第26話 また明日じゃない朝
また明日、と言えない朝が来た。
夏帆は、畳の上に差し込む朝の光を見つめていた。
祖母の家の朝は、いつもと変わらない。古い扇風機がゆっくり首を振り、窓の外では蝉が鳴いている。台所のほうからは、澪子が食器を動かす小さな音が聞こえた。
昨日までと同じ朝。
同じ八幡浜の匂い。
同じ祖母の家。
けれど、今日は違う。
湊が東京へ帰る日だった。
枕元のスマホには、昨夜のメッセージが残っている。
『今日はありがとう。好きって言えてよかった』
『明日、駅で会えるのを待ってる』
『おやすみ』
その下に、自分が送った返信。
『私も、言えてよかった』
『明日、絶対行くね』
『おやすみ』
そして、そのあとに届いた一文。
『ありがとう。また明日』
また明日。
昨日の夜は、その言葉が嬉しかった。
けれど朝になった今、その「また明日」は、いつもの「また明日」とは違っていた。
会える。
でも、見送るために会う。
会ったあと、湊は電車に乗って、この町を離れる。
夏帆はスマホの画面を消した。黒くなった画面に、自分の顔がぼんやり映る。少し寝不足の顔だった。
眠れなかったわけではない。
たぶん、眠った。
でも、何度も目が覚めた。
そのたびに、湊の言葉を思い出した。
好きです。
また会いに来る。
連絡する。
それから、自分の言葉も。
待っとる。でも、待つだけにはせんよ。私も会いに行く。
ちゃんと言えた。
ちゃんと届いた。
だから、今日の別れは終わりではない。
そう思っているのに、胸の奥はやっぱり少し痛かった。
「夏帆、起きとるが?」
襖の向こうから澪子の声がした。
「起きとるよ」
「朝ごはん、できとるけんね」
「うん。今行く」
夏帆は布団を畳んで、深く息を吸った。
今日、湊を見送る。
ただ泣くだけの日にはしない。
そう思いながら、夏帆は部屋を出た。
台所には、味噌汁の匂いがしていた。
焼き魚とご飯、卵焼き、冷たい麦茶。特別な朝食ではない。けれど、今日の夏帆には、それが少しありがたかった。
もし澪子が特別なことをしようとしていたら、きっと泣きたくなっていた。
いつもの朝だから、ちゃんと座れる。
いつもの朝だから、ちゃんと食べられる。
澪子は、夏帆の顔を見てすぐに言った。
「眠れたが?」
「……ちょっと」
「ちょっと?」
「たぶん」
「そう」
「おばあちゃん、今日はつっこまんの?」
「今日は、つっこむ日やないけんね」
その声がやさしくて、夏帆は箸を持つ前から胸が詰まりそうになった。
「……うん」
「ちゃんと見送っておいで」
「うん」
「泣いてもええよ」
「泣かんし」
「そう言う子ほど泣くが」
「今日はつっこむ日じゃないんやろ」
「今のは確認なが」
「同じやん」
澪子は小さく笑った。
その笑い方は、昨日までと同じようで、少し違う。
白灯台へ行ってから、澪子の笑顔には、前よりも風が通るようになった気がする。しまい込んでいた箱の蓋を少し開けて、そこにあったものを自分の手で確かめて、そしてまた今の場所へ戻ってきた人の顔だった。
「今日は、つっこむ日やないけんね」
夏帆は、味噌汁をひと口飲んだ。
温かさが、喉を通って胸に落ちる。
「おばあちゃん」
「ん?」
「昨日、ありがとう」
「昨日も言うてなかった?」
「言ったかもしれんけど」
「何回言うてもええよ」
「うん。ありがとう」
「私は何もしてないが」
「してくれた」
「そうなが」
「うん」
澪子は、何も言わずに頷いた。
それ以上は聞かない。
湊と何を話したのか、どうなったのか、詳しく尋ねない。
ただ、夏帆が言えたことだけを知っていて、見送る朝に、いつものご飯を出してくれている。
それが、今の夏帆には一番やさしかった。
朝食を終えると、澪子は戸棚の前で小さな紙袋を取り出した。
「これ、湊くんに持って行ってもらい」
「なに?」
「ちょっとしたお菓子。電車で食べたらええ」
「おばあちゃん」
「重いもんやないけん」
「ありがとう」
「あと、これも」
澪子は、小さなメモを一枚添えた。
手紙というほど長いものではない。封筒にも入っていない。ただ、きれいな字で短く書かれている。
『また八幡浜へ来てください。澪子』
それだけだった。
夏帆は、そのメモを見て胸が熱くなった。
「おばあちゃん、これ」
「長い手紙は、もうええかなと思って」
「……うん」
「ちゃんと届く短さでええ」
「うん」
「また来る時、空き箱は返さんでええけど、顔は見せに来るがよって言っといて」
「うん。言う」
「夏帆」
「なに?」
「引き止めるためやないよ」
「うん」
「また来てもええ場所やって、伝えるため」
夏帆は、紙袋を両手で受け取った。
中には、お菓子の軽い重みがある。
それは、別れを重くするものではなかった。
行かないで、と縛るものでもない。
ただ、帰る人に「また来ていい」と渡すものだった。
澪子の渡すものは、引き止めるためではなく、また来ていいと言うためのものだった。
「ありがとう。ちゃんと渡す」
「うん」
「おばあちゃんは駅来んの?」
「私は行かんよ」
「……そっか」
「湊くんを見送るのは、夏帆の役目やけんね」
「うん」
「私はここで待っとる」
「待っとるだけ?」
「今日はね」
「今日は?」
「そのうち、湊くんが顔見せに来るかもしれんけん、その時は迎えるが」
「……うん」
夏帆は頷いた。
澪子は駅には来ない。
それでよかった。
これは、夏帆と湊の見送りなのだ。
でも、澪子の思いは、紙袋の中にちゃんと入っている。
夏帆は身支度をして、家を出た。
朝の八幡浜は、昨日の夜とはまったく違う顔をしていた。
祭りの提灯は一部が外され、残ったものも明かりを消して静かに揺れている。広場には昨夜の賑わいの名残がかすかに残っていた。屋台があった場所には何もなく、地面には水を流した跡が乾きかけている。
昨日まで祭りだった町は、もう少しずつ日常の顔に戻り始めていた。
夏帆は、紙袋を持って駅へ向かった。
港のほうではなく、駅へ。
第1話の日、夏帆は列車で八幡浜へ来た。
松山から海沿いを走る鈍行列車に揺られて、下灘を過ぎ、海を見て、幼い頃の記憶を少しずつ思い出しながら、この町へ戻ってきた。
あの時は、夏休みに祖母の家の片付けと祭りの手伝いに来ただけだった。
湊のことも、汐待島のことも、白灯台のことも、約束の浜のことも、何も知らなかった。
八幡浜は懐かしいけれど、少し遠くなった場所だった。
でも今は違う。
この町には、祖母の夏がある。
湊と出会った港がある。
一緒に海を渡った記憶がある。
言葉を渡した祭りの夜がある。
そして今日、湊を見送る駅ができる。
場所は、思い出が重なるたびに変わっていく。
夏帆は、そんなことを考えながら歩いた。
八幡浜駅に着くと、湊はもう来ていた。
改札の近くで、小さなキャリーケースとリュックを持って立っている。首からカメラは下げていなかった。今日は鞄の中にしまっているらしい。
旅の終わりの姿だった。
でも、夏帆を見ると、湊の表情がやわらかくなる。
「待った?」
「少し」
「また早かったん?」
「うん」
「湊くん、いつも早いね」
「落ち着かなくて」
「……私も」
「うん」
いつもの会話なのに、少しだけぎこちない。
昨日、好きだと言い合った。
手もつないだ。
メッセージも送った。
それなのに今朝の二人は、まだ昨日までの距離の測り方を少し引きずっている。
近づいていいのか。
どこまで自然に話していいのか。
そんなことを考えているうちに、かえって不自然になる。
夏帆は、そのぎこちなさが少し可笑しくて、少し愛おしかった。
昨日好きだと言い合ったのに、今朝の二人はまだ、昨日までの距離の測り方を少し引きずっていた。
「荷物、増えた?」
「少し」
「お土産?」
「うん。写真も増えた」
「写真は重くないやろ」
「気持ち的に」
「それは重そう」
「かなり」
「大丈夫?」
「持って帰る」
「うん」
湊は、真面目にそう言った。
夏帆は紙袋を差し出す。
「これ、おばあちゃんから」
「澪子さんから?」
「電車で食べてって」
「ありがたい」
「あと、メモも」
「メモ?」
湊は紙袋の中を見て、澪子の短いメモを見つけた。
開いて、読む。
その目が少しだけやわらかくなった。
「また八幡浜へ来てください、って」
「うん」
「澪子さんらしい」
「長い手紙は、もうええかなって言ってた」
「……うん」
「あと、空き箱は返さんでええけど、顔は見せに来るがよって」
「はい。また来ますって伝えて」
「うん。ちゃんと伝える」
湊は、紙袋を大事そうに鞄へ入れた。
「澪子さんにも、ちゃんと写真送る」
「うん」
「後ろ姿の写真」
「喜ぶと思う」
「あと、昨日の祭りの写真も」
「私のやつ?」
「うん」
「おばあちゃんに見せるの恥ずかしい」
「もう見られてると思う」
「何を」
「たぶん、いろいろ」
「否定できん」
二人で少し笑った。
笑えたことで、少しだけ緊張がほどける。
でも、改札の向こうから聞こえる案内の音が、今日が出発の日だと何度も教えてくる。
電車まで、まだ少し時間があった。
二人はホームへ向かった。
朝の駅は、祭りの港とは違う静けさがあった。
人はいる。
けれど、皆それぞれの行き先を持っていて、声は低く、足音は淡々としている。ホームの向こうには夏の光が広がっていて、線路の上に細い熱が揺れていた。
夏帆と湊は、ベンチの近くに並んで立った。
座ってしまうと、立ち上がる時にもっと寂しくなりそうだった。
「昨日の写真、送ってくれてありがとう」
湊が言った。
「うん」
「何回も見た」
「私も」
「自分の写真?」
「……湊くんの写真も」
「送って」
「送る」
「待ってる」
「うん」
夏帆は、スマホを取り出しかけて、やめた。
今ここで送るより、湊が電車に乗った後に送りたいと思った。
少しでも、帰る道に自分の見た景色を持っていってほしい。
「東京に着いたら連絡して」
「する」
「絶対」
「絶対」
「寝落ちせんでよ」
「しない」
「たぶん?」
「絶対」
湊が少しだけ強く言ったので、夏帆は笑った。
「そこは絶対なんや」
「心配させたくないから」
「……うん」
「途中でも送る」
「うん」
「でも、写真整理してたら遅れるかも」
「やっぱりたぶん?」
「いや、連絡はする」
「ならよし」
何でもない会話をしている。
それなのに、ひとつひとつが大事だった。
電車を待つ時間は、長いようで、短すぎた。
もっと話したい。
でも何を話せばいいかわからない。
好きだと言ったのに、まだ言いたいことがたくさんある。
離れたくない。
寂しい。
また会いたい。
でも、それを全部言葉にしたら、泣いてしまいそうだった。
湊も、どこか同じように見えた。
いつもより口数が少ない。
けれど、黙っているわけではない。言葉を選んでいる沈黙だった。
「次、いつ会えるかはまだわからないけど」
湊が言った。
夏帆は顔を上げる。
「うん」
「会うことは決めていい?」
「うん」
「また会う」
「うん。会う」
「俺、また愛媛に来る」
「うん」
「篠原さんが東京に来る時は、迎えに行く」
「迷子になる前に?」
「なる前に」
「じゃあ、ちゃんと連絡する」
「うん」
「待っとる。でも、待つだけにはせんよ」
「うん」
「私も会いに行く」
「待ってる」
湊の「待ってる」は、澪子の「待っていた」とは違って聞こえた。
苦しいだけの待つではない。
届かないまま止まる待つでもない。
次に会うための、前を向いた待つ。
夏帆は、その言葉をちゃんと受け取った。
次の日付は決まっていなくても、次に会うことだけは決められた。
「湊くん」
「うん」
「ちゃんと好きって言ってくれてありがとう」
「……うん」
「私も、言えてよかった」
「俺も」
「怖かったけど」
「うん」
「でも、言ってよかった」
「うん」
「言わんかったら、きっと今日、もっとつらかった」
「そうだね」
「言えたから、寂しいけど、終わりじゃないって思える」
「うん」
湊は、小さく頷いた。
それから、少しだけ迷ったように手を動かした。
ホームだから、人もいる。
昨日の祭りの後の道とは違う。
でも夏帆は、湊の指先が迷ったことに気づいた。
自分から、そっと手を差し出す。
湊は驚いたように夏帆を見た。
「少しだけ」
夏帆が言うと、湊は頷いた。
「うん」
二人は、ベンチの陰でそっと手をつないだ。
誰かに見られたら恥ずかしい。
でも、今はそれより、離れる前に少しでも温度を覚えておきたかった。
アナウンスが流れた。
湊の乗る電車が近づいている。
夏帆は、つないだ手に少しだけ力を込めた。
湊も握り返してくる。
それだけで、胸が痛い。
線路の向こうから、電車の音が聞こえ始めた。
だんだん近づいてくる。
夏の光の中から、電車がホームへ入ってきた。
風が動く。
髪が揺れる。
手が、ほどける。
電車のドアが開いた。
乗客が降りてくる。乗る人が並ぶ。
湊はキャリーケースの持ち手を握った。
でも、まだ乗らない。
夏帆のほうを見る。
「篠原さん」
「うん」
「好きです」
「……ここで言う?」
「言いたかった」
「私も、好き」
「また来る」
「うん。私も行く」
「連絡する」
「絶対して」
「絶対する」
「写真も」
「送る」
「言葉も」
「送る」
夏帆は笑おうとした。
でも、うまく笑えたかどうかわからなかった。
湊の目も、少しだけ揺れていた。
「泣かないんじゃなかった?」
「まだ泣いてない」
「うん」
「湊くんこそ」
「まだ泣いてない」
「じゃあ、おあいこ」
「うん」
発車を知らせる音が鳴った。
時間だった。
湊は、もう一度夏帆を見た。
そして、小さく頭を下げるようにして言った。
「行ってきます」
「……行ってらっしゃい」
その言葉を言った瞬間、夏帆の胸がいっぱいになった。
さよならではない。
行ってきます。
行ってらっしゃい。
また戻ってくる人に向ける言葉。
湊は電車に乗った。
ドアの近くに立ち、窓越しに夏帆を見る。
夏帆は、ホームから手を振った。
湊も手を振る。
ドアが閉まる。
電車のドアが閉まる音は、思っていたよりも静かだった。
もっと大きな音がすると思っていた。
何かがはっきり終わるような音が。
けれど実際には、ただ静かに閉まっただけだった。
電車がゆっくり動き出す。
湊の姿が、窓の向こうで少しずつ横へ流れていく。
夏帆は歩きながら手を振った。
湊も、見えなくなるまで手を振っていた。
電車はホームを離れ、線路の先へ進んでいく。
夏の光の中へ、少しずつ小さくなっていく。
夏帆は、ホームに立ったままそれを見送った。
胸が痛い。
喉の奥が熱い。
泣きそうだった。
でも、崩れ落ちるような悲しさではなかった。
寂しい。
ちゃんと寂しい。
けれど、その寂しさの中に、約束があった。
連絡する。
写真を送る。
また会う。
待つだけにはしない。
自分も会いに行く。
夏帆は、目元に浮かんだ涙を指でそっと拭った。
泣いていない、と言うには少し遅かったかもしれない。
でも、それでいいと思った。
湊が帰っていくのだから、寂しくて当然だ。
寂しいからこそ、また会いたいと思える。
第1話の日、夏帆は列車に乗って八幡浜へ来た。
海沿いを走る鈍行列車の窓から、夏の海を見た。
昔の自分に近づくみたいに、八幡浜へ戻ってきた。
そして今、湊は列車で八幡浜を離れていく。
でも、これは置き去りにされる別れではない。
白灯台の下で待ち続けた澪子とは違う。
夏帆は、ここでただ待っているだけではない。
その時、スマホが震えた。
夏帆は慌てて画面を見る。
湊からだった。
『出たばかりなのに、もう寂しい』
『でも、ちゃんと帰ったら連絡する』
『行ってきます』
夏帆は、笑った。
涙が少し残っているのに、笑ってしまった。
指先で画面をなぞり、返信を打つ。
『私も寂しい』
『ちゃんと連絡して』
『行ってらっしゃい』
送信すると、すぐに既読がついた。
それだけで、また胸が熱くなる。
届く。
ちゃんと届く。
言葉が、届く。
夏帆はスマホを胸に当て、もう一度、線路の先を見た。
電車は、夏の光の中へ小さくなっていった。
湊は帰っていく。
けれど、夏帆はもう、ただ待っているだけではなかった。
お読みいただきありがとうございます。
夏帆と湊の夏を最後まで見守っていただけたら嬉しいです。
ブックマーク・評価で応援していただけると励みになります。




