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汐待島で、君と夏を渡る  作者: 碓氷さゆ


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26/27

第26話 また明日じゃない朝

 また明日、と言えない朝が来た。

 夏帆は、畳の上に差し込む朝の光を見つめていた。

 祖母の家の朝は、いつもと変わらない。古い扇風機がゆっくり首を振り、窓の外では蝉が鳴いている。台所のほうからは、澪子が食器を動かす小さな音が聞こえた。

 昨日までと同じ朝。

 同じ八幡浜の匂い。

 同じ祖母の家。

 けれど、今日は違う。

 湊が東京へ帰る日だった。

 枕元のスマホには、昨夜のメッセージが残っている。

『今日はありがとう。好きって言えてよかった』

『明日、駅で会えるのを待ってる』

『おやすみ』

 その下に、自分が送った返信。

『私も、言えてよかった』

『明日、絶対行くね』

『おやすみ』

 そして、そのあとに届いた一文。

『ありがとう。また明日』

 また明日。

 昨日の夜は、その言葉が嬉しかった。

 けれど朝になった今、その「また明日」は、いつもの「また明日」とは違っていた。

 会える。

 でも、見送るために会う。

 会ったあと、湊は電車に乗って、この町を離れる。

 夏帆はスマホの画面を消した。黒くなった画面に、自分の顔がぼんやり映る。少し寝不足の顔だった。

 眠れなかったわけではない。

 たぶん、眠った。

 でも、何度も目が覚めた。

 そのたびに、湊の言葉を思い出した。

 好きです。

 また会いに来る。

 連絡する。

 それから、自分の言葉も。

 待っとる。でも、待つだけにはせんよ。私も会いに行く。

 ちゃんと言えた。

 ちゃんと届いた。

 だから、今日の別れは終わりではない。

 そう思っているのに、胸の奥はやっぱり少し痛かった。

「夏帆、起きとるが?」

 襖の向こうから澪子の声がした。

「起きとるよ」

「朝ごはん、できとるけんね」

「うん。今行く」

 夏帆は布団を畳んで、深く息を吸った。

 今日、湊を見送る。

 ただ泣くだけの日にはしない。

 そう思いながら、夏帆は部屋を出た。

 台所には、味噌汁の匂いがしていた。

 焼き魚とご飯、卵焼き、冷たい麦茶。特別な朝食ではない。けれど、今日の夏帆には、それが少しありがたかった。

 もし澪子が特別なことをしようとしていたら、きっと泣きたくなっていた。

 いつもの朝だから、ちゃんと座れる。

 いつもの朝だから、ちゃんと食べられる。

 澪子は、夏帆の顔を見てすぐに言った。

「眠れたが?」

「……ちょっと」

「ちょっと?」

「たぶん」

「そう」

「おばあちゃん、今日はつっこまんの?」

「今日は、つっこむ日やないけんね」

 その声がやさしくて、夏帆は箸を持つ前から胸が詰まりそうになった。

「……うん」

「ちゃんと見送っておいで」

「うん」

「泣いてもええよ」

「泣かんし」

「そう言う子ほど泣くが」

「今日はつっこむ日じゃないんやろ」

「今のは確認なが」

「同じやん」

 澪子は小さく笑った。

 その笑い方は、昨日までと同じようで、少し違う。

 白灯台へ行ってから、澪子の笑顔には、前よりも風が通るようになった気がする。しまい込んでいた箱の蓋を少し開けて、そこにあったものを自分の手で確かめて、そしてまた今の場所へ戻ってきた人の顔だった。

「今日は、つっこむ日やないけんね」

 夏帆は、味噌汁をひと口飲んだ。

 温かさが、喉を通って胸に落ちる。

「おばあちゃん」

「ん?」

「昨日、ありがとう」

「昨日も言うてなかった?」

「言ったかもしれんけど」

「何回言うてもええよ」

「うん。ありがとう」

「私は何もしてないが」

「してくれた」

「そうなが」

「うん」

 澪子は、何も言わずに頷いた。

 それ以上は聞かない。

 湊と何を話したのか、どうなったのか、詳しく尋ねない。

 ただ、夏帆が言えたことだけを知っていて、見送る朝に、いつものご飯を出してくれている。

 それが、今の夏帆には一番やさしかった。

 朝食を終えると、澪子は戸棚の前で小さな紙袋を取り出した。

「これ、湊くんに持って行ってもらい」

「なに?」

「ちょっとしたお菓子。電車で食べたらええ」

「おばあちゃん」

「重いもんやないけん」

「ありがとう」

「あと、これも」

 澪子は、小さなメモを一枚添えた。

 手紙というほど長いものではない。封筒にも入っていない。ただ、きれいな字で短く書かれている。

『また八幡浜へ来てください。澪子』

 それだけだった。

 夏帆は、そのメモを見て胸が熱くなった。

「おばあちゃん、これ」

「長い手紙は、もうええかなと思って」

「……うん」

「ちゃんと届く短さでええ」

「うん」

「また来る時、空き箱は返さんでええけど、顔は見せに来るがよって言っといて」

「うん。言う」

「夏帆」

「なに?」

「引き止めるためやないよ」

「うん」

「また来てもええ場所やって、伝えるため」

 夏帆は、紙袋を両手で受け取った。

 中には、お菓子の軽い重みがある。

 それは、別れを重くするものではなかった。

 行かないで、と縛るものでもない。

 ただ、帰る人に「また来ていい」と渡すものだった。

 澪子の渡すものは、引き止めるためではなく、また来ていいと言うためのものだった。

「ありがとう。ちゃんと渡す」

「うん」

「おばあちゃんは駅来んの?」

「私は行かんよ」

「……そっか」

「湊くんを見送るのは、夏帆の役目やけんね」

「うん」

「私はここで待っとる」

「待っとるだけ?」

「今日はね」

「今日は?」

「そのうち、湊くんが顔見せに来るかもしれんけん、その時は迎えるが」

「……うん」

 夏帆は頷いた。

 澪子は駅には来ない。

 それでよかった。

 これは、夏帆と湊の見送りなのだ。

 でも、澪子の思いは、紙袋の中にちゃんと入っている。

 夏帆は身支度をして、家を出た。

 朝の八幡浜は、昨日の夜とはまったく違う顔をしていた。

 祭りの提灯は一部が外され、残ったものも明かりを消して静かに揺れている。広場には昨夜の賑わいの名残がかすかに残っていた。屋台があった場所には何もなく、地面には水を流した跡が乾きかけている。

 昨日まで祭りだった町は、もう少しずつ日常の顔に戻り始めていた。

 夏帆は、紙袋を持って駅へ向かった。

 港のほうではなく、駅へ。

 第1話の日、夏帆は列車で八幡浜へ来た。

 松山から海沿いを走る鈍行列車に揺られて、下灘を過ぎ、海を見て、幼い頃の記憶を少しずつ思い出しながら、この町へ戻ってきた。

 あの時は、夏休みに祖母の家の片付けと祭りの手伝いに来ただけだった。

 湊のことも、汐待島のことも、白灯台のことも、約束の浜のことも、何も知らなかった。

 八幡浜は懐かしいけれど、少し遠くなった場所だった。

 でも今は違う。

 この町には、祖母の夏がある。

 湊と出会った港がある。

 一緒に海を渡った記憶がある。

 言葉を渡した祭りの夜がある。

 そして今日、湊を見送る駅ができる。

 場所は、思い出が重なるたびに変わっていく。

 夏帆は、そんなことを考えながら歩いた。

 八幡浜駅に着くと、湊はもう来ていた。

 改札の近くで、小さなキャリーケースとリュックを持って立っている。首からカメラは下げていなかった。今日は鞄の中にしまっているらしい。

 旅の終わりの姿だった。

 でも、夏帆を見ると、湊の表情がやわらかくなる。

「待った?」

「少し」

「また早かったん?」

「うん」

「湊くん、いつも早いね」

「落ち着かなくて」

「……私も」

「うん」

 いつもの会話なのに、少しだけぎこちない。

 昨日、好きだと言い合った。

 手もつないだ。

 メッセージも送った。

 それなのに今朝の二人は、まだ昨日までの距離の測り方を少し引きずっている。

 近づいていいのか。

 どこまで自然に話していいのか。

 そんなことを考えているうちに、かえって不自然になる。

 夏帆は、そのぎこちなさが少し可笑しくて、少し愛おしかった。

 昨日好きだと言い合ったのに、今朝の二人はまだ、昨日までの距離の測り方を少し引きずっていた。

「荷物、増えた?」

「少し」

「お土産?」

「うん。写真も増えた」

「写真は重くないやろ」

「気持ち的に」

「それは重そう」

「かなり」

「大丈夫?」

「持って帰る」

「うん」

 湊は、真面目にそう言った。

 夏帆は紙袋を差し出す。

「これ、おばあちゃんから」

「澪子さんから?」

「電車で食べてって」

「ありがたい」

「あと、メモも」

「メモ?」

 湊は紙袋の中を見て、澪子の短いメモを見つけた。

 開いて、読む。

 その目が少しだけやわらかくなった。

「また八幡浜へ来てください、って」

「うん」

「澪子さんらしい」

「長い手紙は、もうええかなって言ってた」

「……うん」

「あと、空き箱は返さんでええけど、顔は見せに来るがよって」

「はい。また来ますって伝えて」

「うん。ちゃんと伝える」

 湊は、紙袋を大事そうに鞄へ入れた。

「澪子さんにも、ちゃんと写真送る」

「うん」

「後ろ姿の写真」

「喜ぶと思う」

「あと、昨日の祭りの写真も」

「私のやつ?」

「うん」

「おばあちゃんに見せるの恥ずかしい」

「もう見られてると思う」

「何を」

「たぶん、いろいろ」

「否定できん」

 二人で少し笑った。

 笑えたことで、少しだけ緊張がほどける。

 でも、改札の向こうから聞こえる案内の音が、今日が出発の日だと何度も教えてくる。

 電車まで、まだ少し時間があった。

 二人はホームへ向かった。

 朝の駅は、祭りの港とは違う静けさがあった。

 人はいる。

 けれど、皆それぞれの行き先を持っていて、声は低く、足音は淡々としている。ホームの向こうには夏の光が広がっていて、線路の上に細い熱が揺れていた。

 夏帆と湊は、ベンチの近くに並んで立った。

 座ってしまうと、立ち上がる時にもっと寂しくなりそうだった。

「昨日の写真、送ってくれてありがとう」

 湊が言った。

「うん」

「何回も見た」

「私も」

「自分の写真?」

「……湊くんの写真も」

「送って」

「送る」

「待ってる」

「うん」

 夏帆は、スマホを取り出しかけて、やめた。

 今ここで送るより、湊が電車に乗った後に送りたいと思った。

 少しでも、帰る道に自分の見た景色を持っていってほしい。

「東京に着いたら連絡して」

「する」

「絶対」

「絶対」

「寝落ちせんでよ」

「しない」

「たぶん?」

「絶対」

 湊が少しだけ強く言ったので、夏帆は笑った。

「そこは絶対なんや」

「心配させたくないから」

「……うん」

「途中でも送る」

「うん」

「でも、写真整理してたら遅れるかも」

「やっぱりたぶん?」

「いや、連絡はする」

「ならよし」

 何でもない会話をしている。

 それなのに、ひとつひとつが大事だった。

 電車を待つ時間は、長いようで、短すぎた。

 もっと話したい。

 でも何を話せばいいかわからない。

 好きだと言ったのに、まだ言いたいことがたくさんある。

 離れたくない。

 寂しい。

 また会いたい。

 でも、それを全部言葉にしたら、泣いてしまいそうだった。

 湊も、どこか同じように見えた。

 いつもより口数が少ない。

 けれど、黙っているわけではない。言葉を選んでいる沈黙だった。

「次、いつ会えるかはまだわからないけど」

 湊が言った。

 夏帆は顔を上げる。

「うん」

「会うことは決めていい?」

「うん」

「また会う」

「うん。会う」

「俺、また愛媛に来る」

「うん」

「篠原さんが東京に来る時は、迎えに行く」

「迷子になる前に?」

「なる前に」

「じゃあ、ちゃんと連絡する」

「うん」

「待っとる。でも、待つだけにはせんよ」

「うん」

「私も会いに行く」

「待ってる」

 湊の「待ってる」は、澪子の「待っていた」とは違って聞こえた。

 苦しいだけの待つではない。

 届かないまま止まる待つでもない。

 次に会うための、前を向いた待つ。

 夏帆は、その言葉をちゃんと受け取った。

 次の日付は決まっていなくても、次に会うことだけは決められた。

「湊くん」

「うん」

「ちゃんと好きって言ってくれてありがとう」

「……うん」

「私も、言えてよかった」

「俺も」

「怖かったけど」

「うん」

「でも、言ってよかった」

「うん」

「言わんかったら、きっと今日、もっとつらかった」

「そうだね」

「言えたから、寂しいけど、終わりじゃないって思える」

「うん」

 湊は、小さく頷いた。

 それから、少しだけ迷ったように手を動かした。

 ホームだから、人もいる。

 昨日の祭りの後の道とは違う。

 でも夏帆は、湊の指先が迷ったことに気づいた。

 自分から、そっと手を差し出す。

 湊は驚いたように夏帆を見た。

「少しだけ」

 夏帆が言うと、湊は頷いた。

「うん」

 二人は、ベンチの陰でそっと手をつないだ。

 誰かに見られたら恥ずかしい。

 でも、今はそれより、離れる前に少しでも温度を覚えておきたかった。

 アナウンスが流れた。

 湊の乗る電車が近づいている。

 夏帆は、つないだ手に少しだけ力を込めた。

 湊も握り返してくる。

 それだけで、胸が痛い。

 線路の向こうから、電車の音が聞こえ始めた。

 だんだん近づいてくる。

 夏の光の中から、電車がホームへ入ってきた。

 風が動く。

 髪が揺れる。

 手が、ほどける。

 電車のドアが開いた。

 乗客が降りてくる。乗る人が並ぶ。

 湊はキャリーケースの持ち手を握った。

 でも、まだ乗らない。

 夏帆のほうを見る。

「篠原さん」

「うん」

「好きです」

「……ここで言う?」

「言いたかった」

「私も、好き」

「また来る」

「うん。私も行く」

「連絡する」

「絶対して」

「絶対する」

「写真も」

「送る」

「言葉も」

「送る」

 夏帆は笑おうとした。

 でも、うまく笑えたかどうかわからなかった。

 湊の目も、少しだけ揺れていた。

「泣かないんじゃなかった?」

「まだ泣いてない」

「うん」

「湊くんこそ」

「まだ泣いてない」

「じゃあ、おあいこ」

「うん」

 発車を知らせる音が鳴った。

 時間だった。

 湊は、もう一度夏帆を見た。

 そして、小さく頭を下げるようにして言った。

「行ってきます」

「……行ってらっしゃい」

 その言葉を言った瞬間、夏帆の胸がいっぱいになった。

 さよならではない。

 行ってきます。

 行ってらっしゃい。

 また戻ってくる人に向ける言葉。

 湊は電車に乗った。

 ドアの近くに立ち、窓越しに夏帆を見る。

 夏帆は、ホームから手を振った。

 湊も手を振る。

 ドアが閉まる。

 電車のドアが閉まる音は、思っていたよりも静かだった。

 もっと大きな音がすると思っていた。

 何かがはっきり終わるような音が。

 けれど実際には、ただ静かに閉まっただけだった。

 電車がゆっくり動き出す。

 湊の姿が、窓の向こうで少しずつ横へ流れていく。

 夏帆は歩きながら手を振った。

 湊も、見えなくなるまで手を振っていた。

 電車はホームを離れ、線路の先へ進んでいく。

 夏の光の中へ、少しずつ小さくなっていく。

 夏帆は、ホームに立ったままそれを見送った。

 胸が痛い。

 喉の奥が熱い。

 泣きそうだった。

 でも、崩れ落ちるような悲しさではなかった。

 寂しい。

 ちゃんと寂しい。

 けれど、その寂しさの中に、約束があった。

 連絡する。

 写真を送る。

 また会う。

 待つだけにはしない。

 自分も会いに行く。

 夏帆は、目元に浮かんだ涙を指でそっと拭った。

 泣いていない、と言うには少し遅かったかもしれない。

 でも、それでいいと思った。

 湊が帰っていくのだから、寂しくて当然だ。

 寂しいからこそ、また会いたいと思える。

 第1話の日、夏帆は列車に乗って八幡浜へ来た。

 海沿いを走る鈍行列車の窓から、夏の海を見た。

 昔の自分に近づくみたいに、八幡浜へ戻ってきた。

 そして今、湊は列車で八幡浜を離れていく。

 でも、これは置き去りにされる別れではない。

 白灯台の下で待ち続けた澪子とは違う。

 夏帆は、ここでただ待っているだけではない。

 その時、スマホが震えた。

 夏帆は慌てて画面を見る。

 湊からだった。

『出たばかりなのに、もう寂しい』

『でも、ちゃんと帰ったら連絡する』

『行ってきます』

 夏帆は、笑った。

 涙が少し残っているのに、笑ってしまった。

 指先で画面をなぞり、返信を打つ。

『私も寂しい』

『ちゃんと連絡して』

『行ってらっしゃい』

 送信すると、すぐに既読がついた。

 それだけで、また胸が熱くなる。

 届く。

 ちゃんと届く。

 言葉が、届く。

 夏帆はスマホを胸に当て、もう一度、線路の先を見た。

 電車は、夏の光の中へ小さくなっていった。

 湊は帰っていく。

 けれど、夏帆はもう、ただ待っているだけではなかった。


お読みいただきありがとうございます。

夏帆と湊の夏を最後まで見守っていただけたら嬉しいです。

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