第25話 夏祭りのあとで
祭りの灯りの中へ戻っても、夏帆の手のひらにはまだ湊の温度が残っていた。
さっきまでと同じ港町だった。
提灯は赤く揺れている。屋台の明かりは明るく、人の声は途切れない。太鼓の音も、子どもたちの笑い声も、風に混じった焼きそばの匂いも、何も変わっていないはずだった。
けれど、全部が少し違って見えた。
湊の隣を歩いている。
それだけなら、昨日までと同じだ。
でも今は、違う。
さっき、好きだと言われた。
自分も、好きだと言った。
その言葉が、まだ胸の奥でやわらかく鳴っている。
夏帆は、隣を歩く湊を横目で見た。湊はいつも通り落ち着いているように見える。けれど、耳のあたりが少し赤い気がした。
それに気づいた瞬間、夏帆まで顔が熱くなる。
「人、多いね」
夏帆は、何でもないことを言った。
「うん」
「手、離す?」
「……うん。ちょっとだけ」
「ちょっとだけ?」
「あとでまた、つなぐかもしれんけん」
言ってから、夏帆は自分の言葉に驚いた。
湊も、一瞬だけこちらを見た。
「……うん」
その返事が小さくて、でも嬉しそうに聞こえて、夏帆はますます顔を上げられなくなった。
人の流れが近づいてきたので、二人はそっと手を離した。
手を離しても、指先にはまだ湊の温度が残っていた。
たったそれだけのことなのに、祭りの中を歩く足元まで浮いているような気がした。
夏帆は落ち着こうとして、屋台の灯りに目を向ける。かき氷ののれん、金魚すくいの水面、ラムネの瓶が並んだ氷水。どれもさっきも見たはずなのに、今はまぶしい。
「大丈夫?」
湊が聞いた。
「なにが?」
「顔、赤い」
「祭りやけん」
「祭りだと赤くなる?」
「なる」
「そうなんだ」
「そうなんよ」
自分でも無理があると思った。
湊もたぶん思っている。
けれど、彼はそれ以上追及しなかった。ただ少しだけ笑って、隣を歩いてくれる。
その優しさが、また照れくさかった。
受付の近くまで戻ると、澪子が町内会の人と話していた。夏帆たちに気づくと、すぐにこちらを見る。視線は一瞬だけ二人の手元へ落ちたけれど、もう手は離れている。
それでも、澪子には全部わかっている気がした。
「おかえり」
「ただいま」
「ちゃんと帰ってきたがね」
「言い方」
「帰れんなる前に戻ってこい言うたけん」
「戻ってきたやろ」
「うん。えらいえらい」
澪子は楽しそうに笑った。
湊は少し姿勢を正す。
「遅くなってすみません」
「ええのよ。祭りやけんね」
「はい」
「湊くん」
「はい」
「夏帆を泣かせんかった?」
「泣かせてないです」
「ほんと?」
「たぶん」
「たぶんなんや」
「おばあちゃん、それさっきも言った」
「大事な確認やけん」
夏帆は口を尖らせたけれど、澪子はまったく悪びれない。
湊は少し困った顔をしていた。
その顔を見て、夏帆は小さく笑ってしまう。
澪子は、夏帆の顔をじっと見た。
「夏帆」
「なに」
「よかったね」
「……なにが」
「さあねぇ」
「おばあちゃん」
「顔に書いとるが」
「書いてない」
「書いとる」
「書いてないって」
「はいはい」
澪子は、それ以上聞かなかった。
ただ、夏帆の肩のあたりを軽く叩く。撫でるほどではなく、でもちゃんとそこにいると伝えるような触れ方だった。
澪子は、何を聞くでもなく、ただ夏帆の背中を撫でるように笑った。
その笑顔を見て、夏帆は胸の奥が少し熱くなった。
言えた。
自分は、ちゃんと言えた。
それを澪子は、きっとわかっている。
「夏帆、もう少し回っておいで」
「でも、手伝い」
「あとで片付けはあるけん、今のうちに」
「いいの?」
「湊くんも、せっかくやし」
「ありがとうございます」
「明日帰るんやろ?」
「はい」
「なら、今日の祭りは今日のうちに見ときなさい」
澪子の声は、やわらかかった。
夏帆は少しだけ息を呑む。
明日。
その言葉が、急に現実の形を持つ。
明日、湊は東京へ帰る。
わかっていた。
昨日から、何度も考えていた。
でも告白のあと、手をつないだあと、祭りの明るさの中に戻ってくると、その現実が少しだけ遠くなっていた。
澪子の言葉で、また近づいてくる。
夏帆は頷いた。
「うん。行ってくる」
「行っといで」
夏帆と湊は、もう一度祭りの中へ歩き出した。
さっきと同じ道だった。
同じ提灯。
同じ屋台。
同じ人混み。
同じ港の風。
それなのに、夏帆には少し違う場所を歩いているように思えた。
湊が隣にいる。
でも、ただ隣にいるのではない。
好きな人が、隣にいる。
そう思うだけで、足元の石畳まで違って見える。
同じ祭りなのに、さっきまでとは少し違う場所を歩いているみたいだった。
「さっきの写真、あとで送る」
湊が言った。
「うん」
「篠原さんが撮った俺の写真も」
「いる?」
「いる」
「変な顔しとったよ」
「それでも」
「じゃあ送る」
「ありがとう」
「でも、湊くんの写真と並べるの恥ずかしい」
「なんで?」
「上手さが違うけん」
「俺は、篠原さんが撮った俺の写真が見たい」
「……そういうこと言うの、慣れん」
「俺も慣れてない」
「ほんとに?」
「うん」
「慣れてないわりに、ちゃんと言う」
「言うって決めたから」
湊の声は静かだった。
その言葉に、夏帆は何も返せなくなる。
言うって決めた。
たぶん、湊は本当にそうなのだ。
怖くても、照れても、距離があっても、言わないままにしないと決めたから、言う。
そのまっすぐさが、夏帆にはまぶしかった。
「じゃあ、私もちゃんと言う」
「何を?」
「写真、送るね」
「うん」
「あと、メッセージも」
「うん」
「……たぶん、変なことも送る」
「見たい」
「変なことやけど」
「篠原さんが送るなら」
「またそういう」
「だめ?」
「だめじゃないけど、心臓に悪い」
言ってから、夏帆はまた顔が熱くなった。
湊は一瞬だけ目を見開いて、それから少し口元を緩めた。
「俺も、心臓に悪い」
「湊くんが?」
「うん」
「見えん」
「見えないだけ」
「さっきも言ってた」
「ずっとそう」
その会話が妙に可笑しくて、夏帆は笑った。
笑ってから、少しだけ泣きそうになった。
楽しい。
すごく楽しい。
でも、その楽しい時間が今日だけのものだと知っている。
明日になれば、湊はこの町からいなくなる。
祭りの灯りの中で一緒に笑っている今が、もうすでに思い出になりかけている気がした。
夏帆は、湊の横顔を見た。
「明日、何時に出るん?」
自分から聞いたのに、声が少し小さくなった。
湊は、すぐに答えた。
「昼前の電車」
「八幡浜駅から?」
「うん。松山まで出て、それから」
「そっか」
「うん」
「見送り、行ってもいい?」
「来てほしい」
迷いのない返事だった。
夏帆は、胸の奥がぎゅっとなる。
「うん。行く」
「ありがとう」
「何時?」
「十時半くらいには駅に行くと思う」
「じゃあ、その前に行く」
「うん」
「寝坊せんようにせんと」
「俺も」
「湊くん、ちゃんと起きそう」
「たぶん」
「たぶんなんや」
「今日、眠れるかわからない」
「……それは」
夏帆は言いかけて、止まった。
自分も、たぶん眠れるかわからない。
祭りの後で、告白の後で、明日が見送りの日で。
そんな夜に、すぐ眠れる気がしない。
明日、湊は帰る。
その一文が、胸の中に静かに落ちた。
さっきまで浮かれていた気持ちが、少しだけ地面に戻る。
でも、それは悪いことではなかった。
甘さだけでは、この先を続けられない。
寂しいことも、不安なことも、ちゃんと見ておきたい。
そのうえで、終わりにしないと決めたい。
「明日、ちゃんと行く」
「うん」
「泣いたらごめん」
「謝らなくていい」
「いや、恥ずかしいけん」
「俺も泣くかもしれない」
「湊くんが?」
「可能性はある」
「ちょっと見たいかも」
「見せたくはない」
「じゃあ、見んふりする」
「お願いします」
二人は小さく笑った。
笑えたことに、少しほっとした。
祭りは、少しずつ終わりに近づいていった。
最初に太鼓の音が止んだ。
次に、屋台の列が短くなった。子どもたちはまだ帰りたくなさそうにしていたけれど、大人たちに促されて少しずつ広場を離れていく。提灯の灯りはまだ点いているのに、空気の中に終わりの気配が混ざり始めた。
屋台の人が鉄板を片付ける音。
氷水の中からラムネの瓶を引き上げる音。
使い終わった机を運ぶ声。
人の声はまだあるのに、賑わいの中心がゆっくりほどけていく。
夏帆は、その光景を湊と並んで見ていた。
今日という日が終わっていく。
祭りは、終わるために少しずつ静かになっていった。
「片付け、手伝わないと」
夏帆が言うと、湊も頷いた。
「俺も手伝う」
「お客さんなのに」
「今日、祭りに参加したから」
「そういうもの?」
「たぶん」
「じゃあ、助かる」
二人で受付のほうへ戻ると、町内会の人たちがすでに片付けを始めていた。澪子も椅子に座りながら、紙類をまとめている。
「夏帆ちゃん、こっちの机お願いできる?」
「はい」
「湊くんも悪いねぇ」
「大丈夫です」
「若い子がおると助かるが」
「何すればいいですか」
「その段ボール、向こうへ運んでくれる?」
「はい」
湊はすぐに動いた。
丁寧に、でも遠慮しすぎず、町の人たちの指示を聞いて手伝う。そういうところが湊らしいと夏帆は思った。
夏帆も机の上を拭き、紙コップをまとめ、残ったうちわを箱に戻す。
浴衣で動くのは少し大変だったけれど、不思議と嫌ではなかった。
祭りが終わっていく時間の中に、自分もちゃんといる気がした。
「湊くん、明日帰るんやって?」
町内会の男性が、段ボールを運ぶ湊に声をかけた。
「はい」
「そうかぁ。せっかく島まで行ったんやろ」
「はい。すごくよかったです」
「また来たらええが」
「はい。また来ます」
湊は、はっきり答えた。
夏帆は、少し離れた場所でその言葉を聞いた。
「はい。また来ます」
ただの社交辞令かもしれない。
でも、湊の声はまっすぐだった。
また来る。
その言葉が、夏帆の胸に静かに残る。
「夏帆ちゃん、案内してあげんと」
「……はい」
町内会の女性に笑われ、夏帆は小さく頷いた。
頷いてから、自分でも気づく。
また来た時、自分は案内できるのだろうか。
八幡浜を。
汐待島を。
今日よりもっと、自分の場所として。
湊と一緒に歩くために。
片付けがひと段落する頃には、港の広場はずいぶん静かになっていた。
提灯のいくつかはまだ残っている。けれど屋台の明かりは消え、広場には夜の空気が戻ってきていた。祭りの残り香のように、甘い匂いと炭の匂いがかすかに漂っている。
澪子は町内会の人と少し話してから、夏帆に手を振った。
「私は先に戻るよ」
「一緒に帰らんでいい?」
「近所の人と帰るけん大丈夫」
「でも」
「夏帆は湊くんを送ってきなさい」
「おばあちゃん」
「明日帰るんやけん、少しくらい話してきたらええが」
「……うん」
「帰れんならんようにだけね」
「わかっとる」
「湊くん」
「はい」
「明日、気をつけて帰るんよ」
「はい。ありがとうございます」
「また来たらええ」
「はい。また来ます」
湊はもう一度、そう言った。
澪子は満足そうに頷いて、町内会の人たちと一緒に歩いていった。
その背中を見送りながら、夏帆はそっと息を吐く。
澪子は、何もかもわかっていて、少しだけ時間をくれたのだと思った。
夏帆と湊は、祭りの後の道を歩き出した。
人通りはまだ少しあるけれど、さっきまでの賑わいとは違う。提灯が一部だけ残り、夜風にゆっくり揺れている。港の水面は暗く、ところどころに灯りが細く映っていた。
下駄の音が、石畳に小さく響く。
湊は、夏帆の歩幅に合わせてくれていた。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
沈黙は、もう怖くなかった。
でも、少しだけ照れくさかった。
「手」
湊が言った。
夏帆は顔を上げる。
「え?」
「……つないでもいい?」
「さっきもつないだやん」
「さっきと今は違う」
「どう違うん」
「……わからんけど、違う」
「じゃあ、いいよ」
夏帆は、わざと少しだけ平気な顔をした。
でも、湊の手が近づいてくると、心臓は簡単に騒ぎ出す。
指先が触れて、手のひらが重なる。
さっきと同じ温度なのに、確かに違う気がした。
祭りの後の道で、二人はもう一度手をつないだ。
「ほんとに、違うね」
「うん」
「なんでやろ」
「わからない」
「湊くんもわからんの?」
「こういうのは、あまり得意じゃない」
「私も」
「でも、嫌じゃない」
「うん。私も」
手をつないで歩くだけで、道が長くなったような、短くなったような気がした。
このままずっと歩いていたい。
でも、どこかで別れなければならない。
今日も。
明日も。
そのことが、手の温度を余計に大事なものにする。
「明日、帰るんだね」
夏帆が言った。
「うん」
「寂しい」
「俺も」
「でも、終わりじゃないんよね」
「うん」
「終わりにせんのよね」
「うん。終わりにしない」
湊の声は、夜の港に静かに落ちた。
「連絡する」
「うん」
「写真も送る」
「うん」
「ちゃんと言葉も送る」
「うん」
「会いに来る」
「うん」
「篠原さんが東京に来る時は、迎えに行く」
「迷子になる前に?」
「できれば、なる前に」
「じゃあ、早めに来て」
「わかった」
夏帆は笑った。
笑いながら、少しだけ涙が出そうになった。
明日が別れの日でも、終わりの日にはしない。
そう決めても、寂しさが消えるわけではない。
でも、寂しいから終わるわけでもない。
そのことを、つないだ手の温度が教えてくれる気がした。
「私、待っとるだけにはせんけん」
「うん」
「でも、待つこともあると思う」
「うん」
「その時は、ちゃんと待っとるって言う」
「うん」
「湊くんも、会いたい時は会いたいって言って」
「言う」
「写真だけ送って、察して、みたいなのはなし」
「わかった」
「私も、ちゃんと言う」
「うん」
言葉にすればするほど、不安が全部消えるわけではない。
けれど、形のない不安に少しずつ輪郭ができていく。
遠い。
寂しい。
会いたい。
それをちゃんと言えるなら、二人はきっと大丈夫だと思えた。
湊の宿の近くまで来ると、二人は足を止めた。
ここから先は、夏帆ひとりで祖母の家へ戻る道になる。
湊は、つないでいた手をゆっくり離した。
離れる瞬間、名残惜しくて、夏帆は指先を少しだけ残してしまった。
湊も同じだったのか、すぐには完全に離れなかった。
それに気づいて、二人で少し笑う。
「また明日」
「うん。また明日」
「駅で」
「うん」
「寝坊しないで」
「それは夏帆も」
「私は大丈夫」
「たぶん?」
「たぶん」
湊が笑った。
夏帆も笑った。
でも、その笑顔の奥に明日の寂しさがあることを、二人ともわかっていた。
「おやすみ」
「おやすみ」
夏帆は、湊が宿の入口へ入っていくのを見送った。
見えなくなるまで。
それから、自分の手のひらを見た。
まだ、温かい気がした。
祖母の家へ戻ると、玄関の灯りがついていた。
澪子はもう寝ているかと思ったのに、居間にいた。扇風機の前で麦茶を飲みながら、夏帆を見る。
「おかえり」
「ただいま」
「遅かったね」
「そんなに遅くないやろ」
「そうやね」
澪子は笑った。
夏帆は浴衣の袖を軽く押さえながら、居間へ上がる。祭りの疲れが一気に出たのか、足が少し重い。
でも、胸の中はまだふわふわしていた。
澪子は湯呑みを置いて、夏帆を見た。
「言えた?」
たったそれだけの問いだった。
けれど夏帆の胸は、またいっぱいになった。
「言えた?」
澪子の声は、やさしかった。
何を、と聞かない。
誰に、とも聞かない。
ただ、言えたかどうかだけを聞いてくれる。
夏帆は、少しだけ視線を落とした。
「……うん」
「そう」
「おばあちゃん」
「ん?」
「ありがとう」
「私は何もしてないが」
「してくれた」
「そうなが」
「うん」
澪子は、しばらく黙っていた。
それから、ゆっくり笑った。
「よかったね」
「うん」
「ちゃんと言えたんやね」
「うん」
「えらかった」
「子どもみたい」
「孫はいつまで経っても孫なが」
「……うん」
夏帆は、鼻の奥がつんとした。
泣きたくないのに、少しだけ涙が浮かびそうになる。
澪子はそれを見て、何も言わずにティッシュの箱を近くへ寄せた。
「泣いてない」
「まだ何も言うとらんよ」
「今、言おうとした」
「言おうとしただけ」
「同じやん」
「違うが」
澪子はいつもの調子で言った。
そのおかげで、夏帆は泣かずに笑えた。
「湊くん、明日帰るんやね」
「うん」
「見送り行くんやろ」
「行く」
「そう」
「……寂しい」
「うん」
「でも、終わりにはせん」
「そう」
「待つだけにもせん」
「うん」
「私も、会いに行く」
「それがええ」
澪子は、静かに頷いた。
「待つだけは、しんどいけんね」
「……うん」
「でも、待つことが全部悪いわけでもない」
「うん」
「待つなら、ちゃんと約束して、ちゃんと自分の足でも動けるように待ったらええ」
「うん」
「夏帆は、それができる子よ」
「……できるかな」
「できるが」
澪子は迷いなく言った。
その言い方があまりに当然みたいで、夏帆は少し笑ってしまった。
「おばあちゃん、すごい自信」
「孫やけんね」
「理由になっとる?」
「なっとる」
澪子は麦茶を飲み干し、立ち上がった。
「今日は疲れたやろ。早めに寝なさい」
「うん」
「浴衣、明日片付けるけん、そこにかけといて」
「わかった」
「スマホばっかり見よったら寝れんなるよ」
「……見んし」
「ほんとかねぇ」
「見るかもしれん」
「正直でよろしい」
夏帆は苦笑した。
澪子は居間を出る前に、一度だけ振り返った。
「夏帆」
「なに?」
「よかったね」
「……うん」
「おやすみ」
「おやすみ」
澪子が部屋へ戻る。
夏帆はしばらく、居間に一人で座っていた。
祭りの音はもう聞こえない。
代わりに、夜の虫の声と、遠くの海の気配だけがある。
浴衣を脱いで、丁寧に畳む。髪をほどくと、首元に夜風が触れて少し涼しかった。鏡の中の自分は、朝とは違う顔をしている気がした。
大人になったわけではない。
でも、言葉をひとつ渡したあと、人は少しだけ変わるのかもしれない。
布団に入っても、夏帆はなかなか眠れなかった。
目を閉じると、湊の声が戻ってくる。
篠原さんが好きです。
東京に帰るのに、勝手だと思う。
でも、言わないまま帰りたくなかった。
それから、自分の声。
私も、湊くんが好き。
思い出すたびに、布団の中で顔が熱くなる。
でも、幸せなだけではなかった。
明日、湊は帰る。
その現実が、静かに胸の隣に座っている。
寂しい。
でも、終わりではない。
そう思おうとして、夏帆は枕元のスマホを見た。
画面は暗い。
まだ何も来ていない。
来ると決まっているわけではないのに、気になってしまう。
自分から送ろうか。
でも、何を送ればいいのか。
今日はありがとう。
好きって言えてよかった。
明日、見送り行くね。
候補はいくつも浮かぶのに、どれも恥ずかしい。
夏帆がスマホを置こうとした時、画面が光った。
湊からだった。
心臓が跳ねる。
通知には、写真が一枚と、短いメッセージが表示されていた。
夏帆は息を止めながら、画面を開く。
写真は、祭りの灯りの中の夏帆だった。
ラムネの瓶を持って、少し横を向いている。水色の浴衣に、提灯の赤い光がやわらかく重なっていた。自分なのに、自分ではないみたいだった。
でも、湊が見ていた自分なのだと思うと、胸がぎゅっとなる。
メッセージは短かった。
『今日はありがとう。好きって言えてよかった』
『明日、駅で会えるのを待ってる』
『おやすみ』
夏帆は、スマホを持ったまま固まった。
何度も読む。
好きって言えてよかった。
その一文に、また胸が熱くなる。
言葉にしてくれた。
写真だけではなく、言葉でも。
夏帆は、少し迷ってから返信を打った。
『私も、言えてよかった』
『明日、絶対行くね』
『おやすみ』
送信ボタンを押すまでに、何度も文面を見直した。
でも、送った。
すぐに既読がついた。
それだけで、また心臓がうるさくなる。
少しして、湊からもう一通だけ届いた。
『ありがとう。また明日』
夏帆は、その文字をしばらく見ていた。
また明日。
今日も、明日も、使える言葉。
でも明日の「また」は、今日までとは少し違う。
見送りの日。
別れの日。
それでも、終わりの日ではない。
夏帆はスマホを胸に抱いた。
明日、湊は東京へ帰る。
けれど夏帆は、もうそれを終わりの日だとは思わなかった。
お読みいただきありがとうございます。
夏帆と湊の夏を最後まで見守っていただけたら嬉しいです。
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