第6話 白灯台の下で
坂を上がりきった瞬間、視界が開けた。
青い海と、夏の空。
その境目に、小さな白い灯台が立っていた。
湊の写真に写っていた灯台と、同じだった。
夏帆は、その場からしばらく動けなかった。
写真で見た時は、古い紙の中に閉じ込められた遠い場所だった。祖母の若い頃と、湊の祖父が過ごした夏が、薄く褪せた色の中に残っているだけのものだと思っていた。
けれど今、その場所は目の前にある。
潮風を受けて、白い灯台は静かに立っていた。
近づいてみると、写真よりも少し古びている。白い塗装はところどころ剥げ、足元には夏草が伸びていた。灯台の根元には潮風で削られたような跡があり、何十年もここで海を見続けてきたことがわかる。
それでも、形は写真とほとんど同じだった。
湊は、隣で息を呑んでいた。
「……あった」
声が、かすかに震えているように聞こえた。
「うん」
「本当に、あった」
「写真と同じやね」
夏帆が言うと、湊はゆっくり頷いた。
「少し古くなってる。でも、同じだ」
湊の目は、灯台から離れない。
まるで、見つめていないと消えてしまうのではないかと思っているみたいだった。
夏帆は、写真の中の澪子を思い出す。
白い灯台の下で笑っていた、十七歳くらいの祖母。
その背後にあった灯台が、今もここにある。
夏帆の知らない祖母の夏は、もう遠い過去のものだと思っていた。
けれど、灯台はここに残っている。
何も言わず、ただ同じ場所に立ち続けている。
写真の中の夏は、まだここに残っていた。
湊はリュックから写真を取り出した。
風に飛ばされないように保護袋の上から指で押さえ、灯台と写真を見比べる。
その横顔は、これまでで一番真剣だった。
「ここじゃない」
「違うん?」
「写真だと、灯台がもう少し左に寄ってる。海の見え方も違う」
湊は一歩下がり、少し横へ動いた。
夏帆は邪魔をしないように、少し離れて見守る。
湊は写真と灯台を交互に見ながら、慎重に位置を探していた。
「もう少し右……いや、こっちか」
「すごいね。そんなに違う?」
「違う」
湊は即答した。
「写真は、撮った人の立っていた場所が残るから」
「撮った人の場所……」
「うん。何を写したかだけじゃなくて、どこから見ていたかも残る」
夏帆は、その言葉を胸の中で繰り返した。
どこから見ていたか。
それなら、この写真には晴臣が立っていた場所も残っているのだ。
白い灯台の下で笑う澪子。
そして、それを見ていた晴臣。
夏帆は写真の中には写っていない少年の姿を想像する。
カメラを構え、眩しそうに目を細めて、澪子に何かを言ったのかもしれない。
笑って、と言ったのか。
そのままで、と言ったのか。
湊は、灯台の少し手前で足を止めた。
「たぶん、ここだ」
「ここが、晴臣さんの立ってた場所?」
「たぶん。写真と角度が合う」
湊はカメラを持ち上げるわけではなく、まず目で景色を確かめた。
その位置から灯台を見ると、確かに写真に近かった。灯台の白い壁、海の青、空の広がり。写真の中で澪子が立っていた場所も、なんとなくわかる。
湊は写真を少し下げ、灯台の根元を見た。
「澪子さんは、たぶんこの辺に立ってた」
夏帆は、湊が指し示した場所を見る。
灯台の下。
海を背にした場所。
写真の中で、若い澪子が笑っていた場所。
「ここ?」
「うん。写真の角度だと」
夏帆は、すぐには動けなかった。
そこに立つということが、思っていたよりも重く感じられた。
ただの場所ではない。
祖母が、十七歳の夏に立っていた場所。
晴臣に向かって笑っていた場所。
そしてたぶん、何かを約束した場所。
「……立ってみてもいい?」
聞くと、湊は少し驚いたように夏帆を見た。
すぐに頷く。
「もちろん」
夏帆はゆっくり歩いた。
足元の草が靴に触れる。灯台の影に入ると、陽射しが少しだけやわらいだ。
海風が吹いて、髪が頬にかかった。
湊に言われた場所で立ち止まる。
海を背にして、灯台の白い壁のそばに立つ。
その瞬間、胸の奥で何かが小さく震えた。
祖母は、ここに立っていた。
今の自分と同じように、潮風を受けて、夏の光の中に立っていた。
その時、澪子は何を思っていたのだろう。
東京から来た少年に写真を撮られることを、照れくさく思っていたのか。
嬉しかったのか。
それとも、何も考えずにただ笑っていたのか。
夏帆にはわからない。
けれど、ここに立つと、写真の中の祖母が少しだけ近くなった気がした。
夏帆は、祖母の十七歳の夏が立っていた場所にいた。
「なんか、変な感じ」
夏帆が呟くと、湊は写真と夏帆を見比べたまま、少しだけ言葉を詰まらせた。
「似てる」
「え?」
「あ、ごめん。澪子さんに、少し」
夏帆は思わず自分の頬に触れた。
「そんなに似とる?」
「目元とか。笑ってなくても、少し」
「それ、褒めてる?」
「褒めてる」
湊は真面目な顔で言った。
あまりに真面目だったので、夏帆は少し困った。
「おばあちゃんに似とるって言われても、反応に困るんやけど」
「ごめん」
「謝ることでもないけど」
夏帆は海の方へ視線を逃がした。
空は高く、海は眩しい。
湊の視線を受けていることが、急に意識される。
写真の中の澪子は、晴臣に見られていた。
今の夏帆は、湊に見られている。
その重なりが、少しだけ落ち着かなかった。
湊の手が、首から下げたカメラに触れた。
けれど、構えない。
手を添えたまま、ためらうように動きを止めている。
夏帆は、その迷いに気づいた。
「撮りたいん?」
湊は一瞬、目を逸らした。
「いや、でも」
「でも?」
「澪子さんの場所に立ってる君を撮るのは、違う気がして」
「違う?」
「祖父の写真をなぞってるみたいになる。君を、澪子さんの代わりみたいに撮るのは失礼だと思う」
その言葉に、夏帆は少し黙った。
湊は本当に、写真に写る人のことを雑に扱わない。
だからこそ、カメラを構えられずにいる。
祖父が撮った写真と、今自分が撮るかもしれない写真。
その間にあるものを、ちゃんと考えている。
夏帆は、灯台の白い壁に手を添えた。
少しざらりとしていて、陽射しで温かい。
「私はおばあちゃんじゃないよ」
「うん」
「おばあちゃんの場所に立っとるけど、私は私やけん」
「うん」
「それに、今ここに立っとるのは、私が立ちたいと思ったからやし」
湊は夏帆を見る。
その目が、少しだけ揺れた。
夏帆は、自分の言葉を確かめるように続ける。
「だから、撮ってもいいよ」
「いいの?」
「うん」
言ってから、胸が少しだけ跳ねた。
撮ってもいい。
それは、ただ写真を撮る許可のはずだった。
なのに、湊に自分の今を残してもいいと言っているようで、少し照れくさい。
湊はカメラを持ち上げる前に、もう一度だけ聞いた。
「本当に?」
「しつこい」
「ごめん」
「いいって言ったんやけん、いいよ」
夏帆がそう言うと、湊は小さく頷いた。
ゆっくりとカメラを構える。
夏帆は、急にどう立てばいいかわからなくなった。
写真を撮られることくらい、学校でも友達同士でもある。スマホを向けられて笑うことにも慣れている。
けれど、湊のカメラは違った。
まっすぐに見られている感じがする。
画面の中ではなく、湊の目の奥に残されるような気がした。
「笑った方がいい?」
「無理に笑わなくていい」
「難しいね」
「そのままでいい」
「そのままって、一番困るんやけど」
夏帆がそう言うと、湊の口元が少しだけ緩んだ。
「でも、今のままがいい」
その言い方があまりに自然だったので、夏帆は返事に詰まった。
海風が吹く。
髪が頬にかかり、夏帆はそれを指で押さえた。
目の前には、カメラを構える湊がいる。
背後には、白い灯台と青い海。
祖母の過去をなぞるために来た場所で、今の自分が立っている。
夏帆はうまく笑えなかった。
でも、無理に笑わなくてもいいと言われたから、そのまま湊を見た。
湊の指が、シャッターに触れる。
シャッター音が、白灯台の下に小さく響いた。
たった一度の音だった。
けれどその音が、過去の中に現在を差し込んだような気がした。
湊はカメラを下ろし、画面を確認する。
夏帆は灯台の下から動けないまま、少しだけ落ち着かない気持ちで待った。
「見てもいい?」
「うん」
湊が歩いてきて、カメラの画面を夏帆に見せる。
そこには、白灯台の下に立つ夏帆が写っていた。
海風に髪を揺らされて、少し困ったような顔をしている。笑っているわけではない。けれど、目を逸らしてもいない。
背後には、白い灯台と青い海。
写真の中の澪子に似ている気がした。
でも、同じではなかった。
夏帆は、画面の中の自分をじっと見つめる。
なんだか、自分ではないみたいだった。
けれど、確かに自分だった。
「変じゃない?」
「変じゃない」
「ほんと?」
「うん。ちゃんと、篠原さんだと思う」
「それ、どういう意味?」
夏帆が聞くと、湊は少し考えた。
「澪子さんに似てるけど、同じじゃないってこと」
「……そっか」
「祖父の写真とは、違う写真になったと思う」
湊は、カメラの画面を見たまま言った。
その声に、少しだけ安堵が混ざっていた。
夏帆は画面の中の自分をもう一度見る。
自分が誰かの記憶の中に残る。
そのことを、初めて少しだけ意識した。
祖母は、晴臣の写真の中に残っていた。
何十年も経って、湊がその写真を持って夏帆の前に現れた。
今撮られたこの写真も、いつか誰かが見るのだろうか。
その時、自分はどんなふうに見えるのだろう。
「消してほしかったら消す」
湊が言った。
夏帆は首を振る。
「消さんでいいよ」
「いいの?」
「うん。せっかく撮ったんやし」
「ありがとう」
湊は、写真を大切にしまうようにカメラを胸元へ戻した。
その仕草を見て、夏帆は少しだけ嬉しくなる。
写真の中の自分を、大事にしてもらえるような気がしたから。
灯台の下に戻り、二人はもう一度、晴臣の写真を見た。
白い灯台の下で笑う澪子。
その裏には、あの文字がある。
湊は写真を裏返し、保護袋越しに夏帆へ見せた。
潮が引く夜、灯台の下で待つ
この場所で読むと、その言葉は前よりもずっと重く感じられた。
灯台の下。
今、夏帆たちがいる場所。
けれど、潮が引く夜という言葉がまだ引っかかる。
夏帆は灯台の足元から海の方を見下ろした。
波が岩に当たって白く砕けている。海は満ちていて、浜らしいものは見えない。
「灯台の下って、ここやね」
「うん。でも、潮が引く夜っていうのが気になる」
「今は、浜なんて見えんよね」
夏帆は少し身を乗り出して下を見た。
岩場があり、その下に海が広がっている。降りられる道があるのかどうかもよくわからない。
湊も同じように見下ろした。
「潮が引いたら、どこかに降りられるのかもしれない」
「約束の場所は、灯台そのものじゃないってこと?」
「かもしれない」
湊はスマホを取り出して、潮の時間を調べようとした。
けれど、灯台の周りは電波が弱いのか、画面の読み込みが遅い。
「あとで港の方で調べた方がよさそう」
「うん」
夏帆は、もう一度海を見下ろした。
もし、この下に浜があるのなら。
祖母は、そこにいたのだろうか。
潮が引いた夜、灯台の下の浜で、晴臣を待っていたのだろうか。
夏の夜。
海の音。
白い灯台。
月明かり。
そして、来なかった人。
想像すると、胸の奥が苦しくなる。
「下を見とるんか」
背後から声がして、夏帆は驚いて振り向いた。
灯台へ続く道の方から、一人の男性が歩いてきていた。年配の男性で、作業帽をかぶり、手には草刈り用の道具を持っている。
夏帆と湊は慌てて頭を下げた。
「すみません」
「いやいや、謝らんでええ。白灯台に若い子が来るのは珍しいけんね」
男性は笑いながら近づいてきた。
「観光かね?」
「あの、祖母が昔ここに来ていたみたいで」
「ほう」
「灯台の下に、浜があるんですか?」
夏帆が聞くと、男性は海の方を見下ろした。
「ああ、下の浜か。いつも見えるわけやないがね」
「潮が引いた時だけ?」
「そう。潮がよう引く時だけ、白い砂の道みたいなんが出るんよ。昔は子どもらも降りよったけど、今はあんまり行かんね」
湊が一歩前に出る。
「その浜に、名前はありますか」
「名前?」
男性は少し考えた。
「正式な名前は知らんけど、昔は若い子らが、約束の浜なんて呼びよったねぇ」
夏帆の胸が、どくんと鳴った。
湊も息を止めたようだった。
「約束の浜……」
夏帆が繰り返すと、男性は懐かしそうに笑った。
「潮が引く夜にしか出んけんね。そこで待ち合わせるとか、願掛けするとか、まあ若い子はそういうの好きやろ」
「潮が引く夜……」
湊の声は小さかった。
写真の裏の文字と、今聞いた言葉が、はっきり繋がっていく。
潮が引く夜。
灯台の下で待つ。
約束の浜。
晴臣と澪子が約束した場所は、ここではない。
この足元に、今は海に隠れている浜だったのかもしれない。
「今は見えないんですか」
夏帆が聞くと、男性は頷いた。
「今の時間じゃ見えんよ。大潮の夜とか、よう引く時やないとはっきり出ん」
「夜……」
「危ないけん、勝手に降りたらいかんよ。足元も悪いし、潮が戻るのも早い時があるけん」
「はい」
夏帆は頷いた。
男性は二人を見比べて、少しだけ不思議そうな顔をした。
「何か探しとるんかね」
湊が写真を見せるか迷ったようだった。
けれど、男性は作業道具を持ち直して笑った。
「まあ、灯台見るだけならええけど、船の時間だけは気をつけなさいよ。島はすぐ静かになるけん」
「ありがとうございます」
夏帆と湊が頭を下げると、男性は灯台の周りの草を見ながら、ゆっくり歩いていった。
その背中が遠ざかるまで、二人は黙っていた。
海の音だけが聞こえる。
夏帆は、灯台の下の海を見下ろした。
そこにはまだ、浜は見えない。
白く砕ける波と、青い海だけがある。
約束の場所は、まだ海の下に隠れていた。
「約束の浜」
湊が呟いた。
「おばあちゃんは、そこにいたんかな」
「たぶん」
湊は写真を見下ろした。
「潮が引く夜、灯台の下で待つ。そう書いたなら、きっとそこだ」
「でも、晴臣さんは来なかった」
夏帆は、言ってから湊を見た。
少しきつい言い方になったかもしれない。
湊は目を伏せた。
「うん」
「ごめん」
「いや。澪子さんがそう言ったんだから」
湊の声は静かだった。
その静けさが、逆に苦しかった。
祖父が来なかった理由を、湊はまだ知らない。
祖母が待っていた理由も、夏帆はまだ知らない。
ただ、約束の場所だけが少しずつ形を持ち始めている。
「潮の時間、調べよう」
湊が言った。
「うん。でも、ここ電波弱いんよね」
「港に戻ったら見られると思う」
「今日、見に行けるかな」
「最終便までに戻るなら、夜は無理だと思う」
「だよね」
夏帆は空を見上げた。
太陽はまだ高いが、時間は確実に進んでいる。夕方の船を逃せば、帰れなくなる。
澪子の声が、頭の中に戻ってくる。
帰れんなるがよ。
今の夏帆には、その言葉がただの船の注意には聞こえなかった。
この場所に深く入りすぎたら、何かが戻れなくなる。
そんな警告のようにも思える。
「祭りの日、臨時便があるって言ってたよね」
夏帆が言うと、湊は顔を上げた。
「うん」
「潮の時間が合えば、その日に来られるかもしれん」
「夜に?」
「たぶん」
「危なくないかな」
「危ないと思う」
夏帆は正直に言った。
「でも、約束の浜を見るなら、夜なんやろ」
湊は答えなかった。
ただ、写真の裏の文字をもう一度見る。
潮が引く夜、灯台の下で待つ。
その文字が、晴臣の声なのか、澪子への約束なのか、まだわからない。
けれど、二人をここまで連れてきたことだけは確かだった。
夏帆は灯台の下の海を見下ろす。
波が岩に当たり、白く砕けては引いていく。
その下に、本当に浜があるのか、今の夏帆には見えない。
でも、見えないからこそ、そこに何かが隠れている気がした。
祖母が待っていた夜。
晴臣が来なかった理由。
写真の裏に残された言葉。
全部が、この海の下で潮が引くのを待っているようだった。
湊も同じ場所を見ていた。
夏帆は、その横顔を見て思う。
この人と一緒に、ここまで来てしまった。
昨日まで知らなかった人なのに、今は同じ場所を見て、同じ言葉の意味を探している。
それが少し不思議で、少し心細くて、少しだけ心強かった。
灯台の下で、波が白く砕けていた。
その下に、本当に浜があるのか、今の夏帆には見えない。
約束の場所は、まだ海の下に隠れていた。
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