第12話 読まれなかった手紙
居間の隅に置かれた古い箱を、澪子はしばらく見つめていた。
夜の祖母の家は静かだった。遠くで虫が鳴いている。台所の方から、冷蔵庫の小さな音が聞こえる。
ちゃぶ台の上には、湯呑みが二つ。
片方は澪子の前にあり、もう片方は夏帆の前にある。
湯気はもうほとんど消えていた。
澪子は、ゆっくりと立ち上がった。
その動きがいつもより少し重く見えて、夏帆は息を詰める。
「おばあちゃん」
「大丈夫なが」
澪子はそう言って、古い箱を引き寄せた。
畳の上を箱がこすれる音がする。
それだけの音なのに、夏帆にはとても大きく聞こえた。
箱の中には、古いアルバム、手ぬぐい、祭りの写真、色褪せた封筒がいくつも入っていた。
澪子は迷いのない手つきで奥の方を探る。
けれど、指先は少しだけ震えていた。
やがて、一通の封筒を取り出す。
薄く黄ばんだ封筒だった。
角は少し丸くなり、紙には長い時間を吸ったような柔らかさがある。
澪子はそれをちゃぶ台の上に置いた。
夏帆は、思わず封筒を見つめる。
宛名には、三崎澪子と書かれていた。
かすれてはいるけれど、丁寧な字だった。
そして、差出人のところに、名前があった。
封筒の差出人には、朝倉晴臣と書かれていた。
「本当に、あるんやね」
夏帆の声は小さかった。
「捨てられんかったが」
「ずっと?」
「ずっと」
澪子は封筒から目を離さない。
「読まんかったん?」
「最初だけ読んで、閉じた」
「どうして?」
聞いてから、夏帆は少し後悔した。
そんな簡単に聞いていいことではなかった。
けれど、澪子は怒らなかった。
ただ、手紙の端を指先で押さえた。
「読んだら、待った夜が変わってしまう気がしたんよ」
「変わる?」
「うん」
澪子は静かに頷いた。
「私は、あの夜、ひとりで待った。それだけは、ほんとのことやった」
「うん」
「晴臣さんが来んかったことも、ほんとのことやった」
「うん」
「でも、この手紙を読んだら、もしかしたら理由が書いてあるかもしれんと思った」
「理由……」
「読んだら、許してしまいそうやった」
澪子の声は、驚くほど穏やかだった。
けれど、その穏やかさが痛かった。
「許したら、だめやったん?」
「だめではないよ」
「じゃあ」
「でも、あの夜ひとりで待った私が、置いていかれる気がしたんよ」
夏帆は言葉を失った。
澪子は封筒を見つめている。
その目は、今の居間ではない場所を見ているようだった。
白灯台の下。
潮が引いた浜。
祭りの灯りが遠くにあった夜。
「来られんかった理由があったとしても、私は待ったけんね」
「来られんかった理由があったとしても、私は待ったけんね」
その一言が、夏帆の胸に落ちた。
晴臣に理由があったとしても。
約束を忘れていなかったとしても。
澪子が一人で待った夜は、消えない。
その夜の長さも、寒さも、波の音も、潮が戻り始めた時の心細さも、なかったことにはならない。
夏帆は、第10話の夜を思い出した。
湊と二人で待っていた時間でさえ、あんなに長かった。
もし一人だったら。
もし、来るはずの人が来なかったら。
澪子が手紙を読めなかった理由が、少しだけわかった気がした。
澪子は封筒を夏帆の方へそっと押し出した。
「夏帆」
「うん」
「読んでくれる?」
夏帆は、思わず澪子を見る。
「私が読んでいいん?」
「夏帆に、読んでほしい」
「でも、これはおばあちゃんへの手紙やろ」
「そうなが」
「だったら」
「私ひとりでは、まだ読めんが」
澪子の声は小さかった。
けれど、確かだった。
「読まんままでも、もうおれん気がする」
夏帆は、封筒を見た。
何十年も閉じられていた言葉。
澪子が一人では開けられなかった過去。
それを、自分が受け取ろうとしている。
怖かった。
でも、逃げたくなかった。
「……うん」
夏帆はゆっくり頷いた。
夏帆は、澪子が何十年も開けられなかった言葉を受け取った。
封筒の紙は、思っていたより薄かった。
開け口は一度開かれていて、きれいに折り直されている。
澪子が最初だけ読んで閉じたという、その痕跡が残っていた。
夏帆は中から便箋を取り出した。
古い紙の匂いがする。
字は、封筒と同じように丁寧だった。
けれど、ところどころに迷いが見える。
何度も書き直した人の字だった。
夏帆は一度、澪子を見る。
澪子は小さく頷いた。
夏帆は便箋に視線を落とし、声に出して読み始めた。
「澪子さんへ」
その一行だけで、澪子の指先が少し動いた。
夏帆は息を整え、続きを読んだ。
「約束の夜、灯台へ行けなくてごめんなさい。
君が待っていたかもしれないと思うと、どう書いても言い訳になる気がして、何度も書き直しました」
夏帆の声が、少しだけ揺れた。
澪子は黙って聞いている。
湯呑みの中のお茶は、もう冷めているはずだった。
「僕は、約束を忘れたわけではありません」
夏帆はそこで、一度言葉を止めた。
僕は、約束を忘れたわけではありません。
その一文は、何十年も澪子に届かなかった。
届いていたのに、読まれなかった。
読まれなかったから、澪子の中の晴臣はずっと「来なかった人」のままだった。
夏帆は、唇を引き結ぶ。
それから、続きを読んだ。
「祭りの灯りを見ながら、ずっと灯台のことを考えていました。
潮が引いたら現れる浜を、君と一緒に見たいと思っていました。
君が教えてくれた場所を、君と一緒に見たかった」
澪子は目を伏せた。
夏帆はその横顔を見る。
そこには、今の祖母と、十七歳の少女が同時にいるように見えた。
「でも、あの日、東京の家から急な知らせが来ました。
詳しいことはここには書けません。
ただ、その日のうちに八幡浜へ戻り、翌朝には発たなければならなくなりました」
夏帆は、ゆっくり息を吸った。
ここから先が、澪子が読めなかった部分なのかもしれない。
澪子の肩が、わずかに強張っている。
でも、止めてとは言わなかった。
「僕は灯台へ行くと言いました。
けれど、島を出る船の時間が迫っていて、大人たちは待ってくれませんでした。
君に伝えに行く時間もありませんでした。
祭りの人混みの中で君を探そうとしました。
でも、見つけられませんでした」
夏帆の声が、自然と小さくなる。
晴臣の字は丁寧なのに、そこだけ少し乱れていた。
急いでいたのか。
思い出しながら、手が震えたのか。
「船が港を離れる時、白灯台の方をずっと見ていました。
君がそこにいるかもしれないと思いました。
そう思いながら、僕は何もできませんでした」
夏帆は、そこで読み止まった。
君がそこにいるかもしれないと思いました。
そう思いながら、僕は何もできませんでした。
居間の中が静かになる。
外の虫の声だけが聞こえた。
澪子は何も言わない。
夏帆も、すぐには続きが読めなかった。
白灯台の下で待っていた澪子。
船から白灯台の方を見ていた晴臣。
二人は、同じ夜に、同じ場所を思っていた。
でも、会えなかった。
会えないまま、潮は戻った。
船は離れた。
夏が終わった。
夏帆は便箋を握る指に力を込めすぎないように気をつけた。
そして、続きを読む。
「澪子さん。
僕は、汐待島で見たものを忘れません。
港の匂いも、坂道も、白灯台も、祭りの灯りが海に映るところも。
君が、何もない島だと言ったことも。
僕が、何もないから綺麗なんだと言ったことも」
澪子の口元が、ほんの少し動いた。
笑ったのか、泣きそうになったのか、夏帆にはわからなかった。
「そして、灯台の下で笑っていた君のことも」
夏帆は、写真を思い出した。
白灯台の下で笑う、十七歳の澪子。
晴臣は、あの顔を覚えていた。
忘れなかった。
でも、会いに行けなかった。
「あの浜を見る約束を、僕は果たせませんでした。
約束を破ったことは、どんな理由があっても消えません。
君が僕を怒っているなら、それでいいと思います。
怒られることさえできないまま帰ってしまったことが、今は一番苦しいです」
夏帆の声が、ここで少し詰まった。
澪子は顔を上げなかった。
夏帆は、便箋の字を追う。
「もし、いつかもう一度会えるなら、その時は言い訳ではなく、ちゃんと謝りたいです。
でも、会えないかもしれないとも思っています。
だから、この手紙を書きました」
次の行を読む前に、夏帆は一度だけ目を閉じた。
晴臣の文字は、最後に近づくほど少しだけ整っていた。
何度も迷って、それでも書かなければならないと思った人の字だった。
「この手紙を読んでもらえるかはわかりません。
それでも、書かずにはいられませんでした。
晴臣」
夏帆は、そこで読み終えた。
この手紙を読んでもらえるかはわかりません。
それでも、書かずにはいられませんでした。
声が消えたあとも、居間には手紙の言葉が残っているようだった。
澪子は、長い間黙っていた。
夏帆は便箋を畳まずに、そっとちゃぶ台の上へ置く。
手が少し震えていた。
晴臣は忘れていなかった。
約束を軽く扱ったわけではなかった。
白灯台へ行こうとしていた。
でも、行けなかった。
そのことがわかっても、夏帆の胸は軽くならなかった。
むしろ、痛みは複雑になった。
誰かが悪かったと決められたら、もっと簡単だったのかもしれない。
でも、そうではなかった。
晴臣には晴臣のどうにもできない事情があった。
澪子には澪子の、消えない夜があった。
「来られんかったんやね」
澪子が、ぽつりと言った。
「おばあちゃん」
「来なかったんやなくて、来られんかったんやね」
「うん」
「そうやったんやね」
澪子の声は、驚くほど静かだった。
怒りも、泣き声も、そこにはなかった。
ただ、長い時間の向こうに置き去りにされていた言葉を、ようやく拾い上げたような声だった。
澪子は便箋を見つめる。
そして、少しだけ笑った。
その笑みは、夏帆が見たことのないものだった。
少女のようで、おばあちゃんのようで、どちらでもある顔。
「でも、私は待ったがよ」
「でも、私は待ったがよ」
夏帆は頷いた。
「うん」
「潮が戻るまで、待った」
「うん」
「それは、なくならんね」
「うん」
澪子は目を伏せた。
「晴臣さんが来られんかったことも、ほんとのこと」
「うん」
「私が待ったことも、ほんとのこと」
「うん」
「どっちも、ほんとのことながね」
夏帆は、言葉を探した。
けれど、見つからなかった。
ただ頷くことしかできない。
澪子はそれ以上、晴臣を責めなかった。
許すとも言わなかった。
ただ、来られなかったのだと受け止め、でも自分は待ったのだと言った。
その両方を抱えている祖母が、夏帆にはとても強く見えて、同時に、とても痛そうに見えた。
「読んで、よかった?」
夏帆は小さく聞いた。
澪子はすぐには答えない。
手紙を見つめたまま、長い息を吐いた。
「今は、わからん」
「うん」
「でも、読まんままよりはええ」
「うん」
「夏帆、読んでくれてありがとう」
その言葉で、夏帆の目の奥が熱くなった。
「……うん」
それ以上言うと泣いてしまいそうで、夏帆は俯いた。
澪子も泣かなかった。
ただ、ちゃぶ台の上の手紙を、長い間見つめていた。
夏帆は、晴臣の後悔と、澪子の待った夜を、どちらも消せないのだと思った。
しばらくして、澪子は便箋をそっと手に取った。
夏帆は思わず顔を上げる。
澪子は、手紙を丁寧に折り直した。
黄ばんだ封筒へ戻す。
その動きはゆっくりで、どこか大切なものを扱う手つきだった。
以前のように、見たくないものをしまい込む動きではなかった。
澪子は封筒を手にしたまま、古い箱を見た。
夏帆は黙って見守る。
澪子は少し迷った。
けれど、封筒を箱には戻さなかった。
ちゃぶ台の上に、そっと置く。
それだけのことなのに、夏帆には大きなことのように思えた。
何十年も箱の中に閉じ込められていた手紙が、今、居間の明かりの下にある。
澪子の前にある。
夏帆の前にある。
やっと、この夜の空気に触れている。
「湊くんには」
澪子が静かに言った。
「話してええよ」
「いいの?」
「晴臣さんのお孫さんやけんね」
「うん」
「でも、夏帆の言葉で話してあげて」
「私の言葉で?」
「そう。手紙に書いてあったことだけやなくて、夏帆が見たことも」
澪子は夏帆を見る。
「約束の浜を見た夏帆の言葉で」
夏帆は、ゆっくり頷いた。
「うん」
その夜、布団に入ってからも、夏帆は眠れなかった。
隣の部屋には、澪子の気配がある。
もう寝ているのか、まだ起きているのかはわからない。
居間のちゃぶ台の上には、あの手紙がある。
箱には戻されなかった手紙。
読まれなかった手紙が、ようやく読まれた夜。
夏帆はスマホを手に取った。
画面を開き、湊とのメッセージ画面を出す。
何から伝えればいいのかわからなかった。
全部を文字で送るには重すぎる。
でも、何も言わないまま朝を待つこともできなかった。
夏帆は、ゆっくり文字を打った。
『手紙があった』
送信する。
すぐには続けられなかった。
少しして、既読がついた。
湊からの返信はなかった。
たぶん、待っている。
夏帆が続きを送るのを。
夏帆はもう一度、画面に向かう。
『晴臣さんから、おばあちゃんへの手紙』
『読んだ』
『約束を忘れてたわけじゃなかったみたい』
『でも、おばあちゃんは待ってた』
送ったあと、夏帆はスマホを握ったまま目を閉じた。
しばらくして、湊から返信が届いた。
『明日、会える?』
『ちゃんと聞きたい』
夏帆は、短く返した。
『うん』
画面の光が、暗い部屋の中で小さく揺れている。
夏帆はスマホを伏せ、天井を見上げた。
晴臣は来られなかった。
澪子は待った。
その二つを、明日、湊に伝えなければならない。
きっと湊も痛い。
でも、知らないままではいられない。
夏帆は目を閉じる。
白灯台。
約束の浜。
祭りの灯り。
晴臣の手紙。
澪子の声。
全部が、静かに胸の中で揺れていた。
澪子は、手紙を封筒へ戻した。
けれど、古い箱の中へは戻さなかった。
ちゃぶ台の上に置かれた封筒は、長い時間を越えて、ようやく夜の空気に触れていた。
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