表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
汐待島で、君と夏を渡る  作者: 碓氷さゆ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
24/27

第24話 写真ではなく、言葉で

 祭りの音が、少し遠くなっていた。

 さっきまで隣にあったはずの太鼓の響きも、人の笑い声も、屋台の呼び込みも、港の端まで来ると薄い膜の向こう側にあるみたいに聞こえた。提灯の赤い灯りはまだ見える。けれど、ここまで届く光は少し弱く、海から吹く風のほうが近かった。

 夏帆は、湊の前に立っていた。

 浴衣の袖が風に揺れる。下駄の鼻緒が少しだけ痛い。ラムネの甘い匂いも、焼きそばの匂いも、いつの間にか遠くなって、今は潮の匂いだけがはっきりしていた。

 湊は、カメラに触れていなかった。

 首から下げたまま、手は横に下ろされている。いつもなら景色を見る時、無意識にカメラへ伸びる指が、今は動かない。

 今日は、写真ではない。

 言葉の時間なのだと、夏帆は思った。

「昨日言えなかったこと、言ってもいい?」

 湊の声は静かだった。

 でも、その静けさの下に緊張があるのがわかった。

 夏帆は、小さく頷いた。

「うん」

「ありがとう」

「……そんなに改まると、緊張する」

「俺もしてる」

「湊くんも?」

「うん。かなり」

「そうは見えん」

「見えないだけ」

 湊はそう言って、少しだけ息を吐いた。

 その仕草が、いつもより頼りなく見えた。

 夏帆は胸の前で指を重ねる。浴衣の袖口が手の甲に触れた。自分の心臓の音が、祭りの太鼓よりずっと近くに聞こえる。

 湊は、すぐには話し始めなかった。

 海のほうを一度見て、それから夏帆へ視線を戻す。

 その目がまっすぐだったから、夏帆は少し怖くなった。

 でも、目を逸らさなかった。

 湊は、カメラではなく、言葉を探していた。

「最初は、写真の場所を探すだけのつもりだった」

 湊が言った。

 夏帆は黙って頷く。

「祖父が残した写真に写っていた場所を見つけて、祖父が何を見ていたのか、少しわかればいいと思ってた」

「うん」

「灯台を見つけて、島のことを少し知って、それで終わると思ってた」

「……うん」

「でも、篠原さんに会ってから、ただの場所探しじゃなくなった」

 夏帆は、初めて湊に声をかけた日のことを思い出した。

 八幡浜港。

 地図アプリと古い写真を見比べていた少年。

 首から下げたカメラ。

 困っているのに、誰かに助けを求めるのが少し下手そうな横顔。

 あの時の夏帆は、ただ放っておけなかっただけだ。

 どこへ行きたいのか聞いただけ。

 それだけだった。

 なのに、その一言から、夏はこんなところまで来てしまった。

「篠原さんが声をかけてくれなかったら、俺はたぶん、港で迷ったままだった」

「そんなこと」

「ある」

「……」

「写真の場所は、いつか見つけたかもしれない。でも、澪子さんには届かなかったと思う」

「湊くん」

「篠原さんがいたから、祖父の写真が、ただの古い写真じゃなくなった」

 夏帆は、息を呑んだ。

 湊の言葉が、ゆっくり胸に入ってくる。

 古い写真。

 若い澪子の後ろ姿。

 白灯台。

 写真の裏の文字。

 潮が引く夜、灯台の下で待つ。

 それは最初、湊の祖父が残した謎だった。

 どこで撮ったのか。

 誰が写っているのか。

 何を意味しているのか。

 でも、その写真は澪子に届いた。夏帆たちが汐待島へ渡り、約束の浜を見つけ、手紙を見つけ、白灯台へ行ったから。

 写真は、過去にしまわれたままのものではなくなった。

 今を生きる澪子へ届いた。

 古い写真は、夏帆と出会って初めて、誰かに届くものになった。

「俺、写真を撮るのが好きだから」

 湊は続けた。

「うん」

「いい景色を見ると、残したくなる」

「うん」

「下灘の海も、汐待島も、白灯台も、約束の浜も、夕暮れの港も、今日の祭りも、全部撮りたいと思った」

「うん」

「実際、撮ったものもある」

「うん」

「でも、篠原さんといると、撮るだけじゃ足りない時がある」

 夏帆は、湊を見つめた。

 湊の声は、少しずつ確かになっていく。

「写真に残すより、その場で同じものを見てることのほうが、大事に思える時がある」

「……」

「夕暮れの港で、カメラを構えなかった時」

「うん」

「あの時、綺麗だから撮りたいって思った。でも、それより、篠原さんと同じ夕暮れを見ていたかった」

「……うん」

「写真にしたら残る。でも、撮ってる間、俺はファインダー越しに見ることになる」

「うん」

「それが、もったいなかった」

 夏帆の胸が、静かに熱くなった。

 あの日の夕暮れ。

 八幡浜港の水面。

 橙色の光。

 カメラに触れて、でも撮らなかった湊の指先。

 写真じゃなくて。

 写真じゃなくて、見ておきたい。

 その言葉の意味が、今ようやく全部届いた気がした。

 湊は、景色を残したかっただけではない。

 夏帆と一緒に見る時間を、失いたくなかったのだ。

 写真に残したい景色が、夏帆と一緒に見たい景色に変わっていた。

「篠原さんと見た海が、俺にとって特別になった」

「……」

「篠原さんと歩いた町も、篠原さんと渡った島も、篠原さんと見た灯台も」

「湊くん」

「だから、言わないまま帰りたくなかった」

 海風が吹いた。

 提灯の灯りが、遠くで少し揺れる。

 夏帆は、次に来る言葉をどこかでわかっていた。

 でも、わかっているのと、実際に聞くのとは違う。

 心臓が苦しいくらいに鳴っていた。

 湊は、まっすぐ夏帆を見た。

「篠原さんが好きです」

 世界が、一瞬だけ静かになった。

 祭りの音も、波の音も、風の音も、全部遠くへ行った気がした。

 湊の声だけが、夏帆の中に残る。

「篠原さんが好きです」

 湊は、目を逸らさなかった。

「東京に帰るのに、勝手だと思う」

「……」

「このまま近くにいられるわけじゃないのに、今言うのはずるいかもしれない」

「……」

「でも、言わないまま帰りたくなかった」

「湊くん……」

「祖父みたいに、言えなかったことを残したくなかった」

 その言葉で、夏帆の胸の奥にあったものが、音もなく揺れた。

 晴臣。

 澪子。

 届かなかった手紙。

 待ち続けた白灯台。

 来られなかった人と、待った人。

 湊は、その全部を知ったうえで、今ここに立っている。

 写真ではなく、言葉で。

 夏帆に渡そうとしている。

 嬉しかった。

 聞きたかった言葉だった。

 たぶん、ずっと待っていた。

 でも、嬉しさと同時に、怖さも込み上げてきた。

 湊は東京へ帰る。

 夏帆は松山へ戻る。

 八幡浜で一緒に歩ける日は、もう多くない。

 好きと言われた。

 それなのに、好きだけでは距離はなくならない。

 この夏が終わったあと、この気持ちはどうなるのだろう。

 今はこんなに近いのに、数日後には湊は東京にいて、夏帆は松山にいる。

 会いたくなっても、すぐには会えない。

 声が聞きたくても、画面越しになる。

 写真は送れる。

 言葉も送れる。

 でも、今みたいに同じ風の中で向き合うことは、当たり前ではなくなる。

 嬉しいのに、少し怖かった。

「ごめん」

 湊が言った。

 夏帆ははっとした。

「なんで謝るん」

「困らせたかもしれない」

「……困ってるわけじゃない」

「うん」

「びっくりしただけ」

「うん」

「あと……怖い」

「うん」

 湊は、夏帆の言葉を遮らなかった。

 ただ、ちゃんと聞いてくれている。

 それがまた、夏帆を泣きそうにさせた。

「湊くん、東京に帰るやん」

「うん」

「私は松山に戻る」

「うん」

「ここで好きって言われても、すぐ近くにいられるわけじゃない」

「うん」

「それが、ちょっと怖い」

「うん」

「でも」

 夏帆は、そこで言葉を止めた。

 でも。

 その先を言わなければならない。

 祖母の声が、胸の奥でよみがえる。

 大事なことは、自分で言わんといけんがね。

 今日と同じ日は来んが。

 言葉も、渡せる時に渡さんといけんがよ。

 白灯台の下で、澪子は言った。

 もう、待たんでもええんやね。

 祖母は、長い時間を越えて、置いてきた自分を迎えに行った。

 晴臣は言えなかった。届けられなかった。だから写真と手紙は、何十年も箱の中にあった。

 でも、夏帆の目の前には湊がいる。

 今、ここにいる。

 言葉を聞いてくれている。

 なら、言わなければ。

 言わなければ届かないことを、夏帆はもう知っていた。

「私、うまく言えんかもしれん」

「うん」

「でも、言う」

「うん」

「言わんかったら、届かんけん」

「……うん」

 湊の声が、ほんの少し揺れた。

 夏帆は、胸の前で握っていた指をほどいた。

 海風が浴衣の袖を揺らす。

 遠くで太鼓の音が鳴る。

 今しかない。

 同じ日は、もう来ない。

「私も、湊くんが好き」

 口にした瞬間、胸の奥にあったものがほどけた。

 怖かった。

 でも、それ以上に、言えたことが嬉しかった。

 湊は、何も言わなかった。

 ただ、少しだけ目を見開いて夏帆を見ている。

 その表情を見て、夏帆は顔が熱くなった。

「……なんか言って」

「ごめん」

「また謝る」

「嬉しくて」

「……うん」

「すごく、嬉しい」

「うん」

 夏帆は、視線を少し落とした。

 でも、もう逃げたくなかった。

「八幡浜に来た時は、こんなことになると思ってなかった」

「うん」

「湊くんに声かけた時も、古い写真の場所を探すだけやと思っとった」

「うん」

「でも、湊くんと汐待島に行って、白灯台を見て、おばあちゃんの話を聞いて」

「うん」

「湊くんと見た海が、全部特別になった」

「……うん」

「八幡浜も、汐待島も、前よりずっと好きになった」

「うん」

「それは、湊くんが一緒におったからやと思う」

 言えば言うほど、胸が苦しくなる。

 けれど、苦しいのに止めたくなかった。

 湊が言葉で渡してくれたから、自分も言葉で返したい。

「東京に帰っても、終わりにしたくない」

「俺も」

「でも、怖い」

「うん」

「遠いし、すぐ会えんし、たぶん寂しい」

「うん」

「でも、それでも……終わりにしたくない」

 湊は、小さく頷いた。

「俺も、続けたい」

「うん」

「簡単じゃないと思う」

「うん」

「でも、簡単じゃないからやめる、とは思えない」

「……うん」

「連絡する」

「私もする」

「写真、送る」

「私も送る。たぶん、食べたものとかになるけど」

「見たい」

「ほんと?」

「うん」

「湊くんの写真と比べたら、全然綺麗じゃないよ」

「篠原さんが見たものなら見たい」

「……そういうの、また普通に言う」

「普通に言いたいから」

 夏帆は、もう顔を隠したくなった。

 でも、浴衣の袖で顔を隠したら負けのような気がして、なんとか耐える。

「また会いに来る」

 湊が言った。

 夏帆は顔を上げる。

「愛媛に?」

「うん」

「遠いよ」

「知ってる」

「お金もかかる」

「頑張る」

「学生やん」

「篠原さんも」

「そうやけど」

「だから、無理はしない。でも、会いに来る」

「……うん」

「篠原さんにも、東京に来てほしい」

「私が?」

「うん」

「迷子になるかも」

「迎えに行く」

「ほんと?」

「うん」

「じゃあ、行く」

「うん」

 言葉にすると、遠かった場所が少しだけ近くなる。

 東京。

 松山。

 八幡浜。

 汐待島。

 それぞれ離れているのに、線でつながっていく気がした。

 祖母と晴臣の時代には、届かなかったものがある。

 船が止まれば会えなかった。

 手紙が届かなければ、気持ちは箱の中に眠ったままだった。

 でも、自分たちは違う。

 待つだけにはしない。

 そう思った瞬間、夏帆の口から自然に言葉がこぼれた。

「待っとる。でも、待つだけにはせんよ。私も会いに行く」

 湊が、少しだけ息を呑んだ。

 それから、すごくやわらかく笑った。

「うん」

「なに」

「それ、すごく篠原さんらしい」

「そう?」

「うん」

「待つだけは嫌やもん」

「うん」

「会いたくなったら、ちゃんと言う」

「うん」

「湊くんも言って」

「言う」

「写真だけ送って終わりとか、なしやけん」

「わかった」

「ちゃんと言葉も送って」

「送る」

「私も送る」

「うん」

 言いながら、夏帆は胸の奥が少し軽くなるのを感じた。

 距離がなくなるわけではない。

 寂しさが消えるわけでもない。

 でも、ただ待つだけではない。

 二人で言葉を渡し合うことはできる。

 会いに行くことも、会いに来てもらうこともできる。

 約束は、待つためだけのものではない。

 一緒に次の場所へ進むためにもある。

「篠原さん」

「うん」

「好きです」

「……二回目」

「何回でも言う」

「待って、慣れてない」

「俺も慣れてない」

「じゃあ、なんでそんな言えるん」

「言わないまま帰りたくないから」

「……ずるい」

「ずるい?」

「それ言われたら、何も言えん」

「何か言ってほしい」

「ええ……」

 夏帆は困って、でも笑ってしまった。

 泣きそうなのに、笑っている。

 それが少し不思議だった。

「私も、好き」

 今度は、さっきより少しだけ小さな声になった。

 でも、ちゃんと言えた。

 湊は、静かに頷いた。

「うん」

「聞こえた?」

「聞こえた」

「なら、いい」

「もう一回聞きたい」

「調子に乗らんで」

「ごめん」

「でも……また今度」

「うん。待ってる」

 その「待ってる」は、寂しい言葉ではなかった。

 少しだけ、楽しみに聞こえた。

 夏帆は、湊の隣に並んだ。

 海の向こうには、いくつかの灯りが揺れている。夜が深くなる前の、紺色の時間だった。祭りの音は相変わらず遠くにあるのに、さっきより少し近く感じる。

 戻らなければならない。

 でも、もう少しだけここにいたかった。

 湊も同じように感じているのか、すぐには歩き出さなかった。

 二人の手が、近くにあった。

 ほんの少し動けば触れる距離。

 夏帆は、その距離を見てしまった。

 見なければよかった。

 意識した瞬間、指先が熱くなる。

 湊の手も少し動いた。でも、途中で止まる。

 昨日の夕暮れの港でも、こんなふうに触れそうで触れなかった。

 今日は。

 今日と同じ日は、もう来ない。

 夏帆は、小さく息を吸った。

 そして、自分から指先を動かした。

 湊の指に、そっと触れる。

 湊がこちらを見る。

 夏帆は顔が熱くなったけれど、手を引かなかった。

「……つないでも、いい?」

 声が小さくなった。

 湊は一瞬だけ固まって、それから頷いた。

「うん」

 湊の手が、夏帆の手を包んだ。

 指先だけではなく、ちゃんと手のひらが重なる。

 温かかった。

 思っていたよりもずっと。

 夏帆は、胸の奥がいっぱいになって、何も言えなくなった。

 湊も黙っていた。

 けれど、その沈黙は怖くなかった。

 言葉にしたあとだから、黙っていても逃げではない。

 ただ、同じ温度を確かめる時間だった。

「戻ろうか」

 少しして、湊が言った。

「うん」

「澪子さんに、帰れなくなるって言われたし」

「本気にせんでいいよ」

「でも、泣かせないようにとも言われた」

「それは忘れて」

「忘れない」

「忘れて」

「努力します」

「またそれ」

 二人は少し笑った。

 手は、つないだままだった。

 港の端から祭りのほうへ戻る道を、ゆっくり歩く。提灯の灯りが少しずつ近づいてくる。太鼓の音が、さっきよりはっきり聞こえた。人の声、屋台の匂い、子どもたちの笑い声。

 さっきまでと同じ祭りのはずなのに、全部が少し違って見えた。

 世界が変わったわけではない。

 ただ、隣にいる人の手を握っている。

 それだけで、こんなにも違う。

 祭りの入口近くまで戻ると、澪子が受付のそばに立っていた。

 夏帆たちに気づく。

 視線が、二人のつないだ手に一瞬だけ落ちた。

 夏帆は反射的に手を離しそうになったけれど、湊の手が少しだけ力を込めた。

 離さなくていい。

 そう言われた気がした。

 澪子は何も聞かなかった。

 ただ、少しだけ目を細めて笑った。

「おかえり」

「……ただいま」

「湊くん、夏帆泣かせんかった?」

「たぶん」

「たぶんなんや」

「泣かせてないです」

「なら、ええね」

 澪子はそれ以上聞かなかった。

 その代わり、夏帆に向かって小さく頷いた。

 言えたんやね。

 そう言われた気がした。

 夏帆は、胸の奥がまた熱くなるのを感じながら、そっと頷き返した。

 祭りの音が、少しずつ近づいてくる。

 夏帆は、湊の隣で歩いた。

 さっきまでと同じ港町なのに、手のひらに触れる温度だけで、世界が少し違って見えた。


お読みいただきありがとうございます。

夏帆と湊の夏を最後まで見守っていただけたら嬉しいです。

ブックマーク・評価で応援していただけると励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ