第11話 帰れなかった約束
約束の浜を離れる時、夏帆は一度だけ振り返った。
懐中電灯の光の先で、白い砂が波に濡れている。さっきまで足元にあった小さな浜は、少しずつ海へ戻ろうとしていた。
潮が引いた時だけ現れて、潮が満ちればまた隠れてしまう場所。
そこに、澪子は立っていたのかもしれない。
晴臣を待っていたのかもしれない。
そして、幼い夏帆も、かつてここへ来たことがある。
その事実が、足元の湿った砂よりもずっと重く胸に残っていた。
「大丈夫?」
湊が岩場の上から手を差し出す。
「うん」
「足元、気をつけて」
「さっきから湊くん、そればっかり」
「今は本当に危ないから」
「うん。ありがとう」
夏帆は湊の手を取って、慎重に岩場を上がった。
濡れた岩に靴底が少し滑り、息が止まる。そのたびに、湊の手に力がこもった。
ようやく灯台の下まで戻ると、夏帆はもう一度海を見下ろした。
白い砂は、さっきよりも狭くなっている。
波が寄せるたびに、浜の輪郭が少しずつ曖昧になっていく。
約束の浜は、また海の下へ戻っていった。
白灯台は、夜の中で静かに立っていた。
夏帆と湊はしばらく何も言わず、灯台の前に立ち尽くした。
ここまで来てしまった。
見てしまった。
もう、見なかった頃には戻れない。
夏帆は懐中電灯を握り直し、坂道の方へ顔を向けた。
「戻ろう」
「うん」
湊は短く頷いた。
二人は、来た道を下り始めた。
白灯台から離れるにつれて、波の音が少しずつ遠くなる。
代わりに、祭りの音が戻ってきた。
太鼓の音。
人の声。
子どもたちの笑い声。
提灯の灯りが、坂道の下にぼんやり見える。
さっきはあの灯りの中から暗い道へ入った。
今は、暗い道から灯りの中へ戻っている。
それなのに、夏帆には戻っているという感じがしなかった。
別の場所から、別の時間から、今の祭りへ迷い込んでいるようだった。
祭りの会場へ戻ると、そこには変わらず明るい時間が流れていた。
提灯が揺れている。
屋台の人が声を出している。
ラムネ瓶の音がして、太鼓の音に合わせて子どもが跳ねている。
誰も、夏帆と湊がどこへ行っていたのか知らない。
海の下から現れた浜を見てきたことも。
岩の傷の前で、夏帆が幼い頃の記憶を思い出したことも。
ここにいる人たちにとっては、祭りの夜がただ続いているだけだった。
「戻ってきたのに、変な感じ」
夏帆が呟くと、湊も頷いた。
「うん」
「さっきまで、ここにおったのにね」
「遠くまで行ったみたいだ」
「うん。すごく遠かった」
実際には、白灯台までは歩いて行ける距離だ。
でも、戻ってきた今、夏帆にはあの浜がとても遠い場所に感じられた。
距離ではない。
時間の遠さだった。
澪子の十七歳の夏。
晴臣が来なかった夜。
幼い夏帆が知らずに見た祖母の横顔。
その全部をくぐって戻ってきたような気がした。
湊はカメラに手を添えていた。
けれど、やはり構えなかった。
「撮らないん?」
夏帆が聞くと、湊は少しだけ首を振った。
「今は、撮れない」
「うん」
「何を撮っても、違う気がする」
その言葉は、夏帆にも少しわかった。
提灯は綺麗だった。
海に映る灯りも、太鼓の影も、祭りの声も。
でも、今の二人の中には、もっと暗くて静かな場所が残っている。
それを抱えたままでは、祭りの灯りをそのまま受け取ることができなかった。
帰りの臨時便の時間が近づいていた。
二人は祭り会場を抜け、港へ向かった。
帰りの船は、行きよりも少しだけ賑やかだった。
祭り帰りの子どもたちが眠そうに親の膝にもたれ、浴衣姿の女の子たちが小さな声で笑っている。紙袋の中で土産物がこすれる音がして、誰かが「楽しかったね」と言った。
夏帆と湊は、甲板に近い席に並んで座った。
汐待島の灯りが、船の窓の外で少しずつ遠ざかる。
海は黒く、船の進む先だけが白く泡立っていた。
夏帆は膝の上で手を握る。
懐中電灯の感触が、まだ掌に残っている気がした。
約束の浜の白い砂。
岩の傷。
幼い頃の記憶。
澪子の横顔。
全部が、頭の中で途切れ途切れに浮かぶ。
「俺、祖父のことを知らなかった」
湊が、ぽつりと言った。
夏帆は横を見る。
湊は窓の外を見ていた。
汐待島の灯りが、彼の瞳に小さく映っている。
「私も、おばあちゃんのことを知らなかった」
「知ってるつもりだった」
「うん。私も」
夏帆は小さく頷いた。
澪子は祖母だった。
麦茶を出してくれる人。
「よう来たがねぇ」と笑う人。
船の時間を何度も確認する人。
でもそれだけではなかった。
十七歳の頃の澪子がいて、晴臣に島を案内して、祭りの灯りを見せて、白灯台の下で待っていた。
夏帆は、その澪子を知らなかった。
知らないまま、祖母だと思っていた。
知っているはずの人ほど、知らない顔を持っている。
「……帰ったら、聞く?」
湊が静かに聞いた。
夏帆は、少しだけ息を吸う。
「聞く」
「今夜?」
「うん。たぶん、今じゃないと聞けん気がする」
「無理はしないで」
「うん」
湊は少しだけ迷うように口を開いた。
「一緒に行こうか」
夏帆は首を振った。
「ううん。まず私が聞く」
「わかった」
「逃げるかもしれんけど」
「逃げてもいいと思う」
「え?」
「でも、聞くなら、無理しないで」
「湊くん、ほんと慎重」
「怖がりだから」
その返事に、夏帆は少しだけ笑った。
けれど、笑いきれなかった。
湊も、それ以上何も言わない。
二人は並んで、黒い海を見ていた。
汐待島の灯りは、もう遠くなっている。
それでも、白灯台と約束の浜は、夏帆の中に残ったままだった。
八幡浜港へ戻ると、夜の空気は少し湿っていた。
船を降りた人たちが、それぞれの方向へ散っていく。祭りの余韻を抱えた声が、港のあちこちで小さく響いていた。
夏帆と湊は、待合所の前で立ち止まった。
湊の宿は駅の方。
夏帆の行く先は祖母の家。
ここで道が分かれる。
「何かわかったら、教えて」
湊が言った。
「うん」
「でも、無理に聞き出さなくていい」
「わかっとる」
「……ごめん」
「なんで謝るん」
「また、同じこと言ったから」
夏帆は少しだけ笑った。
「湊くんらしいけん、いいよ」
そう言うと、湊は少し困ったような顔をした。
それから、真面目な目で夏帆を見る。
「篠原さん」
「うん」
「もし、澪子さんが話したくなさそうだったら、今日はやめてもいいと思う」
「……うん」
「約束の浜は逃げない。写真も、手がかりもある」
「でも、おばあちゃんは」
そこまで言って、言葉が止まった。
澪子は逃げるかもしれない。
いや、逃げていたわけではないのかもしれない。
何十年も、ただ話せなかったのかもしれない。
夏帆にはまだわからない。
「ちゃんと、聞いてみる」
夏帆が言うと、湊は頷いた。
「うん」
二人はそこで別れた。
湊は宿の方へ歩いていく。
夏帆はしばらくその背中を見送ってから、祖母の家へ向かった。
祖母の家には、灯りがついていた。
玄関先に立つと、夜の木の匂いと、畳の奥から来る古い家の匂いがした。
夏帆は一度だけ深呼吸して、引き戸を開ける。
「ただいま」
奥から、すぐに声が返ってきた。
「おかえり」
澪子は起きていた。
居間の小さな明かりの下で、湯呑みを二つ用意している。ちゃぶ台の上には、急須と、畳んだ手ぬぐいが置かれていた。
「起きとったん?」
「寝られんかったが」
澪子はいつものように言った。
けれど、その声は少しだけかすれていた。
夏帆は居間に入る。
リュックを下ろすと、肩から力が抜けた。
でも、胸の奥はまだ固いままだ。
澪子は湯呑みにお茶を注ぎ、夏帆の前へ置いた。
「寒なかった?」
「うん」
「船、間に合った?」
「間に合った」
「そう」
短いやりとり。
いつもの確認。
けれど、澪子も夏帆も、本当に話したいことがそこではないとわかっていた。
夏帆は湯呑みを両手で包む。
温かい。
夜の海と、湿った岩と、白い砂の感触が、少しだけ現実から遠のく。
でも、忘れられるほどではない。
「……行ったよ」
夏帆は言った。
澪子は、湯呑みを持つ手を止めた。
「そう」
「約束の浜、見た」
「そうなが」
澪子は驚かなかった。
責めもしなかった。
ただ、静かに頷いた。
その顔を見て、夏帆は思った。
澪子は、最初から夏帆がそこへ行くことを知っていたような顔をしていた。
「潮が引いたら、本当に浜が出た」
「うん」
「小さい浜やった」
「うん」
「岩があって」
夏帆は、言葉を探した。
どう話せばいいのかわからない。
見たものをそのまま言えば、澪子を傷つける気がした。
でも、話さなければここへ戻ってきた意味がない。
「その岩に、傷みたいなのがあった」
澪子の目が、ほんの少しだけ揺れた。
夏帆は、それを見逃さなかった。
「私、小さい頃、あそこに行ったことある?」
澪子は答えなかった。
ただ、夏帆を見ている。
「……覚えとったん?」
やがて、澪子が静かに言った。
「全部じゃない。でも、岩があって」
「うん」
「おばあちゃん、その岩に触っとった」
「そう」
「私、何か聞いた気がする」
夏帆は湯呑みから手を離した。
手が少し冷えている。
言葉にしていいのか、一瞬迷う。
でも、もうここまで来た。
「まだ待っとるん、って」
澪子の顔から、静かに表情が消えた。
「まだ待っとるん?」
その言葉は、幼い夏帆の声であり、今の夏帆の問いでもあった。
澪子は目を伏せる。
長い沈黙が落ちた。
外では虫が鳴いている。
遠くの方で、車が坂道を上がる音がした。
居間の明かりが、湯呑みの縁に淡く反射している。
「子どもは、残酷なことを聞くがね」
澪子が、ぽつりと言った。
「ごめん」
「夏帆が謝ることじゃないよ」
澪子は小さく首を振った。
「子どもは、見たまま聞くけん。それがほんとのことやったりする」
夏帆は何も言えなかった。
澪子は、ちゃぶ台の上に置いた自分の手を見る。
しわの入った指先。
その指が、何十年も前に約束の浜の岩に触れていた。
まだ残っているかどうかを確かめるように。
「おばあちゃん」
「なんね」
「聞いてもいい?」
澪子はすぐには答えなかった。
けれど、逃げもしなかった。
ただ、ゆっくりとお茶を一口飲んで、湯呑みを置く。
「どこから話せばええんかねぇ」
その声は、少しだけ遠くを向いていた。
澪子は、初めて自分から話し始めた。
「晴臣さんはね、変な子やったよ」
「変?」
「何でもないもんを、綺麗やって言うが」
澪子は少しだけ笑った。
その笑い方に、夏帆は写真の中の少女を思い出す。
白灯台の下で、少し照れたように笑っていた十七歳の澪子。
「港の古い看板も、網を干しとるところも、坂道の石垣も、カラスが止まっとる電線まで。何でも撮りよった」
「湊くんも、少しそう」
「そうなが」
澪子の目が、ほんの少しやわらかくなる。
「あの子も、カメラ持っとったね」
「うん。晴臣さんの影響やって」
「そう」
澪子は手元の湯呑みを見つめた。
「晴臣さんは、東京から来た子やった。島の親戚のところに、夏の間だけおったんよ。最初は、都会の子が珍しがっとるだけやと思った」
「違ったん?」
「違ったんやろうね」
澪子の声が、少しだけ若く聞こえた気がした。
「本当に見よった。こっちの人間が見慣れて、何とも思わんようなものまで、ちゃんと見よった」
夏帆は、黙って聞いた。
澪子の言葉の中に、汐待島の夏が少しずつ浮かび上がる。
港。
坂道。
白灯台。
祭りの灯り。
カメラを持った東京の少年。
その隣を歩く、若い澪子。
澪子の声の中に、十七歳の少女がいた。
「おばあちゃん、嬉しかった?」
夏帆が聞くと、澪子は少しだけ困ったように笑った。
「……嬉しかったんやろうね」
「なんで他人事みたいに言うん」
「昔のことやけん」
「でも、おばあちゃんのことでしょ」
「そうながよ」
澪子は頷いた。
「でも、あんまり遠いと、自分のことでも、誰かの話みたいになるが」
夏帆は、その言葉を胸の中で受け止めた。
遠い過去。
でも、消えたわけではない。
遠くなっただけで、そこにある。
「晴臣さんは、約束の浜のことも撮りたがったん?」
「うん」
澪子は、少しだけ目を伏せた。
「約束の浜のこと、私が教えたんよ」
「おばあちゃんが?」
「潮が引いた夜だけ、海の下から浜が出るって」
「晴臣さん、見たいって言った?」
「うん。見たいって」
澪子の声に、ほんの少しだけ笑みが混ざった。
「何でも見たがる子やったけん」
「それで、約束したん?」
「祭りの夜に、灯台の下で」
夏帆は息を止める。
写真の裏の文字が、頭の中に浮かぶ。
潮が引く夜、灯台の下で待つ。
ただの謎の文ではなかった。
澪子と晴臣が交わした言葉だった。
「その日、晴臣さんは東京へ戻るのが近かったん?」
夏帆が聞くと、澪子は小さく頷いた。
「そう。もうすぐ帰るって言いよった」
「最後に会う日やったん?」
「そうなるかもしれんと思っとった」
澪子は窓の方へ視線を向けた。
夜の外は暗い。
でも、澪子の目には、別の夜が見えているようだった。
「だから、約束の浜を見せたかったんかもしれんね」
「おばあちゃんが?」
「うん」
「晴臣さんに?」
「うん」
澪子は静かに答えた。
「私だけが知っとるみたいな場所を、見せたかったんやと思う」
その言葉に、夏帆の胸が痛くなった。
十七歳の澪子。
東京へ帰ってしまう少年に、自分だけの場所を見せたかった少女。
それは、あまりにも普通の恋のようだった。
普通で、ささやかで、だからこそ痛い。
「待ったん?」
夏帆は聞いた。
澪子は、少しだけ間を置いて頷く。
「待ったよ」
「どれくらい?」
「潮が戻り始めるまで」
夏帆の喉が詰まった。
第10話で見た浜が、また海に戻っていく光景が蘇る。
長くいられない場所。
待つ場所なのに、ずっと待つことは許されない場所。
澪子はそこで待った。
潮が戻り始めるまで。
「ひとりで?」
夏帆の声は震えていた。
澪子は、少しだけ笑った。
笑ったのに、目は笑っていなかった。
「ひとりで」
その一言だけで、夏帆は何も言えなくなった。
ひとりで。
白灯台の下で。
潮が引いた浜で。
来ない人を待っていた。
その時間を、夏帆はほんの少しだけ知った。
湊と二人で待っただけでも、あんなに長かった。
一人だったら、どれほど長かったのだろう。
「どうして、晴臣さんは来なかったん?」
夏帆は、ようやく聞いた。
澪子は口を開きかけた。
けれど、言葉はすぐには出てこなかった。
「……それは」
指先が、湯呑みの縁に触れる。
澪子は視線を落とし、それから居間の隅へ目を向けた。
そこには、片付け途中の古い箱がある。
アルバムや手ぬぐい、祭り道具が入っていた箱。
夏帆は、その視線を追った。
「おばあちゃん?」
「そのあと、手紙が来たんよ」
「手紙?」
「うん」
澪子の声は、かすかに揺れていた。
「でも、私は最後まで読めんかった」
「読めんかったって……」
「最初の方だけ読んで、しまってしもうた」
「まだ、あるん?」
夏帆が聞くと、澪子は小さく頷いた。
「捨てられんかったが」
その言葉に、夏帆は息を呑んだ。
晴臣からの手紙。
約束の夜のあとに届いたもの。
澪子が最後まで読めなかったもの。
それが、まだ残っている。
居間の空気が、また静かに変わった。
約束の浜で見た岩の傷よりも、もっと直接的な何かが、すぐそこにある。
澪子は、居間の隅に置かれた古い箱を見た。
その目は、約束の浜ではなく、もっと別の夜を見ているようだった。
「読まんまま、しまった手紙があるがよ」
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