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汐待島で、君と夏を渡る  作者: 碓氷さゆ


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第8話 祭りの灯り

 翌朝、祖母の家の居間には、祭りの道具が広げられていた。

 畳の上に並べられた提灯は、まだ灯りが入っていないのに、そこだけ少し夏祭りの気配をまとっているように見えた。

 赤と白の薄い紙。

 古い紐。

 木箱にしまわれていた飾り。

 町内会の名前が書かれた紙袋。

 手ぬぐい。

 どれも少し古くて、少し日に焼けていて、でも捨てられずに毎年出されているものなのだとわかる。

 夏帆は畳に座り、提灯を一つ手に取った。

 薄い紙越しに朝の光が透ける。

 祭りの準備。

 それは本当なら、もっと明るいもののはずだった。

 けれど夏帆には、その提灯がもう夜の汐待島へ続いているように見えた。

 臨時便。

 潮位表。

 白灯台。

 約束の浜。

 昨日見たもの、聞いたものが、祭り道具の隙間から静かに顔を出している。

「この提灯、まだ使える?」

 夏帆が聞くと、澪子は隣で紐をほどきながら目を細めた。

「少し破れとるけど、直せばいけるが」

「毎年使いよるん?」

「そうなが。古いもんほど、捨てにくいけんね」

「おばあちゃん、何でも残しとるね」

「残るものは、勝手に残るがよ」

 澪子は何気なく言った。

 でも、その言葉が夏帆の胸に引っかかった。

 残るものは、勝手に残る。

 晴臣の写真も、そうだったのだろうか。

 誰にも話されないまま、捨てられず、何十年も残っていた。

 残るつもりがなかったものほど、長く残ってしまうことがあるのかもしれない。

 祭りの灯りは、まだともっていない。

 けれど夏帆には、それがもう夜の汐待島へ続いているように見えた。

 澪子は古い手ぬぐいを畳んでいた。

 藍色の布に、白く波の模様が抜かれている。端は少し擦り切れていたが、丁寧に洗われていて、古い布特有のやわらかさがあった。

「これ、汐待島の?」

 夏帆が聞くと、澪子の手が少しだけ止まった。

「ようわかったね」

「波の柄やけん、なんとなく」

「昔、島の祭りで配っとったものやね」

「汐待島にも祭りあるんよね」

「あるよ。昔はもっと賑やかやったがよ」

 澪子の声が、ほんの少し遠くなる。

 夏帆は、手元の提灯から澪子へ視線を移した。

「おばあちゃんも行きよったん?」

「行きよったねぇ」

「八幡浜から?」

「船でね。昔は今より、島とこっちを行き来する人も多かったがよ」

 澪子は手ぬぐいを畳み直す。

 その手つきはいつも通りだった。

 けれど、目は少しだけ別の場所を見ているようだった。

 夏帆は、踏み込みすぎないように言葉を選ぶ。

「晴臣さんも、見たん?」

 澪子はすぐには答えなかった。

 手ぬぐいの端をそっと撫でる。

「……写真の子は、祭りの灯りをよう撮りよったよ」

「灯り?」

「提灯とか、海に映る火とか。何でも珍しそうにね」

「綺麗やったんやろうね」

「何もかも綺麗やって言う子やったけん」

 澪子は小さく笑った。

 その笑みは、懐かしそうで、少しだけ困ったようでもあった。

 写真の子。

 澪子は晴臣の名前を出さなかった。

 けれど、誰のことを言っているのかは、夏帆にもわかった。

 澪子の言う「写真の子」は、晴臣のことだった。

「灯り、撮ってたんや」

「うん。ぶれとる写真も多かったがね」

「夜やけん?」

「そう。ほやけど、それもええんやって言いよった」

 澪子は、どこか呆れたように、でも優しい声で言った。

「ぼやけた灯りが、海に浮いとるみたいに見えるって」

 夏帆は、汐待島の夜を想像した。

 提灯の灯り。

 海に映る赤や橙。

 白灯台。

 潮が引く浜。

 その中で、カメラを構える少年。

 その隣に立つ若い澪子。

 その光景を思い浮かべると、胸の奥が少し苦しくなる。

 祖母は、楽しかったのだろうか。

 その祭りの夜を、どんな気持ちで覚えているのだろう。

「おばあちゃん」

「なんね?」

「その写真、残ってないん?」

 聞いた瞬間、少し踏み込みすぎたと思った。

 澪子は手ぬぐいを畳み終え、静かに膝の上へ置く。

「ないよ」

「そうなん?」

「私の手元には、ない」

 その言い方が気になった。

 ない、ではなく、私の手元にはない。

 夏帆はもう少し聞きたかった。

 でも、澪子はそれ以上話すつもりがない顔をしていた。

 夏帆は提灯へ視線を戻す。

 薄い紙に、小さな破れがある。

 指先でそこを押さえると、破れた部分から朝の光が細く漏れた。

 玄関の方から声がしたのは、それから少し経ってからだった。

「澪子さん、提灯取りに来たがよ」

「ああ、開いとるけん、入っておいで」

 澪子が返事をすると、玄関の引き戸が開いた。

 入ってきたのは、麦わら帽子をかぶった年配の女性だった。手には大きな紙袋を提げている。

「あら、夏帆ちゃんかね?」

 女性は夏帆を見るなり、ぱっと顔を明るくした。

 夏帆は少し慌てて頭を下げる。

「お久しぶりです」

「まあ、大きゅうなったがねぇ。澪子さんとこの孫なが?」

「はい」

「小さい頃は、よう港の方走りよったのに」

 夏帆は笑ってごまかした。

 覚えられている。

 それは少し嬉しいようで、少しむずがゆかった。

 自分の中では、八幡浜で暮らしていた時間はもう遠い。けれど、ここにいる人たちの中には、小さかった夏帆がまだ残っている。

「今は松山やったね?」

「はい」

「まあ、標準語みたいになって」

「え、そうですか?」

「昔はもっと、ががが言いよったが」

「それ、言わんでください」

 夏帆が思わず言うと、女性は楽しそうに笑った。

「ほら、今ちょっと出たが」

「出てないです」

「出とる出とる」

 澪子も横で笑っている。

 夏帆は少し恥ずかしくなって、手元の提灯を直すふりをした。

 松山の自分。

 八幡浜の自分。

 どちらも自分のはずなのに、こうして地元の人に昔のことを言われると、少しだけ居場所がずれる。

 懐かしい。

 でも、完全には戻れない。

 その感覚は、鈍行列車で八幡浜に向かっていた時からずっと、夏帆の中にある。

 女性は提灯を紙袋に入れながら、澪子に祭りの段取りを確認していた。

 夏帆はその会話を聞きながら、八幡浜の言葉が部屋の中に満ちていくのを感じる。

 が、が、が。

 昔はカラスみたいでうるさいと思っていた音。

 今は、不思議とあたたかく聞こえた。

 祭り道具の整理が一段落した昼前、夏帆のスマホが震えた。

 湊からだった。

 画面を開くと、まず潮位表のスクリーンショットが送られてきていた。

『祭りの日の臨時便、帰りは二十一時台にもあるみたい』

『潮の時間はこのあたり』

 相変わらず几帳面だと思いながら、夏帆は画面をスクロールする。

 その次に送られてきた画像を見て、指が止まった。

 白灯台の下に立つ夏帆の写真だった。

 海風に髪を揺らされて、少し困ったような顔をしている。

 昨日、湊が撮った写真。

『あと、昨日の写真』

『送っていいか迷ったけど、消さないって言ってたから』

 夏帆は、しばらく画面を見つめた。

 畳の上には提灯。

 スマホの画面には白灯台。

 今いる祖母の家と、昨日立った汐待島の灯台が、小さな画面の中で重なる。

 写真の中の自分は、澪子に似ている気がした。

 でも、澪子ではない。

 白灯台の下に立っているのは、十七歳の祖母ではなく、今の夏帆だった。

 写真の中の夏帆は、白灯台の下に立っていた。

 祖母に似ている。

 でも、祖母ではなかった。

 夏帆は返信欄を開く。

『ありがとう』

 少し迷って、もう一つ打った。

『変じゃないね』

 すぐに既読がついた。

 湊から返事が来る。

『変じゃないって言った』

 夏帆は思わず笑った。

『言ってた』

 短いやりとりなのに、胸が少しだけくすぐったい。

 写真を撮られること自体は、特別珍しいことではない。

 でも、湊が撮ったこの写真は、普通の写真とは違う。

 祖母の過去をなぞる場所で、今の夏帆として撮られた一枚。

 それが、自分のスマホの中に入っている。

 夏帆は画面を閉じようとして、もう一度写真を見た。

 昨日の自分は、少し不安そうで、それでも目を逸らしていない。

 自分でも知らなかった顔だった。

 午後、夏帆は祭りの用事で港の方へ出ることになった。

 町内の人に渡す紙袋と、小さな確認表を持って祖母の家を出る。

 日差しは強いが、海の方から風が来ると、少しだけ涼しい。

 港へ近づくにつれて、潮の匂いが濃くなる。

 フェリー乗り場の前まで来ると、湊が時刻表の前に立っていた。

 黒いリュック。

 首から下げたカメラ。

 少し長めの前髪が、海風に揺れている。

 最初に会った時と同じ場所に近い。

 けれど、今はもう、迷っている知らない少年には見えなかった。

「また港におる」

 夏帆が声をかけると、湊は振り返った。

「確認したくて」

「湊くん、ほんと心配性やね」

「危ないよりはいい」

「それはそう」

 夏帆は湊の隣に立ち、時刻表を見上げた。

 祭りの日の臨時便のお知らせが、端の方に貼られている。昨日汐待島の港で見たものと同じように、こちら側にも案内が出ていた。

「祭りの日、人多いかな」

 湊が聞く。

「普段よりは多いと思う。島も、臨時便出るくらいやし」

「人が多いなら少し安心」

「でも夜の浜は別やけん」

「うん。そこは慎重にする」

 湊はメモアプリを開き、臨時便の時間を書き込んでいた。

 夏帆は少し笑ってしまう。

「ほんと几帳面」

「嫌?」

「嫌じゃない。助かる」

 そう答えると、湊はほんの少しだけ視線を逸らした。

 褒められ慣れていないのかもしれない。

 その反応が少し面白くて、夏帆はからかいたくなる。

 でも、やめた。

 今は、そんなふうに軽くしすぎるのも違う気がした。

 二人はしばらく、時刻表とスマホの画面を見比べた。

 祭りの日。

 夕方に臨時便。

 夜に干潮。

 帰りの便。

 数字と時間が、約束の浜へ向かうための道筋になっていく。

「昼間は、私がおばあちゃんの手伝い」

「うん」

「夕方に港で合流」

「臨時便で汐待島」

「島の祭りを少し見て」

「潮が引く時間に白灯台へ向かう」

「危なかったら、行かない」

「一人では行かない」

「帰りの船を逃さない」

「そこ大事」

 夏帆が言うと、湊は真面目に頷いた。

「約束」

「うん、約束」

 昨日と同じ言葉なのに、今日は少しだけ落ち着いて言えた。

 果たされなかった約束をたどるために、自分たちは別の約束をしている。

 それが不思議で、少し怖くて、でも心強かった。

 用事を済ませたあと、二人は少しだけ港の端を歩いた。

 夕方にはまだ早いけれど、光はゆっくり傾き始めている。

 船の影が水面に揺れ、遠くの島影が白く霞んでいた。

 夏帆は手すりにもたれ、海を見た。

「この時間の港、きれいやろ」

「うん」

 湊は隣で頷いた。

「子どもの頃、ここから見る夕日が好きやった気がする」

「気がする?」

「ちゃんとは覚えてないけど、水面がオレンジになるのは覚えとる」

「撮っても、いい景色だと思う」

 湊はカメラに手を添えた。

 けれど、構えなかった。

 夏帆は横目でそれを見る。

「撮らんの?」

「撮ったら終わる気がする時がある」

「終わる?」

「見る前に写真にしてしまうのが、もったいない時」

「湊くん、写真好きなのに変やね」

「自分でもそう思う」

 湊は少し笑った。

 カメラを持っているのに撮らずに見る。

 その姿が、夏帆の中に静かに残る。

 晴臣もそうだったのだろうか。

 何でも撮っていたと澪子は言った。

 でも、撮らずに見ていた瞬間もあったのだろうか。

 澪子を。

 灯台を。

 祭りの灯りを。

 水面は、ゆっくりと橙色に染まっていった。

 まだ太陽は沈んでいない。

 けれど、海の色は少しずつ変わっている。

 青の中に、金色と橙が混ざる。

 水面が細かく揺れるたびに、光がほどけて散っていく。

 夏帆はその色を見ながら、幼い頃の自分を思い出そうとした。

 祖母の手。

 夕方の港。

 カラスの声。

 水面の眩しさ。

 まだ全部は思い出せない。

 でも、その断片だけで胸がいっぱいになる。

「おばあちゃんが言ってた」

 夏帆は、海を見たまま口を開いた。

「写真の子は、祭りの灯りをよう撮りよったって」

「祖父らしい」

 湊は静かに言った。

「灯り、好きやったん?」

「たぶん。暗いところにある光とか、よく撮ってた」

「汐待島の祭りも撮ったんかな」

「撮ったと思う」

「おばあちゃんが、見せたんやろうね」

「うん。きっと」

 湊は海の上の光を見つめていた。

「祖父は、綺麗だと思ったものを撮ってた」

「うん」

「でも、何を綺麗だと思ったのかは、写真を見るまでわからない」

 夏帆は、その言葉を考えた。

 晴臣が撮った白灯台の写真。

 そこには、若い澪子が写っていた。

 灯台や海だけではなく、澪子がいた。

 それは、晴臣があの夏に何を綺麗だと思ったのかを、少しだけ教えてくれている気がした。

「じゃあ、晴臣さんは、おばあちゃんのいた景色を綺麗だと思ったんやね」

 夏帆が言うと、湊は少しだけ夏帆を見た。

 それから、小さく頷いた。

「たぶん」

 その「たぶん」は、夏帆がよく使うものより、少しだけ確かに聞こえた。

 祖母の家へ戻る頃には、空はすっかり夕方の色になっていた。

 玄関を開けると、居間の方から淡い明かりが漏れている。

 夏帆が中へ入ると、澪子が提灯の前に座っていた。

 試しに灯りを入れたのだろう。

 小さな電球が、提灯の薄い紙を内側から照らしている。

 昼間に見た時とは違って、赤と白の紙がやわらかく浮かび上がっていた。

「ついた?」

 夏帆が聞くと、澪子は顔を上げた。

「ついたねぇ」

「綺麗やね」

「昔から、灯りは変わらんねぇ」

 澪子は提灯を見つめたまま言った。

 その横顔が、ほんの少しだけ遠い。

 夏帆は隣に座る。

 提灯の灯りが、澪子の頬に淡く映っている。

「おばあちゃん」

「なんね?」

「晴臣さんも、これ見たんかな」

 澪子は、すぐには答えなかった。

 提灯の灯りを見つめたまま、ゆっくり瞬きをする。

「……見たやろうね」

「綺麗って言った?」

「何でも綺麗って言う子やったけんね」

 少し笑う声。

 でも、その奥に小さな痛みが混ざっていた。

 澪子の声は、懐かしむようで、少しだけ痛そうだった。

「提灯も、海に映る灯りも、風で揺れる火も、何でも」

 澪子は言った。

「そんなに珍しかったん?」

「東京から来た子には、珍しかったんやろうね」

「おばあちゃんは?」

「私は、そんなもん毎年見よったけん」

 澪子はそこで一度言葉を切った。

「でも、あの子が綺麗やって言うと、本当に綺麗に見える時があった」

 夏帆は、提灯の灯りを見つめた。

 誰かに「綺麗」と言われて、見慣れたものが急に特別になる。

 それは、少しわかる気がした。

 湊が八幡浜の夕方の海を見ていた時、夏帆も同じ景色を少し違って見ていた。

 子どもの頃から知っているはずの港が、湊の目を通すと、知らない場所みたいに綺麗に見えた。

「その時のおばあちゃん、楽しかった?」

 聞くと、澪子は少しだけ困ったように笑った。

「さあねぇ」

「覚えてない?」

「覚えとるけど、言わん」

「ずるい」

「年寄りは、少しくらいずるくてええが」

 いつもの調子に戻した声だった。

 でも、夏帆にはわかった。

 澪子は覚えている。

 忘れていない。

 楽しかったことも、きっと。

 そのあとに来る痛みも。

 全部、提灯の灯りの向こうにしまっている。

 夏帆はそれ以上、聞かなかった。

 ただ、しばらく澪子と並んで、淡く灯る提灯を見ていた。

 夜、布団に入ってからも、夏帆はスマホの画面を開いていた。

 湊から送られてきた写真をもう一度見る。

 白灯台の下に立つ自分。

 少し困った顔をして、でも目を逸らしていない自分。

 その写真を閉じると、今度は潮位表のスクリーンショットが見える。

 祭りの日の夜。

 干潮の時間。

 臨時便の時刻。

 その数字の向こうに、白灯台の下の海がある。

 約束の浜がある。

 居間では、試しに灯した提灯がまだ淡く光っていた。

 襖の隙間から、その赤い光が少しだけ漏れている。

 澪子はもう寝ただろうか。

 それとも、まだあの灯りを見ているのだろうか。

 夏帆はスマホを胸元に伏せる。

 目を閉じると、八幡浜港の夕方と、汐待島の白灯台と、提灯の灯りが重なった。

 全部、同じ夏の中にある。

 今の夏帆の夏。

 澪子の十七歳の夏。

 晴臣が写真に残した夏。

 そして、湊と一緒に向かおうとしている夜。

 スマホの画面の中で、白灯台の下に立つ夏帆が、少し困った顔でこちらを見ていた。

 居間では、試しに灯した提灯がまだ淡く光っている。

 祭りの日が来る。

 潮が引く夜が、近づいていた。


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