表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
汐待島で、君と夏を渡る  作者: 碓氷さゆ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

17/20

第17話 もう一度、白灯台へ

 翌朝、澪子は白灯台の写真を見ていた。

 ちゃぶ台の上には、まだ手紙と写真が並んでいる。祭りの灯り、白灯台、そして若い澪子の後ろ姿。

 古い箱は部屋の隅にあるのに、それらだけは戻されないまま、朝の光の中に置かれていた。

 夏帆が居間へ入ると、澪子は白灯台の写真を指先でそっと押さえていた。

 写真の中の白灯台は、強い夏の日差しの下に立っている。

 古い写真なのに、白だけはやけに眩しく見えた。

「白灯台、見とったん?」

「うん」

「行きたい?」

 夏帆が聞くと、澪子はすぐには答えなかった。

 写真から目を離さずに、少しだけ笑う。

「行きたいような、行きたくないような」

「無理せんでいいよ」

「それを言われると、行かん理由にしてしまいそうなが」

「……ごめん」

「謝らんでええよ。夏帆が心配しとるのは、わかっとるけん」

 澪子は白灯台の写真を持ち上げた。

 写真の裏には、晴臣の字が残っている。

 潮が引く夜にもう一度。

 澪子さんが教えてくれた場所。

 灯台の下、浜が出る。

 夏帆はその文字を思い出して、胸の奥が少しだけ痛んだ。

 白灯台は、写真の中で静かに澪子を待っていた。

「写真で見るだけでも、変な感じなが」

 澪子は言った。

「変?」

「うん。知っとる場所なのに、知らん場所みたいで」

「今は少し変わっとると思う」

「そうやろうね」

 澪子は写真をちゃぶ台へ戻した。

「若い頃に行った場所へ、年を取ってから行くのは、変なもんよ」

「そうなん?」

「その場所だけが昔のままやと、自分だけ置いていかれたみたいに思うが」

「おばあちゃん……」

「でも、ほんとは場所も変わっとるんやろうね」

 澪子は、窓の外へ目を向ける。

 外では蝉が鳴いている。

 夏の音は、今も昔も似ているのかもしれない。

 けれど、同じではない。

 澪子も、十七歳の少女ではない。

 白灯台も、写真の中のままではない。

「怖いのはね」

 澪子が言った。

「晴臣さんのことだけやないんよ」

 夏帆は黙って続きを待った。

「十七の頃の自分が立っとった場所に、今の私が行くんが怖い」

「うん」

「もう戻れんものが、はっきりわかりそうで」

「……うん」

「でも、戻れんことなんて、ほんとはもう知っとるのにね」

 澪子は困ったように笑った。

 その笑い方が少しだけ寂しくて、夏帆は何も言えなくなる。

 怖いのは、晴臣のことだけではなかった。

 澪子は、写真の中の白灯台を見ている。

 けれど、その目が見ているのは、灯台だけではないのだと思った。

 十七歳の自分。

 待った夜。

 読めなかった手紙。

 写真の中に残っていた背中。

 その全部が、白灯台へ繋がっている。

「でも」

 澪子が、小さく続けた。

「行かんままにしとるのも、違う気がしてね」

「うん」

「手紙を読んで、写真も見たけん」

「うん」

「今度は、自分の目で見てもええんやないかって」

 夏帆は頷いた。

 でも、すぐに胸の中へ不安が広がる。

 白灯台へ行く道は、坂道と石段がある。

 昼間でも、夏の暑さは強い。

 澪子を連れて行くなら、ちゃんと考えなければいけない。

「湊くんに相談してみる」

 夏帆が言うと、澪子は目を丸くした。

「湊くんに?」

「うん。船便とか、坂道とか、休憩できる場所とか」

「大げさなが」

「大げさでいいと思う」

「夏帆まで心配性になっとる」

「湊くんがうつったかも」

 澪子は少し笑った。

「そうやね。あの子なら、きっちり調べてくれそうなが」

「絶対すぐ調べるよ」

 夏帆はスマホを手に取った。

 湊とのメッセージ画面を開き、短く打つ。

『おばあちゃん、白灯台へ行くか迷ってる』

『行くなら昼間がいいと思う』

 送ると、すぐに既読がついた。

 返事も早かった。

『船便調べる』

『坂道の距離と休憩できる場所も確認する』

 夏帆は思わず笑った。

『早い』

 返事はすぐに来た。

『必要だから』

「ほら」

 夏帆が画面を見せると、澪子は目を細めた。

「頼もしいねぇ」

「心配性やけどね」

「心配してくれる人がおるのは、ええことなが」

 午後、湊は祖母の家へやって来た。

 前回ほど硬くはなかったけれど、やはり少し緊張している。

 手にはスマホと、小さなメモ帳。

 夏帆が玄関で迎えると、湊は開口一番に言った。

「一応、行程を作ってきた」

「早すぎる」

「必要だから」

「もう口癖みたいになっとるよ」

「事実だから」

 居間へ通すと、澪子が湯呑みを三つ用意していた。

「湊くん、また来てもらって悪いね」

「いえ。俺が安心したいだけなので」

「本当に心配性やね」

「よく言われます」

「主に私にね」

 夏帆が言うと、湊は少しだけ目を逸らした。

「否定はできない」

 澪子がふふ、と笑った。

 ちゃぶ台の上に、湊がスマホを置く。

 画面には、汐待島行きの船の時刻と、簡単な行程表が出ていた。

「朝の便で行くと、昼前には汐待島へ着きます。白灯台までゆっくり歩いて、途中で休憩を入れても、夕方の便には余裕があります」

「旅行会社みたいやね」

 夏帆が言うと、湊は真面目な顔で答えた。

「危ないよりはいい」

「それ、最近よく聞く」

「事実だから」

 澪子は画面を覗き込んだ。

「港から白灯台まで、そんなにかかるん?」

「普通に歩けばそこまでではありません。でも、夏なので、暑さと坂道を考えた方がいいと思います」

「ちゃんとしとるねぇ」

「休める場所も、途中に少しあります。無理なら引き返せばいいです」

「引き返す」

 澪子はその言葉を繰り返した。

 湊は頷く。

「はい。行くことより、無事に帰ることを優先した方がいいと思います」

「それは大事なが」

 澪子は静かに頷いた。

 夏帆は、湊の横顔を見た。

 慎重で、怖がりで、でも頼もしい。

 最初に港で会った時より、ずいぶん近くにいる気がした。

 三人で、具体的な話をした。

 靴は歩きやすいもの。

 帽子。

 水分。

 タオル。

 途中で休むこと。

 暑ければ無理をしないこと。

 白灯台まで行けなくても、港や神社で引き返していいこと。

 澪子は何度か「そこまでしてもらわんでもええが」と言ったが、そのたびに湊が真面目に返した。

「俺が安心したいだけです」

「湊くんは本当に心配性やね」

「はい」

「はいって」

 夏帆が笑うと、湊は少しだけ困った顔をした。

「否定しづらくなりました」

「やっと自覚した」

「篠原さんに何度も言われたので」

「効果あった」

 少しだけ、居間の空気がやわらかくなる。

 でも、白灯台へ行くという話は、軽いものではなかった。

 澪子は、白灯台の写真を手に取る。

 そして、ゆっくりと口を開いた。

「晴臣さんに会いに行くわけやないよ」

 夏帆と湊は、同時に澪子を見る。

「十七の私に戻れるわけでもない」

「うん」

 夏帆は頷く。

 湊は黙って聞いていた。

「でも、今の私で、あの場所を見てもええんやないかと思って」

「今の私で、あの場所を見てもええんやないかと思って」

 その言葉は、静かだった。

 でも、はっきりしていた。

 澪子は過去に戻ろうとしているのではない。

 晴臣に会いに行くのでもない。

 十七歳の自分を取り戻しに行くのでもない。

 今の自分として、白灯台を見に行こうとしている。

 夏帆は、そのことが胸の奥にゆっくり沈んでいくのを感じた。

「でも」

 夏帆は、小さく言った。

「また、つらくならん?」

 澪子は、夏帆を見る。

 その目はやさしかった。

「なるかもしれん」

「だったら」

「でも、つらいから見ん、だけではもう違う気がするが」

「……」

「見たら痛いかもしれん。でも、見たら違うものもあるかもしれん」

 澪子は、写真をちゃぶ台へ戻した。

「手紙も、写真もそうやった」

「うん」

「読まんかったら痛くなかったかもしれん。でも、読まんままでは届かんかった」

「うん」

「写真も、見たら痛かった。でも、待った夜だけやなかったって思えた」

 夏帆は、喉の奥が熱くなる。

 澪子の言葉は、強い。

 でも、無理をしている強さではなかった。

 痛みを知ったまま、少しずつ前へ進む強さだった。

 痛いから見ない、だけではもう違う。

 湊は、手元のメモ帳を閉じた。

「写真は」

 澪子が湊を見る。

「はい」

「撮りたくなったら、聞いてから撮ってね」

 湊の背筋が少し伸びた。

「もちろんです」

「昔は、勝手に撮られたが」

「すみません」

「だから、謝らんでええって」

「……はい」

 湊は少しだけ肩を落とした。

 澪子は笑う。

「でも、今度は私が決めたいけん」

「はい」

「撮られるかどうかも、どこまで行くかも」

「はい」

「帰るかどうかも」

「はい」

 湊は一つずつ頷いた。

 夏帆は、そのやりとりを見ていた。

 晴臣が撮った写真は、何十年も澪子に届かなかった。

 でも今度は違う。

 撮るなら、澪子に聞く。

 残すなら、澪子が選ぶ。

 今度は、澪子が選べる。

 それは、きっととても大事なことだった。

 澪子はもう、ただ待つ人ではない。

 ただ撮られる人でもない。

 自分で行くと決め、自分で見ると決め、自分で選ぶ人だ。

「行く日は」

 湊が話を戻す。

「明日でも行けますが、少し準備した方がいいと思います。天気を見ると、明後日が一番よさそうです」

「明後日」

 澪子が繰り返す。

「朝の便で行って、夕方の便で戻れます」

「最終便じゃないんやね」

「はい。余裕のある便にします」

「そこ大事」

 夏帆が言うと、湊は真面目に頷いた。

「大事です」

 澪子は少し考えた。

 写真と手紙を見て、湊の行程表を見て、それから夏帆を見る。

「じゃあ、明後日」

 ゆっくりと言った。

「白灯台へ行こうかね」

 夏帆は息を止めた。

 湊も、何も言わなかった。

 でも、二人とも同じことを感じていたと思う。

 澪子が、自分で決めた。

 十七歳の夏に置いてきた場所へ、今の自分として行くことを。

「うん」

 夏帆は頷いた。

「一緒に行こう」

「お願いします」

 湊も静かに頭を下げた。

「こちらこそ」

 澪子は、少し照れたように笑った。

「なんか大げさなが」

「大げさでいいよ」

 夏帆が言う。

「うん。今回は大げさにしよう」

 湊も言った。

 澪子は二人を見て、呆れたように、でも嬉しそうに笑った。

「若い子二人にそこまで言われたら、断れんね」

 その夜、夏帆は布団の中でなかなか眠れなかった。

 でも、昨日までの眠れなさとは少し違っていた。

 胸の中にあるのは、不安だけではない。

 明後日、澪子と一緒に汐待島へ渡る。

 今度は夜ではない。

 約束の浜を見るためでもない。

 澪子が、今の自分の目で白灯台を見るために行く。

 ちゃぶ台の上では、白灯台の写真が静かに置かれている。

 その写真の中には、若い澪子と晴臣が見た場所がある。

 でも、明後日そこへ行くのは、今の澪子だ。

 夏帆のスマホが震えた。

 湊からだった。

 画面を開くと、持ち物リストが送られてきている。

 帽子。

 水分。

 タオル。

 歩きやすい靴。

 薄手の上着。

 モバイルバッテリー。

 酔い止めが必要なら。

 休憩時間。

 帰りの便。

 夏帆は、思わず布団の中で笑ってしまった。

『湊くん、ほんと旅行会社みたい』

 すぐに返信が来た。

『危ないよりはいい』

 夏帆は、また笑った。

 そのやりとりが少しだけ日常で、少しだけ心強かった。

 スマホを伏せて、天井を見る。

 明後日、三人で島へ渡る。

 澪子と、夏帆と、湊。

 晴臣はいない。

 でも、晴臣の写真と手紙が、ここまで繋げた。

 夏帆は目を閉じる。

 白灯台の写真が、まぶたの裏に浮かんだ。

 ちゃぶ台の上では、白灯台の写真が静かに朝を待っている。

 今度は、誰かを待つためではない。

 澪子が、自分の足で、もう一度そこへ行くために。


お読みいただきありがとうございます。

夏帆たちがたどる、祖母たちの夏を見守っていただけたら嬉しいです。

ブックマーク・評価で応援していただけると励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ