第14話 残された写真
ここから、祖母たちの夏に少しずつ触れていきます。
港近くの待合所は、昼前の光で明るかった。
窓の外には八幡浜港が見えている。船の出入りは少なく、待合所の中にいる人もまばらだった。
観光客らしい人が時刻表を見上げ、少し離れたベンチでは年配の男性が新聞を読んでいる。空調の音と、外から入ってくる潮の匂いが、静かな場所にゆっくり混ざっていた。
夏帆は、待合所の端の席に座っていた。
目の前のテーブルには、湊が持ってきたものが並んでいる。
古い封筒。
小さなアルバム。
革の表紙が少し擦れた手帳。
どれも、晴臣の遺品だった。
湊はそれらを、とても慎重な手つきでテーブルの上へ置いた。
「それ、全部晴臣さんの?」
「全部じゃない。気になったものだけ持ってきた」
「気になったものだけで、その量?」
「……多い?」
「湊くんらしい」
夏帆がそう言うと、湊は少しだけ困ったように目を伏せた。
でも、今日の湊はいつもよりさらに慎重だった。
封筒に触れる時も、アルバムを開く前も、指先が一瞬止まる。
祖父の遺品を見る。
ただそれだけではない。
昨日、手紙の内容を知ったあとで見る晴臣の写真だ。
そこには、今までと違う意味がある。
「見ても大丈夫?」
湊が聞いた。
夏帆は湊を見る。
「私?」
「うん。澪子さんの写真が出てくるかもしれない」
「……うん」
「勝手に扱いたくない」
「私も」
夏帆は小さく頷いた。
これは湊の祖父の遺品だ。
でも、写っているかもしれないのは夏帆の祖母だ。
晴臣の夏であり、澪子の夏でもある。
どちらか一人だけのものではない。
「見つけたら、どうするか一緒に考えよう」
湊が言った。
「うん」
「澪子さんに見せるかどうかも」
「うん。おばあちゃんに選んでもらいたい」
「それがいいと思う」
湊はそう言って、最初の封筒を開いた。
中から出てきたのは、何枚もの古い写真だった。
角が少し丸くなっている。
色も今の写真とは違って、夏の光が時間の中で少し褪せたような色をしていた。
最初の一枚は、港の写真だった。
小さな船着き場。
低い防波堤。
白っぽく褪せたコンクリート。
その奥に、古い待合所と、坂へ続く細い道が写っている。
夏帆は思わず身を乗り出した。
「これ、汐待港やね」
「うん。たぶん」
「今と、あんまり変わってない」
湊は写真をじっと見つめる。
「祖父は、ここに着いたんだ」
「うん」
次の写真には、神社の鳥居が写っていた。
少し褪せた朱色の鳥居。
その向こうに続く石段。
夏草が脇に伸びている。
昼間、夏帆と湊が白灯台へ向かう時に通った道だった。
「この石段、白灯台へ行く途中の」
「昨日歩いた道」
「晴臣さんも、同じ道を見てたんやね」
「うん」
湊の声は静かだった。
写真をめくるたびに、汐待島の風景が一つずつ現れる。
坂道の石垣。
海に干された網。
港近くの細い路地。
白い雲と、強い陽射し。
遠くに海が見える集落。
どれも、夏帆が歩いた島と同じ場所だった。
古い写真の中にあるのに、どこか身体が覚えているような景色。
夏帆は胸の奥が静かにざわつくのを感じた。
写真の中の汐待島は、夏帆が歩いた島と同じ場所だった。
でも、同じではない。
そこに写る時間は、澪子が十七歳だった夏だ。
晴臣がカメラを持って歩いた夏だ。
夏帆たちが見た島の奥に、その夏が重なっている。
湊は一枚ずつ、ほとんど息を止めるように見ていた。
祖父の写真を、ただの手がかりとしてではなく見ているのがわかった。
写真に写っている場所の名前を探すのではなく、晴臣が何を見たのかを探している。
「祖父、本当にいろいろ撮ってたんだ」
「うん」
「場所を記録するためじゃなくて」
「綺麗やと思ったから?」
「たぶん」
湊は、小さく頷いた。
その手が、次の写真で止まった。
提灯の灯りだった。
夜の写真だから、少しぶれている。
赤と橙の小さな光が、線のように伸びていた。背景は黒く、海に映った灯りがゆらゆらと滲んでいる。
ピントは甘い。
けれど、そのぶれた光が、かえって夜の祭りの空気をそのまま閉じ込めているように見えた。
「これ、祭りの灯り」
夏帆が呟く。
「ぶれてる」
「おばあちゃんが言ってた」
湊が夏帆を見る。
「ぶれてる写真も、それがええんやって晴臣さんが言ってたって」
湊は、もう一度写真を見た。
「祖父、本当にそういう写真を撮ってたんだ」
「うん」
夏帆は写真の灯りを見つめる。
澪子が語った祭りの灯り。
何十年も前、晴臣が珍しそうに撮っていた灯り。
その記憶は、澪子の中だけではなく、写真の中にも残っていた。
澪子の記憶の中にあった灯りが、写真の中にも残っていた。
湊はその写真をしばらく動かさなかった。
手紙の中にあった言葉が、夏帆の中にも蘇る。
祭りの灯りが海に映るところも。
晴臣は、忘れなかったと書いていた。
そして本当に、写真に残していた。
残そうとしていた。
でも、それは澪子には届かなかった。
何十年も、箱の中にも、湊の家の遺品の中にも、ただ残っていただけだった。
湊は、静かに次の写真をめくった。
そして、息を止めた。
写真の中に、少女の後ろ姿があった。
白灯台へ続く坂道を歩いている。
濃い色の髪。
軽く揺れるスカート。
片手には何か小さな袋のようなものを持っている。
顔は写っていない。
けれど、夏帆にはすぐにわかった。
「これ……」
「澪子さん?」
湊の声が少し低くなる。
「たぶん」
「後ろ姿なのに?」
「わかる」
夏帆は、写真から目を離せなかった。
後ろ姿なのに、わかる。
姿勢や、首の角度や、少しだけ早足に見える歩き方。
今の澪子とは違う。
けれど、確かに澪子だった。
写真の中の少女は、まだ振り返っていない。
白灯台へ続く道を、迷いなく歩いている。
その少し後ろから、晴臣が撮ったのだろう。
追いかけるように。
見失わないように。
「祖父は、澪子さんを見てたんだね」
湊が言った。
「うん」
夏帆は頷く。
ただ風景の中に偶然写った人ではない。
晴臣は、この後ろ姿を撮ろうとして撮っている。
澪子が歩く先に白灯台があり、晴臣の視線はその背中を追っている。
それが、どうしようもなく伝わってきた。
夏帆の胸がきゅっと痛くなる。
写真の中の澪子は、まだ知らない。
自分がこのあと約束の浜を教えることも。
祭りの夜に待つことも。
晴臣が来られないことも。
手紙を最後まで読めないまま、何十年も箱にしまうことも。
まだ何も知らずに、ただ夏の道を歩いている。
写真の中の澪子は、まだ誰かを待つ前の顔をしていた。
「これ、おばあちゃんに見せたら」
夏帆は言いかけて、言葉を止めた。
見せたい。
でも、見せるのが怖い。
この写真は、澪子にとってあまりにも近い過去かもしれない。
湊も同じことを考えていたのか、写真から目を離さずに言った。
「無理には、見せない方がいい」
「うん」
「でも」
「うん」
夏帆は小さく頷く。
でも、見せたい。
澪子がまだ待つ夜を知らなかった頃の自分を、見ることに意味がある気がした。
湊はその写真を、丁寧にテーブルの端へ置いた。
次に、別の封筒から白灯台の写真が出てきた。
最初に湊が持っていた写真とは違い、人は写っていない。
白灯台と、空と、海。
夏の光が強くて、灯台の白が少し飛んでいる。
でも、構図はよく似ていた。
晴臣が何度も白灯台を撮っていたことがわかる。
「裏に何か書いてある」
湊が写真を裏返した。
薄く鉛筆で書かれた文字がある。
少しかすれているけれど、読めないほどではない。
「読める?」
夏帆が聞く。
「潮が引く夜にもう一度」
湊の声が止まった。
夏帆も黙る。
湊は、続きを読んだ。
「澪子さんが教えてくれた場所。灯台の下、浜が出る」
手紙と同じだった。
写真の裏にも、手帳にも、晴臣の中には約束の浜が残っていた。
「晴臣さん、本当に行くつもりだったんやね」
「うん」
湊は写真を見つめる。
「楽しみにしてたんだと思う」
「うん」
「祖父も、あの浜を見たかったんだ」
その声には、少しだけ悔しさが混ざっていた。
見たかったのに、見られなかった。
行きたかったのに、行けなかった。
それは晴臣の痛みだ。
でも、待っていた澪子の痛みとは違う。
夏帆は、写真をそっとテーブルへ戻した。
次に開いたのは、晴臣の手帳だった。
湊は表紙を撫でるようにしてから、慎重にページをめくる。
古い紙に、日付と短いメモが書かれていた。
字は手紙よりも少し早書きで、ところどころに線や矢印がある。
夏帆は湊の隣から、ページを覗き込んだ。
汐待港。
澪子さん、灯台案内。
神社石段。
祭り準備。
夕方、海が橙。
短い言葉が並んでいる。
どれも、場所や出来事を忘れないためのメモのようだった。
「これ、すごいね」
「祖父、メモをよく取ってたみたい」
「湊くんと似てる」
「……そうかな」
「うん。几帳面なところ」
湊は少しだけ目を伏せた。
でも、嫌そうではなかった。
ページをめくると、祭りの日のところで湊の手が止まった。
日付は、澪子が待った夜と同じだった。
そこには、他のページよりも乱れた字で、いくつかの言葉が書かれていた。
夕方、連絡。
明朝帰京。
今夜船で八幡浜へ。
灯台へ行けず。
澪子さんに伝えられず。
夏帆は、息を詰めた。
手紙より短い。
理由も、気持ちも、ほとんど書かれていない。
ただ事実だけが、急いで刻まれたように残っている。
そこには、手紙よりも短く、だからこそ逃げ場のない言葉が残っていた。
「これ、約束の日?」
夏帆が聞く。
「日付が同じ」
「……灯台へ行けず」
「うん」
「澪子さんに伝えられず」
湊は、最後の一文を見つめたまま動かなかった。
澪子さんに伝えられず。
手紙にも同じことが書かれていた。
でも、手帳の短い文字で見ると、また違う重さがあった。
その場で何もできなかった晴臣が、あとから自分に向けて書き残した言葉のようだった。
「祖父は、残してたんだ」
湊が言った。
「うん」
「写真にも、手帳にも、手紙にも」
「うん」
「でも、届かなかった」
夏帆は何も言えなかった。
湊の声は静かだった。
でも、その静けさの中に、苦しさがあった。
「写真も手紙も残ってたのに、澪子さんには届かなかった」
「今、届いたんやと思う」
夏帆は言った。
湊がこちらを見る。
「遅すぎるよ」
「うん」
「遅すぎる」
「でも、届かないままよりは」
夏帆は言葉を探す。
「おばあちゃん、手紙を箱に戻さなかった」
「うん」
「たぶん、少しだけ届いたんやと思う」
湊は手帳の上に視線を落とした。
それから、ゆっくり頷いた。
「残すことと、届くことは違うんだね」
その言葉は、湊自身に向けているようにも聞こえた。
残すことと、届くことは違う。
写真を撮ること。
手紙を書くこと。
手帳に残すこと。
それは確かに大切だ。
でも、届かなければ、誰かは待ったままになる。
湊は写真を大切にする。
だからこそ、その事実は彼に深く刺さっているようだった。
「湊くん」
「うん」
「届いたかどうかって、たぶん、残した人にはわからんのやね」
「うん」
「でも、届いた時に、少し動くものもある」
「……うん」
湊は短く答えた。
夏帆は、テーブルの上に並んだ写真を見る。
汐待港。
祭りの灯り。
白灯台。
澪子の後ろ姿。
どれも何十年も残っていた。
けれど、澪子は知らなかった。
今、初めて夏帆たちの前に出てきた。
これを、澪子に見せるべきなのだろうか。
夏帆は、写真の中の後ろ姿へ目を向ける。
「おばあちゃんに見せたい」
そう言うと、湊はすぐには答えなかった。
「大丈夫かな」
「わからん」
「無理には見せない方がいい」
「うん。見るかどうか、おばあちゃんに選んでもらう」
「それがいいと思う」
湊は、テーブルの端に置いた写真を見つめた。
「俺から渡すより、篠原さんからの方がいいと思う」
「うん」
「でも、俺も一緒に行った方がいい時は言って」
「ありがとう」
「謝りたいとか、そういうのとは違うけど」
「うん」
「ちゃんと、届くようにしたい」
夏帆は、その言葉を聞いて、胸が少しだけ温かくなった。
湊はもう、写真をただ残すためだけに見ていない。
届けることを考えている。
それは、晴臣にはできなかったことかもしれない。
でも、今の湊にはできることかもしれない。
夏帆は写真を一枚ずつ見直した。
祭りの灯りの写真も、白灯台の写真も、大切だった。
でも、どうしても目が止まるのは、あの一枚だった。
白灯台へ続く坂道を歩く、澪子の後ろ姿。
まだ振り返っていない少女。
まだ待つ夜を知らない少女。
晴臣が確かに見ていた澪子。
夏帆は、その写真をそっと手に取った。
「これを、見せたい」
「うん」
湊は頷いた。
「俺も、それがいいと思う」
夏帆は写真の中の澪子を見つめる。
そこにいるのは、祖母であり、祖母ではない。
十七歳の少女。
晴臣に見られていた人。
約束の浜を教えようとしていた人。
この写真を見て、澪子がどう思うかはわからない。
また傷つくかもしれない。
少し笑うかもしれない。
何も言えなくなるかもしれない。
でも、見せたいと思った。
この夏が、痛みだけではなかったことを。
晴臣が、本当に澪子を見ていたことを。
夏帆は写真を、祭りの灯りの写真と白灯台の写真の上に重ねた。
そして、一番上に澪子の後ろ姿を置いた。
写真の中の澪子は、白灯台へ続く坂道を歩いていた。
まだ振り返っていない。
まだ、待つ夜を知らない。
夏帆は、その一枚をそっと封筒の上に置いた。
おばあちゃんに、見せたいと思った。
お読みいただきありがとうございます。
夏帆たちがたどる、祖母たちの夏を見守っていただけたら嬉しいです。
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