第10話 約束の浜
白灯台へ続く坂道は、昼間よりもずっと暗かった。
懐中電灯の白い光が、石段の端と夏草を細く照らしている。光の外側はすぐに黒く沈んでいて、昼間に歩いた道と同じ場所だとは思えなかった。
背中の向こうでは、まだ祭りが続いている。
提灯の灯り。太鼓の音。人の笑い声。子どもを呼ぶ声。
けれど、一段上がるたびに、その音は少しずつ遠くなっていった。
代わりに近づいてくるのは、波の音だった。
暗い海が、目には見えない場所で息をしている。
「足元、見えてる?」
湊が後ろから声をかける。
「うん」
「急がなくていい」
「湊くん、さっきからそればっかり」
「転んだら困るから」
「私が?」
「俺も」
「そこは正直なんや」
夏帆がそう言うと、湊は小さく息を吐くように笑った。
その声が聞こえて、少しだけ安心する。
今、自分は一人ではない。
澪子は言った。
待つのは、ひとりやと長いけんね。
その言葉が、ずっと夏帆の中に残っている。
白灯台へ向かうこの道を、澪子も昔歩いたのだろうか。
祭りの灯りを背中にして。
ひとりで。
それとも、誰かと。
答えはまだわからない。
けれど、足元を照らす懐中電灯は、澪子が持たせてくれたものだった。
その小さな光が、祖母の手の代わりみたいに思える。
祭りの音が遠ざかるほど、海の音が近くなった。
石段を上がりきる頃には、太鼓の音はもうずいぶん遠くなっていた。
夜の風が、昼間よりも強く吹いている。
草が揺れ、足元で小さく擦れる音がした。
夏帆は懐中電灯を少し持ち上げる。
白い光が、闇の中に立つ灯台の壁をなぞった。
白灯台だった。
昼間は夏の光を受けて眩しかった灯台が、今は月明かりと懐中電灯の光の中で、ぼんやり浮かび上がっている。
同じ場所なのに、まるで違う。
昼間の白灯台は、写真の中の景色だった。
今夜の白灯台は、誰かを待つために立っているように見えた。
「昼と、全然違う」
夏帆が呟くと、湊も灯台を見上げた。
「うん」
「同じ場所なのに」
「夜になると、待つ場所みたいに見える」
湊が言ったあと、少しだけ視線を落とした。
「ごめん。変な言い方した」
「ううん。たぶん、合ってる」
夏帆は灯台の下へ歩いた。
昼間、自分が立った場所。
若い澪子が写真の中で立っていた場所。
湊がカメラを向けた場所。
でも今は、そこに立っても写真のことより、待つという言葉の方が先に浮かんだ。
夜の白灯台は、写真の中の場所ではなく、誰かを待つための場所に見えた。
湊はスマホを取り出し、画面の明るさを落として時刻を確認した。
「潮は、もう引き始めてるはず」
「見える?」
「まだ、はっきりは」
二人は灯台の下から海を見下ろした。
昼間は波が岩に当たって白く砕けていた場所。
今は、月明かりの下で黒い海がゆっくり動いている。
懐中電灯の光を向けると、濡れた岩がところどころ鈍く光った。
でも、浜はまだ見えない。
ただ、波の位置が昼間より少し低いような気がした。
湊は潮位表のスクリーンショットと時刻を見比べる。
「もう少しだと思う」
「もう少しって、長いね」
「うん」
「待つのって、長い」
「……うん」
それきり、二人は黙った。
ただ、海を見ていた。
波が寄せて、引く。
また寄せて、引く。
たったそれだけなのに、時間がとてもゆっくり進んでいるように感じる。
スマホの時計を見れば、数分しか経っていない。
けれど、その数分が長い。
何かが起こるのを待つ時間。
見えないものが現れるのを待つ時間。
誰かが来るかもしれないと、耳を澄ませる時間。
夏帆は両手で懐中電灯を握り直した。
小さな光が、指の隙間で揺れる。
待つだけの時間は、思っていたよりずっと長かった。
澪子は、この長さを知っていたのだろうか。
いや、きっと夏帆よりずっと知っている。
潮が引くのを待った。
約束の時間を待った。
晴臣を待った。
来ない人を、待った。
夏帆は、若い澪子の姿を想像した。
祭りの灯りを抜けて、白灯台へ向かう少女。
足元を気にしながら石段を上がる。
灯台の下で、潮が引くのを待つ。
海の下から現れる浜へ降りる。
そこで、誰かを待つ。
最初は、すぐ来ると思っていたのかもしれない。
少し遅れているだけだと。
祭りの人混みに引っかかったのだと。
道に迷ったのだと。
でも、時間が過ぎる。
波の音だけが続く。
提灯の灯りも、太鼓の音も、だんだん遠くなる。
そして、誰も来ない。
来ない人を待つ時間は、どれくらい長かったのだろう。
「おばあちゃん、一人で待ったんかな」
夏帆が呟くと、湊はすぐには答えなかった。
波の音だけが二人の間に落ちる。
「……わからない」
「でも、そうかもしれん」
「ごめん」
湊の声は低かった。
夏帆は顔を上げる。
「湊くんが謝ることじゃない」
「でも」
「それは、晴臣さんに聞くことやと思う」
「もう、聞けない」
「うん」
夏帆もわかっている。
晴臣はもういない。
だから、湊は写真を持ってここまで来た。
だから、夏帆は澪子に聞こうとしている。
いない人には聞けない。
でも、残された場所や写真や言葉が、まだ何かを覚えているかもしれない。
湊は海を見つめたまま、首から下げたカメラに触れた。
「俺の知ってる祖父は、約束を破るような人には見えなかった」
「うん」
「でも、澪子さんは待ってた」
「うん」
「どっちも本当なら、何かあったはずだと思いたい」
「思いたい?」
「そう。思いたいだけかもしれない」
湊の横顔は、月明かりの下で少し青く見えた。
優しい祖父。
写真を見せてくれた人。
でも、澪子にとっては来なかった人。
その二つが、湊の中でぶつかっている。
湊の中で、優しい祖父と、来なかった人が同じ顔をしていた。
夏帆は、何も言えなかった。
晴臣がどんな人だったのか、夏帆は知らない。
祖母の言葉と、湊の記憶と、古い写真しか知らない。
でも、湊が祖父を信じたい気持ちはわかった。
同時に、澪子が待った事実をなかったことにしたくない気持ちも。
どちらか一つだけを選べば楽なのに、きっとどちらも選べない。
だから、ここにいる。
潮が引く夜に、白灯台の下で。
波の音が、少し変わった。
夏帆は息を止める。
さっきまで岩に当たって砕けていた波が、少し遠くで鳴っているように聞こえた。
湊も気づいたのか、懐中電灯の光を海の方へ向ける。
黒い岩の輪郭が、さっきよりはっきり見えた。
その間に、白っぽいものがある。
最初は、波の泡かと思った。
でも、違う。
水が引くたびに、それは少しずつ形を持っていく。
濡れた岩の間。
月明かりの下。
海の底に隠れていた白い砂が、少しずつ現れていく。
夏帆は言葉を失った。
湊も何も言わない。
ただ、二人で見ていた。
波が引く。
砂が広がる。
また波が寄せる。
でも、次に引いた時には、白い場所はさっきより広くなっている。
海が、隠していたものをゆっくり手放していくみたいだった。
海の下から、白い砂が現れた。
夏帆は、喉の奥が熱くなるのを感じた。
そこは大きな浜ではなかった。
小さくて、岩に囲まれていて、知らなければ見逃してしまいそうな場所。
でも、確かに浜だった。
潮が引く夜にだけ現れる場所。
約束の浜だった。
「……出た」
夏帆の声は、自分でも驚くくらい小さかった。
「うん」
湊の声もかすれていた。
二人はしばらく動けなかった。
探していた場所が、目の前にある。
けれど、それは見つけたというより、海の方から現れてくれたように見えた。
湊は周囲を確認するように光を動かした。
「降りられる道、探そう」
「うん」
灯台の脇を少し回ると、岩場の横に細い降り口があった。
昼間は気づかなかった道。
草と岩の影に隠れるように、下へ続いている。
足元は悪い。
濡れた岩が光っている。
湊は先に一歩踏み出した。
「先に行く」
「湊くんが?」
「足元確認する」
「……気をつけて」
「うん」
湊は慎重に下りた。
岩に手をつきながら、足場を確かめる。
夏帆は上から懐中電灯で照らした。
波の音が近い。
思ったよりもずっと近い。
湊が下の方で振り返った。
「ここ、降りられそう」
「危なくない?」
「ゆっくりなら」
湊は片手を差し出した。
「手、貸す」
夏帆は、一瞬だけその手を見た。
昼間、白灯台の下で撮られた時とは違う。
港で連絡先を交換した時とも違う。
今、この手は、約束の浜へ降りるための手だった。
一人では行かない。
澪子の言葉が、胸の奥で響く。
夏帆は息を吸った。
夏帆は、湊の手を取った。
湊の手は思っていたより温かかった。
指先に少し力が入っている。
夏帆も握り返す。
足元を確かめながら、ゆっくり降りた。
岩は湿っていて、靴底が少し滑りそうになる。
「大丈夫?」
「うん」
「次、右」
「右?」
「そこ。石、出てる」
「見えた」
湊の声に従って、一段ずつ下りる。
何度か息を止めた。
けれど、湊の手があったから進めた。
最後の岩を下りると、足元の感触が変わった。
砂だった。
濡れた白い砂。
靴底が少し沈む。
夏帆は、ゆっくり周囲を見回した。
浜は小さい。
白灯台の足元に、月明かりでぼんやり浮かんでいる。
周囲を囲む岩が黒く、その間で白い砂だけが薄く光っていた。
祭りの音は、ほとんど聞こえない。
ただ、遠くの方で太鼓がかすかに響いている気がした。
海の音の方が、ずっと近い。
夏帆は白灯台を見上げた。
灯台は上から二人を見下ろしている。
ここから見ると、昼間の写真の構図とはまったく違う。
灯台の下に、自分たちがいる。
澪子が待ったかもしれない場所に、夏帆と湊が立っている。
「ここなんやね」
夏帆が言った。
「うん」
「おばあちゃんが、待ったかもしれない場所」
「……うん」
湊は、それ以上言えなかった。
夏帆も、すぐには言葉が続かない。
思ったより小さい。
けれど、ここまで来るには、とても遠かった。
松山から八幡浜へ。
八幡浜から汐待島へ。
昼の白灯台から、夜の祭りへ。
祭りの灯りから、暗い坂道へ。
そして、潮が引くのを待って、ようやくここへ降りてきた。
ここが、潮が引く夜にだけ現れる場所。
ここが、約束の浜だった。
夏帆は、砂の上に立ったまま、胸の奥がじわじわ痛くなるのを感じた。
祖母はここで何を見ていたのだろう。
海。
灯台。
祭りの灯り。
それとも、来るはずのない人が現れる道。
湊はカメラに触れた。
でも、構えなかった。
夏帆はその手元を見る。
「撮らんの?」
「今は、撮れない」
「そっか」
「撮ったら、軽くなる気がする」
湊の声は、とても静かだった。
夏帆は頷いた。
この場所は、すぐ写真にするには重すぎる。
そう思った。
懐中電灯の光を少し動かすと、浜の端にある岩が照らされた。
濡れた岩肌が、白い光を受けて鈍く光る。
夏帆は、そこでふと足を止めた。
岩の表面に、何かがある。
文字ではない。
傷のような、刻みのようなもの。
自然に割れた跡にも見えるし、誰かがつけた跡にも見える。
「これ、何やろ」
夏帆が近づくと、湊も隣にしゃがんだ。
「傷?」
「文字……ではない、かな」
「誰かが刻んだ跡かも」
湊は触れずに、光だけを当てて見る。
夏帆は、その岩を見つめた。
胸の奥で、何かが揺れる。
見たことがある。
この岩を。
この形を。
この場所を。
幼い頃の記憶が、薄い膜の向こうから浮かび上がってくる。
祖母の手。
夜ではなく、夕方だったかもしれない。
潮の匂い。
小さな自分の足元。
白い砂。
そして、澪子がこの岩に触れていた。
指先で、同じ傷をなぞるように。
幼い夏帆は、その隣で祖母を見上げていた。
祖母が何かを言った気がする。
まだ、残っとるね。
そんな言葉だったかもしれない。
それとも、夏帆が勝手に今作った記憶なのか。
わからない。
でも、ここに来たことがある。
それだけは、急に確かになった。
夏帆は、この浜に来たことがあった。
「篠原さん?」
湊の声が遠く聞こえる。
「私、ここ……来たことある」
「思い出した?」
「小さい頃、おばあちゃんと来た。たぶん」
「約束の浜に?」
「うん。おばあちゃん、この岩に触っとった」
夏帆は岩へ手を伸ばしかけて、途中で止めた。
触れてしまったら、もっと思い出してしまいそうで怖かった。
「何か言ってた?」
「わからん。全部は思い出せん」
夏帆は目を閉じる。
幼い自分の声が、遠くで聞こえた気がした。
まだ、待っとるん?
そう聞いたのかもしれない。
でも、澪子が何と答えたのか、思い出せない。
ただ、祖母の横顔だけが浮かぶ。
やさしくて、寂しくて、夏帆には意味がわからない顔。
その顔を、幼い夏帆はただ不思議に思っていた。
今なら少しだけわかる。
澪子は、この場所に約束を置いてきたのかもしれない。
置いてきたのに、何度も見に来てしまったのかもしれない。
まだ残っているかどうかを確かめるみたいに。
「おばあちゃん、ここに来てたんや」
夏帆の声が震えた。
「晴臣さんが来なかった夜だけじゃなくて、その後も」
湊は何も言わなかった。
ただ、岩の傷を見つめている。
その沈黙が、夏帆にはありがたかった。
勝手な想像かもしれない。
記憶違いかもしれない。
でも、澪子がこの浜を忘れていなかったことだけは、もう疑えなかった。
波の音が少し近くなった。
湊が顔を上げる。
「篠原さん」
「うん」
「そろそろ戻った方がいい」
夏帆は海を見る。
波が、さっきよりも近いところまで寄せてきていた。
約束の浜は、現れたばかりなのに、もう少しずつ海へ戻ろうとしている。
ここは長くいられる場所ではない。
待つ場所なのに、ずっと待つことは許されない場所。
それが、余計に切なかった。
「うん。戻ろう」
夏帆はもう一度だけ岩の傷を見た。
懐中電灯の光の中で、古い跡が濡れて光っている。
それが文字なのか、ただの傷なのか、まだわからない。
でも、夏帆には手がかりに見えた。
澪子がここにいた証。
約束が、ただの言葉ではなかった証。
湊が差し出した手を、夏帆はもう一度取った。
今度は、さっきより迷わなかった。
岩場を上がる途中で、後ろから波の音が近づいてくる。
振り返ると、白い砂の端に海水が薄くかかっていた。
浜はまた、海の下へ戻っていく。
まるで、見せるものだけ見せて、あとは黙って隠れてしまうみたいだった。
波が、さっきよりも近いところまで寄せてきた。
約束の浜は、また少しずつ海へ戻ろうとしている。
夏帆は、懐中電灯の光の中で古い岩の傷を見つめた。
帰ったら、おばあちゃんに聞かなければいけない。
あの夜、ここで何を待っていたのかを。
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