第4話 汐待島という名前
居間には、さっきまでと同じ夏の光が差していた。
扇風機は変わらず首を振っている。麦茶の入ったグラスも、ちゃぶ台の上で静かに汗をかいていた。
けれど、部屋の空気はもう同じではなかった。
ちゃぶ台の上には、古い写真がある。
白い灯台の下で笑う、若い頃の澪子。
その裏に書かれていた言葉。
潮が引く夜、灯台の下で待つ。
そして、澪子が言った一言。
潮が引く夜に、来なかった人ながよ。
夏帆は、その言葉を頭の中で何度も繰り返していた。
来なかった人。
祖母の声は、怒っているようには聞こえなかった。恨んでいるようにも、泣きそうなようにも聞こえなかった。
ただ、長い時間をかけて乾いてしまったものを、そっと指先でなぞるような声だった。
それが、かえって苦しかった。
湊も何も言わなかった。
背筋を伸ばして座っているのに、どこか所在なさそうに見える。自分の祖父の名前が、目の前の女性の沈黙を呼び起こした。そのことを、どう受け止めればいいのかわからないのだと思う。
澪子は、写真から目を離した。
ゆっくりと麦茶のグラスを手に取って、夏帆と湊の方へ視線を戻す。
「麦茶、ぬるくなったろう。氷、足そうかね」
いつもの声だった。
あまりにもいつも通りで、夏帆は胸が痛くなった。
「おばあちゃん」
「なんね?」
「ほんとに、もう聞かん方がええ?」
言ってから、少し後悔した。
澪子の指が、グラスの縁で止まる。
湊が息を詰めた気配がした。
けれど澪子は、夏帆を責めるような顔はしなかった。静かに目を細め、少しだけ困ったように笑う。
「今は、話すことはないがよ」
「今は?」
「夏帆」
名前を呼ばれて、夏帆は口をつぐんだ。
祖母の声はやわらかい。けれど、その先へは進ませない響きがあった。
「……ごめん」
「謝らんでええ。夏帆が悪いことをしたわけじゃないけん」
「でも」
「ええんよ」
澪子はそう言って、写真をそっと湊の方へ押し戻した。
突き返すような動きではない。
大切なものを、元の持ち主に返すような手つきだった。
「見せてくれて、ありがとう」
湊は、はっとしたように顔を上げた。
「いえ。俺の方こそ、突然すみませんでした」
「遠いところから来たんやね」
「はい」
「晴臣さんのお孫さんが、こんなふうに訪ねてくるとは思わんかった」
澪子の声は穏やかだった。
その穏やかさの奥に、夏帆にはまだ触れられない場所がある。
湊は写真を受け取ったものの、すぐにはしまわなかった。膝の上で保護袋の端を指で押さえたまま、言葉を探している。
「俺は……祖父のことを、何も知らなくて」
「そう」
「この写真のことも、祖父がこの場所に来ていたことも、何も」
「知らないのは、悪いことではないがよ」
「でも」
「あなたは、あなたでしょう」
その一言に、湊は黙った。
澪子は湊を見ていた。
責めてはいない。
晴臣と湊を重ねすぎてもいない。
でも、まったく重ねていないわけでもない。
その視線の複雑さに、夏帆は息をするのを忘れそうになる。
湊は小さく頭を下げた。
「今日は、ありがとうございました」
「こちらこそ」
澪子は、いつもの祖母の顔で頷いた。
けれど、写真の中の少女を見たあとでは、その「いつもの顔」さえ少し違って見える。
湊は写真を保護袋に戻し、リュックへしまった。
その手元を、澪子は一瞬だけ見つめていた。
手放したはずなのに、まだそこに何かを残しているような目だった。
夏帆は、その目を見てしまったから、何も終わっていないのだと思った。
湊が立ち上がると、夏帆も一緒に玄関へ向かった。
澪子は居間から見送っただけだった。いつもなら玄関まで来るはずなのに、今日は来なかった。
それが、写真のせいなのか、晴臣の名前のせいなのか、夏帆にはわからない。
玄関を出ると、午後の光がまだ残っていた。
家の中で重く沈んでいた空気が、外の熱を含んだ風に少しだけ薄まる。
けれど、胸の中は晴れなかった。
「ごめん」
湊が言った。
夏帆は振り向く。
「湊くんが謝ることじゃないやろ」
「でも、俺が持ってきた写真で」
「写真は悪くないよ」
言ってから、夏帆は少しだけ考える。
「たぶん」
「たぶん?」
「うん。写真があったから、おばあちゃんが傷ついたのかもしれん。でも、写真がなかったら、ずっと知らんままやった」
「知らない方がよかったかもしれない」
「それは、まだわからん」
夏帆の声は、自分で思っていたよりはっきりしていた。
湊は少し驚いたように夏帆を見る。
祖母の家の軒先で、風鈴が小さく鳴った。
ちりん、と乾いた音がして、夏の空気に溶ける。
「おばあちゃん、怒ってはなかった」
「うん」
「でも、苦しそうやった」
「うん」
「だから、私もどうしたらいいかわからん」
正直に言うと、湊は少しだけ目を伏せた。
「俺も、わからない」
その言葉で、夏帆は少しだけ息がしやすくなった。
湊もわからない。
自分だけが、この場で正しい答えを持っていないわけではない。
二人とも、古い写真と、祖母の沈黙の前で立ち尽くしている。
そのことが、少しだけ心強かった。
「汐待島、調べてみる?」
夏帆が言うと、湊は顔を上げた。
「今?」
「うん。おばあちゃん、詳しくは話してくれんかったし」
「いいの?」
「よくないかもしれん」
「篠原さん」
「でも、気になる」
夏帆は、家の中を一度振り返った。
障子の向こうに、澪子の気配がある。
きっと今も、居間に座っている。もしかすると、ちゃぶ台の上に残った麦茶のグラスを片付けているかもしれない。何事もなかったように、段ボールの中身をまた整理し始めているかもしれない。
でも、何事もなかったわけではない。
写真を見た祖母の指は止まった。
晴臣の名前を聞いた祖母の声は、知らない色をしていた。
「このまま知らんふりする方が、しんどいこともあるけん」
夏帆が言うと、湊はしばらく黙っていた。
やがて、小さく頷く。
「わかった。調べよう」
二人は祖母の家から少し離れた日陰まで歩いた。
古い商店の軒先にベンチがあり、そこだけ午後の日差しが避けられている。店は閉まっていたが、軒下には風で揺れる暖簾が残っていた。
夏帆と湊は少し距離を空けて腰を下ろし、スマホを取り出した。
「汐待島、漢字は?」
「湊くんが調べたやつ見せて」
湊は検索画面を見せる。
汐待島。
その文字を見た瞬間、夏帆の胸の奥がまた少しざわついた。
汐。
待つ。
島。
名前そのものが、約束のためにあるみたいだった。
「ほんとに、地図にあんまり出んね」
夏帆は自分のスマホでも検索してみた。
出てくる情報は少ない。古い地域紹介のページや、どこかのブログの短い記事、船会社らしい時刻表の断片。はっきりした観光案内ではない。
「観光地って感じではないんやろね」
「うん。こっちにも、船の時刻表くらいしかない」
湊が画面を拡大する。
夏帆も自然に覗き込んだ。
肩が少し近づく。
湊が気づいたのか、わずかにスマホを夏帆側へ傾けてくれた。
それだけのことなのに、夏帆は少しだけ落ち着かなくなる。
今はそういうことを考える場面ではない、と自分に言い聞かせた。
「八幡浜側の港から船で三十分から四十分くらい」
湊が読み上げる。
「近いようで遠いね」
「定期便は、朝、昼、夕方」
「おばあちゃんが言ってた通りや」
「夏祭りの日は、臨時便があるみたい」
「祭りの日……」
夏帆は画面の小さな文字を見つめる。
汐待島夏祭り。
日付は数日後だった。
祖母の家の片付けと夏祭りの手伝い。その「夏祭り」が、八幡浜側だけではなく、汐待島にも関係しているのだと今さら気づく。
「今からは無理だね」
湊が言った。
時刻表を見ると、夕方の便には間に合うかもしれない。でも、島へ着いてもすぐに帰ることになる。初めて行く場所で、白灯台まで行ける時間はなさそうだった。
「うん。行くなら、明日」
夏帆はそう言ってから、言葉が自分の中で重く響くのを感じた。
行くなら、明日。
まだ決めたわけではない。
でも、もうほとんど決めているような言い方だった。
湊もそれに気づいたのか、夏帆を見る。
「行く?」
夏帆はすぐには答えなかった。
スマホの画面には、汐待島行きの船の時刻が並んでいる。
朝。
昼。
夕方。
たったそれだけ。
その少なさが、島とこちら側を分ける境界みたいに見えた。
「おばあちゃんが話したくないなら、知らん方がええんかな」
夏帆は、ぽつりと言った。
湊はスマホを伏せる。
「俺も、それは思った」
「でも、湊くんは知りたいんやろ?」
「知りたい」
湊は少し間を置いて続けた。
「でも、知ることで誰かを傷つけるなら、怖い」
「私も、怖い」
言ってから、夏帆は膝の上で手を握った。
祖母が守ってきた沈黙を、自分が勝手に開けようとしているのかもしれない。
祖母が「昔のことながよ」と言って閉じたものを、孫である自分が掘り返そうとしているのかもしれない。
それは、正しいことなのだろうか。
わからない。
けれど、澪子のあの顔を見てしまった。
写真の中で笑っていた少女と、目の前で静かに目を伏せた祖母が、夏帆の中で離れなくなっていた。
「俺は、祖父を正当化したいわけじゃない」
湊が言った。
「もし祖父が誰かを傷つけたなら、それは知るべきだと思う。でも、祖父が何を残したのかも知りたい。どうしてこの写真を捨てずに持っていたのか、どうして誰にも話さなかったのか」
夏帆は湊を見た。
湊の横顔は、港で初めて見た時よりも少しだけ近く見えた。
この人も、自分と同じように迷っている。
知りたいけれど、怖い。
踏み込みたいけれど、傷つけたくない。
それでも、写真がここまで連れてきた。
「私は」
夏帆は息を吸った。
「おばあちゃんを責めたいわけじゃない」
「うん」
「でも、あんな顔したおばあちゃんを見て、何も知らんままにはできん」
言葉にして、ようやく自分の気持ちがわかった。
祖母の過去を暴きたいわけではない。
ただ、あの言葉の奥にあるものを知らないまま、いつもの孫の顔で笑うことができない。
夏帆はスマホの画面を見た。
汐待島。
名前だけしか知らない島。
でも、祖母の十七歳の夏がそこにある。
「……行きたい」
小さく言うと、湊は黙って頷いた。
夏帆はもう一度、はっきり言った。
「汐待島に、行きたい」
その言葉は、思っていたよりもすんなり胸の中に収まった。
湊は少しだけ表情を緩める。
「俺も行きたい」
「じゃあ、明日」
「うん。昼の便?」
「朝は早すぎるし、夕方は危ないけん。昼がええと思う」
「わかった」
湊は時刻表の画面を保存した。
夏帆も同じようにスクリーンショットを撮る。
小さな電子音が鳴る。
その音が、これから向かう場所を急に現実にした。
ただの予感ではない。
明日、船に乗る。
汐待島へ行く。
「おばあちゃんに、言わんと」
夏帆が立ち上がると、湊も立ち上がった。
「俺も行った方がいい?」
「ううん。まず私が言う」
「わかった」
「湊くん、泊まるところあるん?」
「駅の近くに宿を取ってる」
「そっか」
東京から来た少年が、知らない町の宿に一人で泊まって、祖父の写真を抱えている。
そう思うと、少し不思議だった。
昨日まで夏帆は、湊のことを知らなかった。
なのに今は、明日一緒に島へ行くことになっている。
夏休みは、時々変な速さで物事を進める。
「じゃあ、あとで連絡先」
湊が少し言いにくそうに言った。
「あ、そうやね。待ち合わせいるもんね」
「うん。待ち合わせのために」
「なんで言い訳っぽいん」
「いや」
湊が少し視線を逸らす。
夏帆は思わず笑った。
さっきまで重かった胸が、ほんの少しだけ軽くなる。
連絡先を交換する。
それは明日のためで、汐待島へ行くためで、それ以上の意味はまだない。
けれど、画面に追加された「朝倉湊」という名前を見た時、夏帆は少しだけ不思議な気持ちになった。
この名前が、自分の夏の中に入ってきた。
そんな気がした。
夏帆が祖母の家に戻ると、澪子は居間で段ボールの中身を整理していた。
古い手ぬぐい、祭りの提灯につける紐、小さな写真立て。さっきの話などなかったみたいに、いつもの手つきで物を分けている。
けれど、ちゃぶ台の端には、湊が置いていった麦茶のグラスがまだ残っていた。
澪子は夏帆を見ると、手を止めた。
「湊くんは?」
「宿に戻るって」
「そう」
短い返事だった。
夏帆はしばらく立ったまま、言葉を探した。
言わなければいけない。
でも、言えば澪子の静かな日常にまた波を立てる。
それでも、もう決めた。
「おばあちゃん」
「なんね?」
「明日、汐待島に行ってみる」
澪子の手が、そこで止まった。
「……そう」
それだけだった。
止めるでもなく、怒るでもなく、驚くでもない。
ただ、短くそう言った。
夏帆は畳の上に座る。
「止めんの?」
澪子は、段ボールの中の手ぬぐいをそっと置いた。
「止めたら、行かんの?」
「……たぶん、行く」
「ほうやろね」
澪子は小さく笑った。
その笑い方が、少しだけ寂しく見えた。
「ごめん」
「謝らんでええ。行くなら、船の時間だけは間違えんようにしなさい」
「怒らんの?」
「怒ることではないがよ」
「でも、おばあちゃんは話したくなさそうやった」
「話したくないことと、夏帆が何かを知ろうとすることは、同じではないけんね」
夏帆は、澪子の言葉をすぐには飲み込めなかった。
澪子はいつも通り穏やかな顔をしている。
けれど、その目は遠くにある。
汐待島の方を見ているような、もうそこには戻れない場所を見ているような目だった。
「汐待島、どんなところなん?」
夏帆が聞くと、澪子は少し考えた。
「小さい島よ。港があって、集落があって、坂を上がったら神社があって、その先に白灯台がある」
「白灯台」
「そう。道は少しわかりにくいけん、島の人に聞いたらええ」
「今も人、おるん?」
「おるよ。少なくはなったけど」
澪子は立ち上がり、古い棚の引き出しを開けた。
そこから小さなメモ帳を出してくる。
表紙の角が少し擦り切れた、古いメモ帳だった。
「昔の時刻とは違うけど、船のことは少し書いとる」
「おばあちゃん、まだ持っとったん?」
「なんとなくね」
澪子はページをめくった。
そこには、手書きの文字で船の時間や港の名前が書かれていた。今の時刻表とは少し違うのだろうけれど、澪子の中に島への道がまだ残っていることがわかった。
夏帆はスマホの時刻表を開く。
澪子のメモ帳と、画面の中の時刻表。
古い紙と、光る画面。
その二つを見比べることが、不思議だった。
「朝の便は早いけん、昼の便で行くとええ」
「夕方の便で戻れる?」
「ちゃんと時間見とけば戻れるが」
「灯台まで遠い?」
「坂を上がるけん、歩きやすい靴で行き」
「うん」
「水も持って行きなさい。島で買えるとは限らんけん」
「わかった」
「あと、帽子」
「おばあちゃん、遠足みたい」
「遠足より大事なが」
澪子は真面目な顔で言った。
その真面目さが、いつもの祖母らしくて、夏帆は少しだけ笑いそうになる。
でも、澪子の指先はメモ帳の端を強く押さえていた。
行ってほしくないのかもしれない。
それでも止めない。
代わりに、水や帽子や船の時間を心配する。
その優しさが、夏帆には少し苦しかった。
「最終便逃したら?」
わざと軽く聞いたつもりだった。
澪子は夏帆を見た。
その目は、少しも軽くなかった。
「帰れんなるがよ」
聞いた瞬間、夏帆の中の遠い記憶が震えた。
子どもの頃にも聞いた声。
港のカラスの声と一緒にしまわれていた言葉。
帰れんなるがよ。
それは船の時間を気にする、ただの注意だったはずだ。
でも今聞くと、別の意味まで含んでいるように聞こえる。
帰れなくなる。
戻れなくなる。
知らなかった頃の自分には、もう戻れなくなる。
「……気をつける」
夏帆がそう言うと、澪子はようやく少しだけ笑った。
「そうしなさい」
夜になると、祖母の家は昼間よりも広く感じた。
外では虫が鳴いている。どこか遠くから、車が坂道を上がる音がした。台所の明かりだけが、家の中にやわらかく残っている。
湊からは、短いメッセージが届いていた。
『明日、港に十一時で大丈夫?』
夏帆は布団の上でスマホを見つめる。
『大丈夫。昼の便に乗ろう』
そう返すと、すぐに既読がついた。
『ありがとう』
たったそれだけの返事なのに、湊が画面の向こうで少し緊張しているような気がした。
夏帆はスマホを伏せる。
隣の部屋では、澪子が何かを片付けている音がした。
ことり、と小さな音。
引き出しを閉める音。
畳を歩く足音。
夏帆は起き上がり、襖の隙間からそっと居間を見た。
澪子は段ボールの前に座っていた。
手には、古い写真立てのようなものを持っている。
何を見ているのかは、夏帆の位置からはわからない。
けれど、その背中は昼間よりも小さく見えた。
「夏帆」
急に呼ばれて、夏帆はびくりとした。
「起きとるんやろ」
「……うん」
「明日は早いけん、はよ寝なさい」
「うん」
夏帆は襖を少し開けた。
澪子は振り向かない。
背中を向けたまま、写真立てを段ボールの中へ戻した。
「無理せんのよ」
「おばあちゃんも」
「私は、もう無理する歳でもないがね」
「……ほんとに?」
聞いてから、しまったと思った。
澪子は少しだけ振り返る。
その顔は、暗がりの中でよく見えなかった。
「ほんとよ」
そう言って、いつものように笑った。
夏帆はそれ以上、何も聞けなかった。
布団へ戻って横になる。
天井の木目が、薄暗い部屋の中にぼんやり浮かんでいた。
目を閉じると、写真の中の澪子が浮かぶ。
白い灯台の下で笑う、十七歳の祖母。
そして、今夜の澪子の背中。
同じ人なのに、遠い。
遠いのに、確かに繋がっている。
明日、自分はその間にある海を渡る。
そう思うと、なかなか眠れなかった。
翌朝の八幡浜は、昨日よりも少しだけ青く見えた。
夏帆は白い半袖シャツに、動きやすい薄手のパンツを合わせた。スニーカーの紐を結び直し、リュックの中に水筒とタオル、帽子を入れる。
澪子は台所で朝食を用意していた。
いつも通りの味噌汁の匂い。
いつも通りの茶碗の音。
それが、逆に特別な朝のように感じられた。
「忘れ物ないが?」
「たぶん」
「また、たぶん言う」
「うつったんかも」
「誰に?」
「湊くん」
夏帆が言うと、澪子は少しだけ笑った。
「仲良うなったんやね」
「そういうんじゃないよ」
「そういうんとは言うとらんが」
「おばあちゃん」
夏帆が少し睨むと、澪子は楽しそうに目を細めた。
その表情はいつもの祖母だった。
でも、もう夏帆は知っている。
澪子には、夏帆の知らない夏がある。
それでも、祖母は祖母だ。
朝ごはんを出して、忘れ物を心配して、少しからかう。
そのことに、夏帆は少し安心した。
出発前、澪子は玄関まで来た。
「昼の便やね」
「うん」
「夕方の便、忘れんように」
「わかっとる」
「白灯台まで行くなら、坂、気をつけて」
「うん」
澪子はそれでもまだ何か言いたそうだった。
けれど、最後に出てきたのは短い言葉だけだった。
「行っておいで」
夏帆は、頷いた。
「行ってきます」
その言葉は、昨日の「ただいま」よりも少しだけ自然に出た。
港に着くと、湊はすでに待っていた。
黒いリュックを背負い、首からカメラを下げている。昨日と同じように見えるのに、今日の湊はどこか緊張していた。
「早いね」
夏帆が声をかけると、湊は顔を上げた。
「少し早く着いた」
「緊張しとる?」
「してる」
「正直」
「隠しても仕方ない気がして」
「私もしてる」
夏帆がそう言うと、湊は少しだけ安心したように見えた。
二人で時刻表を見る。
汐待島行き。
昼の便。
文字は小さいけれど、確かにそこにあった。
待合所の前には、買い物袋を持った年配の女性と、作業着姿の男性がいた。観光へ向かう人というより、島に帰る人、島へ用事に行く人たちに見える。
汐待島は、誰かにとっては特別な場所ではなく、日常の場所なのだ。
そのことが、夏帆には少し不思議だった。
湊がリュックの中を確かめる。
「写真、持った?」
「うん」
「カメラも?」
「うん」
「水は?」
「買った」
「帽子は?」
「ない」
「え、ないん?」
「必要?」
「おばあちゃんが遠足より大事って言ってた」
「それは、買った方がいい気がしてきた」
湊が真面目な顔で言うので、夏帆は思わず笑った。
「そこの売店で買えば?」
「そうする」
湊は本当に売店へ向かい、紺色の帽子を買って戻ってきた。
それが妙に似合っていなくて、でも悪くなくて、夏帆は少しだけ笑ってしまう。
「変?」
「いや、東京の子が急に島仕様になった感じ」
「それ、変ってことじゃない?」
「たぶん」
「また、たぶん」
二人でそんな話をしているうちに、港の端から小さな船が近づいてきた。
白い船体が、陽射しを受けてゆっくり光る。
観光船というより、生活のための連絡船だった。派手な装飾はなく、船体には少し傷がある。けれど、その分だけ、ずっとこの海を行き来してきたような安心感があった。
夏帆の胸が、小さく跳ねる。
幼い頃、こんな船に乗ったことがある気がした。
祖母の手。
硬いベンチ。
潮の匂い。
船が動き出す時の、足元が少し浮くような感覚。
どれもはっきりとはしない。
けれど、身体の奥のどこかが覚えていた。
「大丈夫?」
湊が聞いた。
「うん。ちょっと、思い出しかけただけ」
「汐待島のこと?」
「たぶん」
そう答えると、湊はそれ以上聞かなかった。
船が接岸し、係の人がロープをかける。
乗客がゆっくり乗り込んでいく。
夏帆と湊も、その後に続いた。
甲板に上がると、海風が強くなった。
八幡浜の町が、船の向こうに見える。
祖母の家はここからは見えない。それでも、澪子があの家でこちら側の海を気にしているような気がした。
湊はリュックを膝に置き、その上から写真の入ったポケットに手を添えた。
夏帆は隣に座り、手を膝の上で握る。
船のエンジン音が少し大きくなった。
白い波が、船体の横に立つ。
ゆっくりと、船が港を離れていく。
八幡浜の町が少しずつ遠ざかっていく。
昨日まで知っていた場所が、海の向こう側になっていく。
汐待島へ向かう海は、思っていたよりも静かだった。
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