第15話 写真の中の夏
湊から預かった封筒は、思っていたより軽かった。
けれど、夏帆はそれを両手で持って祖母の家へ向かった。鞄の中に入れてしまうのが、なんとなく怖かった。
封筒の中には、晴臣が撮った写真が数枚入っている。
汐待港。
祭りの灯り。
白灯台。
そして、白灯台へ続く坂道を歩く、若い澪子の後ろ姿。
待合所で別れる前、湊は何度も言った。
「無理には見せないで」
「うん」
「見るかどうか、澪子さんに選んでもらって」
「わかっとる」
「もし見ないって言ったら」
「持って帰る」
「うん」
その時の湊の顔は、いつも通り慎重だった。
けれど、その慎重さが今はありがたかった。
夏帆も、写真を見せたい気持ちだけで祖母の前に出したくはなかった。
これは晴臣が残した写真であり、澪子の夏でもある。
見るかどうかは、澪子が決めるべきだった。
祖母の家の玄関を開けると、家の中は昼の静けさに包まれていた。
「ただいま」
「おかえり」
居間から澪子の声が返ってくる。
夏帆は靴を脱ぎ、封筒を胸元に抱えたまま居間へ向かった。
ちゃぶ台の上には、まだ晴臣の手紙が置かれていた。
黄ばんだ封筒。
その横には湯呑みと、畳みかけの手ぬぐいがある。
古い箱は部屋の隅に置かれている。
けれど手紙は、やはり箱には戻されていなかった。
手紙は、まだ現在の時間に置かれていた。
「手紙、まだそこに置いとるんやね」
夏帆が言うと、澪子はちゃぶ台の向こうで少しだけ笑った。
「うん。しまう気にならんかったが」
「そっか」
「見るたびに、ちょっと腹立つし、ちょっと安心する」
「どっちも?」
「どっちもなが」
澪子はそう言って、手紙を見た。
その表情は昨日よりも落ち着いていた。
けれど、完全に穏やかになったわけではない。
怒りも、安心も、痛みも、懐かしさも、全部が少しずつ混ざっているように見えた。
夏帆は封筒をそっと膝の上に置く。
澪子がそれに気づいた。
「それは?」
「湊くんと、晴臣さんの写真を見た」
「写真」
「うん。汐待島の写真が、いくつもあった」
「……そうなが」
「祭りの灯りも」
澪子の指が、手ぬぐいの上で止まった。
「白灯台も」
「……」
「おばあちゃんらしき人が写っとる写真もあった」
澪子は、ゆっくり夏帆を見た。
「私が?」
「たぶん」
「……見るんは、怖いねぇ」
「見るんは、怖いねぇ」
澪子の声は、とても正直だった。
夏帆はすぐに頷いた。
「うん。だから、見るかどうかはおばあちゃんが決めて」
「夏帆は、見たんやね」
「見た」
「湊くんも?」
「うん」
「そう」
澪子は、ちゃぶ台の上の手紙へ視線を落とした。
それから、古い箱を見る。
最後に、夏帆の膝の上の封筒を見た。
「無理せんでいいよ」
夏帆は言った。
「見なくてもいい」
「うん」
「湊くんも、そう言ってた」
「優しい子やね」
「うん。慎重すぎるくらい」
澪子は少しだけ笑った。
その笑みがすぐに消える。
「でも、読んでしもうたけんね」
「うん」
「ここまで来たら、もう少しだけ見てもええかね」
夏帆は、胸の奥が静かに震えるのを感じた。
「……うん」
封筒を開ける手が、少しだけ緊張で固くなる。
澪子はそれを見て、穏やかに言った。
「ゆっくりでええよ」
「うん」
澪子は、自分で過去を見ることを選んだ。
夏帆は最初に、汐待港の写真をちゃぶ台の上に置いた。
小さな船着き場。
低い防波堤。
古い待合所。
坂へ続く細い道。
澪子は写真をじっと見つめた。
「これ、港」
「うん」
「ここ、昔はもっと賑やかやった」
「そうなん?」
「船が着くたびに、人がよう集まりよったが。荷物も人も、今よりずっと多かった」
澪子の声に、少しだけ懐かしさが混ざる。
夏帆は次の写真を出した。
神社の石段。
夏草に縁取られた、少し褪せた鳥居。
「この石段は?」
「神社のところやね。若い頃は、ここを走って上がりよった」
「おばあちゃんが?」
「私にも若い頃くらいあるがね」
「それは知っとるけど」
「ほんとかねぇ」
澪子は少しだけからかうように笑った。
夏帆も小さく笑う。
写真を見る時間は、思っていたよりも少しやわらかかった。
痛みだけではなかった。
澪子は写真の中の場所を見て、短い思い出を一つずつ取り出す。
港に船が着く時の騒がしさ。
神社の石段を駆け上がったこと。
坂道の石垣に腰かけて、友達と話したこと。
夏帆の知らない澪子が、少しずつ写真の中から現れる。
次に、祭りの灯りの写真を出した。
夜の海に、提灯の赤と橙がぶれて映っている写真。
澪子は、それを見た瞬間、息を止めた。
「これ、祭りの灯り」
「……ぶれとるねぇ」
「おばあちゃん、前に言ってたよね」
「うん」
澪子は指先で、写真の端に触れた。
光の部分には触れない。
それが、夏帆には不思議に大切に見えた。
「これがええんやって、言いよった」
「晴臣さんが?」
「うん。灯りが逃げよるみたいで綺麗やって」
澪子は少しだけ呆れたように笑った。
その笑みは、十七歳の少女に近かった。
「私は、ぶれとるだけやないのって言うたんよ」
「晴臣さんは?」
「ぶれとるからええんやって。動いとる感じがするけんって」
「写真なのに?」
「そう。変な子やろ」
澪子はそう言いながら、写真から目を離さなかった。
ぶれた灯り。
海にほどける光。
晴臣が綺麗だと言ったもの。
澪子がその言葉を、何十年も覚えていたもの。
ぶれた灯りの中に、澪子の記憶と晴臣の視線が重なった。
夏帆は、次の写真を出す前に少し迷った。
白灯台の写真だった。
人は写っていない。
白灯台と、空と、海だけ。
夏の強い光の中に立つ灯台。
澪子はそれを見て、長く息を吐いた。
「これ、白灯台」
「変わらんねぇ」
その声は、とても小さかった。
夏帆は写真を裏返す。
「裏に、書いてあった」
「何が?」
「潮が引く夜にもう一度、って」
澪子の手が止まる。
夏帆は続けた。
「澪子さんが教えてくれた場所。灯台の下、浜が出る、って」
「……そう」
澪子は目を伏せた。
泣きそうではない。
でも、何かをゆっくり受け止めている顔だった。
「覚えとったんやね」
「覚えとったんやね」
その言葉は、怒りではなかった。
責める声でもなかった。
ただ、長い時間の向こうから届いたものを、そっと確かめる声だった。
夏帆は頷く。
「うん。たぶん、ずっと」
「そうなが」
澪子は白灯台の写真を、祭りの灯りの横に置いた。
そして、黙ってその二枚を見比べた。
祭りの灯り。
白灯台。
その二つの間に、約束の浜がある。
夏帆は、最後の写真を手に取った。
白灯台へ続く坂道を歩く、澪子の後ろ姿。
手に持つと、紙一枚なのに、ひどく重く感じた。
「これ……」
夏帆がそっと差し出す。
澪子は写真を受け取った。
最初は、何の写真かわからないように見ていた。
次の瞬間、目が止まる。
長い沈黙が落ちた。
「たぶん、おばあちゃん」
夏帆が言うと、澪子は小さく首を振った。
否定ではなかった。
確かめるような動きだった。
「……私やね」
「わかる?」
「わかるよ」
「後ろ姿なのに?」
「自分の背中くらい、わかるが」
澪子は、写真から目を離さなかった。
白灯台へ続く坂道。
その途中を歩く少女。
まだ振り返っていない。
まだ、これから何が起こるか知らない。
澪子は指先で、写真の端をそっと押さえる。
「この時、覚えとる?」
夏帆が聞く。
澪子はしばらく黙っていた。
やがて、少しだけ笑った。
「晴臣さんが、後ろから写真撮るけん」
「うん」
「早く来んと置いていくがよって、言うた気がする」
「おばあちゃんが?」
「うん」
「晴臣さんは?」
「待って、って言いよった」
その言い方が、少しだけ若かった。
夏帆は胸が詰まる。
写真の中の背中は、確かに軽やかだった。
急かすように前を歩いている。
晴臣を置いていくふりをして、でもきっと本当に置いてはいかない。
その時間には、まだ約束の夜の痛みはない。
ただ、夏があって、坂道があって、白灯台へ向かう二人がいる。
写真の中の澪子は、まだ待つ夜を知らない背中をしていた。
澪子は、長い間その写真を見つめていた。
夏帆は何も言わなかった。
言葉を足したら、この時間を壊してしまいそうだった。
「こんなふうに」
澪子が小さく呟いた。
その声は、写真の中へ落ちていくようだった。
「こんなふうに見られていたんやね」
「こんなふうに見られていたんやね」
「おばあちゃん」
「私は、待った夜ばかり覚えとった」
「うん」
「白灯台も、約束の浜も、晴臣さんのことも、全部そこへ繋げてしもうとった」
澪子は写真の中の自分を見つめている。
「でも、その前にも、こんなふうに歩いとったんやね」
「うん」
「笑って、急かして、島を案内して」
「うん」
「忘れてたわけやないのに、思い出さんようにしとったんかもしれん」
夏帆は頷くことしかできなかった。
澪子が待った夜は消えない。
それは、晴臣の手紙を読んでも変わらなかった。
けれど、その前にあった時間まで消してしまう必要はない。
待った夜だけが、あの夏のすべてではなかった。
澪子は、写真の中の自分に触れるように、指先を写真の端へ添えた。
「こんな背中、撮っとったんやねぇ」
少し困ったような声だった。
でも、そこにはかすかな温かさがあった。
「嫌?」
夏帆が聞くと、澪子は首を振った。
「恥ずかしい」
「うん」
「でも、嫌ではないね」
「そっか」
「自分がこんなふうに残っとるなんて、知らんかった」
澪子は目を細める。
「晴臣さんは、何も言わんかったけど」
「うん」
「こうやって、見とったんやね」
夏帆は、湊のことを思い出した。
白灯台の下で、写真を撮るか迷っていた湊。
「祖母の代わりみたいに撮るのは違う」と言った湊。
湊も、きっと写真に写る人を雑には扱わない。
それは晴臣から受け継いだものなのかもしれない。
澪子は、祭りの灯り、白灯台、後ろ姿の写真を一枚ずつ並べ直した。
その手つきは、昨日手紙を封筒に戻した時と似ていた。
見たくないものをしまい込む手つきではない。
受け取ったものを、今の自分の前に置く手つきだった。
「あの夏は」
澪子が言った。
夏帆は顔を上げる。
「あの夏は、待った夜だけやなかったんよね」
その言葉に、夏帆の目の奥が熱くなった。
「うん」
「ちゃんと、楽しい日もあったんよね」
「うん」
「腹立つねぇ」
「え?」
「忘れんようにしてたつもりで、嫌なところばっかり強く覚えとった」
澪子は少しだけ笑った。
「人の記憶は、勝手なが」
「うん」
「でも、写真は残っとった」
「うん」
「手紙も」
「うん」
澪子は、手紙の封筒を見た。
それから、後ろ姿の写真を手に取る。
夏帆は、澪子がそれを箱へ戻すのかと思った。
でも、澪子は戻さなかった。
手紙の横に、写真を置いた。
祭りの灯りの写真も、白灯台の写真も、その近くに並べる。
ちゃぶ台の上に、手紙と写真が並んだ。
晴臣の言葉。
晴臣の視線。
どちらも、長い時間を越えて、ようやく澪子の前に届いたものだった。
澪子は、後ろ姿の写真を手紙の横に置いた。
箱の中ではなく、ちゃぶ台の上に。
手紙と言葉。
写真と視線。
何十年も別々に残っていたものが、ようやく同じ場所に並んでいた。
お読みいただきありがとうございます。
夏帆たちがたどる、祖母たちの夏を見守っていただけたら嬉しいです。
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