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汐待島で、君と夏を渡る  作者: 碓氷さゆ


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18/21

第18話 今の私で、白灯台へ

 出発の朝、澪子はいつもより少し早く起きていた。

 台所からは、湯を沸かす音が聞こえる。障子の向こうには朝の光が広がっていて、蝉の声はまだ少し控えめだった。

 夏帆が居間へ行くと、ちゃぶ台の上には白灯台の写真が置かれていた。

 祭りの灯りの写真も、晴臣からの手紙も、若い澪子の後ろ姿の写真もある。

 けれど、澪子が見ていたのは白灯台の写真だけだった。

 写真の中の白灯台は、夏の光の中で白く立っている。

 その姿は、これから向かう場所なのに、もうどこか遠い記憶のようにも見えた。

「おはよう」

「おはよう。眠れたが?」

「うん。おばあちゃんは?」

「まあまあやね」

 澪子はそう言って、写真を見下ろした。

 ちゃぶ台の横には、小さな鞄が置かれている。

 帽子。

 水筒。

 薄手の上着。

 タオル。

 歩きやすい靴。

 湊の行程表に書かれていたものが、きちんと揃っていた。

 夏帆はそれを見て、胸の奥が少しだけ熱くなる。

 本当に行くのだ。

 澪子が、汐待島へ。

 白灯台へ。

 夏帆は、ちゃぶ台の写真を指差した。

「写真、持って行く?」

 澪子は少し考えてから、首を振った。

「今日は置いていく」

「いいの?」

「うん」

 澪子は写真から目を離し、夏帆を見た。

「写真を見に行くんやなくて、灯台を見に行くけんね」

「うん」

「写真は、帰ってきても見られるが」

「うん」

「でも、本物の灯台は、見に行かんと見えんけん」

 今日は、写真の中の白灯台ではなく、本物の白灯台を見に行く日だった。

 夏帆は頷いた。

 澪子は写真をちゃぶ台の上に置いたまま、鞄を持つ。

 その動作はいつもの祖母のものだった。

 けれど、今日はどこか背筋が伸びて見える。

 十七歳に戻るわけではない。

 過去へ戻るわけでもない。

 今の澪子として、白灯台へ行く。

 そのことが、朝の居間の空気を少しだけ引き締めていた。

 八幡浜港へ向かう道は、もう夏の日差しを受けていた。

 澪子は帽子をかぶり、ゆっくり歩いている。

 夏帆はその隣を歩いた。

 いつもなら祖母の歩幅を意識することはあまりない。

 けれど今日は、一歩一歩が気になった。

 速すぎないか。

 疲れていないか。

 無理をしていないか。

 そのたびに、澪子が横目で夏帆を見る。

「そんなに心配そうな顔せんでええよ」

「してた?」

「しとった」

「だって」

「大丈夫なが。無理なら、ちゃんと言うけん」

「うん」

 港へ着くと、湊はもう待っていた。

 黒いリュックを背負い、手には小さな紙袋とペットボトル。帽子もかぶっている。

 いかにも準備万端という姿だった。

「湊くん、早いねぇ」

 澪子が声をかけると、湊はきちんと頭を下げた。

「少し早めに来ました」

「少し?」

 夏帆が横から聞く。

 湊は一瞬だけ黙った。

「……三十分くらい」

「少しではないね」

 澪子が笑う。

「心配性の旅行会社さんやね」

「いえ、そんな」

「褒めとるんよ」

「ありがとうございます」

 湊は真面目に返した。

 その真面目さがおかしくて、夏帆は少し笑ってしまう。

 澪子も笑っていた。

 今日の空気は、緊張している。

 でも、重すぎない。

 それが夏帆にはありがたかった。

「水分、追加で持ってきました」

 湊が紙袋を少し持ち上げる。

「タオルも予備があります」

「本当に旅行会社さんやね」

「安全第一なので」

「湊くん、それ好きやね」

「事実です」

 いつものやりとり。

 けれど今日は、その几帳面さが本当に心強かった。

 汐待島行きの船に乗ると、澪子は窓際の席に座った。

 夏帆は隣に座る。

 湊は少し斜め前、すぐに立てる位置に腰を下ろした。

 誰かを見張るようではなく、必要な時に手を貸せる場所を自然に選んでいる。

 船がゆっくりと八幡浜港を離れる。

 岸壁が少しずつ遠ざかり、港の建物が小さくなっていく。

 海風が船内へ入ってきた。

 澪子は窓の外を見つめている。

 その横顔は、夏帆がよく知る祖母の顔だった。

 けれど、どこか知らない人のようにも見えた。

「船、久しぶり?」

 夏帆が聞くと、澪子は窓の外を見たまま頷いた。

「久しぶりやねぇ」

「大丈夫?」

「大丈夫。若い頃は、これによう乗りよったが」

「今日はゆっくりでいいけん」

「船はゆっくりしてくれんけどね」

「それはそう」

 澪子は小さく笑った。

 湊が前の席から振り返る。

「揺れが強くなったら言ってください」

「ありがとう」

「酔い止めもあります」

「ほんとに何でもあるねぇ」

「一応」

 澪子は感心したように目を細めた。

 船は港を離れ、海の上へ出る。

 八幡浜の町が少しずつ後ろへ流れていく。

 夏帆は、昨日まで何度もこの海を渡った。

 湊と出会い、汐待島へ行き、夜の船で祭りへ向かい、約束の浜を見た。

 でも今日の船は、そのどれとも違う。

 隣には澪子がいる。

 晴臣を待ちに行くのではない。

 約束の浜を探しに行くのでもない。

 今の澪子が、白灯台を見るために渡っている。

 今度の船は、誰かを待ちに行くための船ではなかった。

 澪子は、遠ざかる八幡浜港を見ていた。

「昔はね」

「うん」

「船に乗るだけで、ちょっと特別やった」

「今も少し特別だよ」

「そうなが?」

「うん」

 夏帆が言うと、澪子は少しだけ嬉しそうに笑った。

「晴臣さんも、船で写真撮りよったん?」

 夏帆が聞く。

 湊も少しだけこちらを向いた。

「撮りよったよ。揺れるけん、ぶれるのにね」

「それもええって?」

「たぶん言うとったね」

「ほんとに何でも綺麗って言う人やったんやね」

「そうなが。困った子やった」

 澪子の声は、呆れているのにやわらかかった。

「船のしぶきとか、港が遠くなるところとか、島が近づいてくるところとか。何でも撮ろうとするけん、落ちるんやないかと心配したが」

「祖父らしいです」

 湊が静かに言った。

「湊くんもやりそうやね」

 澪子が言うと、湊は一瞬黙った。

「気をつけます」

「否定はせんのやね」

 夏帆が言うと、湊は少しだけ目を逸らした。

「撮りたくなる気持ちはわかるので」

 澪子が笑った。

 その笑い声が、船の揺れに混ざる。

 夏帆はその音を聞きながら、少しだけ安心した。

 澪子の中で、晴臣の記憶が痛みだけではなくなっている。

 それが、こういう何気ない笑いに表れている気がした。

 汐待港が近づくと、澪子はほとんど瞬きをしなくなった。

 小さな港。

 低い防波堤。

 船着き場。

 坂へ続く道。

 写真で見た場所が、少しずつ現実の形を持って近づいてくる。

 船が港へ着き、三人はゆっくり降りた。

 澪子は桟橋に立つと、しばらく動かなかった。

 海風が帽子のつばを揺らす。

「変わったねぇ」

 澪子が小さく言った。

「変わった?」

「うん。変わった」

 少し間を置いて、澪子は続けた。

「でも、変わっとらんところもある」

 その時、港の方から声がした。

「澪ちゃん?」

 夏帆が振り返ると、第5話や祭りの日に会った年配の女性が立っていた。

 女性は目を丸くして、こちらへ近づいてくる。

「澪ちゃんやないの」

「あら、久しぶりなが」

 澪子が少し照れたように笑う。

「ほんとに来たがねぇ」

「来てしもうた」

「白灯台かね」

「まあ、そんなところ」

 女性は夏帆と湊にも目を向けた。

「孫ちゃんと、写真の子のお孫さんも一緒なが?」

 湊が少しだけ姿勢を正す。

「はい」

「ええことやねぇ」

 女性は深く頷いた。

「行っておいで。今日は海も穏やかやけん」

「ありがとう」

 澪子はそう返した。

 女性は何度か頷いてから、港の方へ戻っていく。

 夏帆は、澪子の横顔を見た。

 この島では、澪子は祖母でも、篠原さんでもなく、澪ちゃんだった。

 この島では、澪子はまだ「澪ちゃん」だった。

 夏帆の胸が、少しだけ温かくなる。

 澪子の十七歳の夏は、全部消えてしまったわけではない。

 島の人の呼び方の中に、まだ残っている。

 澪子は少し照れたように帽子を押さえた。

「恥ずかしいねぇ」

「澪ちゃん」

「夏帆まで言わんでええが」

「かわいい」

「もう」

 澪子が困った顔をする。

 湊はそれを見て、少しだけ笑っていた。

 三人は港から神社の方へ歩き始めた。

 湊は先に行きすぎず、少し後ろから足元を見ている。

 夏帆は澪子の隣を歩く。

 昼の汐待島は、前に来た時と同じようで、澪子がいるだけで全然違って見えた。

 港から続く細い道。

 古い家並み。

 海に向かって開けた坂。

 石垣の隙間から伸びる草。

 澪子は一つ一つを確認するように見ていた。

「ここ、昔は小さい店があったんよ」

「今は空き家?」

「そうやね」

「寂しい?」

「寂しいね。でも、残っとるものもあるが」

「海の匂いとか?」

「そう。あと、この坂のきつさ」

「そこも残るんや」

「残るねぇ」

 澪子は苦笑した。

 少し歩くたびに、記憶がぽつりぽつりとこぼれる。

 昔、子どもたちが走っていた路地。

 夏祭りの前に提灯を運んだ道。

 神社の石段で転んだこと。

 港へ向かって友達と叫んだこと。

 夏帆はその話を聞きながら、写真には写っていない汐待島を見ている気がした。

 晴臣の写真にも、澪子の手紙にも残っていなかった日常。

 澪子がこの島で過ごした時間が、少しずつ夏帆の中に入ってくる。

 神社の石段の手前で、湊が立ち止まった。

「ここで休みましょう」

「もう?」

 澪子が目を丸くする。

「予定通りです」

「旅行会社さん、厳しいね」

「安全第一です」

「湊くんらしい」

「褒められてる気がしない」

 湊が真面目に言うので、夏帆は笑ってしまった。

 木陰に腰を下ろし、三人で水を飲む。

 風が通ると、少し涼しい。

 澪子は帽子を外し、額に手ぬぐいを当てた。

「疲れた?」

 夏帆が聞く。

「少しね」

「戻る?」

「まだ大丈夫」

「本当?」

「本当」

 澪子は夏帆の心配そうな顔を見て、少しだけ笑う。

「そんな顔せんでも、無理はせんよ」

「うん」

「でも、ここまで来たら、もう少し見たいが」

 夏帆は頷いた。

 湊も何も言わず、ただ水筒の蓋を閉めた。

 休憩を終え、三人は白灯台へ続く坂道へ入った。

 その道に差しかかった瞬間、澪子の歩幅が少しだけ遅くなった。

 夏帆はそれに気づいたが、何も言わない。

 湊も同じように気づいたのか、少し後ろで歩調を合わせている。

「この道やね」

 澪子が言った。

「写真の?」

「うん。私が写っとった道」

「覚えとる?」

「覚えとる。もっと短かった気がするが」

「昔は走ってたんやろ」

「今は走らんよ」

「走らなくていいよ」

 澪子は笑った。

 でも、その笑いはすぐに消えた。

 坂道の先へ視線を向ける。

 夏草が揺れている。

 石段の端には、昼の影が落ちている。

 写真の中では、十七歳の澪子がこの道を軽やかに歩いていた。

 振り返らず、晴臣を急かすように。

 今、同じ道を歩いている澪子の足取りはゆっくりだった。

 それでも、ちゃんと前へ進んでいる。

 写真の中の背中が歩いた道を、今の澪子がゆっくり歩いていた。

 夏帆は、その光景を忘れないと思った。

 写真には撮らない。

 湊も、カメラを取り出さない。

 ただ見ている。

 澪子が自分の足で、白灯台へ向かう姿を。

 途中、澪子は何度か足を止めた。

 水を飲み、息を整え、また歩く。

 湊はそのたびに「大丈夫ですか」と言いかけて、少しだけ言葉を飲み込む。

 言いすぎないようにしているのがわかった。

 夏帆は、そんな湊の横顔を見て少しだけ笑う。

 支えたい。

 でも、澪子の選択を奪いたくない。

 その加減を、湊はとても丁寧に探していた。

 白灯台が見える少し手前で、澪子が立ち止まった。

 足元が悪い場所ではなかった。

 急な坂でもない。

 けれど、澪子はそこで動かなくなった。

 夏帆は隣で立ち止まる。

 湊もすぐ後ろで足を止めた。

「おばあちゃん」

「うん」

「戻る?」

 夏帆は、できるだけ静かに聞いた。

 澪子はすぐには答えない。

 風が通る。

 遠くから海の音が聞こえる。

「戻ってもええ?」

「もちろん」

 夏帆はすぐに答えた。

 湊も頷く。

「はい。無理しなくていいです」

「湊くんも、そう言うやろうと思った」

「言います」

「正直やね」

 澪子は小さく笑った。

 けれど、その顔はまだ揺れていた。

「怖いんか、疲れたんか、自分でもようわからん」

「どっちでもいいよ」

 夏帆は言った。

「戻ってもいい」

「うん」

 澪子は、坂の先を見た。

 その先に、白灯台がある。

 まだ見えていない。

 でも、もう近い。

「でも、ここまで来たけんね」

「うん」

「もう少しだけ、行こうか」

 澪子の声は小さかった。

 けれど、自分で決めた声だった。

 戻ることもできた。

 それでも澪子は、前を向いた。

 夏帆は頷いた。

 湊も、何も言わずに頷いた。

 三人は、またゆっくり歩き出した。

 坂道を上がるたびに、風が少し強くなる。

 海の匂いが濃くなる。

 白いものが、木々の隙間からちらりと見えた。

 夏帆は息を止める。

 澪子も、足を止めた。

 木々の向こうに、白い灯台が見えた。

 写真の中より少し古く、記憶の中より少し小さく。

 塗装のところどころは年月を感じさせた。

 けれど、白灯台はそこに立っていた。

 夏の光を受けて、静かに。

 海の方を向いて。

 何十年もの時間を越えて。

 澪子は、しばらく何も言わなかった。

 夏帆も、湊も黙っていた。

 ただ、その横顔を見ていた。

 澪子の目は、白灯台から離れない。

 十七歳の自分が見た灯台。

 晴臣が写真に残した灯台。

 約束の夜に向かった灯台。

 そして今、自分の足で見に来た灯台。

 その全部が、澪子の中で重なっているようだった。

 やがて、澪子が小さく息を吐いた。

 木々の向こうに、白い灯台が見えた。

 写真の中より少し古く、記憶の中より少し小さく。

 それでも、白灯台はそこに立っていた。

「ほんとに、まだ立っとるんやね」

 澪子の声が、夏の風の中で小さく揺れた。


お読みいただきありがとうございます。

夏帆たちがたどる、祖母たちの夏を見守っていただけたら嬉しいです。

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