表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
汐待島で、君と夏を渡る  作者: 碓氷さゆ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

10/14

第10話 約束の浜

 白灯台へ続く坂道は、昼間よりもずっと暗かった。

 懐中電灯の白い光が、石段の端と夏草を細く照らしている。光の外側はすぐに黒く沈んでいて、昼間に歩いた道と同じ場所だとは思えなかった。

 背中の向こうでは、まだ祭りが続いている。

 提灯の灯り。太鼓の音。人の笑い声。子どもを呼ぶ声。

 けれど、一段上がるたびに、その音は少しずつ遠くなっていった。

 代わりに近づいてくるのは、波の音だった。

 暗い海が、目には見えない場所で息をしている。

「足元、見えてる?」

 湊が後ろから声をかける。

「うん」

「急がなくていい」

「湊くん、さっきからそればっかり」

「転んだら困るから」

「私が?」

「俺も」

「そこは正直なんや」

 夏帆がそう言うと、湊は小さく息を吐くように笑った。

 その声が聞こえて、少しだけ安心する。

 今、自分は一人ではない。

 澪子は言った。

 待つのは、ひとりやと長いけんね。

 その言葉が、ずっと夏帆の中に残っている。

 白灯台へ向かうこの道を、澪子も昔歩いたのだろうか。

 祭りの灯りを背中にして。

 ひとりで。

 それとも、誰かと。

 答えはまだわからない。

 けれど、足元を照らす懐中電灯は、澪子が持たせてくれたものだった。

 その小さな光が、祖母の手の代わりみたいに思える。

 祭りの音が遠ざかるほど、海の音が近くなった。

 石段を上がりきる頃には、太鼓の音はもうずいぶん遠くなっていた。

 夜の風が、昼間よりも強く吹いている。

 草が揺れ、足元で小さく擦れる音がした。

 夏帆は懐中電灯を少し持ち上げる。

 白い光が、闇の中に立つ灯台の壁をなぞった。

 白灯台だった。

 昼間は夏の光を受けて眩しかった灯台が、今は月明かりと懐中電灯の光の中で、ぼんやり浮かび上がっている。

 同じ場所なのに、まるで違う。

 昼間の白灯台は、写真の中の景色だった。

 今夜の白灯台は、誰かを待つために立っているように見えた。

「昼と、全然違う」

 夏帆が呟くと、湊も灯台を見上げた。

「うん」

「同じ場所なのに」

「夜になると、待つ場所みたいに見える」

 湊が言ったあと、少しだけ視線を落とした。

「ごめん。変な言い方した」

「ううん。たぶん、合ってる」

 夏帆は灯台の下へ歩いた。

 昼間、自分が立った場所。

 若い澪子が写真の中で立っていた場所。

 湊がカメラを向けた場所。

 でも今は、そこに立っても写真のことより、待つという言葉の方が先に浮かんだ。

 夜の白灯台は、写真の中の場所ではなく、誰かを待つための場所に見えた。

 湊はスマホを取り出し、画面の明るさを落として時刻を確認した。

「潮は、もう引き始めてるはず」

「見える?」

「まだ、はっきりは」

 二人は灯台の下から海を見下ろした。

 昼間は波が岩に当たって白く砕けていた場所。

 今は、月明かりの下で黒い海がゆっくり動いている。

 懐中電灯の光を向けると、濡れた岩がところどころ鈍く光った。

 でも、浜はまだ見えない。

 ただ、波の位置が昼間より少し低いような気がした。

 湊は潮位表のスクリーンショットと時刻を見比べる。

「もう少しだと思う」

「もう少しって、長いね」

「うん」

「待つのって、長い」

「……うん」

 それきり、二人は黙った。

 ただ、海を見ていた。

 波が寄せて、引く。

 また寄せて、引く。

 たったそれだけなのに、時間がとてもゆっくり進んでいるように感じる。

 スマホの時計を見れば、数分しか経っていない。

 けれど、その数分が長い。

 何かが起こるのを待つ時間。

 見えないものが現れるのを待つ時間。

 誰かが来るかもしれないと、耳を澄ませる時間。

 夏帆は両手で懐中電灯を握り直した。

 小さな光が、指の隙間で揺れる。

 待つだけの時間は、思っていたよりずっと長かった。

 澪子は、この長さを知っていたのだろうか。

 いや、きっと夏帆よりずっと知っている。

 潮が引くのを待った。

 約束の時間を待った。

 晴臣を待った。

 来ない人を、待った。

 夏帆は、若い澪子の姿を想像した。

 祭りの灯りを抜けて、白灯台へ向かう少女。

 足元を気にしながら石段を上がる。

 灯台の下で、潮が引くのを待つ。

 海の下から現れる浜へ降りる。

 そこで、誰かを待つ。

 最初は、すぐ来ると思っていたのかもしれない。

 少し遅れているだけだと。

 祭りの人混みに引っかかったのだと。

 道に迷ったのだと。

 でも、時間が過ぎる。

 波の音だけが続く。

 提灯の灯りも、太鼓の音も、だんだん遠くなる。

 そして、誰も来ない。

 来ない人を待つ時間は、どれくらい長かったのだろう。

「おばあちゃん、一人で待ったんかな」

 夏帆が呟くと、湊はすぐには答えなかった。

 波の音だけが二人の間に落ちる。

「……わからない」

「でも、そうかもしれん」

「ごめん」

 湊の声は低かった。

 夏帆は顔を上げる。

「湊くんが謝ることじゃない」

「でも」

「それは、晴臣さんに聞くことやと思う」

「もう、聞けない」

「うん」

 夏帆もわかっている。

 晴臣はもういない。

 だから、湊は写真を持ってここまで来た。

 だから、夏帆は澪子に聞こうとしている。

 いない人には聞けない。

 でも、残された場所や写真や言葉が、まだ何かを覚えているかもしれない。

 湊は海を見つめたまま、首から下げたカメラに触れた。

「俺の知ってる祖父は、約束を破るような人には見えなかった」

「うん」

「でも、澪子さんは待ってた」

「うん」

「どっちも本当なら、何かあったはずだと思いたい」

「思いたい?」

「そう。思いたいだけかもしれない」

 湊の横顔は、月明かりの下で少し青く見えた。

 優しい祖父。

 写真を見せてくれた人。

 でも、澪子にとっては来なかった人。

 その二つが、湊の中でぶつかっている。

 湊の中で、優しい祖父と、来なかった人が同じ顔をしていた。

 夏帆は、何も言えなかった。

 晴臣がどんな人だったのか、夏帆は知らない。

 祖母の言葉と、湊の記憶と、古い写真しか知らない。

 でも、湊が祖父を信じたい気持ちはわかった。

 同時に、澪子が待った事実をなかったことにしたくない気持ちも。

 どちらか一つだけを選べば楽なのに、きっとどちらも選べない。

 だから、ここにいる。

 潮が引く夜に、白灯台の下で。

 波の音が、少し変わった。

 夏帆は息を止める。

 さっきまで岩に当たって砕けていた波が、少し遠くで鳴っているように聞こえた。

 湊も気づいたのか、懐中電灯の光を海の方へ向ける。

 黒い岩の輪郭が、さっきよりはっきり見えた。

 その間に、白っぽいものがある。

 最初は、波の泡かと思った。

 でも、違う。

 水が引くたびに、それは少しずつ形を持っていく。

 濡れた岩の間。

 月明かりの下。

 海の底に隠れていた白い砂が、少しずつ現れていく。

 夏帆は言葉を失った。

 湊も何も言わない。

 ただ、二人で見ていた。

 波が引く。

 砂が広がる。

 また波が寄せる。

 でも、次に引いた時には、白い場所はさっきより広くなっている。

 海が、隠していたものをゆっくり手放していくみたいだった。

 海の下から、白い砂が現れた。

 夏帆は、喉の奥が熱くなるのを感じた。

 そこは大きな浜ではなかった。

 小さくて、岩に囲まれていて、知らなければ見逃してしまいそうな場所。

 でも、確かに浜だった。

 潮が引く夜にだけ現れる場所。

 約束の浜だった。

「……出た」

 夏帆の声は、自分でも驚くくらい小さかった。

「うん」

 湊の声もかすれていた。

 二人はしばらく動けなかった。

 探していた場所が、目の前にある。

 けれど、それは見つけたというより、海の方から現れてくれたように見えた。

 湊は周囲を確認するように光を動かした。

「降りられる道、探そう」

「うん」

 灯台の脇を少し回ると、岩場の横に細い降り口があった。

 昼間は気づかなかった道。

 草と岩の影に隠れるように、下へ続いている。

 足元は悪い。

 濡れた岩が光っている。

 湊は先に一歩踏み出した。

「先に行く」

「湊くんが?」

「足元確認する」

「……気をつけて」

「うん」

 湊は慎重に下りた。

 岩に手をつきながら、足場を確かめる。

 夏帆は上から懐中電灯で照らした。

 波の音が近い。

 思ったよりもずっと近い。

 湊が下の方で振り返った。

「ここ、降りられそう」

「危なくない?」

「ゆっくりなら」

 湊は片手を差し出した。

「手、貸す」

 夏帆は、一瞬だけその手を見た。

 昼間、白灯台の下で撮られた時とは違う。

 港で連絡先を交換した時とも違う。

 今、この手は、約束の浜へ降りるための手だった。

 一人では行かない。

 澪子の言葉が、胸の奥で響く。

 夏帆は息を吸った。

 夏帆は、湊の手を取った。

 湊の手は思っていたより温かかった。

 指先に少し力が入っている。

 夏帆も握り返す。

 足元を確かめながら、ゆっくり降りた。

 岩は湿っていて、靴底が少し滑りそうになる。

「大丈夫?」

「うん」

「次、右」

「右?」

「そこ。石、出てる」

「見えた」

 湊の声に従って、一段ずつ下りる。

 何度か息を止めた。

 けれど、湊の手があったから進めた。

 最後の岩を下りると、足元の感触が変わった。

 砂だった。

 濡れた白い砂。

 靴底が少し沈む。

 夏帆は、ゆっくり周囲を見回した。

 浜は小さい。

 白灯台の足元に、月明かりでぼんやり浮かんでいる。

 周囲を囲む岩が黒く、その間で白い砂だけが薄く光っていた。

 祭りの音は、ほとんど聞こえない。

 ただ、遠くの方で太鼓がかすかに響いている気がした。

 海の音の方が、ずっと近い。

 夏帆は白灯台を見上げた。

 灯台は上から二人を見下ろしている。

 ここから見ると、昼間の写真の構図とはまったく違う。

 灯台の下に、自分たちがいる。

 澪子が待ったかもしれない場所に、夏帆と湊が立っている。

「ここなんやね」

 夏帆が言った。

「うん」

「おばあちゃんが、待ったかもしれない場所」

「……うん」

 湊は、それ以上言えなかった。

 夏帆も、すぐには言葉が続かない。

 思ったより小さい。

 けれど、ここまで来るには、とても遠かった。

 松山から八幡浜へ。

 八幡浜から汐待島へ。

 昼の白灯台から、夜の祭りへ。

 祭りの灯りから、暗い坂道へ。

 そして、潮が引くのを待って、ようやくここへ降りてきた。

 ここが、潮が引く夜にだけ現れる場所。

 ここが、約束の浜だった。

 夏帆は、砂の上に立ったまま、胸の奥がじわじわ痛くなるのを感じた。

 祖母はここで何を見ていたのだろう。

 海。

 灯台。

 祭りの灯り。

 それとも、来るはずのない人が現れる道。

 湊はカメラに触れた。

 でも、構えなかった。

 夏帆はその手元を見る。

「撮らんの?」

「今は、撮れない」

「そっか」

「撮ったら、軽くなる気がする」

 湊の声は、とても静かだった。

 夏帆は頷いた。

 この場所は、すぐ写真にするには重すぎる。

 そう思った。

 懐中電灯の光を少し動かすと、浜の端にある岩が照らされた。

 濡れた岩肌が、白い光を受けて鈍く光る。

 夏帆は、そこでふと足を止めた。

 岩の表面に、何かがある。

 文字ではない。

 傷のような、刻みのようなもの。

 自然に割れた跡にも見えるし、誰かがつけた跡にも見える。

「これ、何やろ」

 夏帆が近づくと、湊も隣にしゃがんだ。

「傷?」

「文字……ではない、かな」

「誰かが刻んだ跡かも」

 湊は触れずに、光だけを当てて見る。

 夏帆は、その岩を見つめた。

 胸の奥で、何かが揺れる。

 見たことがある。

 この岩を。

 この形を。

 この場所を。

 幼い頃の記憶が、薄い膜の向こうから浮かび上がってくる。

 祖母の手。

 夜ではなく、夕方だったかもしれない。

 潮の匂い。

 小さな自分の足元。

 白い砂。

 そして、澪子がこの岩に触れていた。

 指先で、同じ傷をなぞるように。

 幼い夏帆は、その隣で祖母を見上げていた。

 祖母が何かを言った気がする。

 まだ、残っとるね。

 そんな言葉だったかもしれない。

 それとも、夏帆が勝手に今作った記憶なのか。

 わからない。

 でも、ここに来たことがある。

 それだけは、急に確かになった。

 夏帆は、この浜に来たことがあった。

「篠原さん?」

 湊の声が遠く聞こえる。

「私、ここ……来たことある」

「思い出した?」

「小さい頃、おばあちゃんと来た。たぶん」

「約束の浜に?」

「うん。おばあちゃん、この岩に触っとった」

 夏帆は岩へ手を伸ばしかけて、途中で止めた。

 触れてしまったら、もっと思い出してしまいそうで怖かった。

「何か言ってた?」

「わからん。全部は思い出せん」

 夏帆は目を閉じる。

 幼い自分の声が、遠くで聞こえた気がした。

 まだ、待っとるん?

 そう聞いたのかもしれない。

 でも、澪子が何と答えたのか、思い出せない。

 ただ、祖母の横顔だけが浮かぶ。

 やさしくて、寂しくて、夏帆には意味がわからない顔。

 その顔を、幼い夏帆はただ不思議に思っていた。

 今なら少しだけわかる。

 澪子は、この場所に約束を置いてきたのかもしれない。

 置いてきたのに、何度も見に来てしまったのかもしれない。

 まだ残っているかどうかを確かめるみたいに。

「おばあちゃん、ここに来てたんや」

 夏帆の声が震えた。

「晴臣さんが来なかった夜だけじゃなくて、その後も」

 湊は何も言わなかった。

 ただ、岩の傷を見つめている。

 その沈黙が、夏帆にはありがたかった。

 勝手な想像かもしれない。

 記憶違いかもしれない。

 でも、澪子がこの浜を忘れていなかったことだけは、もう疑えなかった。

 波の音が少し近くなった。

 湊が顔を上げる。

「篠原さん」

「うん」

「そろそろ戻った方がいい」

 夏帆は海を見る。

 波が、さっきよりも近いところまで寄せてきていた。

 約束の浜は、現れたばかりなのに、もう少しずつ海へ戻ろうとしている。

 ここは長くいられる場所ではない。

 待つ場所なのに、ずっと待つことは許されない場所。

 それが、余計に切なかった。

「うん。戻ろう」

 夏帆はもう一度だけ岩の傷を見た。

 懐中電灯の光の中で、古い跡が濡れて光っている。

 それが文字なのか、ただの傷なのか、まだわからない。

 でも、夏帆には手がかりに見えた。

 澪子がここにいた証。

 約束が、ただの言葉ではなかった証。

 湊が差し出した手を、夏帆はもう一度取った。

 今度は、さっきより迷わなかった。

 岩場を上がる途中で、後ろから波の音が近づいてくる。

 振り返ると、白い砂の端に海水が薄くかかっていた。

 浜はまた、海の下へ戻っていく。

 まるで、見せるものだけ見せて、あとは黙って隠れてしまうみたいだった。

 波が、さっきよりも近いところまで寄せてきた。

 約束の浜は、また少しずつ海へ戻ろうとしている。

 夏帆は、懐中電灯の光の中で古い岩の傷を見つめた。

 帰ったら、おばあちゃんに聞かなければいけない。

 あの夜、ここで何を待っていたのかを。


お読みいただきありがとうございます。

ブックマーク・評価で応援していただけると嬉しいです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ