第9話 汐待島の夏祭り
祭りの日の朝、祖母の家にはいつもより少し早くから人の気配があった。
台所では澪子が朝食の片付けをしながら、何度も居間の方を見ている。畳の上には、昨日のうちに確認した提灯や手ぬぐい、紐の束、紙袋が並べられていた。
夏帆はリュックの中身をもう一度確認する。
水筒。
タオル。
スマホ。
モバイルバッテリー。
薄手の上着。
湊から送られてきた潮位表のスクリーンショット。
そして、澪子が用意してくれた小さな懐中電灯。
祭りの日が来た。
子どもの頃なら、きっとその言葉だけで胸が浮き立ったはずだった。
提灯が灯って、太鼓の音がして、人が集まって、屋台の匂いがして。
でも今の夏帆の胸にあるのは、楽しみだけではなかった。
夜の汐待島。
白灯台。
潮が引いた時だけ現れる、約束の浜。
祭りの日が来た。
潮が引く夜が、とうとう来てしまった。
「水、持ったが?」
澪子が台所から声をかける。
「持った」
「タオルは?」
「持った」
「懐中電灯は?」
「おばあちゃんが入れてくれたやつ、入れた」
「スマホは落としたら終わりなが。暗いところは、それ使うがよ」
「わかっとる」
「歩きやすい靴にしとる?」
「しとる」
「帰りの船、忘れんように」
「それもわかっとる」
夏帆が少しだけ笑って答えると、澪子は真面目な顔でこちらを見た。
「心配するがよ」
その声には、からかう余地がなかった。
夏帆はリュックのファスナーを閉める手を止める。
「うん」
短く答えると、澪子は少しだけ表情を緩めた。
それでも、その目はずっと落ち着かない。
夏帆が今夜、汐待島へ渡ること。
祭りを見に行くだけではないこと。
白灯台の方へ向かうつもりでいること。
澪子は、たぶん全部わかっている。
それでも、止めない。
止めない代わりに、水や懐中電灯や靴のことを何度も確かめる。
その優しさが、夏帆には少し苦しかった。
「おばあちゃん」
「なんね?」
「大丈夫やけん」
澪子はすぐには頷かなかった。
台所から居間へ来て、夏帆のリュックの肩紐を少し直す。
子どもの頃にも、こうしてもらったことがある気がした。
遠足の日か、祭りの日か、もう思い出せない。
「湊くんと行くんやね」
「うん」
「途中で別れたらいかんがよ」
「わかっとる」
「ほんとに?」
「ほんと」
澪子の手が、リュックの肩紐から離れた。
その手は、夏帆の記憶にあるより少し小さく、しわが増えていた。
「待つのは、ひとりやと長いけんね」
夏帆は、息を止めた。
「待つのは、ひとりやと長いけんね」
その言葉だけ、祭りの朝の空気から少し浮いて聞こえた。
「おばあちゃん?」
「……なんでもないが」
澪子はすぐにいつもの顔へ戻ろうとした。
けれど、戻りきれていなかった。
夏帆はその横顔を見つめる。
待つのは、ひとりだと長い。
それは、ただの一般論ではない気がした。
潮が引く夜に、来なかった人ながよ。
あの言葉が、胸の奥で重なる。
澪子は一人で待ったのだろうか。
白灯台の下で。
約束の浜で。
夏の夜、潮が引くのを見ながら。
聞きたかった。
でも、聞けなかった。
今日は、これ以上聞いてしまったら、出かけられなくなる気がした。
「ちゃんと帰ってくる」
夏帆が言うと、澪子はようやく少しだけ笑った。
「それが一番大事ながよ」
夕方、夏帆は八幡浜港へ向かった。
港へ近づくにつれて、いつもより人の声が増えていく。
臨時便の案内が出ているせいか、待合所の前には普段より多くの人がいた。小さな子どもを連れた家族、手荷物を持った年配の人、祭りの手伝いらしい紙袋を抱えた人、浴衣姿の女の子たち。
八幡浜側から汐待島へ渡る人たち。
汐待島へ帰る人たち。
祭りに向かう人たち。
同じ船に乗る人たちなのに、それぞれの理由が少しずつ違う。
夏帆はその中に立ち、リュックの肩紐を握り直した。
潮の匂い。
夕方の海。
臨時便を待つざわめき。
その全部が、いつもの港とは違って聞こえる。
「篠原さん」
声がして振り向くと、湊が待合所の横に立っていた。
黒いリュックを背負い、首からカメラを下げている。手にはスマホ。たぶん、また時刻表か潮位表を確認していたのだろう。
「早いね」
「少し」
「絶対だいぶ前からおったやろ」
「十分くらい」
「それ、少しなん?」
「俺の中では」
「湊くん基準、信用ならん」
夏帆が言うと、湊は少しだけ笑った。
緊張しているのはわかる。
でも、その笑い方は前より少し柔らかい。
「懐中電灯、持った?」
「持った」
「水は?」
「持った。おばあちゃんにも三回聞かれた」
「澪子さんらしい」
「湊くんも似たようなこと聞いとるよ」
「必要だから」
「はいはい」
夏帆はそう言いながらも、少し安心していた。
湊が細かく確認してくれることが、今はありがたい。
これから向かうのは、ただの祭りではない。
夜の島で、潮が引く時間を待つ。
考えるだけで、胸の奥がざわついた。
湊はスマホの画面を夏帆に見せた。
「帰りの便は、これ」
「二十一時台」
「うん。これを逃すと、次はない」
「絶対逃せんね」
「潮が戻る時間もあるから、危なかったら途中で戻る」
「うん」
二人は短く確認し合った。
昨日から何度も同じことを言っている。
でも、何度確認しても足りない気がした。
船着き場の方で、臨時便の案内が始まった。
人がゆっくり動き出す。
夏帆と湊も、その流れに続いた。
臨時便は、昼に乗った船と同じような小さな船だった。
けれど、空気はまったく違っていた。
夕方から夜へ変わる時間の船は、昼間の連絡船より少しだけ浮き立って見える。乗客もどこかそわそわしていて、子どもの声や、祭りの話をする人たちの声が船内に混ざっていた。
誰かの持つ紙袋から、焼き菓子の甘い匂いがした。浴衣の袖が座席の端で揺れて、子どもが窓の外を指差している。
夏帆は甲板に近い席に座った。
隣に湊が座る。
船がゆっくりと八幡浜港を離れると、港の灯りが少しずつ遠ざかっていった。
昼間は青かった海が、今は深い色に変わり始めている。
空の端には、まだわずかに夕焼けの名残があった。
その下で、海は静かに夜を受け入れているように見えた。
「昼の船と、全然違うね」
夏帆が言うと、湊は頷いた。
「うん」
「夜の海って、少し怖い」
「俺も」
「怖いってちゃんと言うんや」
「言わない方が怖いから」
「それ、ちょっとわかる」
風が甲板を抜けていく。
昼間より冷たい風だった。
夏帆はリュックの中の懐中電灯を思い出す。
澪子が持たせてくれた小さな明かり。
今はまだ使わない。
でも、今夜きっと必要になる。
昼の汐待島へ向かう船とは違う。
これは、潮が引く夜へ向かう船だった。
湊は、遠ざかる八幡浜の灯りを見ていた。
カメラには手を触れない。
夏帆は横目でそれを見る。
「撮らんの?」
「今は、いい」
「また?」
「この船の感じは、まだ見ておきたい」
「湊くん、それ多いね」
「自分でもそう思う」
湊は小さく笑った。
前なら、少し変な人だと思ったかもしれない。
けれど今は、その感覚が少しだけわかる。
写真にしてしまう前に、ただ見ておきたいものがある。
今この海を渡っていることも。
夜の島へ向かっていることも。
湊と並んで座っていることも。
その全部を、すぐに形にしないまま胸の中に置いておきたい気がした。
汐待港に着く頃には、空はほとんど夜になっていた。
船が速度を落とすと、港の灯りが見えてくる。
昼間は静かだった小さな港に、今日は提灯が吊られていた。
赤や橙の灯りが、夜の中でやわらかく浮かんでいる。
海面には、その灯りが細く揺れていた。
遠くから太鼓の音が聞こえる。
どん、と低く響いて、そのあとに人の笑い声が続く。
夏帆は船を降りた瞬間、思わず足を止めた。
「昼と全然違う」
「うん」
湊も隣で港を見ている。
「島が、少し起きてるみたい」
「いい表現だね」
「今の、褒めた?」
「うん」
「珍しい」
夏帆が言うと、湊は少し困ったように笑った。
夜の潮の匂いは、昼間よりも濃い。
港の待合所には人が集まり、臨時便で来た人たちを島の人たちが迎えていた。
子どもが走る。
浴衣の袖が揺れる。
祭りの案内をする声が聞こえる。
白灯台はまだ見えない。
けれど、夏帆はその方向をなんとなく意識してしまう。
祭りの灯りの向こう。
坂道の先。
夜の白灯台。
約束の浜。
今はまだ、考えないようにした。
まずは、この島の祭りを見る。
澪子と晴臣が、かつて見たかもしれない灯りを。
祭りの会場は、港から少し歩いたところにある小さな広場だった。
神社へ続く坂の手前に、提灯が何列も吊られている。
屋台は多くない。
かき氷、焼きそば、ラムネ、輪投げ、小さな焼き物の店。どれも手作り感があって、大きな町の祭りとは違う。
でも、ちゃんと祭りだった。
子どもたちが走り回り、年配の人たちが椅子に座って話している。太鼓の音が広場の真ん中から響き、提灯の灯りが人の顔をやわらかく照らしていた。
夏帆は、しばらく立ち止まってその光景を見た。
ここに、澪子がいた。
十七歳の澪子が。
晴臣と一緒に、この灯りを見たのかもしれない。
「これ、晴臣さんも撮ったんかな」
夏帆が呟くと、湊はカメラに手を添えた。
「撮ったと思う」
「灯り、綺麗やね」
「うん」
「撮る?」
「少しだけ」
「今日は撮るんや」
「祖父が見たものを、少し見てみたい」
湊はカメラを構えた。
シャッター音が、祭りのざわめきの中に小さく混ざる。
提灯。
海に映る灯り。
ラムネ瓶に反射する光。
太鼓を叩く手元。
風で揺れる薄い紙。
湊は人の顔を正面から撮るのではなく、灯りが触れているものを慎重に写していた。
その横顔を見ていると、夏帆の中で湊と晴臣が一瞬だけ重なる。
でも、すぐに離れた。
湊は湊だ。
晴臣の足跡をたどっているけれど、晴臣そのものではない。
それは、夏帆が澪子ではないのと同じだった。
提灯の灯りが、黒い海の上でゆらゆらとほどけていた。
湊が写真を確認していると、後ろから声をかけられた。
「あれ、澪ちゃんとこの孫なが?」
振り返ると、第5話で道を教えてくれた年配の女性が立っていた。
今日は薄い色の上着を羽織り、手には小さな紙皿を持っている。
「こんばんは」
夏帆が頭を下げると、女性はにこにこ笑った。
「祭りの日に来るとは、澪ちゃんも懐かしいやろ」
「おばあちゃん、昔も来てたんですよね」
「来よった来よった。祭りの日は、よう走り回りよったよ」
「おばあちゃんが?」
「そうよ。今は落ち着いとるけど、昔は気の強い子でねぇ」
夏帆は思わず笑いそうになった。
気の強い澪子。
想像できるような、できないような。
「東京の写真の子も、一緒にいたんですか」
湊が静かに聞いた。
女性は湊を見て、少し目を細める。
「ああ、あの子ね。祭りの日にもおったと思うよ。カメラ持って、あっちこっち撮りよった」
「灯台の方にも?」
夏帆が聞くと、女性は少し首を傾げた。
「さあねぇ。若い子らは、すぐ人のおらん方へ行きたがるけん」
冗談めかした言い方だった。
けれど、夏帆の胸は小さく鳴った。
人のいない方。
祭りの灯りから離れた先。
白灯台へ続く道。
「澪ちゃん、あの子に島を見せよったんやろうね」
女性は懐かしそうに言った。
「港も、神社も、灯台も。何もない島やけど、あの子が何でも珍しがるけん、澪ちゃんも嬉しそうやった」
夏帆は言葉を失った。
嬉しそうだった。
その一言だけで、祖母の十七歳の夏が少しだけ色を持った気がした。
澪子はただ待たされただけの人ではない。
その前に、嬉しかった時間があったのだ。
晴臣に島を見せて、何でも綺麗だと言われて、たぶん笑っていた時間が。
だからこそ、来なかった夜が深く残ったのかもしれない。
湊も黙っていた。
その横顔は、祭りの灯りに照らされているのに、どこか暗かった。
「ありがとうございます」
湊が小さく頭を下げる。
女性は「楽しんでいきなさい」と言って、人混みの方へ戻っていった。
湊は、しばらくカメラを下ろしたままだった。
夏帆はその横顔を見る。
「おじいちゃんも、こういうの撮ってた?」
「たぶん」
「似てる?」
「わからない」
湊は、提灯の灯りを見た。
「でも、今は少し、祖父が何を見ていたのか知りたい」
「責めたいだけじゃないんやね」
「うん」
湊は静かに頷いた。
「知りたい」
その言葉は、とても素直だった。
祖父がなぜ来なかったのか。
澪子を傷つけたのか。
その答えを知りたいのと同じくらい、晴臣がこの島で何を見て、何を大切にしたのかも知りたいのだと思う。
夏帆は、それが少しだけ嬉しかった。
湊が晴臣をただ責めるだけではなく、知ろうとしていることが。
そして、自分も澪子をただ「かわいそうな人」として見たくないと思った。
澪子には、嬉しかった夏があった。
灯りを見て、笑った夜があった。
そのことを忘れたくなかった。
太鼓の音が、少しずつ遠くに聞こえるようになった。
実際には同じ場所で鳴っている。
でも、夏帆の意識が別の方へ向き始めていた。
湊が腕時計を見る。
夏帆はそれに気づいた。
「時間」
「うん」
湊の声が少し低くなる。
「そろそろ、潮が引き始める」
夏帆は広場の向こうを見る。
提灯の灯り。
屋台の声。
子どもたちの笑い声。
その明るさの向こうに、白灯台へ続く道がある。
昼間に歩いた坂道。
夜になった今は、きっと別の場所のように暗い。
「行く?」
湊が聞いた。
夏帆は、手に持っていた小さなラムネ瓶を近くの返却箱へ戻した。
そして、頷く。
「行く」
「危なかったら」
「やめる」
「一人では」
「行かない」
「帰りの船」
「逃さない」
「うん」
二人は短く確認し合った。
何度も交わした約束。
それでも、今この場所で言うと、また違う重さがあった。
夏帆はリュックから懐中電灯を取り出す。
澪子が持たせてくれた、小さな明かり。
手の中に収まるそれが、思っていたより心強かった。
祭りの灯りの向こうに、白灯台へ続く暗い坂道があった。
夏帆と湊は、人の流れから少しずつ離れた。
提灯の下を抜け、屋台の並ぶ場所を過ぎ、太鼓の音から遠ざかる。
背中の方ではまだ祭りが続いている。
笑い声がして、誰かが子どもを呼ぶ声がして、提灯が風に揺れている。
でも、一歩坂道へ入ると、音が急に薄くなった。
足元が暗い。
夏帆は懐中電灯をつけた。
白い光が、石段の端と夏草を照らす。
昼間は眩しかった道が、今は光の届く範囲しか見えない。
湊もスマホのライトを控えめにつけた。
「足元、気をつけて」
「うん」
「急がなくていい」
「わかっとる」
言いながら、夏帆は澪子の言葉を思い出していた。
待つのは、ひとりやと長いけんね。
今、自分は一人ではない。
隣には湊がいる。
それなのに、胸の奥は少しだけ心細い。
この道を、澪子も歩いたのだろうか。
祭りの灯りを背にして。
晴臣との約束を胸に抱えて。
白灯台の下へ向かって。
夏帆は振り返った。
提灯の灯りが、背中の向こうで小さく揺れていた。
太鼓の音が、一歩ごとに遠ざかっていく。
夏帆は、懐中電灯の光を足元へ向けた。
白灯台へ続く坂道は、昼間よりもずっと暗かった。
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