表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
汐待島で、君と夏を渡る  作者: 碓氷さゆ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
25/27

第25話 夏祭りのあとで

 祭りの灯りの中へ戻っても、夏帆の手のひらにはまだ湊の温度が残っていた。

 さっきまでと同じ港町だった。

 提灯は赤く揺れている。屋台の明かりは明るく、人の声は途切れない。太鼓の音も、子どもたちの笑い声も、風に混じった焼きそばの匂いも、何も変わっていないはずだった。

 けれど、全部が少し違って見えた。

 湊の隣を歩いている。

 それだけなら、昨日までと同じだ。

 でも今は、違う。

 さっき、好きだと言われた。

 自分も、好きだと言った。

 その言葉が、まだ胸の奥でやわらかく鳴っている。

 夏帆は、隣を歩く湊を横目で見た。湊はいつも通り落ち着いているように見える。けれど、耳のあたりが少し赤い気がした。

 それに気づいた瞬間、夏帆まで顔が熱くなる。

「人、多いね」

 夏帆は、何でもないことを言った。

「うん」

「手、離す?」

「……うん。ちょっとだけ」

「ちょっとだけ?」

「あとでまた、つなぐかもしれんけん」

 言ってから、夏帆は自分の言葉に驚いた。

 湊も、一瞬だけこちらを見た。

「……うん」

 その返事が小さくて、でも嬉しそうに聞こえて、夏帆はますます顔を上げられなくなった。

 人の流れが近づいてきたので、二人はそっと手を離した。

 手を離しても、指先にはまだ湊の温度が残っていた。

 たったそれだけのことなのに、祭りの中を歩く足元まで浮いているような気がした。

 夏帆は落ち着こうとして、屋台の灯りに目を向ける。かき氷ののれん、金魚すくいの水面、ラムネの瓶が並んだ氷水。どれもさっきも見たはずなのに、今はまぶしい。

「大丈夫?」

 湊が聞いた。

「なにが?」

「顔、赤い」

「祭りやけん」

「祭りだと赤くなる?」

「なる」

「そうなんだ」

「そうなんよ」

 自分でも無理があると思った。

 湊もたぶん思っている。

 けれど、彼はそれ以上追及しなかった。ただ少しだけ笑って、隣を歩いてくれる。

 その優しさが、また照れくさかった。

 受付の近くまで戻ると、澪子が町内会の人と話していた。夏帆たちに気づくと、すぐにこちらを見る。視線は一瞬だけ二人の手元へ落ちたけれど、もう手は離れている。

 それでも、澪子には全部わかっている気がした。

「おかえり」

「ただいま」

「ちゃんと帰ってきたがね」

「言い方」

「帰れんなる前に戻ってこい言うたけん」

「戻ってきたやろ」

「うん。えらいえらい」

 澪子は楽しそうに笑った。

 湊は少し姿勢を正す。

「遅くなってすみません」

「ええのよ。祭りやけんね」

「はい」

「湊くん」

「はい」

「夏帆を泣かせんかった?」

「泣かせてないです」

「ほんと?」

「たぶん」

「たぶんなんや」

「おばあちゃん、それさっきも言った」

「大事な確認やけん」

 夏帆は口を尖らせたけれど、澪子はまったく悪びれない。

 湊は少し困った顔をしていた。

 その顔を見て、夏帆は小さく笑ってしまう。

 澪子は、夏帆の顔をじっと見た。

「夏帆」

「なに」

「よかったね」

「……なにが」

「さあねぇ」

「おばあちゃん」

「顔に書いとるが」

「書いてない」

「書いとる」

「書いてないって」

「はいはい」

 澪子は、それ以上聞かなかった。

 ただ、夏帆の肩のあたりを軽く叩く。撫でるほどではなく、でもちゃんとそこにいると伝えるような触れ方だった。

 澪子は、何を聞くでもなく、ただ夏帆の背中を撫でるように笑った。

 その笑顔を見て、夏帆は胸の奥が少し熱くなった。

 言えた。

 自分は、ちゃんと言えた。

 それを澪子は、きっとわかっている。

「夏帆、もう少し回っておいで」

「でも、手伝い」

「あとで片付けはあるけん、今のうちに」

「いいの?」

「湊くんも、せっかくやし」

「ありがとうございます」

「明日帰るんやろ?」

「はい」

「なら、今日の祭りは今日のうちに見ときなさい」

 澪子の声は、やわらかかった。

 夏帆は少しだけ息を呑む。

 明日。

 その言葉が、急に現実の形を持つ。

 明日、湊は東京へ帰る。

 わかっていた。

 昨日から、何度も考えていた。

 でも告白のあと、手をつないだあと、祭りの明るさの中に戻ってくると、その現実が少しだけ遠くなっていた。

 澪子の言葉で、また近づいてくる。

 夏帆は頷いた。

「うん。行ってくる」

「行っといで」

 夏帆と湊は、もう一度祭りの中へ歩き出した。

 さっきと同じ道だった。

 同じ提灯。

 同じ屋台。

 同じ人混み。

 同じ港の風。

 それなのに、夏帆には少し違う場所を歩いているように思えた。

 湊が隣にいる。

 でも、ただ隣にいるのではない。

 好きな人が、隣にいる。

 そう思うだけで、足元の石畳まで違って見える。

 同じ祭りなのに、さっきまでとは少し違う場所を歩いているみたいだった。

「さっきの写真、あとで送る」

 湊が言った。

「うん」

「篠原さんが撮った俺の写真も」

「いる?」

「いる」

「変な顔しとったよ」

「それでも」

「じゃあ送る」

「ありがとう」

「でも、湊くんの写真と並べるの恥ずかしい」

「なんで?」

「上手さが違うけん」

「俺は、篠原さんが撮った俺の写真が見たい」

「……そういうこと言うの、慣れん」

「俺も慣れてない」

「ほんとに?」

「うん」

「慣れてないわりに、ちゃんと言う」

「言うって決めたから」

 湊の声は静かだった。

 その言葉に、夏帆は何も返せなくなる。

 言うって決めた。

 たぶん、湊は本当にそうなのだ。

 怖くても、照れても、距離があっても、言わないままにしないと決めたから、言う。

 そのまっすぐさが、夏帆にはまぶしかった。

「じゃあ、私もちゃんと言う」

「何を?」

「写真、送るね」

「うん」

「あと、メッセージも」

「うん」

「……たぶん、変なことも送る」

「見たい」

「変なことやけど」

「篠原さんが送るなら」

「またそういう」

「だめ?」

「だめじゃないけど、心臓に悪い」

 言ってから、夏帆はまた顔が熱くなった。

 湊は一瞬だけ目を見開いて、それから少し口元を緩めた。

「俺も、心臓に悪い」

「湊くんが?」

「うん」

「見えん」

「見えないだけ」

「さっきも言ってた」

「ずっとそう」

 その会話が妙に可笑しくて、夏帆は笑った。

 笑ってから、少しだけ泣きそうになった。

 楽しい。

 すごく楽しい。

 でも、その楽しい時間が今日だけのものだと知っている。

 明日になれば、湊はこの町からいなくなる。

 祭りの灯りの中で一緒に笑っている今が、もうすでに思い出になりかけている気がした。

 夏帆は、湊の横顔を見た。

「明日、何時に出るん?」

 自分から聞いたのに、声が少し小さくなった。

 湊は、すぐに答えた。

「昼前の電車」

「八幡浜駅から?」

「うん。松山まで出て、それから」

「そっか」

「うん」

「見送り、行ってもいい?」

「来てほしい」

 迷いのない返事だった。

 夏帆は、胸の奥がぎゅっとなる。

「うん。行く」

「ありがとう」

「何時?」

「十時半くらいには駅に行くと思う」

「じゃあ、その前に行く」

「うん」

「寝坊せんようにせんと」

「俺も」

「湊くん、ちゃんと起きそう」

「たぶん」

「たぶんなんや」

「今日、眠れるかわからない」

「……それは」

 夏帆は言いかけて、止まった。

 自分も、たぶん眠れるかわからない。

 祭りの後で、告白の後で、明日が見送りの日で。

 そんな夜に、すぐ眠れる気がしない。

 明日、湊は帰る。

 その一文が、胸の中に静かに落ちた。

 さっきまで浮かれていた気持ちが、少しだけ地面に戻る。

 でも、それは悪いことではなかった。

 甘さだけでは、この先を続けられない。

 寂しいことも、不安なことも、ちゃんと見ておきたい。

 そのうえで、終わりにしないと決めたい。

「明日、ちゃんと行く」

「うん」

「泣いたらごめん」

「謝らなくていい」

「いや、恥ずかしいけん」

「俺も泣くかもしれない」

「湊くんが?」

「可能性はある」

「ちょっと見たいかも」

「見せたくはない」

「じゃあ、見んふりする」

「お願いします」

 二人は小さく笑った。

 笑えたことに、少しほっとした。

 祭りは、少しずつ終わりに近づいていった。

 最初に太鼓の音が止んだ。

 次に、屋台の列が短くなった。子どもたちはまだ帰りたくなさそうにしていたけれど、大人たちに促されて少しずつ広場を離れていく。提灯の灯りはまだ点いているのに、空気の中に終わりの気配が混ざり始めた。

 屋台の人が鉄板を片付ける音。

 氷水の中からラムネの瓶を引き上げる音。

 使い終わった机を運ぶ声。

 人の声はまだあるのに、賑わいの中心がゆっくりほどけていく。

 夏帆は、その光景を湊と並んで見ていた。

 今日という日が終わっていく。

 祭りは、終わるために少しずつ静かになっていった。

「片付け、手伝わないと」

 夏帆が言うと、湊も頷いた。

「俺も手伝う」

「お客さんなのに」

「今日、祭りに参加したから」

「そういうもの?」

「たぶん」

「じゃあ、助かる」

 二人で受付のほうへ戻ると、町内会の人たちがすでに片付けを始めていた。澪子も椅子に座りながら、紙類をまとめている。

「夏帆ちゃん、こっちの机お願いできる?」

「はい」

「湊くんも悪いねぇ」

「大丈夫です」

「若い子がおると助かるが」

「何すればいいですか」

「その段ボール、向こうへ運んでくれる?」

「はい」

 湊はすぐに動いた。

 丁寧に、でも遠慮しすぎず、町の人たちの指示を聞いて手伝う。そういうところが湊らしいと夏帆は思った。

 夏帆も机の上を拭き、紙コップをまとめ、残ったうちわを箱に戻す。

 浴衣で動くのは少し大変だったけれど、不思議と嫌ではなかった。

 祭りが終わっていく時間の中に、自分もちゃんといる気がした。

「湊くん、明日帰るんやって?」

 町内会の男性が、段ボールを運ぶ湊に声をかけた。

「はい」

「そうかぁ。せっかく島まで行ったんやろ」

「はい。すごくよかったです」

「また来たらええが」

「はい。また来ます」

 湊は、はっきり答えた。

 夏帆は、少し離れた場所でその言葉を聞いた。

「はい。また来ます」

 ただの社交辞令かもしれない。

 でも、湊の声はまっすぐだった。

 また来る。

 その言葉が、夏帆の胸に静かに残る。

「夏帆ちゃん、案内してあげんと」

「……はい」

 町内会の女性に笑われ、夏帆は小さく頷いた。

 頷いてから、自分でも気づく。

 また来た時、自分は案内できるのだろうか。

 八幡浜を。

 汐待島を。

 今日よりもっと、自分の場所として。

 湊と一緒に歩くために。

 片付けがひと段落する頃には、港の広場はずいぶん静かになっていた。

 提灯のいくつかはまだ残っている。けれど屋台の明かりは消え、広場には夜の空気が戻ってきていた。祭りの残り香のように、甘い匂いと炭の匂いがかすかに漂っている。

 澪子は町内会の人と少し話してから、夏帆に手を振った。

「私は先に戻るよ」

「一緒に帰らんでいい?」

「近所の人と帰るけん大丈夫」

「でも」

「夏帆は湊くんを送ってきなさい」

「おばあちゃん」

「明日帰るんやけん、少しくらい話してきたらええが」

「……うん」

「帰れんならんようにだけね」

「わかっとる」

「湊くん」

「はい」

「明日、気をつけて帰るんよ」

「はい。ありがとうございます」

「また来たらええ」

「はい。また来ます」

 湊はもう一度、そう言った。

 澪子は満足そうに頷いて、町内会の人たちと一緒に歩いていった。

 その背中を見送りながら、夏帆はそっと息を吐く。

 澪子は、何もかもわかっていて、少しだけ時間をくれたのだと思った。

 夏帆と湊は、祭りの後の道を歩き出した。

 人通りはまだ少しあるけれど、さっきまでの賑わいとは違う。提灯が一部だけ残り、夜風にゆっくり揺れている。港の水面は暗く、ところどころに灯りが細く映っていた。

 下駄の音が、石畳に小さく響く。

 湊は、夏帆の歩幅に合わせてくれていた。

 しばらく、二人とも何も言わなかった。

 沈黙は、もう怖くなかった。

 でも、少しだけ照れくさかった。

「手」

 湊が言った。

 夏帆は顔を上げる。

「え?」

「……つないでもいい?」

「さっきもつないだやん」

「さっきと今は違う」

「どう違うん」

「……わからんけど、違う」

「じゃあ、いいよ」

 夏帆は、わざと少しだけ平気な顔をした。

 でも、湊の手が近づいてくると、心臓は簡単に騒ぎ出す。

 指先が触れて、手のひらが重なる。

 さっきと同じ温度なのに、確かに違う気がした。

 祭りの後の道で、二人はもう一度手をつないだ。

「ほんとに、違うね」

「うん」

「なんでやろ」

「わからない」

「湊くんもわからんの?」

「こういうのは、あまり得意じゃない」

「私も」

「でも、嫌じゃない」

「うん。私も」

 手をつないで歩くだけで、道が長くなったような、短くなったような気がした。

 このままずっと歩いていたい。

 でも、どこかで別れなければならない。

 今日も。

 明日も。

 そのことが、手の温度を余計に大事なものにする。

「明日、帰るんだね」

 夏帆が言った。

「うん」

「寂しい」

「俺も」

「でも、終わりじゃないんよね」

「うん」

「終わりにせんのよね」

「うん。終わりにしない」

 湊の声は、夜の港に静かに落ちた。

「連絡する」

「うん」

「写真も送る」

「うん」

「ちゃんと言葉も送る」

「うん」

「会いに来る」

「うん」

「篠原さんが東京に来る時は、迎えに行く」

「迷子になる前に?」

「できれば、なる前に」

「じゃあ、早めに来て」

「わかった」

 夏帆は笑った。

 笑いながら、少しだけ涙が出そうになった。

 明日が別れの日でも、終わりの日にはしない。

 そう決めても、寂しさが消えるわけではない。

 でも、寂しいから終わるわけでもない。

 そのことを、つないだ手の温度が教えてくれる気がした。

「私、待っとるだけにはせんけん」

「うん」

「でも、待つこともあると思う」

「うん」

「その時は、ちゃんと待っとるって言う」

「うん」

「湊くんも、会いたい時は会いたいって言って」

「言う」

「写真だけ送って、察して、みたいなのはなし」

「わかった」

「私も、ちゃんと言う」

「うん」

 言葉にすればするほど、不安が全部消えるわけではない。

 けれど、形のない不安に少しずつ輪郭ができていく。

 遠い。

 寂しい。

 会いたい。

 それをちゃんと言えるなら、二人はきっと大丈夫だと思えた。

 湊の宿の近くまで来ると、二人は足を止めた。

 ここから先は、夏帆ひとりで祖母の家へ戻る道になる。

 湊は、つないでいた手をゆっくり離した。

 離れる瞬間、名残惜しくて、夏帆は指先を少しだけ残してしまった。

 湊も同じだったのか、すぐには完全に離れなかった。

 それに気づいて、二人で少し笑う。

「また明日」

「うん。また明日」

「駅で」

「うん」

「寝坊しないで」

「それは夏帆も」

「私は大丈夫」

「たぶん?」

「たぶん」

 湊が笑った。

 夏帆も笑った。

 でも、その笑顔の奥に明日の寂しさがあることを、二人ともわかっていた。

「おやすみ」

「おやすみ」

 夏帆は、湊が宿の入口へ入っていくのを見送った。

 見えなくなるまで。

 それから、自分の手のひらを見た。

 まだ、温かい気がした。

 祖母の家へ戻ると、玄関の灯りがついていた。

 澪子はもう寝ているかと思ったのに、居間にいた。扇風機の前で麦茶を飲みながら、夏帆を見る。

「おかえり」

「ただいま」

「遅かったね」

「そんなに遅くないやろ」

「そうやね」

 澪子は笑った。

 夏帆は浴衣の袖を軽く押さえながら、居間へ上がる。祭りの疲れが一気に出たのか、足が少し重い。

 でも、胸の中はまだふわふわしていた。

 澪子は湯呑みを置いて、夏帆を見た。

「言えた?」

 たったそれだけの問いだった。

 けれど夏帆の胸は、またいっぱいになった。

「言えた?」

 澪子の声は、やさしかった。

 何を、と聞かない。

 誰に、とも聞かない。

 ただ、言えたかどうかだけを聞いてくれる。

 夏帆は、少しだけ視線を落とした。

「……うん」

「そう」

「おばあちゃん」

「ん?」

「ありがとう」

「私は何もしてないが」

「してくれた」

「そうなが」

「うん」

 澪子は、しばらく黙っていた。

 それから、ゆっくり笑った。

「よかったね」

「うん」

「ちゃんと言えたんやね」

「うん」

「えらかった」

「子どもみたい」

「孫はいつまで経っても孫なが」

「……うん」

 夏帆は、鼻の奥がつんとした。

 泣きたくないのに、少しだけ涙が浮かびそうになる。

 澪子はそれを見て、何も言わずにティッシュの箱を近くへ寄せた。

「泣いてない」

「まだ何も言うとらんよ」

「今、言おうとした」

「言おうとしただけ」

「同じやん」

「違うが」

 澪子はいつもの調子で言った。

 そのおかげで、夏帆は泣かずに笑えた。

「湊くん、明日帰るんやね」

「うん」

「見送り行くんやろ」

「行く」

「そう」

「……寂しい」

「うん」

「でも、終わりにはせん」

「そう」

「待つだけにもせん」

「うん」

「私も、会いに行く」

「それがええ」

 澪子は、静かに頷いた。

「待つだけは、しんどいけんね」

「……うん」

「でも、待つことが全部悪いわけでもない」

「うん」

「待つなら、ちゃんと約束して、ちゃんと自分の足でも動けるように待ったらええ」

「うん」

「夏帆は、それができる子よ」

「……できるかな」

「できるが」

 澪子は迷いなく言った。

 その言い方があまりに当然みたいで、夏帆は少し笑ってしまった。

「おばあちゃん、すごい自信」

「孫やけんね」

「理由になっとる?」

「なっとる」

 澪子は麦茶を飲み干し、立ち上がった。

「今日は疲れたやろ。早めに寝なさい」

「うん」

「浴衣、明日片付けるけん、そこにかけといて」

「わかった」

「スマホばっかり見よったら寝れんなるよ」

「……見んし」

「ほんとかねぇ」

「見るかもしれん」

「正直でよろしい」

 夏帆は苦笑した。

 澪子は居間を出る前に、一度だけ振り返った。

「夏帆」

「なに?」

「よかったね」

「……うん」

「おやすみ」

「おやすみ」

 澪子が部屋へ戻る。

 夏帆はしばらく、居間に一人で座っていた。

 祭りの音はもう聞こえない。

 代わりに、夜の虫の声と、遠くの海の気配だけがある。

 浴衣を脱いで、丁寧に畳む。髪をほどくと、首元に夜風が触れて少し涼しかった。鏡の中の自分は、朝とは違う顔をしている気がした。

 大人になったわけではない。

 でも、言葉をひとつ渡したあと、人は少しだけ変わるのかもしれない。

 布団に入っても、夏帆はなかなか眠れなかった。

 目を閉じると、湊の声が戻ってくる。

 篠原さんが好きです。

 東京に帰るのに、勝手だと思う。

 でも、言わないまま帰りたくなかった。

 それから、自分の声。

 私も、湊くんが好き。

 思い出すたびに、布団の中で顔が熱くなる。

 でも、幸せなだけではなかった。

 明日、湊は帰る。

 その現実が、静かに胸の隣に座っている。

 寂しい。

 でも、終わりではない。

 そう思おうとして、夏帆は枕元のスマホを見た。

 画面は暗い。

 まだ何も来ていない。

 来ると決まっているわけではないのに、気になってしまう。

 自分から送ろうか。

 でも、何を送ればいいのか。

 今日はありがとう。

 好きって言えてよかった。

 明日、見送り行くね。

 候補はいくつも浮かぶのに、どれも恥ずかしい。

 夏帆がスマホを置こうとした時、画面が光った。

 湊からだった。

 心臓が跳ねる。

 通知には、写真が一枚と、短いメッセージが表示されていた。

 夏帆は息を止めながら、画面を開く。

 写真は、祭りの灯りの中の夏帆だった。

 ラムネの瓶を持って、少し横を向いている。水色の浴衣に、提灯の赤い光がやわらかく重なっていた。自分なのに、自分ではないみたいだった。

 でも、湊が見ていた自分なのだと思うと、胸がぎゅっとなる。

 メッセージは短かった。

『今日はありがとう。好きって言えてよかった』

『明日、駅で会えるのを待ってる』

『おやすみ』

 夏帆は、スマホを持ったまま固まった。

 何度も読む。

 好きって言えてよかった。

 その一文に、また胸が熱くなる。

 言葉にしてくれた。

 写真だけではなく、言葉でも。

 夏帆は、少し迷ってから返信を打った。

『私も、言えてよかった』

『明日、絶対行くね』

『おやすみ』

 送信ボタンを押すまでに、何度も文面を見直した。

 でも、送った。

 すぐに既読がついた。

 それだけで、また心臓がうるさくなる。

 少しして、湊からもう一通だけ届いた。

『ありがとう。また明日』

 夏帆は、その文字をしばらく見ていた。

 また明日。

 今日も、明日も、使える言葉。

 でも明日の「また」は、今日までとは少し違う。

 見送りの日。

 別れの日。

 それでも、終わりの日ではない。

 夏帆はスマホを胸に抱いた。

 明日、湊は東京へ帰る。

 けれど夏帆は、もうそれを終わりの日だとは思わなかった。


お読みいただきありがとうございます。

夏帆と湊の夏を最後まで見守っていただけたら嬉しいです。

ブックマーク・評価で応援していただけると励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ