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汐待島で、君と夏を渡る  作者: 碓氷さゆ


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27/27

第27話 君と夏を渡る

最終話です。

夏帆が、八幡浜で過ごした夏を胸に松山へ戻ります。

 湊の乗った電車が見えなくなっても、夏帆はしばらくホームに立っていた。

 線路の先には、夏の光が揺れている。

 もう電車の音は遠い。

 ホームに残っているのは、発車したあとの静けさと、蝉の声と、まだ少し熱い朝の空気だけだった。

 手の中のスマホには、湊から届いたばかりのメッセージが残っている。

『出たばかりなのに、もう寂しい』

『でも、ちゃんと帰ったら連絡する』

『行ってきます』

 その下に、自分が返した言葉。

『私も寂しい』

『ちゃんと連絡して』

『行ってらっしゃい』

 既読は、すぐについた。

 それだけで、夏帆は少し笑えた。

 寂しいのに、笑えた。

 届く、と思った。

 湊はもう八幡浜を離れていく。

 今ごろ列車の中にいる。

 窓の外には、夏帆が来た時とは逆向きの景色が流れているはずだった。

 それでも、言葉は届く。

 好きも。

 寂しいも。

 行ってらっしゃいも。

 届くのだと、夏帆は知っている。

 夏帆はスマホを鞄にしまい、改札へ向かった。

 駅の外へ出ると、朝の八幡浜はもう普段の顔をしていた。昨日の祭りの灯りは消え、港のほうからはいつもの潮の匂いが流れてくる。道を歩く人たちも、もう祭りの夜の顔ではない。買い物へ行く人、仕事へ向かう人、立ち話をする人。

 湊がいない八幡浜は、少しだけ音が変わった気がした。

 昨日までなら、歩いている途中で湊から連絡が来るかもしれなかった。

 港へ行けば、カメラを下げた湊がいるような気がした。

 フェリー乗り場の近くで、また少し困った顔をして立っているような気がした。

 でも今、湊はここにいない。

 そのことが胸に小さく刺さる。

 けれど、空っぽではなかった。

 湊がいた時間が、八幡浜のあちこちに残っている。

 だから、いなくなったことがわかる。

 それは寂しいことだけれど、出会わなければ感じられなかった寂しさだった。

 夏帆は祖母の家へ向かって歩いた。

 昨日まで祭りだった町は、少しずつ日常に戻っていく。

 けれど夏帆の中では、まだ夏祭りの灯りが消えきっていなかった。

 祖母の家に戻ると、澪子は玄関の近くで待っていた。

 待っていた、といっても、外まで出ているわけではない。家の中で、いつものように麦茶の入ったコップを手にしている。

 けれど、夏帆が帰ってくる時間をちゃんとわかっていた顔だった。

「おかえり」

「ただいま」

「見送れた?」

「うん」

「泣いたが?」

「……ちょっとだけ」

「ちょっとならええ」

「ちょっとじゃなかったら?」

「それでもええ」

「おばあちゃん、今日は優しい」

「いつも優しいが」

「それはどうかな」

「孫は遠慮がないねぇ」

 澪子は笑った。

 夏帆も笑った。

 少しだけ目元が熱かったけれど、もう駅のホームにいた時ほどではなかった。

「湊くん、ちゃんと行った?」

「うん。行ってきますって」

「そう」

「私も、行ってらっしゃいって言えた」

「ええね」

「さよならじゃなくて」

「うん」

 澪子は、ゆっくり頷いた。

「行ってきますって言える別れは、ええね」

「……うん」

「帰ってくるつもりのある言葉やけん」

「うん」

 夏帆は、スマホを取り出した。

 湊からのメッセージを澪子に見せる。

 澪子は画面をのぞき込み、目を細めた。

「出たばかりなのに、もう寂しい、か」

「うん」

「素直な子やね」

「そうやね」

「夏帆も寂しいって返しとる」

「……見せんかったらよかった」

「見せたのは夏帆なが」

「そうやけど」

 澪子は楽しそうに笑ったあと、すぐにやわらかい顔になった。

「でも、ちゃんと言えてよかったね」

「うん」

「寂しいも、好きも、行ってらっしゃいも」

「うん」

「言える時に言うたらええ」

「……うん」

 夏帆はスマホを胸の近くに戻した。

 言える時に言う。

 この夏に、何度も聞いた言葉だった。

 でも今はもう、ただの教訓ではない。

 湊に言えた。

 湊からも届いた。

 だから、この寂しさは終わりではない。

「湊くん、また来るね」

 澪子が言った。

 夏帆は顔を上げる。

「……そうかな」

「来るよ」

「なんでわかるん」

「目がそう言いよった」

「おばあちゃんの人を見る力?」

「そうなが」

「便利やね」

「便利よ」

 澪子は麦茶をひと口飲んだ。

「それに、あの子は約束を軽く言う子やない」

「うん」

「また来ますって言うたんやろ?」

「うん」

「なら、来るよ」

「……うん」

「夏帆も、待つだけにはせんのやろ」

 夏帆は、少しだけ背筋を伸ばした。

「うん。私も会いに行く」

「それでええ」

「でも、待つこともあると思う」

「うん」

「その時は、ちゃんと待っとるって言う」

「うん」

「黙って待つんじゃなくて」

「そうやね」

 澪子は、静かに笑った。

「待つことが悪いわけやないけんね」

「うん」

「ただ、待っとるだけで、自分を置いていったらいけん」

「……うん」

「夏帆は、自分の足で行ける子や」

「おばあちゃん、それ前も言ってた」

「何回でも言うよ」

「うん」

 夏帆は頷いた。

 待つ。

 その言葉は、澪子にとって長い間、白灯台の下に立ち尽くすような言葉だったのだと思う。

 でも今は、少しだけ違って聞こえる。

 待つこともできる。

 会いに行くこともできる。

 言葉を届けることもできる。

 澪子の「待っとる」は、もう閉じた場所からの言葉ではなかった。

 その日の午後、夏帆は澪子と一緒に、片付けの続きをした。

 祖母の家には、まだ整理しきれていないものがいくつもあった。古い押し入れ、使わなくなった食器、昔の祭りのうちわ、誰が書いたのかわからないメモ。片付けるというより、ひとつずつ時間を確かめていく作業だった。

 その中に、あの写真箱もあった。

 最初に見つけた時、夏帆はその箱を開けるのが少し怖かった。

 中に何があるのか。

 祖母が何をしまってきたのか。

 開けてしまったら、戻れない気がしていた。

 でも今は、怖さだけではなかった。

「この箱、どうする?」

 夏帆が聞くと、澪子は少し考えてから言った。

「捨てんよ」

「うん」

「でも、隠すためにはしまわん」

「じゃあ?」

「覚えとくためにしまう」

「……うん」

 澪子は、箱の蓋を開けた。

 中には、晴臣の写真がある。

 若い澪子の後ろ姿。

 白灯台。

 古い手紙。

 潮が引く夜、灯台の下で待つ、という言葉。

 何度見ても、胸の奥が少し痛む。

 けれど、もうその痛みは最初とは違っていた。

 知らなかった痛みではない。

 閉じ込められていた痛みでもない。

 ちゃんと名前を知った痛みだった。

 澪子は写真を一枚ずつ手に取った。

「若いねぇ」

「おばあちゃんが?」

「そう。こんな頃もあったんやね」

「あったんやねって、自分のことやん」

「昔すぎると、他人みたいにも思えるが」

「でも、おばあちゃんやろ」

「うん。私やね」

 澪子は、若い自分の写真を見て、少し笑った。

 その笑顔は、悲しみだけではなかった。

「晴臣さんも、若い」

「そうやね」

「湊くんに少し似とる?」

「目元が少し」

「やっぱり」

「でも、湊くんは湊くんやね」

「うん」

 夏帆は頷いた。

 湊は晴臣の代わりではない。

 夏帆も澪子の代わりではない。

 それでも、二つの夏はつながっている。

 つながっているけれど、同じではない。

「湊くんが撮った、おばあちゃんの後ろ姿の写真も、今度入れようね」

「そうやね」

「プリントする?」

「してもらおうかねぇ」

「私、頼むよ」

「お願いしようかね」

 澪子は箱の中を整えながら、手紙を丁寧に戻した。

 以前なら、しまうことは隠すことだったのかもしれない。

 見ないようにすること。

 忘れたふりをすること。

 けれど今は違う。

 同じ箱なのに、もう閉じ込めるための箱ではなかった。

 澪子は蓋を閉める前に、もう一度だけ写真を見た。

「晴臣さん、届いたよ」

「おばあちゃん」

「うん。もう、大丈夫」

 その声は小さかった。

 でも、ちゃんと前を向いていた。

 箱の蓋が閉じられる。

 木の小さな音がした。

 その時、夏帆のスマホが震えた。

 湊からだった。

『海が見えた』

『篠原さんが最初に見た景色、たぶんこれだよね』

 写真が一枚送られてきていた。

 列車の窓から見た海。

 青い水面と、夏の光。

 少し窓に反射した車内の影。

 夏帆は、その写真を見て息を止めた。

 下灘を通るあたりだと思った。

 第1話の日、自分が八幡浜へ向かう途中に見た海。

 あの時は、まだ湊を知らなかった。

 汐待島も知らなかった。

 祖母の古い約束も知らなかった。

 湊は、夏帆が来た道を、今度は逆向きに進んでいた。

 夏帆は返信を打った。

『そう』

『私もそこ通って八幡浜に来た』

『今度は一緒に乗りたいね』

 少しして、湊から返事が来た。

『うん。一緒に見たい』

『その時は、写真も撮るけど、ちゃんと一緒に見る』

 夏帆は、思わず笑った。

「湊くん?」

 澪子が聞いた。

「うん。海の写真送ってくれた」

「見せて」

「うん」

 夏帆が画面を見せると、澪子は目を細めた。

「きれいなが」

「うん」

「写真だけやないね」

「え?」

「言葉も一緒に届いとる」

「……うん」

 夏帆はスマホを見つめた。

 写真は、景色を残す。

 言葉は、気持ちを届ける。

 この夏、何度も考えたことだった。

 今、湊から届いた写真には、ちゃんと言葉が添えられている。

 夏帆が見た景色を、湊も見ている。

 いつか一緒に見たいと、言葉で伝えてくれている。

 写真は、今度は言葉と一緒に届いた。

 夏帆は、少し迷ってから、昨日の祭りで撮った湊の写真を選んだ。

 提灯の灯りの下で、少し困ったような顔をしている湊。

 撮られるのに慣れていない彼らしい一枚。

 夏帆は写真を送った。

『昨日の写真、送るね』

『変な顔じゃないよ。湊くんらしい』

 すぐに既読がついた。

『ありがとう』

『篠原さんが撮ったなら、たぶん大事にする』

 夏帆はすぐに返す。

『たぶん?』

 少し間があって、返事。

『絶対』

 夏帆は画面を見ながら、笑ってしまった。

「何笑いよるが」

「湊くんが、たぶんって言ったあとに絶対って訂正した」

「ええ子やね」

「おばあちゃん、湊くんに甘い」

「夏帆にも甘いよ」

「そうかな」

「そうなが」

 澪子は、当然のように言った。

 その数日後、夏帆も松山へ戻る日が来た。

 祭りの片付けは終わり、祖母の家の整理も一段落した。全部が片付いたわけではない。けれど、急がなくていいものもあると、澪子が言った。

 無理に空にしなくてもいい。

 少しずつ見て、少しずつしまえばいい。

 それは、物だけでなく記憶のことでもある気がした。

 夏帆は荷物をまとめながら、部屋を見回した。

 来た時より、荷物は少ないはずだった。

 祭りでもらったうちわや、小さな土産はあるけれど、大きく増えたわけではない。

 それなのに、鞄が少し重く感じる。

 湊と撮った写真。

 澪子と見た写真箱。

 汐待島の海。

 白灯台の白。

 約束の浜の夜。

 夏祭りの灯り。

 駅のホームで交わした「行ってきます」と「行ってらっしゃい」。

 どれも鞄には入っていない。

 でも、確かに持ち帰るものだった。

 来た時より、荷物は少ないはずなのに、夏帆の中には持ち帰るものが増えていた。

「忘れ物ないが?」

 澪子が部屋をのぞいた。

「たぶん」

「たぶん?」

「確認したけん、大丈夫」

「ならええ」

「おばあちゃんこそ、無理せんでよ」

「またそれ」

「言うよ」

「はいはい」

「片付けも、一人で重いもの持ったらいかんけん」

「わかっとるが」

「ほんとに?」

「ほんと」

「榊さんみたいな言い方になってきた」

「誰それ」

「……なんでもない」

 夏帆は自分で笑ってしまった。

 澪子は不思議そうにしていたが、深く聞かなかった。

「また来たらええ」

「うん。来る」

「今度は湊くんも連れてくるが?」

「……それは、いつか」

「いつかねぇ」

「なに」

「なんでもないが」

「絶対なんか思っとる」

「思っとるだけならええやろ」

「よくない」

 澪子は楽しそうに笑った。

 その顔を見ると、夏帆はほっとする。

 白灯台へ行く前の澪子も、もちろん好きだった。

 でも今の澪子は、少しだけ外へ開いている気がする。

 昔の夏を箱にしまって、家の奥に置いていた人ではなくなった。

 その箱をもう一度開けて、今の自分の手でしまい直した人になった。

「また来るね」

「待っとるよ」

「待つだけ?」

「私もそのうち松山行くが」

「ほんと?」

「足腰が元気なうちにね」

「じゃあ、迎えに行く」

「それは助かるが」

「湊くんにも言っとく?」

「言わんでええ」

「なんで」

「若い子の邪魔はせんよ」

「おばあちゃん」

「でも、顔は見たいけん、そのうち連れておいで」

「……うん」

 夏帆は小さく頷いた。

 澪子の「待っとる」は、もう閉じた場所からの言葉ではなかった。

 迎えるための言葉だった。

 また来る人に向ける言葉だった。

 そして、自分もいつか動くかもしれないという、少し未来へ開いた言葉だった。

 八幡浜駅で、夏帆は澪子と向き合った。

 数日前、ここで湊を見送ったばかりだった。

 今日は、自分が松山へ戻る。

 同じ駅なのに、気持ちは違う。

「ちゃんと連絡するんよ」

「うん」

「湊くんにも?」

「する」

「それならええ」

「おばあちゃんにもするよ」

「私はついでなが?」

「違うって」

「冗談よ」

「もう」

 澪子は笑って、夏帆の肩に手を置いた。

「夏帆」

「うん」

「帰る場所が増えるんは、ええことよ」

「……うん」

「松山も、八幡浜も、汐待島も」

「うん」

「どこかひとつだけにせんでええ」

「うん」

「その時その時で、帰りたいところへ帰ったらええ」

「……うん」

 夏帆は、少し泣きそうになった。

 けれど、笑った。

「また来る」

「待っとる」

「でも、待つだけにはせんのよね」

「そうやね」

「おばあちゃんも松山来て」

「そのうちね」

「約束」

「約束なが」

 発車の時間が近づく。

 夏帆は改札を通った。

 澪子が手を振っている。

 夏帆も手を振った。

 さよならではない。

 また来る。

 その言葉を胸に、夏帆はホームへ向かった。

 列車に乗り込むと、窓際の席に座った。

 第1話の日と同じように、鞄を膝の上に置く。

 スマホを取り出す。

 けれど、あの日とは違う。

 あの日、夏帆は八幡浜へ向かっていた。

 今日は、松山へ戻る。

 同じ海沿いの線路を、逆向きに進む。

 列車が動き出した。

 窓の外で、八幡浜の町が少しずつ後ろへ流れていく。

 港の気配。

 坂道。

 祖母の家がある方角。

 湊と歩いた道。

 祭りのあった広場。

 全部が遠ざかっていく。

 けれど、不思議と置いていく感じはしなかった。

 また帰ってくるからだと思った。

 第1話の日、八幡浜は、昔の自分が置いてきた場所だった。

 懐かしいけれど、少し遠くなった場所。

 自分が松山にいることを確かめるために、一度戻る場所。

 でも今は違う。

 八幡浜は、また帰ってくる場所になった。

 祖母がいる。

 澪子の夏がある。

 湊と出会った港がある。

 白灯台へ渡った記憶がある。

 言葉を渡した祭りの夜がある。

 そして、いつか湊とまた来たい場所になった。

 同じ海沿いの線路なのに、帰りの景色は、来た時とは違って見えた。

 列車が海沿いへ出ると、窓の外の光が増えた。

 海が見える。

 夏帆は、思わず息を止めた。

 来た時も、同じように海を見た。

 でも、その時の自分はまだ、この夏がどうなるのか知らなかった。

 知らないまま、海を見ていた。

 今は違う。

 この海の向こうに、汐待島がある。

 白灯台がある。

 約束の浜がある。

 そして、湊と渡った夏がある。

 夏帆はスマホを取り出し、車窓の海を撮った。

 写真は少し揺れた。

 窓の反射も入っている。

 湊が撮る写真みたいに綺麗ではない。

 でも、今の夏帆が見ている海だった。

 夏帆は湊へ送った。

『今、海見とる』

『帰りの景色、来た時と全然違って見える』

 少しして、返事が来た。

『東京に着いた』

『でも、まだ海の匂いがする気がする』

 夏帆は笑った。

『私もまだ、祭りの音が残っとる気がする』

『また一緒に見ようね』

 湊から、すぐ返事。

『うん』

『今度は、写真も撮る。でも、ちゃんと一緒に見る』

 夏帆は、その文字を何度も見た。

 写真も撮る。

 でも、ちゃんと一緒に見る。

 湊らしい言葉だった。

 夏帆は、窓の外へ視線を戻した。

 海は、光を受けてきらきらと揺れている。

 下灘を過ぎる頃、車内の何人かがスマホを向けた。

 第1話の日と同じように。

 でも夏帆は、ただ撮るだけではなく、ちゃんと見た。

 この景色を、湊にも見せたい。

 湊と一緒に見たい。

 そう思いながら。

 スマホがまた震えた。

 湊からだった。

『忘れないと思う』

『汐待島も、白灯台も、祭りも』

『篠原さんと見た海も』

 夏帆は、胸の奥が熱くなった。

 返信を打つ指が、少し震える。

『私も忘れんけん』

『湊くんと渡った夏、忘れん』

 送ってから、少し恥ずかしくなった。

 けれど、消したいとは思わなかった。

 既読がつく。

 返事。

『俺も』

『また会おう』

 夏帆は、画面を見つめた。

 また会おう。

 それは、簡単な言葉だった。

 でも、今の夏帆には、とても強い約束に思えた。

 夏は、いつか終わる。

 海を渡った船も、列車の窓に映る光も、祭りの灯りも、いつか遠くなる。

 八幡浜の匂いも、汐待島の風も、白灯台の白も、少しずつ記憶の中へ入っていく。

 それでも、夏帆は知っている。

 渡った夏は、消えない。

 澪子と晴臣の夏は、長い間、白灯台の下に残っていた。

 届かなかった言葉は、写真と手紙の中で眠っていた。

 でも、それは湊と夏帆が見つけたことで、今へ届いた。

 澪子は、もう待たなくてよくなった。

 晴臣の写真は、ただ悲しいだけのものではなくなった。

 そして夏帆も、自分の夏を渡った。

 湊と出会った。

 汐待島へ渡った。

 白灯台を見た。

 祖母の過去に触れた。

 夕暮れの港で、同じ海を見た。

 祭りの灯りの下で、好きだと言えた。

 駅で、行ってらっしゃいと言えた。

 夏は終わる。

 でも、そこで渡ったものは、次の季節へ持っていける。

 夏帆はスマホを胸に当て、それからもう一度、窓の外を見た。

 海が遠ざかっていく。

 松山の日常が近づいてくる。

 それでも、もう不安ではなかった。

 八幡浜は、また帰る場所になった。

 汐待島は、忘れられない夏の場所になった。

 湊は、遠くにいても言葉が届く人になった。

 列車は、夏の光の中を走っていく。

 夏帆は、胸の中でそっと思った。

 汐待島で、湊と夏を渡った。

 だからきっと、また次の季節へも渡っていける。


最後まで読んでいただき、本当にありがとうございます。

夏帆と湊、澪子と晴臣、そして汐待島の夏を見届けていただけたなら嬉しいです。


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