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汐待島で、君と夏を渡る  作者: 碓氷さゆ


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第5話 汐待港

 汐待島へ向かう海は、思っていたよりも静かだった。

 船のエンジン音が、足元から低く響いている。白い船体の横で波が割れ、細かな飛沫が陽射しを受けてきらきら光った。

 八幡浜の町は、少しずつ遠ざかっていく。

 港の建物も、フェリー乗り場も、祖母の家があるはずの坂の方も、海の向こうでだんだん小さくなっていった。

 夏帆は甲板のベンチに座り、膝の上で手を握っていた。

 ただ島へ向かっているだけなのに、胸の奥が落ち着かない。

 祖母の家を出て、港で湊と合流して、船に乗った。やっていることだけを並べれば、ただの移動だ。

 でも、そうではない気がした。

 昨日まで、汐待島という名前は曖昧な記憶の底に沈んでいた。

 祖母の口からその名前が出て、写真の中の白い灯台と繋がり、晴臣という名前と重なって、今、夏帆はその島へ向かっている。

 隣に座る湊は、黒いリュックを膝に乗せていた。

 写真が入っているあたりに、時々手を置く。その仕草は無意識のように見えた。

「船、久しぶり?」

 湊が聞いた。

 夏帆は遠ざかる八幡浜の町を見たまま、少し考える。

「たぶん。小さい頃に乗ったことある気がする」

「覚えてない?」

「覚えとるような、覚えてないような」

「汐待島のこと?」

「たぶんね」

 また、たぶん。

 この数日で、自分の言葉がずいぶん曖昧になっている気がする。

 でも、汐待島に関する記憶は本当に曖昧だった。

 船の揺れ。

 祖母の手。

 遠くで鳴く鳥。

 港の匂い。

 どれも欠片だけで、ちゃんとした形にならない。

 湊はリュックのポケットを一度押さえてから、海の方を見た。

「祖父も、この海を渡ったのかな」

「たぶん」

「同じ船ではないだろうけど」

「でも、同じ海やね」

「うん」

 湊は小さく頷いた。

「同じ海だと思うと、少し変な感じがする」

 その気持ちは、夏帆にも少しわかった。

 何十年も前、晴臣もこの海を渡ったのだろうか。

 東京から来た少年が、カメラを抱えて船に乗り、汐待島へ向かった。

 その先で澪子と出会い、白い灯台の下で写真を撮った。

 そして、潮が引く夜に、来なかった人になった。

 そこまで考えて、夏帆は胸の奥が少し冷えるのを感じた。

 湊は祖父のことを、どんな人として覚えているのだろう。

 優しい祖父。

 写真を教えてくれた人。

 古いカメラを大切にしていた人。

 でも、澪子にとって晴臣は、来なかった人だ。

 同じ人なのに、見る場所によってまるで違う。

 夏帆は海の方へ顔を向けた。

 風が髪を揺らし、頬に潮の匂いを運んでくる。

 これは旅行ではない。

 祖母が閉じ込めた夏へ向かう船だった。

 湊がリュックから写真を取り出した。

 保護袋に入ったままの古い写真。風に飛ばされないように、湊は指先で端をしっかり押さえている。

「飛ばされるよ」

 夏帆が言うと、湊は少し慌てて写真を胸元に寄せた。

「ごめん」

「謝ることじゃないけど」

「つい見たくなった」

 湊は写真の中の灯台を見つめている。

 まだ本物の灯台は見えない。海の向こうに、いくつかの島影がぼんやり浮かんでいるだけだ。

「写真の中に入っていくみたい?」

 夏帆が聞くと、湊は少し驚いた顔をした。

「うん。そんな感じ」

「変な感じやね」

「うん」

 湊は写真をしまう前に、もう一度だけ少女の顔を見た。

 若い頃の澪子。

 夏帆の祖母。

 晴臣がカメラを向けた相手。

「祖父のこと、知ってるつもりだった」

 湊が言った。

「でも、この写真の祖父は、俺が知ってる祖父とは違う人みたいに思える」

「違う人?」

「優しくて、静かで、写真の話をすると楽しそうで。俺が知ってるのは、そういう祖父だった。でも、澪子さんにとっては……」

 湊は言葉を止めた。

 来なかった人。

 その言葉を、彼は口にしなかった。

 夏帆も言わなかった。

 言わなくても、二人の間にはその言葉があった。

「私も、おばあちゃんのこと知ってるつもりだった」

 夏帆は言った。

「でも、写真のおばあちゃんは、私の知ってるおばあちゃんじゃなかった」

「うん」

「なのに、ちゃんとおばあちゃんだった」

 湊は何も言わなかった。

 船は静かな海を進んでいく。

 船体の下で水が割れる音だけが、二人の沈黙をゆっくり埋めていた。

 汐待港に着いたのは、昼を少し過ぎた頃だった。

 船が速度を落とすと、島の輪郭がはっきり見えてきた。

 小さな港。

 低い防波堤。

 白っぽく褪せたコンクリート。

 その奥に、古い待合所と、坂へ続く細い道が見える。

 大きな観光案内板も、賑やかな土産物屋もない。港にいる人は少なく、船を待っていた数人が慣れた様子で荷物を持って立っていた。

 係の人がロープを投げ、船がゆっくり岸へ寄る。

 夏帆はベンチから立ち上がった。

 足元がまだ少し揺れている気がする。

 湊もリュックを背負い直し、カメラを首にかけた。

 船を降りた瞬間、潮の匂いが濃くなった。

 八幡浜の港とも違う。

 もっと近い。

 海が生活のすぐ横にある匂いだった。

 夏帆と湊の前を、買い物袋を提げた年配の女性が歩いていく。作業着姿の男性は、誰かに軽く手を上げてから坂道の方へ向かった。

 船に乗ってきた人たちは、迷わずそれぞれの方向へ散っていく。

 この島の中へ、当たり前のように戻っていく。

 夏帆と湊だけが、港の端で少し立ち止まっていた。

 船のエンジン音が再び大きくなる。

 乗り降りを終えた船が、ゆっくり港から離れていった。

 船が去ると、島は急に静かになった。

「ここが、汐待島……」

 夏帆は小さく呟いた。

 声に出して初めて、自分が本当に来てしまったのだとわかった。

 湊は港を見回している。

「思ったより、静か」

「観光地って感じじゃないね」

「うん。誰かの生活の場所って感じ」

 待合所の壁には、色褪せた時刻表が貼られていた。

 朝、昼、夕方。

 本当にそれくらいしか便がない。

 隅には、夏祭りの日の臨時便のお知らせが貼られている。紙の端が潮風で少し丸まっていた。

 夏帆はその紙を見て、祖母の声を思い出した。

 最終便、逃したら帰れんなるがよ。

 港の向こうには、細い坂道が集落へ続いている。

 その坂道を見た瞬間、夏帆の足が止まった。

「篠原さん?」

 湊の声で、我に返る。

「あ、ごめん」

「大丈夫?」

「うん。なんか、来たことある気がして」

「思い出した?」

「まだ。気がするだけ」

 夏帆は、港の端にある古い看板を見た。

 潮で文字が少し薄くなっている。

 待合所のベンチ。船着き場の段差。坂へ向かう道。

 どれも初めて見るはずなのに、身体のどこかが先に知っている気がした。

 幼い頃、祖母に手を引かれてここを歩いたのかもしれない。

 子どもの目線なら、待合所はもっと大きく見えただろう。船着き場の段差も、もっと高く感じただろう。

 いまの夏帆は、あの頃より背が伸びている。

 だから同じ場所でも違って見えるのかもしれない。

 それとも、ただの思い込みなのだろうか。

「行こうか」

 湊が言った。

 夏帆は頷いた。

「うん。白灯台、探さんと」

 港から続く坂道を上がると、小さな集落に入った。

 石垣の上に、古い家が並んでいる。庭先には柑橘の木があり、濃い緑の葉が夏の光を受けて揺れていた。

 どこかの軒先では、網のようなものが干されている。潮で褪せた看板。細い路地。水路の上に渡された小さな橋。

 人の姿は少ない。

 けれど、廃れた場所ではなかった。

 開いた窓から扇風機の音が聞こえ、どこかでラジオが小さく鳴っている。物干し竿には洗濯物が揺れていて、玄関先の鉢植えには水をやった跡があった。

 ここにも、ちゃんと日常がある。

 夏帆は、それが少し不思議だった。

 自分たちにとって汐待島は、祖母と晴臣の過去へ続く特別な場所だ。

 でも、ここに暮らす人たちにとっては、朝起きて、洗濯をして、船の時間を気にして、坂道を歩く場所なのだ。

 湊はカメラを手にしていたが、レンズは向けなかった。

「撮らんの?」

 夏帆が聞くと、湊は少しだけカメラを見下ろした。

「まだ、見ておきたい」

「写真好きなのに?」

「好きだから、すぐ撮らない時もある」

「難しいこと言うね」

「自分でもそう思う」

 湊は苦笑した。

 でも、その目は真剣だった。

 撮らないことで、今の景色をちゃんと見ようとしている。

 そんなふうに見えた。

 夏帆は島の道を歩きながら、自分が案内しているのか、案内されているのかわからなくなる。

 湊は初めて来た場所だ。

 でも、夏帆だって本当には知らない。

 ただ、祖母の記憶の端を頼りに歩いているだけだ。

 集落の奥へ進むと、道端の畑に一人の年配の女性がいた。

 腰を少し曲げ、草を取っている。頭には白い帽子をかぶっていた。

 夏帆が立ち止まると、女性も顔を上げた。

「こんにちは」

 夏帆が声をかけると、女性は目を細める。

「はい、こんにちは。見ん顔やねぇ」

「すみません。白灯台へ行きたいんですけど」

「白灯台?」

 女性は少し驚いたように瞬きをした。

「今の子がまた珍しいねぇ」

「あの、祖母が昔ここに来ていたみたいで」

「お祖母さん、誰なが?」

「篠原澪子です。旧姓は、たぶん三崎……」

 言い終わる前に、女性の目が少し大きくなった。

「三崎の澪ちゃんかね」

 夏帆の胸が、不意に強く鳴った。

 澪ちゃん。

 その呼び方は、夏帆の知っている祖母には似合わないようで、でも写真の中の少女には驚くほど似合っていた。

「澪ちゃんの孫なが?」

「はい」

「まあ。そう言われたら、目元がちょっと似とるかもしれんねぇ」

「似てますか」

「澪ちゃんも、若い頃はよう笑う子やったけん」

 若い頃は。

 その言葉だけで、夏帆は写真の中の澪子を思い出した。

 白い灯台の下で笑っていた、十七歳くらいの少女。

 澪子は、この島では祖母ではなく、澪ちゃんだった。

 夏帆の隣で、湊も静かに息を呑んだようだった。

 女性は湊の方へ視線を移す。

「そちらの子は?」

「あ、朝倉湊です」

「東京から来ました。祖父の写真を調べていて」

「東京」

 女性はその言葉に少し反応した。

 湊はリュックから保護袋に入った写真を取り出した。

「これ、見覚えありますか」

 女性は手についた土を払ってから、写真を受け取った。

 目を細め、少し顔から離したり近づけたりして写真を見る。

 最初に灯台を見て、次に少女の顔を見る。

 そして、すぐに小さく声を漏らした。

「ああ、澪ちゃんやないの」

 夏帆は湊を見た。

 湊も夏帆を見る。

 やっぱり。

 祖母の家で聞いた答えと同じなのに、島の人の口から言われると、また違う重みがあった。

「この灯台は白灯台やね」

 女性は写真の中の灯台を指で示した。

「撮った人を、覚えていますか」

 湊の声は少し緊張していた。

 女性は、記憶を手繰るように空を見上げた。

「名前までは、はっきり覚えとらんけど……東京から来とった、写真ばかり撮る子がおったがね」

 湊の指が、保護袋の端をぎゅっと握った。

「写真ばかり撮る子」

「そうそう。港でも、坂道でも、灯台でも、何でも撮りよった。島の人は珍しがっとったよ。あの頃は、今みたいにみんなが写真撮る時代やなかったけんね」

「その人が、澪ちゃんと一緒にいたんですか」

 湊が聞くと、女性はほんの少しだけ笑った。

「よう一緒に歩いとった気がするねぇ。澪ちゃんが島の道、案内しよったんやないかな」

 夏帆は写真を見た。

 若い澪子が、東京から来た少年に島を案内している。

 第3話で澪子が話していたことが、島の人の記憶の中にも残っていた。

 晴臣は本当にここにいた。

 澪子と一緒に歩いていた。

 白灯台へ行った。

 そして写真を撮った。

 湊の祖父の過去が、だんだん現実の輪郭を持ち始めている。

「白灯台は、今もありますか」

 夏帆が聞くと、女性は頷いた。

「あるよ。人はあんまり行かんけど」

「道、教えてもらえますか」

「港からまっすぐ上がって、神社の横の坂を行くんよ。石段があるけん、そこを抜けたら海が開ける。そこから白灯台が見えるが」

「遠いですか?」

 湊が尋ねる。

「若い足なら、まあ大丈夫やろ」

 女性は少し楽しそうに言った。

「ただ、帰りの船は忘れんようにね。夢中になっとったら、すぐ時間過ぎるけん」

「ありがとうございます」

 夏帆と湊は頭を下げた。

 女性は写真を湊に返しながら、夏帆をもう一度見た。

「澪ちゃんは元気にしとる?」

「はい」

「そう。会うたら、島で会うた者がおったって言うといて」

「はい。伝えます」

 そう答えたあと、夏帆は少しだけ迷った。

 澪子に伝えていいのだろうか。

 この島で、「澪ちゃん」と呼ぶ人に会ったこと。

 東京から来ていた写真の子のことを覚えている人がいたこと。

 伝えたら、また祖母のしまっていた箱を開けることになるかもしれない。

 でも、伝えないのも違う気がした。

 女性は畑へ戻りながら、ぽつりと言った。

「白灯台は、昔から変わらんけんね」

 その言葉に、夏帆は顔を上げた。

「変わらん?」

「灯台はね。人は変わるけど」

 女性はそれ以上言わなかった。

 夏帆は、胸の奥にその言葉をしまった。

 人は変わる。

 でも、灯台は変わらない。

 祖母が少女だった頃から、今まで。

 白灯台は、ずっとそこに立っていたのだ。

 教えられた道を進むと、集落の音が少しずつ遠ざかっていった。

 神社の鳥居は、坂の途中にあった。

 石段の脇には夏草が伸び、蝉の声が頭の上から降ってくる。鳥居の朱色は少し褪せていて、潮風に長く晒されてきたことがわかった。

「ここ、上がるんやね」

 夏帆が言うと、湊は帽子のつばを少し下げた。

「おばあちゃんが歩きやすい靴って言った意味、わかった」

「たしかに」

 二人は石段を上がった。

 最初はまだ会話をする余裕があったが、だんだん息が上がってくる。陽射しは強く、背中にじわりと汗が滲んだ。

 夏帆は水筒を取り出して一口飲む。

 湊もペットボトルを開けた。

「大丈夫?」

 湊が聞く。

「うん。坂、思ったよりあるね」

「島の人、これ普通に歩くんだね」

「すごいよね」

 そう言いながら、夏帆は石段の先を見上げた。

 木々の隙間から、青い海が少しだけ見える。

 その景色を見た瞬間、また胸の奥が揺れた。

 この道を、知っている気がする。

 子どもの頃、誰かに手を引かれて歩いた。

 祖母の声がする。

「走ったら危ないがよ」

 そんな声だった気がする。

 夏帆は、石段の途中で足を止めた。

「篠原さん?」

「この道、知っとる気がする」

「灯台まで?」

「わからん。でも、誰かに手を引かれてた気がする」

「澪子さん?」

「たぶん」

 夏帆は自分の手を見た。

 今は何も握っていない。

 でも小さい頃の自分は、祖母の手を握っていたのかもしれない。

 その手に引かれて、この坂を上がったのかもしれない。

 当時の夏帆は、祖母がどんな思いでこの道を歩いていたかなんて、知らなかった。

 白灯台が、祖母にとってどんな場所なのかも知らなかった。

 ただ、祖母の手があったから歩いていた。

 湊は、夏帆の少し後ろで待っていた。

 急かさない。

 その沈黙がありがたかった。

「行ける?」

「うん」

 夏帆は頷き、また歩き出した。

 石段を抜けると、道は少し細くなった。

 片側には草が茂り、もう片側からは海風が吹き上がってくる。蝉の声に混ざって、波の音が遠くで聞こえた。

 湊の口数も少なくなっていた。

 写真の中の場所へ近づいている。

 そう感じているのだと思った。

 夏帆も同じだった。

 祖母の十七歳の夏へ、一歩ずつ近づいている。

 その感覚が、足元の石段よりも重かった。

 しばらく歩くと、道の先が急に明るくなった。

 木々の影が途切れ、強い光が差し込んでいる。

 夏帆は足を止めた。

 湊も隣で止まる。

 あと少し。

 なぜか、そう思った。

 夏帆はゆっくり息を吸い、光の方へ進んだ。

 坂を上がりきった瞬間、視界が開けた。

 青い海と、夏の空。

 その境目に、小さな白い灯台が立っていた。

 湊の写真に写っていた灯台と、同じだった。


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