第18話 今の私で、白灯台へ
出発の朝、澪子はいつもより少し早く起きていた。
台所からは、湯を沸かす音が聞こえる。障子の向こうには朝の光が広がっていて、蝉の声はまだ少し控えめだった。
夏帆が居間へ行くと、ちゃぶ台の上には白灯台の写真が置かれていた。
祭りの灯りの写真も、晴臣からの手紙も、若い澪子の後ろ姿の写真もある。
けれど、澪子が見ていたのは白灯台の写真だけだった。
写真の中の白灯台は、夏の光の中で白く立っている。
その姿は、これから向かう場所なのに、もうどこか遠い記憶のようにも見えた。
「おはよう」
「おはよう。眠れたが?」
「うん。おばあちゃんは?」
「まあまあやね」
澪子はそう言って、写真を見下ろした。
ちゃぶ台の横には、小さな鞄が置かれている。
帽子。
水筒。
薄手の上着。
タオル。
歩きやすい靴。
湊の行程表に書かれていたものが、きちんと揃っていた。
夏帆はそれを見て、胸の奥が少しだけ熱くなる。
本当に行くのだ。
澪子が、汐待島へ。
白灯台へ。
夏帆は、ちゃぶ台の写真を指差した。
「写真、持って行く?」
澪子は少し考えてから、首を振った。
「今日は置いていく」
「いいの?」
「うん」
澪子は写真から目を離し、夏帆を見た。
「写真を見に行くんやなくて、灯台を見に行くけんね」
「うん」
「写真は、帰ってきても見られるが」
「うん」
「でも、本物の灯台は、見に行かんと見えんけん」
今日は、写真の中の白灯台ではなく、本物の白灯台を見に行く日だった。
夏帆は頷いた。
澪子は写真をちゃぶ台の上に置いたまま、鞄を持つ。
その動作はいつもの祖母のものだった。
けれど、今日はどこか背筋が伸びて見える。
十七歳に戻るわけではない。
過去へ戻るわけでもない。
今の澪子として、白灯台へ行く。
そのことが、朝の居間の空気を少しだけ引き締めていた。
八幡浜港へ向かう道は、もう夏の日差しを受けていた。
澪子は帽子をかぶり、ゆっくり歩いている。
夏帆はその隣を歩いた。
いつもなら祖母の歩幅を意識することはあまりない。
けれど今日は、一歩一歩が気になった。
速すぎないか。
疲れていないか。
無理をしていないか。
そのたびに、澪子が横目で夏帆を見る。
「そんなに心配そうな顔せんでええよ」
「してた?」
「しとった」
「だって」
「大丈夫なが。無理なら、ちゃんと言うけん」
「うん」
港へ着くと、湊はもう待っていた。
黒いリュックを背負い、手には小さな紙袋とペットボトル。帽子もかぶっている。
いかにも準備万端という姿だった。
「湊くん、早いねぇ」
澪子が声をかけると、湊はきちんと頭を下げた。
「少し早めに来ました」
「少し?」
夏帆が横から聞く。
湊は一瞬だけ黙った。
「……三十分くらい」
「少しではないね」
澪子が笑う。
「心配性の旅行会社さんやね」
「いえ、そんな」
「褒めとるんよ」
「ありがとうございます」
湊は真面目に返した。
その真面目さがおかしくて、夏帆は少し笑ってしまう。
澪子も笑っていた。
今日の空気は、緊張している。
でも、重すぎない。
それが夏帆にはありがたかった。
「水分、追加で持ってきました」
湊が紙袋を少し持ち上げる。
「タオルも予備があります」
「本当に旅行会社さんやね」
「安全第一なので」
「湊くん、それ好きやね」
「事実です」
いつものやりとり。
けれど今日は、その几帳面さが本当に心強かった。
汐待島行きの船に乗ると、澪子は窓際の席に座った。
夏帆は隣に座る。
湊は少し斜め前、すぐに立てる位置に腰を下ろした。
誰かを見張るようではなく、必要な時に手を貸せる場所を自然に選んでいる。
船がゆっくりと八幡浜港を離れる。
岸壁が少しずつ遠ざかり、港の建物が小さくなっていく。
海風が船内へ入ってきた。
澪子は窓の外を見つめている。
その横顔は、夏帆がよく知る祖母の顔だった。
けれど、どこか知らない人のようにも見えた。
「船、久しぶり?」
夏帆が聞くと、澪子は窓の外を見たまま頷いた。
「久しぶりやねぇ」
「大丈夫?」
「大丈夫。若い頃は、これによう乗りよったが」
「今日はゆっくりでいいけん」
「船はゆっくりしてくれんけどね」
「それはそう」
澪子は小さく笑った。
湊が前の席から振り返る。
「揺れが強くなったら言ってください」
「ありがとう」
「酔い止めもあります」
「ほんとに何でもあるねぇ」
「一応」
澪子は感心したように目を細めた。
船は港を離れ、海の上へ出る。
八幡浜の町が少しずつ後ろへ流れていく。
夏帆は、昨日まで何度もこの海を渡った。
湊と出会い、汐待島へ行き、夜の船で祭りへ向かい、約束の浜を見た。
でも今日の船は、そのどれとも違う。
隣には澪子がいる。
晴臣を待ちに行くのではない。
約束の浜を探しに行くのでもない。
今の澪子が、白灯台を見るために渡っている。
今度の船は、誰かを待ちに行くための船ではなかった。
澪子は、遠ざかる八幡浜港を見ていた。
「昔はね」
「うん」
「船に乗るだけで、ちょっと特別やった」
「今も少し特別だよ」
「そうなが?」
「うん」
夏帆が言うと、澪子は少しだけ嬉しそうに笑った。
「晴臣さんも、船で写真撮りよったん?」
夏帆が聞く。
湊も少しだけこちらを向いた。
「撮りよったよ。揺れるけん、ぶれるのにね」
「それもええって?」
「たぶん言うとったね」
「ほんとに何でも綺麗って言う人やったんやね」
「そうなが。困った子やった」
澪子の声は、呆れているのにやわらかかった。
「船のしぶきとか、港が遠くなるところとか、島が近づいてくるところとか。何でも撮ろうとするけん、落ちるんやないかと心配したが」
「祖父らしいです」
湊が静かに言った。
「湊くんもやりそうやね」
澪子が言うと、湊は一瞬黙った。
「気をつけます」
「否定はせんのやね」
夏帆が言うと、湊は少しだけ目を逸らした。
「撮りたくなる気持ちはわかるので」
澪子が笑った。
その笑い声が、船の揺れに混ざる。
夏帆はその音を聞きながら、少しだけ安心した。
澪子の中で、晴臣の記憶が痛みだけではなくなっている。
それが、こういう何気ない笑いに表れている気がした。
汐待港が近づくと、澪子はほとんど瞬きをしなくなった。
小さな港。
低い防波堤。
船着き場。
坂へ続く道。
写真で見た場所が、少しずつ現実の形を持って近づいてくる。
船が港へ着き、三人はゆっくり降りた。
澪子は桟橋に立つと、しばらく動かなかった。
海風が帽子のつばを揺らす。
「変わったねぇ」
澪子が小さく言った。
「変わった?」
「うん。変わった」
少し間を置いて、澪子は続けた。
「でも、変わっとらんところもある」
その時、港の方から声がした。
「澪ちゃん?」
夏帆が振り返ると、第5話や祭りの日に会った年配の女性が立っていた。
女性は目を丸くして、こちらへ近づいてくる。
「澪ちゃんやないの」
「あら、久しぶりなが」
澪子が少し照れたように笑う。
「ほんとに来たがねぇ」
「来てしもうた」
「白灯台かね」
「まあ、そんなところ」
女性は夏帆と湊にも目を向けた。
「孫ちゃんと、写真の子のお孫さんも一緒なが?」
湊が少しだけ姿勢を正す。
「はい」
「ええことやねぇ」
女性は深く頷いた。
「行っておいで。今日は海も穏やかやけん」
「ありがとう」
澪子はそう返した。
女性は何度か頷いてから、港の方へ戻っていく。
夏帆は、澪子の横顔を見た。
この島では、澪子は祖母でも、篠原さんでもなく、澪ちゃんだった。
この島では、澪子はまだ「澪ちゃん」だった。
夏帆の胸が、少しだけ温かくなる。
澪子の十七歳の夏は、全部消えてしまったわけではない。
島の人の呼び方の中に、まだ残っている。
澪子は少し照れたように帽子を押さえた。
「恥ずかしいねぇ」
「澪ちゃん」
「夏帆まで言わんでええが」
「かわいい」
「もう」
澪子が困った顔をする。
湊はそれを見て、少しだけ笑っていた。
三人は港から神社の方へ歩き始めた。
湊は先に行きすぎず、少し後ろから足元を見ている。
夏帆は澪子の隣を歩く。
昼の汐待島は、前に来た時と同じようで、澪子がいるだけで全然違って見えた。
港から続く細い道。
古い家並み。
海に向かって開けた坂。
石垣の隙間から伸びる草。
澪子は一つ一つを確認するように見ていた。
「ここ、昔は小さい店があったんよ」
「今は空き家?」
「そうやね」
「寂しい?」
「寂しいね。でも、残っとるものもあるが」
「海の匂いとか?」
「そう。あと、この坂のきつさ」
「そこも残るんや」
「残るねぇ」
澪子は苦笑した。
少し歩くたびに、記憶がぽつりぽつりとこぼれる。
昔、子どもたちが走っていた路地。
夏祭りの前に提灯を運んだ道。
神社の石段で転んだこと。
港へ向かって友達と叫んだこと。
夏帆はその話を聞きながら、写真には写っていない汐待島を見ている気がした。
晴臣の写真にも、澪子の手紙にも残っていなかった日常。
澪子がこの島で過ごした時間が、少しずつ夏帆の中に入ってくる。
神社の石段の手前で、湊が立ち止まった。
「ここで休みましょう」
「もう?」
澪子が目を丸くする。
「予定通りです」
「旅行会社さん、厳しいね」
「安全第一です」
「湊くんらしい」
「褒められてる気がしない」
湊が真面目に言うので、夏帆は笑ってしまった。
木陰に腰を下ろし、三人で水を飲む。
風が通ると、少し涼しい。
澪子は帽子を外し、額に手ぬぐいを当てた。
「疲れた?」
夏帆が聞く。
「少しね」
「戻る?」
「まだ大丈夫」
「本当?」
「本当」
澪子は夏帆の心配そうな顔を見て、少しだけ笑う。
「そんな顔せんでも、無理はせんよ」
「うん」
「でも、ここまで来たら、もう少し見たいが」
夏帆は頷いた。
湊も何も言わず、ただ水筒の蓋を閉めた。
休憩を終え、三人は白灯台へ続く坂道へ入った。
その道に差しかかった瞬間、澪子の歩幅が少しだけ遅くなった。
夏帆はそれに気づいたが、何も言わない。
湊も同じように気づいたのか、少し後ろで歩調を合わせている。
「この道やね」
澪子が言った。
「写真の?」
「うん。私が写っとった道」
「覚えとる?」
「覚えとる。もっと短かった気がするが」
「昔は走ってたんやろ」
「今は走らんよ」
「走らなくていいよ」
澪子は笑った。
でも、その笑いはすぐに消えた。
坂道の先へ視線を向ける。
夏草が揺れている。
石段の端には、昼の影が落ちている。
写真の中では、十七歳の澪子がこの道を軽やかに歩いていた。
振り返らず、晴臣を急かすように。
今、同じ道を歩いている澪子の足取りはゆっくりだった。
それでも、ちゃんと前へ進んでいる。
写真の中の背中が歩いた道を、今の澪子がゆっくり歩いていた。
夏帆は、その光景を忘れないと思った。
写真には撮らない。
湊も、カメラを取り出さない。
ただ見ている。
澪子が自分の足で、白灯台へ向かう姿を。
途中、澪子は何度か足を止めた。
水を飲み、息を整え、また歩く。
湊はそのたびに「大丈夫ですか」と言いかけて、少しだけ言葉を飲み込む。
言いすぎないようにしているのがわかった。
夏帆は、そんな湊の横顔を見て少しだけ笑う。
支えたい。
でも、澪子の選択を奪いたくない。
その加減を、湊はとても丁寧に探していた。
白灯台が見える少し手前で、澪子が立ち止まった。
足元が悪い場所ではなかった。
急な坂でもない。
けれど、澪子はそこで動かなくなった。
夏帆は隣で立ち止まる。
湊もすぐ後ろで足を止めた。
「おばあちゃん」
「うん」
「戻る?」
夏帆は、できるだけ静かに聞いた。
澪子はすぐには答えない。
風が通る。
遠くから海の音が聞こえる。
「戻ってもええ?」
「もちろん」
夏帆はすぐに答えた。
湊も頷く。
「はい。無理しなくていいです」
「湊くんも、そう言うやろうと思った」
「言います」
「正直やね」
澪子は小さく笑った。
けれど、その顔はまだ揺れていた。
「怖いんか、疲れたんか、自分でもようわからん」
「どっちでもいいよ」
夏帆は言った。
「戻ってもいい」
「うん」
澪子は、坂の先を見た。
その先に、白灯台がある。
まだ見えていない。
でも、もう近い。
「でも、ここまで来たけんね」
「うん」
「もう少しだけ、行こうか」
澪子の声は小さかった。
けれど、自分で決めた声だった。
戻ることもできた。
それでも澪子は、前を向いた。
夏帆は頷いた。
湊も、何も言わずに頷いた。
三人は、またゆっくり歩き出した。
坂道を上がるたびに、風が少し強くなる。
海の匂いが濃くなる。
白いものが、木々の隙間からちらりと見えた。
夏帆は息を止める。
澪子も、足を止めた。
木々の向こうに、白い灯台が見えた。
写真の中より少し古く、記憶の中より少し小さく。
塗装のところどころは年月を感じさせた。
けれど、白灯台はそこに立っていた。
夏の光を受けて、静かに。
海の方を向いて。
何十年もの時間を越えて。
澪子は、しばらく何も言わなかった。
夏帆も、湊も黙っていた。
ただ、その横顔を見ていた。
澪子の目は、白灯台から離れない。
十七歳の自分が見た灯台。
晴臣が写真に残した灯台。
約束の夜に向かった灯台。
そして今、自分の足で見に来た灯台。
その全部が、澪子の中で重なっているようだった。
やがて、澪子が小さく息を吐いた。
木々の向こうに、白い灯台が見えた。
写真の中より少し古く、記憶の中より少し小さく。
それでも、白灯台はそこに立っていた。
「ほんとに、まだ立っとるんやね」
澪子の声が、夏の風の中で小さく揺れた。
お読みいただきありがとうございます。
夏帆たちがたどる、祖母たちの夏を見守っていただけたら嬉しいです。
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