ドランのお家では、どんな意匠を好まれるのかしら」
「先方に伺えばよい」
「姉さん、あとで下絵を」
そこまで言って、コレットは言葉を止めた。止めた理由は分からない。分からないまま、彼女は母のほうへ体を向けた。
「お母様、明日は仕立て屋を呼びましょう」
礼を言われてはいない。十年分の何かが、この部屋で誰の口からも出なかった。
「掛け布は、どちらへ」
私が訊くと、父は綴りから顔を上げずに答えた。
「ドランへ持たせる。婚約の品だ。先方が気に入っていた」
三日前に仕上げたものだった。仕上げてから、どこへ行くのかを聞いたのは今が初めてである。
私は最後の折り目を合わせ、掛け布を卓の端に置いた。
「では、下がります」
「ああ」
父はもう綴りに目を戻していた。
自室の扉を閉めると、外の音が遠くなる。窓際に枠が立てかけてある。張りかけの絹が一枚、そのままになっていた。ドラン家の話が来る前に始めたもので、まだ花芯には届いていない。
私は椅子に座り、枠を膝に乗せた。
刺した目を親指と中指で挟み、目に沿ってなぞるようにしごく。布と糸がなじんで、面が落ち着く。しごきすぎると曲線で布が伸びるので、力の加減は指で覚える。これも十年で覚えた。
しばらく、その動作だけをしていた。
窓の外が暗くなって、絹の色が分からなくなった。夜に刺すと色を間違える。灯を近づければ刺せるが、翌朝に見ると必ず一段ずれている。私は日の落ちる前にやめる。今日は、日の落ちる前にもやめていた。
それから鋏を取り、糸を切った。針から抜いた糸を丸め、屑入れに落とす。
針山には針が立っている。号数ごとに並べてある。太いものから細いものへ、左から順に。手打ちの針は高い。折れないので長く使える。一本ずつ買い足して、十年でここまで増えた。
一本抜いて、針箱に納めた。
二本目を抜いた。
三本目、四本目。並べる位置を間違えないように、針箱の中でも号数の順に置いていく。細いものほど指の腹で探さないと見つからない。最後の一本を抜くと、針山は布の玉に戻った。何も刺さっていない布の玉は、ただの丸い布である。
蓋を閉めて、掛け金を下ろした。
枠を壁際へ戻した。張ったままの絹は、張力を抜かずに置くと縁から歪む。抜いておくべきだったが、そのまま立てかけた。
卓の端に、蜜蝋の塊があった。角が擦り減って、真ん中がくぼんでいる。十年、糸を引くたびに同じ場所を通したからだ。私は手のひらに乗せた。体温で表面がわずかに柔らかくなる。指先の黄色は、この塊から移った色だった。
暖炉の火は落としてある。熾が残っているだけだった。
私は蜜蝋を火床に落とした。
蜜蝋は、火の中で音を立てずに縮んだ。




