第24話 写真ではなく、言葉で
祭りの音が、少し遠くなっていた。
さっきまで隣にあったはずの太鼓の響きも、人の笑い声も、屋台の呼び込みも、港の端まで来ると薄い膜の向こう側にあるみたいに聞こえた。提灯の赤い灯りはまだ見える。けれど、ここまで届く光は少し弱く、海から吹く風のほうが近かった。
夏帆は、湊の前に立っていた。
浴衣の袖が風に揺れる。下駄の鼻緒が少しだけ痛い。ラムネの甘い匂いも、焼きそばの匂いも、いつの間にか遠くなって、今は潮の匂いだけがはっきりしていた。
湊は、カメラに触れていなかった。
首から下げたまま、手は横に下ろされている。いつもなら景色を見る時、無意識にカメラへ伸びる指が、今は動かない。
今日は、写真ではない。
言葉の時間なのだと、夏帆は思った。
「昨日言えなかったこと、言ってもいい?」
湊の声は静かだった。
でも、その静けさの下に緊張があるのがわかった。
夏帆は、小さく頷いた。
「うん」
「ありがとう」
「……そんなに改まると、緊張する」
「俺もしてる」
「湊くんも?」
「うん。かなり」
「そうは見えん」
「見えないだけ」
湊はそう言って、少しだけ息を吐いた。
その仕草が、いつもより頼りなく見えた。
夏帆は胸の前で指を重ねる。浴衣の袖口が手の甲に触れた。自分の心臓の音が、祭りの太鼓よりずっと近くに聞こえる。
湊は、すぐには話し始めなかった。
海のほうを一度見て、それから夏帆へ視線を戻す。
その目がまっすぐだったから、夏帆は少し怖くなった。
でも、目を逸らさなかった。
湊は、カメラではなく、言葉を探していた。
「最初は、写真の場所を探すだけのつもりだった」
湊が言った。
夏帆は黙って頷く。
「祖父が残した写真に写っていた場所を見つけて、祖父が何を見ていたのか、少しわかればいいと思ってた」
「うん」
「灯台を見つけて、島のことを少し知って、それで終わると思ってた」
「……うん」
「でも、篠原さんに会ってから、ただの場所探しじゃなくなった」
夏帆は、初めて湊に声をかけた日のことを思い出した。
八幡浜港。
地図アプリと古い写真を見比べていた少年。
首から下げたカメラ。
困っているのに、誰かに助けを求めるのが少し下手そうな横顔。
あの時の夏帆は、ただ放っておけなかっただけだ。
どこへ行きたいのか聞いただけ。
それだけだった。
なのに、その一言から、夏はこんなところまで来てしまった。
「篠原さんが声をかけてくれなかったら、俺はたぶん、港で迷ったままだった」
「そんなこと」
「ある」
「……」
「写真の場所は、いつか見つけたかもしれない。でも、澪子さんには届かなかったと思う」
「湊くん」
「篠原さんがいたから、祖父の写真が、ただの古い写真じゃなくなった」
夏帆は、息を呑んだ。
湊の言葉が、ゆっくり胸に入ってくる。
古い写真。
若い澪子の後ろ姿。
白灯台。
写真の裏の文字。
潮が引く夜、灯台の下で待つ。
それは最初、湊の祖父が残した謎だった。
どこで撮ったのか。
誰が写っているのか。
何を意味しているのか。
でも、その写真は澪子に届いた。夏帆たちが汐待島へ渡り、約束の浜を見つけ、手紙を見つけ、白灯台へ行ったから。
写真は、過去にしまわれたままのものではなくなった。
今を生きる澪子へ届いた。
古い写真は、夏帆と出会って初めて、誰かに届くものになった。
「俺、写真を撮るのが好きだから」
湊は続けた。
「うん」
「いい景色を見ると、残したくなる」
「うん」
「下灘の海も、汐待島も、白灯台も、約束の浜も、夕暮れの港も、今日の祭りも、全部撮りたいと思った」
「うん」
「実際、撮ったものもある」
「うん」
「でも、篠原さんといると、撮るだけじゃ足りない時がある」
夏帆は、湊を見つめた。
湊の声は、少しずつ確かになっていく。
「写真に残すより、その場で同じものを見てることのほうが、大事に思える時がある」
「……」
「夕暮れの港で、カメラを構えなかった時」
「うん」
「あの時、綺麗だから撮りたいって思った。でも、それより、篠原さんと同じ夕暮れを見ていたかった」
「……うん」
「写真にしたら残る。でも、撮ってる間、俺はファインダー越しに見ることになる」
「うん」
「それが、もったいなかった」
夏帆の胸が、静かに熱くなった。
あの日の夕暮れ。
八幡浜港の水面。
橙色の光。
カメラに触れて、でも撮らなかった湊の指先。
写真じゃなくて。
写真じゃなくて、見ておきたい。
その言葉の意味が、今ようやく全部届いた気がした。
湊は、景色を残したかっただけではない。
夏帆と一緒に見る時間を、失いたくなかったのだ。
写真に残したい景色が、夏帆と一緒に見たい景色に変わっていた。
「篠原さんと見た海が、俺にとって特別になった」
「……」
「篠原さんと歩いた町も、篠原さんと渡った島も、篠原さんと見た灯台も」
「湊くん」
「だから、言わないまま帰りたくなかった」
海風が吹いた。
提灯の灯りが、遠くで少し揺れる。
夏帆は、次に来る言葉をどこかでわかっていた。
でも、わかっているのと、実際に聞くのとは違う。
心臓が苦しいくらいに鳴っていた。
湊は、まっすぐ夏帆を見た。
「篠原さんが好きです」
世界が、一瞬だけ静かになった。
祭りの音も、波の音も、風の音も、全部遠くへ行った気がした。
湊の声だけが、夏帆の中に残る。
「篠原さんが好きです」
湊は、目を逸らさなかった。
「東京に帰るのに、勝手だと思う」
「……」
「このまま近くにいられるわけじゃないのに、今言うのはずるいかもしれない」
「……」
「でも、言わないまま帰りたくなかった」
「湊くん……」
「祖父みたいに、言えなかったことを残したくなかった」
その言葉で、夏帆の胸の奥にあったものが、音もなく揺れた。
晴臣。
澪子。
届かなかった手紙。
待ち続けた白灯台。
来られなかった人と、待った人。
湊は、その全部を知ったうえで、今ここに立っている。
写真ではなく、言葉で。
夏帆に渡そうとしている。
嬉しかった。
聞きたかった言葉だった。
たぶん、ずっと待っていた。
でも、嬉しさと同時に、怖さも込み上げてきた。
湊は東京へ帰る。
夏帆は松山へ戻る。
八幡浜で一緒に歩ける日は、もう多くない。
好きと言われた。
それなのに、好きだけでは距離はなくならない。
この夏が終わったあと、この気持ちはどうなるのだろう。
今はこんなに近いのに、数日後には湊は東京にいて、夏帆は松山にいる。
会いたくなっても、すぐには会えない。
声が聞きたくても、画面越しになる。
写真は送れる。
言葉も送れる。
でも、今みたいに同じ風の中で向き合うことは、当たり前ではなくなる。
嬉しいのに、少し怖かった。
「ごめん」
湊が言った。
夏帆ははっとした。
「なんで謝るん」
「困らせたかもしれない」
「……困ってるわけじゃない」
「うん」
「びっくりしただけ」
「うん」
「あと……怖い」
「うん」
湊は、夏帆の言葉を遮らなかった。
ただ、ちゃんと聞いてくれている。
それがまた、夏帆を泣きそうにさせた。
「湊くん、東京に帰るやん」
「うん」
「私は松山に戻る」
「うん」
「ここで好きって言われても、すぐ近くにいられるわけじゃない」
「うん」
「それが、ちょっと怖い」
「うん」
「でも」
夏帆は、そこで言葉を止めた。
でも。
その先を言わなければならない。
祖母の声が、胸の奥でよみがえる。
大事なことは、自分で言わんといけんがね。
今日と同じ日は来んが。
言葉も、渡せる時に渡さんといけんがよ。
白灯台の下で、澪子は言った。
もう、待たんでもええんやね。
祖母は、長い時間を越えて、置いてきた自分を迎えに行った。
晴臣は言えなかった。届けられなかった。だから写真と手紙は、何十年も箱の中にあった。
でも、夏帆の目の前には湊がいる。
今、ここにいる。
言葉を聞いてくれている。
なら、言わなければ。
言わなければ届かないことを、夏帆はもう知っていた。
「私、うまく言えんかもしれん」
「うん」
「でも、言う」
「うん」
「言わんかったら、届かんけん」
「……うん」
湊の声が、ほんの少し揺れた。
夏帆は、胸の前で握っていた指をほどいた。
海風が浴衣の袖を揺らす。
遠くで太鼓の音が鳴る。
今しかない。
同じ日は、もう来ない。
「私も、湊くんが好き」
口にした瞬間、胸の奥にあったものがほどけた。
怖かった。
でも、それ以上に、言えたことが嬉しかった。
湊は、何も言わなかった。
ただ、少しだけ目を見開いて夏帆を見ている。
その表情を見て、夏帆は顔が熱くなった。
「……なんか言って」
「ごめん」
「また謝る」
「嬉しくて」
「……うん」
「すごく、嬉しい」
「うん」
夏帆は、視線を少し落とした。
でも、もう逃げたくなかった。
「八幡浜に来た時は、こんなことになると思ってなかった」
「うん」
「湊くんに声かけた時も、古い写真の場所を探すだけやと思っとった」
「うん」
「でも、湊くんと汐待島に行って、白灯台を見て、おばあちゃんの話を聞いて」
「うん」
「湊くんと見た海が、全部特別になった」
「……うん」
「八幡浜も、汐待島も、前よりずっと好きになった」
「うん」
「それは、湊くんが一緒におったからやと思う」
言えば言うほど、胸が苦しくなる。
けれど、苦しいのに止めたくなかった。
湊が言葉で渡してくれたから、自分も言葉で返したい。
「東京に帰っても、終わりにしたくない」
「俺も」
「でも、怖い」
「うん」
「遠いし、すぐ会えんし、たぶん寂しい」
「うん」
「でも、それでも……終わりにしたくない」
湊は、小さく頷いた。
「俺も、続けたい」
「うん」
「簡単じゃないと思う」
「うん」
「でも、簡単じゃないからやめる、とは思えない」
「……うん」
「連絡する」
「私もする」
「写真、送る」
「私も送る。たぶん、食べたものとかになるけど」
「見たい」
「ほんと?」
「うん」
「湊くんの写真と比べたら、全然綺麗じゃないよ」
「篠原さんが見たものなら見たい」
「……そういうの、また普通に言う」
「普通に言いたいから」
夏帆は、もう顔を隠したくなった。
でも、浴衣の袖で顔を隠したら負けのような気がして、なんとか耐える。
「また会いに来る」
湊が言った。
夏帆は顔を上げる。
「愛媛に?」
「うん」
「遠いよ」
「知ってる」
「お金もかかる」
「頑張る」
「学生やん」
「篠原さんも」
「そうやけど」
「だから、無理はしない。でも、会いに来る」
「……うん」
「篠原さんにも、東京に来てほしい」
「私が?」
「うん」
「迷子になるかも」
「迎えに行く」
「ほんと?」
「うん」
「じゃあ、行く」
「うん」
言葉にすると、遠かった場所が少しだけ近くなる。
東京。
松山。
八幡浜。
汐待島。
それぞれ離れているのに、線でつながっていく気がした。
祖母と晴臣の時代には、届かなかったものがある。
船が止まれば会えなかった。
手紙が届かなければ、気持ちは箱の中に眠ったままだった。
でも、自分たちは違う。
待つだけにはしない。
そう思った瞬間、夏帆の口から自然に言葉がこぼれた。
「待っとる。でも、待つだけにはせんよ。私も会いに行く」
湊が、少しだけ息を呑んだ。
それから、すごくやわらかく笑った。
「うん」
「なに」
「それ、すごく篠原さんらしい」
「そう?」
「うん」
「待つだけは嫌やもん」
「うん」
「会いたくなったら、ちゃんと言う」
「うん」
「湊くんも言って」
「言う」
「写真だけ送って終わりとか、なしやけん」
「わかった」
「ちゃんと言葉も送って」
「送る」
「私も送る」
「うん」
言いながら、夏帆は胸の奥が少し軽くなるのを感じた。
距離がなくなるわけではない。
寂しさが消えるわけでもない。
でも、ただ待つだけではない。
二人で言葉を渡し合うことはできる。
会いに行くことも、会いに来てもらうこともできる。
約束は、待つためだけのものではない。
一緒に次の場所へ進むためにもある。
「篠原さん」
「うん」
「好きです」
「……二回目」
「何回でも言う」
「待って、慣れてない」
「俺も慣れてない」
「じゃあ、なんでそんな言えるん」
「言わないまま帰りたくないから」
「……ずるい」
「ずるい?」
「それ言われたら、何も言えん」
「何か言ってほしい」
「ええ……」
夏帆は困って、でも笑ってしまった。
泣きそうなのに、笑っている。
それが少し不思議だった。
「私も、好き」
今度は、さっきより少しだけ小さな声になった。
でも、ちゃんと言えた。
湊は、静かに頷いた。
「うん」
「聞こえた?」
「聞こえた」
「なら、いい」
「もう一回聞きたい」
「調子に乗らんで」
「ごめん」
「でも……また今度」
「うん。待ってる」
その「待ってる」は、寂しい言葉ではなかった。
少しだけ、楽しみに聞こえた。
夏帆は、湊の隣に並んだ。
海の向こうには、いくつかの灯りが揺れている。夜が深くなる前の、紺色の時間だった。祭りの音は相変わらず遠くにあるのに、さっきより少し近く感じる。
戻らなければならない。
でも、もう少しだけここにいたかった。
湊も同じように感じているのか、すぐには歩き出さなかった。
二人の手が、近くにあった。
ほんの少し動けば触れる距離。
夏帆は、その距離を見てしまった。
見なければよかった。
意識した瞬間、指先が熱くなる。
湊の手も少し動いた。でも、途中で止まる。
昨日の夕暮れの港でも、こんなふうに触れそうで触れなかった。
今日は。
今日と同じ日は、もう来ない。
夏帆は、小さく息を吸った。
そして、自分から指先を動かした。
湊の指に、そっと触れる。
湊がこちらを見る。
夏帆は顔が熱くなったけれど、手を引かなかった。
「……つないでも、いい?」
声が小さくなった。
湊は一瞬だけ固まって、それから頷いた。
「うん」
湊の手が、夏帆の手を包んだ。
指先だけではなく、ちゃんと手のひらが重なる。
温かかった。
思っていたよりもずっと。
夏帆は、胸の奥がいっぱいになって、何も言えなくなった。
湊も黙っていた。
けれど、その沈黙は怖くなかった。
言葉にしたあとだから、黙っていても逃げではない。
ただ、同じ温度を確かめる時間だった。
「戻ろうか」
少しして、湊が言った。
「うん」
「澪子さんに、帰れなくなるって言われたし」
「本気にせんでいいよ」
「でも、泣かせないようにとも言われた」
「それは忘れて」
「忘れない」
「忘れて」
「努力します」
「またそれ」
二人は少し笑った。
手は、つないだままだった。
港の端から祭りのほうへ戻る道を、ゆっくり歩く。提灯の灯りが少しずつ近づいてくる。太鼓の音が、さっきよりはっきり聞こえた。人の声、屋台の匂い、子どもたちの笑い声。
さっきまでと同じ祭りのはずなのに、全部が少し違って見えた。
世界が変わったわけではない。
ただ、隣にいる人の手を握っている。
それだけで、こんなにも違う。
祭りの入口近くまで戻ると、澪子が受付のそばに立っていた。
夏帆たちに気づく。
視線が、二人のつないだ手に一瞬だけ落ちた。
夏帆は反射的に手を離しそうになったけれど、湊の手が少しだけ力を込めた。
離さなくていい。
そう言われた気がした。
澪子は何も聞かなかった。
ただ、少しだけ目を細めて笑った。
「おかえり」
「……ただいま」
「湊くん、夏帆泣かせんかった?」
「たぶん」
「たぶんなんや」
「泣かせてないです」
「なら、ええね」
澪子はそれ以上聞かなかった。
その代わり、夏帆に向かって小さく頷いた。
言えたんやね。
そう言われた気がした。
夏帆は、胸の奥がまた熱くなるのを感じながら、そっと頷き返した。
祭りの音が、少しずつ近づいてくる。
夏帆は、湊の隣で歩いた。
さっきまでと同じ港町なのに、手のひらに触れる温度だけで、世界が少し違って見えた。
お読みいただきありがとうございます。
夏帆と湊の夏を最後まで見守っていただけたら嬉しいです。
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