第16話 写真の子の孫
翌朝になっても、ちゃぶ台の上には手紙と写真が並んでいた。
黄ばんだ封筒。
祭りの灯りの写真。
白灯台の写真。
そして、白灯台へ続く坂道を歩く、十七歳の澪子の後ろ姿。
古い箱は部屋の隅にある。
けれど、それらはもう箱の中には戻されていなかった。
朝の光が障子越しに入り、写真の端をやわらかく照らしている。
夏帆は居間の入口で、しばらくそれを見つめていた。
昨日まで、ここにあるものは全部、どこか遠い過去のものだった。
祖母が話さなかった夏。
晴臣が残した手紙。
届かなかった写真。
けれど今、それらはちゃぶ台の上にある。
祖母の家の朝の中にある。
味噌汁の匂いと、蝉の声と、澪子が台所で食器を並べる音の中にある。
手紙と写真は、もう過去だけのものではなくなっていた。
「まだ、しまわんの?」
夏帆が聞くと、澪子は台所から顔を出した。
「うん」
「見えるところにあると、つらくない?」
「つらい時もあるが」
澪子は少しだけ笑った。
「でも、しまう方がつらい気がしてね」
「そっか」
「見えるところにあると、腹も立つし、懐かしいし、忙しいが」
「忙しいんや」
「忙しいよ」
澪子はそう言って、ちゃぶ台の上の写真を見た。
その目は昨日よりも落ち着いていた。
痛みが消えたわけではない。
でも、目を逸らしている目ではなかった。
夏帆はそのことに、少しだけ胸が温かくなる。
澪子は朝食の準備を終えると、夏帆の前に味噌汁を置いた。
それから、自分もちゃぶ台の前に座る。
写真と手紙は、二人の間にある。
澪子は、しばらく写真を見つめていた。
やがて、ふと口を開く。
「晴臣さんのお孫さん、湊くんやったね」
「うん」
「会ってみたいが」
夏帆は箸を止めた。
「え?」
「湊くんに、会ってみたい」
澪子の声は静かだった。
けれど、迷いがないわけではなかった。
怖さを抱えたまま、言葉を前に出している声だった。
「無理せんでいいよ」
「うん」
「昨日、写真見たばっかりやし」
「うん」
「本当に?」
澪子は、手紙の封筒を見た。
それから、後ろ姿の写真を見る。
「怖いけどね」
「うん」
「でも、会わんままにするのも違う気がして」
「おばあちゃん……」
「手紙も、写真も、あの子が持ってきてくれたんやろ」
「うん」
「晴臣さんのお孫さんで、夏帆と一緒に約束の浜まで行ってくれた子やろ」
「うん」
澪子は、少しだけ目を細めた。
「写真の子の孫やけんね」
「写真の子の孫やけんね」
その言い方が、澪子らしいと思った。
晴臣のことを、まだ名前で呼ぶと少し痛いのかもしれない。
でも、「写真の子」と呼ぶ時の声には、かすかな柔らかさがあった。
夏帆は頷いた。
「湊くんに聞いてみる」
「うん。無理は言わんでね」
「わかっとる」
「緊張するやろうし」
「たぶん、すごくする」
「私もするが」
澪子は少し困ったように笑った。
夏帆はスマホを手に取った。
メッセージ画面を開く。
少しだけ迷ってから、文字を打った。
『おばあちゃんが、湊くんに会ってみたいって』
『無理なら急がなくていい』
送信してから、夏帆は画面を見つめた。
すぐに既読がついた。
返事も、すぐだった。
『行く』
『今日でも大丈夫?』
夏帆は思わず澪子を見る。
「来るって」
「早いねぇ」
「うん。湊くんらしい」
続けて、湊からまた届いた。
『写真、持って行った方がいい?』
夏帆は返信する。
『写真はこっちにある』
『湊くんだけ来てくれたらいいと思う』
少し間が空いた。
それから、返事が来た。
『わかった』
『午後に行く』
短い文面なのに、緊張が伝わってくるようだった。
夏帆はスマホを伏せる。
「午後に来るって」
「そう」
澪子は頷いた。
そして、写真をもう一度見た。
「お茶、ちゃんと出さんとね」
「そこ?」
「そこなが」
澪子はいつもの調子で言った。
でも、声は少しだけ震えていた。
午後の光は、朝よりも少し強かった。
玄関の外で物音がして、夏帆はすぐに立ち上がった。
引き戸を開けると、湊が立っていた。
黒いリュックを背負っている。
首からカメラは下げていない。今日は鞄の中にしまっているようだった。
それだけで、湊がこの訪問をどれほど慎重に考えてきたのかがわかった。
「来てくれてありがとう」
夏帆が言うと、湊は小さく首を振った。
「こちらこそ」
「大丈夫?」
「大丈夫じゃない」
「正直」
「でも、行く」
湊は玄関の向こう、家の中へ視線を向ける。
「何を言えばいいか、まだわからない」
「たぶん、それでいいと思う」
「そうかな」
「うん。おばあちゃんも、たぶんわからないまま待ってる」
「……うん」
湊は一度深く息を吸った。
夏帆は少しだけ横へずれる。
「入って」
「お邪魔します」
湊は丁寧に頭を下げて、靴を脱いだ。
いつもより動きが硬い。
夏帆も緊張していた。
居間には澪子がいる。
ちゃぶ台の上には、手紙と写真が並んでいる。
その場所へ、晴臣の孫である湊が入っていく。
何かが大きく動くわけではない。
でも、夏帆には、その数歩がとても重く感じられた。
居間に入ると、澪子はちゃぶ台の前に座っていた。
湯呑みを三つ用意している。
いつもの祖母の家の居間。
けれど、そこに座る澪子の背筋は、いつもより少し伸びていた。
湊は畳の上で正座に近い姿勢になり、深く頭を下げた。
「朝倉湊です」
澪子は、静かに湊を見た。
「三崎澪子です。今は篠原やけどね」
湊が少しだけ目を上げる。
澪子は、小さく笑った。
「そんなに固くならんでええよ」
「……はい」
「お茶、飲んで」
「ありがとうございます」
湊は湯呑みに手を伸ばしたが、すぐには飲まなかった。
澪子はその様子を見て、ふっと目を細める。
そして、湊の顔をじっと見た。
夏帆は、その視線に気づいて息をひそめる。
澪子は、湊の中に何かを探しているようだった。
晴臣の目。
晴臣の輪郭。
昔、白灯台へ続く坂道の後ろからカメラを構えていた少年の面影。
澪子は、湊の中に晴臣の面影を探しているようだった。
「目元が、少し似とるね」
澪子が言った。
湊の指が、湯呑みの縁で止まる。
「祖父に、ですか」
「うん」
「……そうですか」
「嫌やった?」
「いえ」
湊は少しだけ迷ってから、首を振った。
「ただ、初めて言われました」
「そうなが」
「祖父は、俺が知ってる頃にはもう年を取っていたので」
「そうやろうね」
澪子は静かに頷いた。
「私が知っとる晴臣さんは、十七歳の子やったけん」
その言葉に、湊の表情がわずかに揺れた。
湊が知っている祖父。
澪子が知っている晴臣。
同じ人なのに、見ている時代が違う。
夏帆は二人の間で、その違いが少しずつ重なっていくのを感じていた。
湊は、湯呑みを置いた。
「澪子さん」
「うん」
「祖父が」
声が少しだけ詰まる。
それでも、湊は言おうとした。
「祖父が、澪子さんを待たせてしまって」
「湊くん」
澪子の声が、静かに湊を止めた。
湊は口を閉じる。
「すみません」
「それは、あなたが謝ることではないが」
「それは、あなたが謝ることではないが」
澪子の声は厳しくはなかった。
けれど、はっきりしていた。
湊は目を伏せる。
「でも」
「晴臣さんの荷物は、晴臣さんのものやけん」
「……」
「あなたが持つものではないよ」
澪子はちゃぶ台の上の手紙を見る。
それから、写真を見る。
「あなたが持って来てくれたのは、荷物やなくて、言葉と写真やと思うよ」
湊は、ゆっくり顔を上げた。
「言葉と、写真」
「うん」
「でも、それも祖父が残したものです」
「そうやね」
「俺は、見つけただけです」
「見つけてくれんかったら、届かんかったが」
澪子はまっすぐ湊を見た。
その目に責める色はなかった。
「だから、ありがとう」
湊は何も言えなかった。
夏帆も、胸の奥が熱くなって黙っていた。
澪子は湊に謝罪を求めなかった。
でも、湊が来てくれたことを受け取った。
それは、たぶん湊にとっても簡単なことではなかったはずだ。
澪子は、湯呑みに目を落とした。
「晴臣さんはね、写真を撮る時だけ、すごく静かになる子やった」
湊が顔を上げる。
「祖父も、写真を選ぶ時はそうでした」
「そうなが」
「撮った写真を並べて、ずっと見ていました」
「晴臣さんもそうやった」
澪子は少しだけ笑った。
「撮っとる時は真剣で、撮り終わったら少し照れるが」
湊の目が揺れる。
「それも、同じです」
「そう」
「祖父は、写真を人に見せる時、少しだけ嬉しそうでした」
「うん。晴臣さんも、そうやったねぇ」
澪子の声が、ゆっくりほどけていく。
「撮った写真を見せてきて、これ綺麗やろって言うんよ。でも、こっちには何が綺麗なのかすぐにはわからん」
「祖父も、そういうところありました」
「やっぱり?」
「はい」
湊の口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
澪子も笑う。
夏帆は、そのやりとりを見ていた。
湊が知っている祖父。
澪子が知っている十七歳の晴臣。
少しずつ同じところが見つかっていく。
写真を撮る時の真剣さ。
見せる時の照れ。
何でもないものを綺麗だと言うところ。
別々だった記憶が、同じ人へ繋がっていく。
湊の知らない晴臣と、湊の知っている祖父が、少しずつ同じ人になっていった。
「祖父は」
湊が言った。
「俺に写真を教えてくれました」
「そうなが」
「でも、汐待島のことは話してくれませんでした」
「うん」
「澪子さんのことも」
「そうやろうね」
澪子は静かに頷いた。
「言えんかったんやと思うよ」
「言えなかった」
「うん。言うたら、あの夜のことも話さんといけんけん」
「……」
「晴臣さんも、しまっとったんやろうね」
湊は、手紙を見る。
「祖父も」
「うん」
「澪子さんも」
「うん」
「二人とも、しまってた」
「そうやね」
澪子は、少しだけ寂しそうに笑った。
「しまう場所が違っただけやね」
夏帆は、ちゃぶ台の上に並ぶ手紙と写真を見た。
澪子は手紙を箱にしまっていた。
晴臣は写真と手紙と手帳にしまっていた。
しまい方は違っても、二人とも、あの夏を完全には捨てられなかった。
澪子は、写真を一枚手に取った。
祭りの灯りの写真だった。
「この写真、湊くんが選んでくれたんやろ」
「篠原さんと一緒に」
「ありがとう」
「俺は、見つけただけです」
「見つけるのも、大事なが」
澪子は写真をちゃぶ台の中央に置いた。
夏帆も隣に座り直す。
三人で、写真を見た。
祭りの灯り。
白灯台。
澪子の後ろ姿。
湊は、澪子本人がその写真を見る様子を、静かに見守っている。
澪子は前よりも少し落ち着いた顔をしていた。
昨日、写真を初めて見た時のような硬さはない。
もちろん、痛みはある。
でも、それだけではない。
「この後ろ姿の写真」
澪子が言う。
「はい」
「晴臣さん、いつ撮ったんやろうね」
「白灯台へ行く途中だと思います」
「そうやね」
澪子は写真を見つめる。
「私、置いていくがよって言うた気がする」
夏帆が小さく笑う。
「昨日も言ってた」
「そうやったね」
澪子も少し笑った。
湊はその笑いを見て、どこかほっとしたように見えた。
「祖父は、置いていかれたんですか」
湊が聞くと、澪子は首を振った。
「いいや。ちゃんと追いついたよ」
「そうですか」
「写真撮っとらんで早く来んさいって言うたら、走って来たが」
湊が、ほんの少しだけ笑った。
「それは、少し想像できます」
「似とる?」
「祖父なら、たぶん」
「湊くんも、写真撮りよったら置いていかれそうやね」
「……否定できません」
夏帆は思わず笑ってしまった。
居間の空気が、少しだけやわらかくなる。
手紙と写真がある場所で、笑い声が出た。
それだけで、夏帆には大きなことのように思えた。
澪子は、白灯台の写真を手に取った。
しばらく見つめてから、ぽつりと言う。
「白灯台、まだ立っとるんやね」
「うん」
夏帆が頷く。
「写真で見るより、少し古くなっとるけど」
「そうやろうね」
澪子は白灯台の写真を撫でるように見つめた。
「白いまま?」
「うん。塗装は剥げとるところもあったけど、白かった」
「そう」
澪子は目を細める。
その顔に、少しだけ迷いが浮かんだ。
湊が何か言いかけて、止まる。
夏帆も、何も言わなかった。
澪子が自分の言葉で言うのを待った。
やがて、澪子はゆっくり息を吐いた。
「……もう一度、見てもええかもしれんね」
「もう一度、見てもええかもしれんね」
「おばあちゃん」
「今すぐやないよ」
「うん」
「船もあるし、足も昔みたいには動かんし」
「うん」
「でも、写真で見るより、一回くらいは自分の目で見てもええかもしれん」
澪子は白灯台の写真をちゃぶ台の上へ戻した。
「待った夜だけやないって、昨日思い出したけんね」
その言葉に、夏帆は胸の奥がじんと熱くなる。
湊も、静かに頭を下げた。
「もし行くなら、手伝います」
澪子は湊を見た。
「ありがとう。でも、まずは夏帆と相談やね」
「はい」
「湊くんは、すぐ心配しそうやし」
夏帆が言うと、湊は少しだけ眉を下げた。
「それは、します」
「正直」
「危ないよりはいい」
「出た」
澪子がふふ、と笑った。
その笑い声は、昨日より少し軽かった。
湊が帰る頃には、午後の光が少し傾き始めていた。
玄関先で、湊はもう一度深く頭を下げた。
「今日は、ありがとうございました」
「こちらこそ。来てくれてありがとう」
澪子はそう言ってから、少しだけ首を傾げる。
「湊くん」
「はい」
「写真、大事にしとるんやね」
「……はい」
「それは、晴臣さんに似とると思う」
湊は少しだけ息を詰めた。
「ありがとうございます」
「でも、湊くんは湊くんやけんね」
「はい」
「それも、忘れんように」
湊は、ゆっくり頷いた。
「はい」
夏帆は湊を玄関の外まで送った。
坂道の途中まで陽射しが伸びている。
「大丈夫だった?」
夏帆が聞くと、湊は少し考えた。
「大丈夫じゃなかった」
「うん」
「でも、来てよかった」
「うん」
「澪子さんに、会えてよかった」
その言葉は、とても静かだった。
夏帆は頷く。
「おばあちゃんも、会えてよかったと思う」
「そうだといい」
「たぶん」
「たぶん?」
「うん。おばあちゃん、たぶんって言うと怒りそうやけど」
湊は少しだけ笑った。
「また連絡する」
「うん」
「白灯台のことも」
「うん」
湊はもう一度だけ軽く頭を下げ、坂道を下りていった。
夏帆はその背中をしばらく見送った。
居間に戻ると、澪子はちゃぶ台の前に座っていた。
手紙と写真は、まだそこに並んでいる。
湊が帰ったあとも、しまわれていない。
夏帆はその向かいに座った。
「写真の子の孫は」
澪子がぽつりと言った。
「写真の子とは違うね」
「うん」
「でも、少し似とる」
「どこが?」
「見ようとするところ」
澪子は写真を一枚指先で押さえた。
「ちゃんと見ようとするところは、似とるね」
「そっか」
「晴臣さんより、心配性そうやけど」
「そこはすごいよ」
夏帆が言うと、澪子は笑った。
「ええことなが」
「うん」
ちゃぶ台の上には、手紙と写真がある。
でも、そこにある空気は昨日とは違っていた。
昨日はまだ、開いたばかりの痛みがあった。
今日は、その痛みの中に少しだけ人の温度が混ざっている。
湊が来た。
澪子と話した。
晴臣の写真が、晴臣の孫の手を通して、澪子に届いた。
それだけで、何かが少し進んだ気がした。
完全に救われたわけではない。
全部がわかったわけでもない。
でも、止まっていたものが少しずつ動いている。
湊が帰ったあとも、ちゃぶ台の上には手紙と写真が残っていた。
けれど、そこにあった空気は、昨日より少しだけ軽かった。
届かなかったものが、少しずつ届いていく。
夏帆は、そんな気がした。
お読みいただきありがとうございます。
夏帆たちがたどる、祖母たちの夏を見守っていただけたら嬉しいです。
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