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汐待島で、君と夏を渡る  作者: 碓氷さゆ


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9/18

第9話 汐待島の夏祭り

 祭りの日の朝、祖母の家にはいつもより少し早くから人の気配があった。

 台所では澪子が朝食の片付けをしながら、何度も居間の方を見ている。畳の上には、昨日のうちに確認した提灯や手ぬぐい、紐の束、紙袋が並べられていた。

 夏帆はリュックの中身をもう一度確認する。

 水筒。

 タオル。

 スマホ。

 モバイルバッテリー。

 薄手の上着。

 湊から送られてきた潮位表のスクリーンショット。

 そして、澪子が用意してくれた小さな懐中電灯。

 祭りの日が来た。

 子どもの頃なら、きっとその言葉だけで胸が浮き立ったはずだった。

 提灯が灯って、太鼓の音がして、人が集まって、屋台の匂いがして。

 でも今の夏帆の胸にあるのは、楽しみだけではなかった。

 夜の汐待島。

 白灯台。

 潮が引いた時だけ現れる、約束の浜。

 祭りの日が来た。

 潮が引く夜が、とうとう来てしまった。

「水、持ったが?」

 澪子が台所から声をかける。

「持った」

「タオルは?」

「持った」

「懐中電灯は?」

「おばあちゃんが入れてくれたやつ、入れた」

「スマホは落としたら終わりなが。暗いところは、それ使うがよ」

「わかっとる」

「歩きやすい靴にしとる?」

「しとる」

「帰りの船、忘れんように」

「それもわかっとる」

 夏帆が少しだけ笑って答えると、澪子は真面目な顔でこちらを見た。

「心配するがよ」

 その声には、からかう余地がなかった。

 夏帆はリュックのファスナーを閉める手を止める。

「うん」

 短く答えると、澪子は少しだけ表情を緩めた。

 それでも、その目はずっと落ち着かない。

 夏帆が今夜、汐待島へ渡ること。

 祭りを見に行くだけではないこと。

 白灯台の方へ向かうつもりでいること。

 澪子は、たぶん全部わかっている。

 それでも、止めない。

 止めない代わりに、水や懐中電灯や靴のことを何度も確かめる。

 その優しさが、夏帆には少し苦しかった。

「おばあちゃん」

「なんね?」

「大丈夫やけん」

 澪子はすぐには頷かなかった。

 台所から居間へ来て、夏帆のリュックの肩紐を少し直す。

 子どもの頃にも、こうしてもらったことがある気がした。

 遠足の日か、祭りの日か、もう思い出せない。

「湊くんと行くんやね」

「うん」

「途中で別れたらいかんがよ」

「わかっとる」

「ほんとに?」

「ほんと」

 澪子の手が、リュックの肩紐から離れた。

 その手は、夏帆の記憶にあるより少し小さく、しわが増えていた。

「待つのは、ひとりやと長いけんね」

 夏帆は、息を止めた。

「待つのは、ひとりやと長いけんね」

 その言葉だけ、祭りの朝の空気から少し浮いて聞こえた。

「おばあちゃん?」

「……なんでもないが」

 澪子はすぐにいつもの顔へ戻ろうとした。

 けれど、戻りきれていなかった。

 夏帆はその横顔を見つめる。

 待つのは、ひとりだと長い。

 それは、ただの一般論ではない気がした。

 潮が引く夜に、来なかった人ながよ。

 あの言葉が、胸の奥で重なる。

 澪子は一人で待ったのだろうか。

 白灯台の下で。

 約束の浜で。

 夏の夜、潮が引くのを見ながら。

 聞きたかった。

 でも、聞けなかった。

 今日は、これ以上聞いてしまったら、出かけられなくなる気がした。

「ちゃんと帰ってくる」

 夏帆が言うと、澪子はようやく少しだけ笑った。

「それが一番大事ながよ」

 夕方、夏帆は八幡浜港へ向かった。

 港へ近づくにつれて、いつもより人の声が増えていく。

 臨時便の案内が出ているせいか、待合所の前には普段より多くの人がいた。小さな子どもを連れた家族、手荷物を持った年配の人、祭りの手伝いらしい紙袋を抱えた人、浴衣姿の女の子たち。

 八幡浜側から汐待島へ渡る人たち。

 汐待島へ帰る人たち。

 祭りに向かう人たち。

 同じ船に乗る人たちなのに、それぞれの理由が少しずつ違う。

 夏帆はその中に立ち、リュックの肩紐を握り直した。

 潮の匂い。

 夕方の海。

 臨時便を待つざわめき。

 その全部が、いつもの港とは違って聞こえる。

「篠原さん」

 声がして振り向くと、湊が待合所の横に立っていた。

 黒いリュックを背負い、首からカメラを下げている。手にはスマホ。たぶん、また時刻表か潮位表を確認していたのだろう。

「早いね」

「少し」

「絶対だいぶ前からおったやろ」

「十分くらい」

「それ、少しなん?」

「俺の中では」

「湊くん基準、信用ならん」

 夏帆が言うと、湊は少しだけ笑った。

 緊張しているのはわかる。

 でも、その笑い方は前より少し柔らかい。

「懐中電灯、持った?」

「持った」

「水は?」

「持った。おばあちゃんにも三回聞かれた」

「澪子さんらしい」

「湊くんも似たようなこと聞いとるよ」

「必要だから」

「はいはい」

 夏帆はそう言いながらも、少し安心していた。

 湊が細かく確認してくれることが、今はありがたい。

 これから向かうのは、ただの祭りではない。

 夜の島で、潮が引く時間を待つ。

 考えるだけで、胸の奥がざわついた。

 湊はスマホの画面を夏帆に見せた。

「帰りの便は、これ」

「二十一時台」

「うん。これを逃すと、次はない」

「絶対逃せんね」

「潮が戻る時間もあるから、危なかったら途中で戻る」

「うん」

 二人は短く確認し合った。

 昨日から何度も同じことを言っている。

 でも、何度確認しても足りない気がした。

 船着き場の方で、臨時便の案内が始まった。

 人がゆっくり動き出す。

 夏帆と湊も、その流れに続いた。

 臨時便は、昼に乗った船と同じような小さな船だった。

 けれど、空気はまったく違っていた。

 夕方から夜へ変わる時間の船は、昼間の連絡船より少しだけ浮き立って見える。乗客もどこかそわそわしていて、子どもの声や、祭りの話をする人たちの声が船内に混ざっていた。

 誰かの持つ紙袋から、焼き菓子の甘い匂いがした。浴衣の袖が座席の端で揺れて、子どもが窓の外を指差している。

 夏帆は甲板に近い席に座った。

 隣に湊が座る。

 船がゆっくりと八幡浜港を離れると、港の灯りが少しずつ遠ざかっていった。

 昼間は青かった海が、今は深い色に変わり始めている。

 空の端には、まだわずかに夕焼けの名残があった。

 その下で、海は静かに夜を受け入れているように見えた。

「昼の船と、全然違うね」

 夏帆が言うと、湊は頷いた。

「うん」

「夜の海って、少し怖い」

「俺も」

「怖いってちゃんと言うんや」

「言わない方が怖いから」

「それ、ちょっとわかる」

 風が甲板を抜けていく。

 昼間より冷たい風だった。

 夏帆はリュックの中の懐中電灯を思い出す。

 澪子が持たせてくれた小さな明かり。

 今はまだ使わない。

 でも、今夜きっと必要になる。

 昼の汐待島へ向かう船とは違う。

 これは、潮が引く夜へ向かう船だった。

 湊は、遠ざかる八幡浜の灯りを見ていた。

 カメラには手を触れない。

 夏帆は横目でそれを見る。

「撮らんの?」

「今は、いい」

「また?」

「この船の感じは、まだ見ておきたい」

「湊くん、それ多いね」

「自分でもそう思う」

 湊は小さく笑った。

 前なら、少し変な人だと思ったかもしれない。

 けれど今は、その感覚が少しだけわかる。

 写真にしてしまう前に、ただ見ておきたいものがある。

 今この海を渡っていることも。

 夜の島へ向かっていることも。

 湊と並んで座っていることも。

 その全部を、すぐに形にしないまま胸の中に置いておきたい気がした。

 汐待港に着く頃には、空はほとんど夜になっていた。

 船が速度を落とすと、港の灯りが見えてくる。

 昼間は静かだった小さな港に、今日は提灯が吊られていた。

 赤や橙の灯りが、夜の中でやわらかく浮かんでいる。

 海面には、その灯りが細く揺れていた。

 遠くから太鼓の音が聞こえる。

 どん、と低く響いて、そのあとに人の笑い声が続く。

 夏帆は船を降りた瞬間、思わず足を止めた。

「昼と全然違う」

「うん」

 湊も隣で港を見ている。

「島が、少し起きてるみたい」

「いい表現だね」

「今の、褒めた?」

「うん」

「珍しい」

 夏帆が言うと、湊は少し困ったように笑った。

 夜の潮の匂いは、昼間よりも濃い。

 港の待合所には人が集まり、臨時便で来た人たちを島の人たちが迎えていた。

 子どもが走る。

 浴衣の袖が揺れる。

 祭りの案内をする声が聞こえる。

 白灯台はまだ見えない。

 けれど、夏帆はその方向をなんとなく意識してしまう。

 祭りの灯りの向こう。

 坂道の先。

 夜の白灯台。

 約束の浜。

 今はまだ、考えないようにした。

 まずは、この島の祭りを見る。

 澪子と晴臣が、かつて見たかもしれない灯りを。

 祭りの会場は、港から少し歩いたところにある小さな広場だった。

 神社へ続く坂の手前に、提灯が何列も吊られている。

 屋台は多くない。

 かき氷、焼きそば、ラムネ、輪投げ、小さな焼き物の店。どれも手作り感があって、大きな町の祭りとは違う。

 でも、ちゃんと祭りだった。

 子どもたちが走り回り、年配の人たちが椅子に座って話している。太鼓の音が広場の真ん中から響き、提灯の灯りが人の顔をやわらかく照らしていた。

 夏帆は、しばらく立ち止まってその光景を見た。

 ここに、澪子がいた。

 十七歳の澪子が。

 晴臣と一緒に、この灯りを見たのかもしれない。

「これ、晴臣さんも撮ったんかな」

 夏帆が呟くと、湊はカメラに手を添えた。

「撮ったと思う」

「灯り、綺麗やね」

「うん」

「撮る?」

「少しだけ」

「今日は撮るんや」

「祖父が見たものを、少し見てみたい」

 湊はカメラを構えた。

 シャッター音が、祭りのざわめきの中に小さく混ざる。

 提灯。

 海に映る灯り。

 ラムネ瓶に反射する光。

 太鼓を叩く手元。

 風で揺れる薄い紙。

 湊は人の顔を正面から撮るのではなく、灯りが触れているものを慎重に写していた。

 その横顔を見ていると、夏帆の中で湊と晴臣が一瞬だけ重なる。

 でも、すぐに離れた。

 湊は湊だ。

 晴臣の足跡をたどっているけれど、晴臣そのものではない。

 それは、夏帆が澪子ではないのと同じだった。

 提灯の灯りが、黒い海の上でゆらゆらとほどけていた。

 湊が写真を確認していると、後ろから声をかけられた。

「あれ、澪ちゃんとこの孫なが?」

 振り返ると、第5話で道を教えてくれた年配の女性が立っていた。

 今日は薄い色の上着を羽織り、手には小さな紙皿を持っている。

「こんばんは」

 夏帆が頭を下げると、女性はにこにこ笑った。

「祭りの日に来るとは、澪ちゃんも懐かしいやろ」

「おばあちゃん、昔も来てたんですよね」

「来よった来よった。祭りの日は、よう走り回りよったよ」

「おばあちゃんが?」

「そうよ。今は落ち着いとるけど、昔は気の強い子でねぇ」

 夏帆は思わず笑いそうになった。

 気の強い澪子。

 想像できるような、できないような。

「東京の写真の子も、一緒にいたんですか」

 湊が静かに聞いた。

 女性は湊を見て、少し目を細める。

「ああ、あの子ね。祭りの日にもおったと思うよ。カメラ持って、あっちこっち撮りよった」

「灯台の方にも?」

 夏帆が聞くと、女性は少し首を傾げた。

「さあねぇ。若い子らは、すぐ人のおらん方へ行きたがるけん」

 冗談めかした言い方だった。

 けれど、夏帆の胸は小さく鳴った。

 人のいない方。

 祭りの灯りから離れた先。

 白灯台へ続く道。

「澪ちゃん、あの子に島を見せよったんやろうね」

 女性は懐かしそうに言った。

「港も、神社も、灯台も。何もない島やけど、あの子が何でも珍しがるけん、澪ちゃんも嬉しそうやった」

 夏帆は言葉を失った。

 嬉しそうだった。

 その一言だけで、祖母の十七歳の夏が少しだけ色を持った気がした。

 澪子はただ待たされただけの人ではない。

 その前に、嬉しかった時間があったのだ。

 晴臣に島を見せて、何でも綺麗だと言われて、たぶん笑っていた時間が。

 だからこそ、来なかった夜が深く残ったのかもしれない。

 湊も黙っていた。

 その横顔は、祭りの灯りに照らされているのに、どこか暗かった。

「ありがとうございます」

 湊が小さく頭を下げる。

 女性は「楽しんでいきなさい」と言って、人混みの方へ戻っていった。

 湊は、しばらくカメラを下ろしたままだった。

 夏帆はその横顔を見る。

「おじいちゃんも、こういうの撮ってた?」

「たぶん」

「似てる?」

「わからない」

 湊は、提灯の灯りを見た。

「でも、今は少し、祖父が何を見ていたのか知りたい」

「責めたいだけじゃないんやね」

「うん」

 湊は静かに頷いた。

「知りたい」

 その言葉は、とても素直だった。

 祖父がなぜ来なかったのか。

 澪子を傷つけたのか。

 その答えを知りたいのと同じくらい、晴臣がこの島で何を見て、何を大切にしたのかも知りたいのだと思う。

 夏帆は、それが少しだけ嬉しかった。

 湊が晴臣をただ責めるだけではなく、知ろうとしていることが。

 そして、自分も澪子をただ「かわいそうな人」として見たくないと思った。

 澪子には、嬉しかった夏があった。

 灯りを見て、笑った夜があった。

 そのことを忘れたくなかった。

 太鼓の音が、少しずつ遠くに聞こえるようになった。

 実際には同じ場所で鳴っている。

 でも、夏帆の意識が別の方へ向き始めていた。

 湊が腕時計を見る。

 夏帆はそれに気づいた。

「時間」

「うん」

 湊の声が少し低くなる。

「そろそろ、潮が引き始める」

 夏帆は広場の向こうを見る。

 提灯の灯り。

 屋台の声。

 子どもたちの笑い声。

 その明るさの向こうに、白灯台へ続く道がある。

 昼間に歩いた坂道。

 夜になった今は、きっと別の場所のように暗い。

「行く?」

 湊が聞いた。

 夏帆は、手に持っていた小さなラムネ瓶を近くの返却箱へ戻した。

 そして、頷く。

「行く」

「危なかったら」

「やめる」

「一人では」

「行かない」

「帰りの船」

「逃さない」

「うん」

 二人は短く確認し合った。

 何度も交わした約束。

 それでも、今この場所で言うと、また違う重さがあった。

 夏帆はリュックから懐中電灯を取り出す。

 澪子が持たせてくれた、小さな明かり。

 手の中に収まるそれが、思っていたより心強かった。

 祭りの灯りの向こうに、白灯台へ続く暗い坂道があった。

 夏帆と湊は、人の流れから少しずつ離れた。

 提灯の下を抜け、屋台の並ぶ場所を過ぎ、太鼓の音から遠ざかる。

 背中の方ではまだ祭りが続いている。

 笑い声がして、誰かが子どもを呼ぶ声がして、提灯が風に揺れている。

 でも、一歩坂道へ入ると、音が急に薄くなった。

 足元が暗い。

 夏帆は懐中電灯をつけた。

 白い光が、石段の端と夏草を照らす。

 昼間は眩しかった道が、今は光の届く範囲しか見えない。

 湊もスマホのライトを控えめにつけた。

「足元、気をつけて」

「うん」

「急がなくていい」

「わかっとる」

 言いながら、夏帆は澪子の言葉を思い出していた。

 待つのは、ひとりやと長いけんね。

 今、自分は一人ではない。

 隣には湊がいる。

 それなのに、胸の奥は少しだけ心細い。

 この道を、澪子も歩いたのだろうか。

 祭りの灯りを背にして。

 晴臣との約束を胸に抱えて。

 白灯台の下へ向かって。

 夏帆は振り返った。

 提灯の灯りが、背中の向こうで小さく揺れていた。

 太鼓の音が、一歩ごとに遠ざかっていく。

 夏帆は、懐中電灯の光を足元へ向けた。

 白灯台へ続く坂道は、昼間よりもずっと暗かった。


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