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汐待島で、君と夏を渡る  作者: 碓氷さゆ


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13/16

第13話 どちらも本当

 翌朝、夏帆が目を覚ますと、台所から味噌汁の匂いがしていた。

 祖母の家の朝は、昨日の夜がどれだけ重くても、いつも通りに始まるらしい。

 蝉の声。

 古い家の木の匂い。

 台所で食器が触れる音。

 障子越しに入る白い朝の光。

 夏帆は布団の上でしばらく天井を見つめていた。

 眠れたのか、眠れていないのか、自分でもよくわからない。

 目を閉じるたびに、晴臣の手紙の文字が浮かんだ。

 約束を忘れたわけではありません。

 船が港を離れる時、白灯台の方をずっと見ていました。

 そう思いながら、僕は何もできませんでした。

 そして、澪子の声。

 でも、私は待ったがよ。

 どちらも、朝になっても消えていなかった。

 夏帆が居間へ行くと、ちゃぶ台の上に封筒が置かれていた。

 薄く黄ばんだ、朝倉晴臣から澪子への手紙。

 古い箱は、居間の隅に戻されている。

 けれど、手紙だけは箱に戻されていなかった。

 昨日の夜と同じように、ちゃぶ台の上にある。

 朝の光を受けて、封筒の色が少しだけ薄く見えた。

 手紙は、まだ箱に戻されていなかった。

「おはよう」

 台所から澪子が顔を出した。

「おはよう。眠れたが?」

「あんまり」

「私もなが」

 澪子は苦笑した。

 その顔は少し疲れていたけれど、昨日より少しだけ柔らかく見えた。

 夏帆はちゃぶ台の前に座る。

 視線は、どうしても手紙へ向いてしまう。

「手紙……」

「まだ、しまわんでええ気がしてね」

「うん」

 夏帆は小さく頷いた。

 それだけで、胸の奥が少し熱くなる。

 箱に戻さない。

 たったそれだけのことなのに、澪子の中で何かが少し変わったのだとわかる。

 手紙は、もう読まれなかったものではない。

 読まれたものとして、今の時間に置かれている。

 朝食の席で、澪子はいつも通り味噌汁と焼き魚を出してくれた。

 ご飯の湯気が上がる。

 味噌汁の椀を持つと、手の中が温かくなった。

 その日常の温かさが、昨日の夜の手紙の重さと不思議に並んでいた。

「今日、湊くんに会う」

 夏帆が言うと、澪子は箸を止めずに頷いた。

「そう」

「手紙のこと、話してもいい?」

「うん」

「ほんとに?」

「晴臣さんのお孫さんやけんね」

 澪子は手紙の方を一度見た。

 それから、夏帆へ視線を戻す。

「知る権利はあるがよ」

「手紙、見せる?」

 夏帆が聞くと、澪子は少しだけ考えた。

「いつかは、見てもええかもしれん」

「うん」

「でも、まずは夏帆の言葉で話してあげて」

「私の言葉で」

「そう。手紙に書いてあったことだけやなくて、夏帆が見たことも」

 澪子の声は静かだった。

「約束の浜を見た夏帆の言葉で」

 夏帆は、箸を持つ手を止めた。

 自分の言葉で。

 それは少し怖かった。

 手紙をそのまま読めば、晴臣の言葉を伝えるだけで済む。

 でも、自分の言葉で話すということは、夏帆自身が受け取ったものも一緒に渡すということだ。

 澪子が待った夜。

 晴臣が来られなかった事情。

 どちらも消せないということ。

 それを、湊に伝えなければならない。

「うん」

 夏帆は頷いた。

「ちゃんと、話してくる」

 朝食を終えて、夏帆は八幡浜港へ向かった。

 昨日の夜とは違い、町はもう明るかった。

 坂道には朝の日差しが落ち、古い商店のシャッターの前に影が伸びている。どこかの家から掃除機の音が聞こえ、猫が塀の上をゆっくり歩いていた。

 港へ近づくと、潮の匂いが濃くなる。

 フェリー乗り場の前には、いつも通りの人の流れがあった。仕事へ向かう人、荷物を抱えた人、時刻表を見上げる人。

 昨日の夜、汐待島から帰ってきた時のざわめきはもうない。

 祭りの余韻も、提灯の灯りも、太鼓の音もない。

 港は、いつもの朝に戻っていた。

 けれど、夏帆はもう同じようには見られなかった。

 この海の向こうに汐待島がある。

 白灯台がある。

 潮が引けば現れる浜がある。

 そして、何十年も読まれなかった手紙が、祖母の家のちゃぶ台の上に置かれている。

 同じ港なのに、夏帆はもう、昨日までと同じ目では見られなかった。

 湊は、待合所の近くに立っていた。

 やっぱり早い。

 黒いリュックを背負い、首からカメラを下げている。けれど、いつものように周囲を見たり、写真を撮ったりはしていなかった。

 ただ、海の方を見ていた。

「早いね」

 夏帆が声をかけると、湊は振り向いた。

「少し」

「今日は、本当に少し?」

 湊は一瞬だけ黙った。

「……二十分くらい」

「やっぱり」

「落ち着かなかった」

 湊の声は素直だった。

 夏帆は少しだけ笑いそうになったけれど、うまく笑えなかった。

「うん。私も」

 二人は待合所から少し離れ、港の端のベンチへ向かった。

 朝の海は、穏やかだった。

 水面は淡い青で、昨日の夜に約束の浜を隠していた海と同じものには見えない。

 ベンチに座ると、しばらく二人とも話さなかった。

 湊は手を膝の上で組んでいる。

 指先に力が入っているのがわかった。

 夏帆は、澪子の言葉を思い出す。

 夏帆の言葉で話してあげて。

 夏帆は息を吸った。

「手紙ね」

「うん」

「晴臣さんから、おばあちゃんへの手紙やった」

 湊は小さく頷いた。

「うん」

「約束の夜に、灯台へ行けなかったことを謝ってた」

 湊の指が、少しだけ動いた。

 夏帆は言葉を選びながら続ける。

「晴臣さん、約束を忘れてたわけじゃなかった」

「晴臣さん、約束を忘れてたわけじゃなかった」

 湊は何も言わなかった。

 ただ、目を伏せる。

 その沈黙が、少しだけ震えているように見えた。

 夏帆は、海の方へ目を向けた。

 正面から湊を見ると、うまく話せなくなりそうだった。

「祭りの灯りを見ながら、ずっと灯台のことを考えてたって。潮が引いたら出る浜を、おばあちゃんと一緒に見たかったって」

「……うん」

「でも、その日に東京の家から急な知らせが来て、島を出なきゃいけなくなったって」

「島を」

「うん。その日のうちに八幡浜へ戻って、翌朝には発たなきゃいけなかったみたい」

 湊は唇を引き結んだ。

「祖父は」

「灯台へ行くって言ったって。でも、船の時間が迫ってて、大人たちは待ってくれなかったって」

 夏帆は、晴臣の手紙の字を思い出す。

 その部分だけ、少し乱れていた字。

 言い訳になることを恐れて、それでも書かずにはいられなかった言葉。

「おばあちゃんを探そうとしたけど、祭りの人混みで見つけられなかったって」

「……」

「船が港を離れる時、白灯台の方を見てたって」

 湊の肩が、わずかに強張った。

「おばあちゃんがそこにいるかもしれないと思ったって」

 夏帆はそこで一度言葉を切った。

 喉の奥が詰まる。

 昨夜、手紙を読んだ時と同じ場所で、また胸が痛くなる。

「そう思いながら、何もできなかったって書いてた」

 湊は、しばらく動かなかった。

 朝の海が、静かに揺れている。

 近くでカモメの声がした。

 それでも、二人の周りだけ音が遠くなったようだった。

「……そう」

 やっと湊が言った。

 それだけだった。

 でも、その一言に、いろいろなものが詰まっているのがわかった。

 安心。

 痛み。

 戸惑い。

 祖父を信じたい気持ち。

 澪子を待たせた事実。

 夏帆は、急がなかった。

 湊が言葉を探すのを待った。

「よかった、って言っていいのかわからない」

 湊は、海を見たまま言った。

「うん」

「祖父が忘れてなかったのは、よかったと思う」

「うん」

「でも、それで澪子さんが待ったことがなくなるわけじゃない」

「うん」

「俺、少し安心した」

 湊は自分の手元を見る。

「でも、安心したことに罪悪感がある」

 夏帆は、湊の横顔を見た。

 湊は、救われたようには見えなかった。

 祖父が約束を忘れていなかったと知って、少しだけ息ができるようになったはずなのに、その息をすることさえ苦しそうだった。

 湊は、救われたことさえ苦しそうだった。

「それも、ほんとのことやと思う」

 夏帆は言った。

 湊がこちらを見る。

「安心したこと?」

「うん」

「でも」

「晴臣さんが忘れてなかったって知って、湊くんが少し安心したのも本当やと思う」

 夏帆は、澪子の言葉を思い出す。

 来られんかった理由があったとしても、私は待ったけんね。

「でも、おばあちゃんが待ったことも本当」

「うん」

「晴臣さんは、来なかったんじゃなくて、来られなかった」

「うん」

「でも、おばあちゃんは待った」

「うん」

「どっちかだけが本当なんじゃなくて」

 夏帆は、少しだけ息を吸う。

 昨日の夜、自分の中でようやく形になった言葉を、湊へ渡す。

「どちらも本当なんだと思う」

 湊はすぐには答えなかった。

 その言葉を、ゆっくり受け取っているようだった。

 朝の港の風が、二人の間を通り抜ける。

 しばらくして、湊は小さく頷いた。

「どちらも、本当」

「うん」

「そうだね」

 湊は目を伏せる。

「祖父は約束を忘れてなかった。でも、澪子さんは待った」

「うん」

「祖父は行けなかった。でも、澪子さんは一人だった」

「うん」

「それを、どっちかだけにしたらだめなんだ」

 夏帆は頷いた。

 それが正しい答えなのかはわからない。

 でも、今の二人に言えるのは、それだけだった。

 誰か一人だけを救うために、誰かの痛みを消してはいけない。

 晴臣の後悔も。

 澪子の待った夜も。

 どちらも同じように、あの夏に残っている。

 湊は首から下げたカメラに触れた。

 昨日の祭りでは、提灯や海に映る灯りを撮っていた。

 でも今日は、カメラを構えない。

「祖父の遺品、もう一度見直したい」

「写真?」

「写真も、手帳も。何か残ってるかもしれない」

「急な知らせのこと?」

「うん。それに、汐待島の写真が他にもあるかもしれない」

 湊の声は、さっきより少しだけはっきりしていた。

「今までは、写真の場所を探してた」

「うん」

「でも、たぶんそれだけじゃ足りない。祖父が何を見て、何を残そうとしたのか、ちゃんと見たい」

「見るの、怖くない?」

「怖い」

 湊は即答した。

 それから、少しだけ苦笑する。

「怖い。でも、見たい」

「そっか」

「祖父をかばうためじゃなくて」

「うん」

「澪子さんを傷つけたことをなかったことにするためでもなくて」

「うん」

「知りたい」

 その言葉は、第9話で祭りの灯りを見た時の湊の言葉と同じだった。

 知りたい。

 責めるだけでも、許すだけでもなく。

 ただ、知ろうとする。

 夏帆は、その姿勢が湊らしいと思った。

 慎重で、怖がりで、でも逃げない。

「おばあちゃんね」

 夏帆は言った。

「手紙を箱に戻さなかった」

 湊が顔を上げる。

「……そう」

「ちゃぶ台の上に置いたままにした」

「それは、すごく大きいことだと思う」

「うん」

「何十年も箱の中にあったものを、戻さなかったんだ」

「うん」

 夏帆は、朝のちゃぶ台の上に置かれた封筒を思い出す。

 昨日まで閉じられていた過去。

 今は、少しだけ現在の空気に触れている。

「澪子さんに、謝った方がいいのかな」

 湊が小さく言った。

 夏帆は首を横に振る。

「湊くんが謝ることじゃないって、たぶんおばあちゃんは言う」

「うん。言いそう」

「でも、いつか会って話してもいいと思う」

「俺が?」

「うん」

「何を言えばいいのかわからない」

「わからないままでも、いいんじゃないかな」

 夏帆は海を見た。

 朝の水面は穏やかで、昨日の夜の約束の浜を隠していた海とはまるで違っている。

 でも、同じ海だ。

「私も、おばあちゃんに何を言えばいいかわからんまま聞いた」

「うん」

「でも、聞かなかったら、手紙はまだ箱の中やった」

 湊は静かに頷いた。

 二人の間に、しばらく沈黙が落ちる。

 それは気まずい沈黙ではなかった。

 考えるための沈黙だった。

「悲しいまま終わらせたくないね」

 夏帆は、自分でも思っていなかった言葉を口にした。

 湊がこちらを見る。

「澪子さんと、祖父のこと?」

「うん」

「でも、何ができるんだろう」

「わからん」

 夏帆は正直に言った。

「でも、わからんけど、このまま『来られなかった』『待っていた』だけで終わるのは、なんか嫌」

「うん」

「おばあちゃんが手紙を箱に戻さなかったなら、まだ終わってない気がする」

 湊は、ゆっくり海へ視線を戻した。

「俺、宿に戻ったら、祖父の写真をもう一度見る」

「うん」

「手帳も持ってきてる。全部じゃないけど、写しと、何冊か」

「そんなに持ってきとったん?」

「気になったものだけ」

「湊くんらしい」

「役に立つかはわからない」

「でも、見よう」

「うん」

 湊は頷いた。

「何か見つかったら、すぐ連絡する」

「私も、おばあちゃんにもう少し聞いてみる」

「無理しないで」

「うん」

「また言った」

「もう慣れた」

 夏帆がそう言うと、湊は少しだけ笑った。

 その笑顔は、朝の光の中でまだぎこちなかった。

 でも、昨日よりほんの少しだけ前を向いているように見えた。

 夏帆も、少しだけ息がしやすくなる。

 真実は、誰か一人だけを救うものではなかった。

 でも、誰かを前に進ませるきっかけにはなるのかもしれない。

 八幡浜港の朝の海は、静かだった。

 昨日の夜、約束の浜を隠した海と同じ海だとは思えないほど、穏やかだった。

 けれど夏帆はもう知っている。

 静かな水面の下に、まだ見えていないものがある。


お読みいただきありがとうございます。

夏帆たちがたどる、祖母たちの夏を見守っていただけたら嬉しいです。

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