第23話 夏祭りの日
夏祭りの日の朝は、いつもの朝より少しだけ音が多かった。
まだ日差しはやわらかいのに、外からは人の声が聞こえてくる。どこかで軽トラックが止まる音がして、誰かが「そっち持って」と声を上げた。遠くから、提灯の紐を引くような乾いた音も混じっている。
祖母の家の中にも、いつもより早い時間から生活の気配があった。
台所では澪子が湯を沸かしている。廊下には、昨夜のうちに出しておいた紙袋や手伝い用の荷物が置かれていた。祭りで使うタオル、名札、町内会の人から預かったらしい封筒。どれも特別なものではないのに、今日がいつもの一日ではないことを知らせている。
夏帆は、いつもより早く目が覚めてしまった。
眠れなかったわけではない。
けれど、目が覚めた瞬間から、胸の奥に小さな灯りがついているみたいだった。
夏祭りの日。
湊と話す約束をした日。
そのことを思っただけで、布団の中にいるのに落ち着かなくなった。
昨日、港近くで別れた時の湊の顔が浮かぶ。
夏祭りの日、少し時間もらえる?
人が少ないところで、話したい。
その言葉は、何度思い出しても胸の中で形を変える。何の話なのか、ちゃんとわかっているわけではない。けれど、ただの世間話ではないことだけは、夏帆にもわかっていた。
もしかしたら。
そう思いそうになって、夏帆は布団の上で顔を隠した。
期待しすぎて違ったら、きっと恥ずかしい。
でも、期待しないふりをするには、湊の表情が真剣すぎた。
「夏帆、今日は早いがね」
襖の向こうから澪子の声がした。
夏帆は慌てて起き上がる。
「祭りの手伝いあるし」
「それだけ?」
「それだけ」
「ふうん」
「なに」
「なんでもないが」
澪子の声は、完全に何か知っている人のそれだった。
夏帆は襖を開けて、廊下に顔を出す。澪子は台所へ向かう途中で、白い割烹着を片手に持っていた。いつもの家の中の祖母とは少し違う、祭りの日の顔をしている。
「おばあちゃんこそ、早いね」
「年寄りは朝が早いけん」
「それ、便利な言い訳やね」
「便利なものは使わんと」
澪子は笑って、台所へ戻っていく。
夏帆は洗面所で顔を洗った。冷たい水が頬に当たる。鏡の中の自分は、少しだけ目が冴えていた。寝不足というより、何かを待っている顔だと思った。
祭りの手伝いがある。
それは本当だ。
けれど今日の夏帆にとって、祭りはそれだけではなかった。
湊と会う。
話す。
昨日言えなかったことを、聞く。
その前に、自分は何を言えるのだろう。
台所へ戻ると、澪子が麦茶を注いでいた。朝の食卓は簡単なものだったが、いつもより少し慌ただしい。祭りの手伝いへ行く時間が決まっているからだ。
「夏帆」
「なに?」
「今日の祭りは、今日しかないけんね」
「急にどうしたん」
「明日も似た日は来るけど、今日と同じ日は来んが」
夏帆は箸を持つ手を止めた。
澪子は、特別な顔をしているわけではない。味噌汁をよそいながら、ただ何気なく言っただけみたいだった。
でも、夏帆にはその言葉がまっすぐ届いた。
「……うん」
「楽しんできなさい」
「手伝いは?」
「それも楽しむんよ」
「そんな簡単に言う」
「簡単なことほど、あとで思い出すもんよ」
澪子は椀を置いて、夏帆を見た。
「言葉も、渡せる時に渡さんといけんがよ」
「……」
「渡したいと思った時に、相手がそこにおるとは限らんけん」
「おばあちゃん」
「重い顔せんでええ。今日は祭りなが」
「うん」
「でも、覚えとき」
澪子は、少しだけ笑った。
そこには、白灯台の下で長い時間をほどいた人の静けさがあった。
夏帆は小さく頷いた。
昨日までなら、この言葉をただ祖母の昔話として聞いていたかもしれない。けれど今は違う。澪子が言えなかった夏を知っている。晴臣の手紙が届かなかった時間を知っている。
だから、言葉は軽くない。
でも、怖がるためだけのものでもない。
今日と同じ日は、もう来ない。
祭りの準備は、午前中から始まっていた。
八幡浜港の近くには、町の人たちが集まっていた。広場に机を並べる人、提灯を吊るす人、屋台の準備をする人。子どもたちはまだ本番前なのに、すでに祭りが始まったみたいにはしゃいでいる。
潮の匂いに、焼けたアスファルトの匂いと、準備中の屋台から漂う甘い匂いが混じっていた。
夏帆は澪子に言われた場所へ荷物を運ぶ。段ボール箱の中には紙コップやうちわが入っていた。軽そうに見えて、持つと意外と重い。
「夏帆ちゃん、大きゅうなったねぇ」
後ろから声をかけられて振り向くと、町内会の女性が笑っていた。顔に見覚えはあるような、ないような。子どもの頃に何度も会っているのだろうけれど、夏帆の記憶は曖昧だった。
「もう高二です」
「昔はこのへん走り回りよったが」
「それ、みんな言う」
「ほんとのことやけんね」
「否定できん」
女性は笑いながら、夏帆の持っていた箱を半分持ってくれた。
「澪子さんも、今年は顔色ええね」
「そうですか?」
「うん。なんか、すっきりしとる」
「……そう見えます?」
「見える見える。あんたが帰ってきたけんかねぇ」
「それだけやといいんですけど」
夏帆は思わず、広場の端にいる澪子を見た。
澪子は別の人と話しながら、祭りで使う受付の紙を確認している。白灯台へ行く前より、少し背筋が伸びているように見えた。もちろん年齢相応の疲れはある。それでも、どこか軽い。
あの日、白灯台の下で置いてきたのではない。
連れて帰ってきたのだ。
十七歳の澪子を。
祭りの準備をしていると、八幡浜の町が少しずつ昔の顔を見せ始めた。
提灯が一つずつ吊るされるたびに、見慣れた港の風景が少しだけ違っていく。普段は通り過ぎるだけの道に、机が置かれ、看板が立ち、赤や白の布が揺れる。
子どもの頃の夏帆は、きっとこの変化が好きだった。
いつもの町が、今日だけ少し特別になる。
大人たちが忙しそうに動いていて、子どもたちは邪魔にならないようにと言われながら、結局その隙間を走り回る。
夏帆もそうだったのだろう。
自分ではほとんど覚えていないのに、町の人たちは覚えている。
「夏帆ちゃん、そこ置いとって」
「はい」
「そっちの紐、引っ張ってくれるが?」
「これですか?」
「そうそう。上手いがね」
「いや、引っ張ってるだけです」
「それが大事なんよ」
大人たちはよく笑った。
方言の「が」があちこちで跳ねる。
なにしよるが。そっちやないが。そこ置くが。早うせんと暑なるが。
が、が、が。
子どもの頃の夏帆なら、港のカラスみたいだと思ったかもしれない。
でも今は、その響きが少しだけ胸に染みた。
うるさいのではなく、そこに人がいる音だった。
午前中の準備がひと段落した頃、澪子は広場の端に置かれた椅子に座っていた。夏帆が麦茶を持っていくと、澪子は「ありがとう」と受け取った。
「疲れた?」
「少しね。でも大丈夫」
「無理せんでよ」
「そればっかりやね、あんたも湊くんも」
「心配されるようなことするけんやろ」
「言うようになったが」
澪子は小さく笑った。
そこへ、年配の男性が近づいてきた。夏帆は顔を知らなかったが、澪子はすぐに「ああ」と声を上げた。
「澪子さん、今年も来たがね」
「来たよ」
「無理せんでええんよ」
「今日は来たかったんよ」
「そうなが」
「うん。今年は、来られてよかった」
その言葉を聞いた瞬間、夏帆は胸の奥が熱くなった。
「今年は、来られてよかった」
男性は深く聞かなかった。
ただ「そうか」と頷いて、少しだけ笑った。
「なら、ええ祭りになるが」
「そうやね」
澪子も笑った。
夏帆は、二人の会話を黙って聞いていた。
誰も、白灯台のことは知らない。
若い頃の澪子が、どこで何を待っていたのか。何を箱にしまっていたのか。どうして今年、その箱を開けることになったのか。
町の人たちは知らない。
それでも、澪子の「来られてよかった」は、ちゃんと今の祭りの中にあった。
過去に戻ったのではない。
今の澪子として、ここに来ている。
それが夏帆には嬉しかった。
昼を過ぎると、祭りの準備はさらに慌ただしくなった。
夏帆は一度、祖母の家に戻った。夕方からの手伝いに備えて、少し休むためだった。けれど、実際にはあまり休めなかった。
澪子が押し入れの前で、何かを探していたからだ。
「おばあちゃん、何しよるん?」
「ちょっとね」
「また何か出してきた?」
「祭りやけん」
「祭りやけん?」
澪子は振り向いて、細長い箱を見せた。
夏帆は嫌な予感と、少しだけ期待が混じった気持ちでその箱を見る。
「……浴衣?」
「そう」
「え、急に?」
「祭りやけん」
「動きにくくない?」
「若い子は何着ても動けるが」
「それ、雑じゃない?」
「似合うと思うよ」
澪子は、箱の蓋を開けた。
中には、淡い水色の浴衣が丁寧に畳まれていた。白に近い青地に、薄い朝顔の柄が散っている。派手ではないけれど、涼しげで、夏の夕方に似合いそうな色だった。
「これ、おばあちゃんの?」
「家にあったものよ。昔、夏帆のお母さんも着たかもしれんね」
「お母さんが?」
「たぶんね。記憶は曖昧やけど」
「そこ曖昧なんや」
「長く生きとると、曖昧なことも増えるが」
澪子はそう言って笑った。
夏帆は浴衣を見下ろした。
着たい、と思った。
でも、それを口にするのが少し恥ずかしかった。
湊に見せたいと思ったからかもしれない。
そう気づいて、余計に言えなくなる。
「無理にとは言わんよ」
「……着る」
「うん」
「でも、ちゃんと着られるかわからん」
「そこは任せなさい」
「おばあちゃん、着付けできるん?」
「それくらいできるが」
「疑ってないけど」
「顔が疑っとる」
「してない」
澪子は楽しそうだった。
浴衣に袖を通す時、夏帆は少し息を止めた。
肌に触れる布は思ったより軽い。澪子が帯を結んでくれる間、夏帆は鏡の中の自分を見ていた。制服でも、普段着でもない。松山の学校にいる自分でも、八幡浜へ手伝いに来た自分でもない。
祭りの日の自分。
今日しかいない自分。
袖を通した瞬間、夏帆は少しだけ、いつもの自分ではない気がした。
「どう?」
「似合うよ」
「ほんと?」
「ほんと。夏帆は水色が似合うが」
「そうかな」
「うん。海の色やけんね」
澪子は帯の形を整えながら言った。
海の色。
その言葉に、夏帆は鏡の中の浴衣をもう一度見た。
八幡浜の海。
汐待島へ渡った海。
白灯台の下から見た海。
そして、湊と並んで見た夕暮れの海。
その全部が、今の自分の中にある。
「湊くん、驚くかねぇ」
「おばあちゃん」
「私は何も言うとらんよ」
「言った」
「似合うけん、驚くやろって話なが」
「もう」
夏帆は抗議したけれど、澪子はどこ吹く風だった。
夕方になる頃には、港町は祭りの色に変わっていた。
提灯に灯りが入り始めると、昼間とはまるで違う空気になる。赤い光が道に落ち、屋台の明かりが少しずつ増え、人の声が重なっていく。
潮の匂いに、焼きそばの匂い、甘いシロップの匂い、炭火の匂いが混ざる。子どもたちの笑い声が弾け、どこかで太鼓の音が試し打ちのように鳴った。
夏帆は受付の手伝いをしながら、何度も港の入口のほうを見てしまった。
まだ来ない。
そう思うたびに、自分で自分が恥ずかしくなる。
別に待っているわけではない。
いや、待っている。
認めたほうが早い。
「夏帆ちゃん、誰か探しよるが?」
「えっ」
「顔が忙しいよ」
「すみません」
「ええよええよ。祭りの日やけんねぇ」
町内会の女性に笑われ、夏帆はますます顔が熱くなった。
その時だった。
人の流れの向こうに、湊の姿が見えた。
白いシャツに、暗めのパンツ。首からいつものカメラを下げている。浴衣ではない。だからこそ、祭りの中で少しだけよそ者みたいに見えた。
でも、もう夏帆にとって湊は、この町にただ迷い込んだ人ではなかった。
何度も一緒に海を渡った人。
祖母の過去を一緒に見つけてくれた人。
明日には、もう少し遠くなるかもしれない人。
「湊くん」
夏帆が声をかけると、湊はこちらを向いた。
そして、止まった。
「……」
湊は、何も言わなかった。
その沈黙が長く感じて、夏帆は落ち着かなくなる。
「なに?」
「いや」
「いや?」
「似合ってる」
「……ありがとう」
「うん」
それだけ言うと、湊は少しだけ視線を逸らした。
夏帆は、自分の胸が祭りの音より大きく鳴った気がした。
湊が言葉に詰まった一瞬で、夏帆の胸は祭りの音より大きく鳴った。
「湊くんは浴衣じゃないんや」
「宿の人にも言われた」
「言われたんや」
「着ればよかったのにって」
「ちょっと見たかったかも」
「……来年機会があれば」
「来年?」
聞き返してから、夏帆はしまったと思った。
来年。
何気ない言葉だったのかもしれない。
でも、その一言だけで、胸の奥がふわっと揺れた。
湊も、自分が言ったことに気づいたように少し黙った。
「……機会があれば」
「うん」
夏帆は小さく頷いた。
来年も会えるのか。
そんなこと、まだ何も決まっていない。
けれど、湊の口から「来年」という言葉が出たことが、嬉しかった。
受付の手伝いが一段落すると、澪子がやって来た。
「夏帆、少し回ってきたらええよ」
「でも、手伝い」
「今は人足りとるけん」
「本当に?」
「ほんと。湊くんも来とるんやろ」
「おばあちゃん」
「何も言うとらんよ」
「絶対言ってる」
「ほら、行っておいで」
澪子は、湊にも目を向けた。
「湊くん、夏帆をあんまり遠くへ連れていかんようにね」
「はい」
「帰れんなるがよ」
「おばあちゃん」
「冗談なが」
冗談だとわかっている。
でも、その言葉に夏帆は少しだけ胸を突かれた。
帰れんなるがよ。
昔、祖母たちが使っていた言葉。
約束の浜の記憶にもつながる言葉。
けれど今日の澪子の声は、怖くなかった。
帰れなくなる前に戻っておいで。
でも、少しだけ行っておいで。
そんなふうに聞こえた。
夏帆と湊は、祭りの中を歩き始めた。
屋台の明かりが、浴衣の袖に揺れる。足元の下駄は少し歩きにくいけれど、それも祭りの日らしかった。湊は歩幅を合わせてくれているのか、いつもよりゆっくり歩いている。
「歩きにくくない?」
「少し」
「大丈夫?」
「大丈夫。湊くん、心配性やね」
「浴衣だから」
「浴衣じゃなくても心配するやん」
「……するかも」
「認めた」
夏帆が笑うと、湊も小さく笑った。
屋台には、かき氷、焼きそば、くじ引き、スーパーボールすくい。どれも特別珍しいものではない。でも、港町の夜と提灯の灯りの中にあるだけで、少し違って見えた。
「かき氷、食べる?」
「浴衣にこぼしそう」
「じゃあ、ラムネ?」
「それなら」
「何味?」
「ラムネに味の種類ある?」
「最近あるよ」
「知らなかった」
「湊くん、祭り初心者?」
「東京でも祭りはある」
「でも?」
「こういう港の祭りは初めて」
「そっか」
湊の「初めて」が、この町にあることが嬉しかった。
二人はラムネを買って、広場の端に寄った。ビー玉を押し込む音が小さく鳴る。夏帆は少し苦戦して、湊が横から「押すところ、そこ」と教えてくれた。
「わかっとる」
「でも苦戦してた」
「浴衣やけん」
「関係ある?」
「ある」
夏帆はそう言って、やっと開いたラムネをひと口飲んだ。
冷たい炭酸が喉を通っていく。
湊は、その様子を見て少し笑っていた。
「なに」
「いや」
「また、いや」
「楽しそうだと思って」
「祭りやけんね」
「うん」
湊の手が、カメラに触れた。
夏帆は気づいたけれど、何も言わなかった。
湊は少し迷ったあと、ちゃんとこちらを見た。
「撮ってもいい?」
「私を?」
「うん」
「……変に撮らんでよ」
「変には撮らない」
「ほんと?」
「たぶん」
「たぶんなんや」
「いや、本当に」
「そこは最初から本当にって言ってよ」
夏帆が言うと、湊は少しだけ笑った。
カメラを構える前に、もう一度聞くような視線を向けてくる。
夏帆は小さく頷いた。
いいよ。
声にしなくても、たぶん伝わった。
湊はシャッターを切った。
正面からではなく、少し斜め。提灯の灯りが横から差し、夏帆の水色の浴衣とラムネの瓶が一緒に写る角度だった。
撮られる瞬間、夏帆は少し照れた。
でも嫌ではなかった。
今度は、夏帆が選んで写る写真だった。
「見せて」
「うん」
湊がカメラの画面を見せてくれる。
そこには、自分なのに少し自分ではないような夏帆が写っていた。提灯の灯りのせいか、浴衣のせいか、それとも湊が撮ったからか。
いつもより、少しだけ大人びて見えた。
「……変じゃない」
「変に撮らないって言った」
「たぶんって言った」
「撤回した」
「うん。綺麗に撮れてる」
「被写体がいいから」
「そういうの、さらっと言わんで」
言った瞬間、夏帆の顔が熱くなった。
湊も、少しだけ気まずそうに視線を逸らす。
「……事実だから」
「なおさら言わんで」
「ごめん」
「謝られたら、それはそれで困る」
「難しい」
「難しいね」
二人は顔を見合わせて、少し笑った。
そのあと、夏帆は自分のスマホを取り出した。
「湊くんも撮る?」
「俺?」
「うん。いつも撮る側やん」
「撮られるのは慣れてない」
「じゃあ練習」
「練習?」
「そう」
湊は少し戸惑ったが、結局カメラを下ろして立った。
夏帆はスマホを構える。
提灯の明かりの下に立つ湊は、やっぱりこの町の人ではないように見えた。でも、もう完全なよそ者にも見えない。八幡浜の夏の中に、ちゃんと立っている。
「笑って」
「急に言われても」
「じゃあ、そのままで」
「それでいいの?」
「うん。湊くんらしい」
シャッターを押した。
画面の中の湊は、少し困ったような顔をしていた。
でも、その表情が夏帆には好きだった。
「見せて」
「うん」
「……変じゃない?」
「変じゃない」
「本当に?」
「たぶん」
「仕返し?」
「うん」
湊が小さく笑った。
祭りの灯りの中で、二人はしばらく屋台を回った。
くじ引きで小さなキーホルダーを当てたり、子どもたちの太鼓を少し離れて聞いたり、澪子に頼まれて飲み物を運んだりした。町の人に声をかけられ、そのたびに夏帆は少し照れ、湊は丁寧に頭を下げた。
楽しかった。
ちゃんと楽しかった。
でも、その楽しさの奥に、ずっと別の緊張があった。
あとで話す。
人が少ないところで。
その約束が、祭りの灯りの向こうで静かに待っている。
「楽しいね」
夏帆が言うと、湊は頷いた。
「うん」
「でも」
「うん」
「……あとで、話すんよね」
「うん」
「忘れとるかと思った」
「忘れるわけない」
「……そっか」
湊の声は静かだった。
その静けさが、祭りの音の中でかえってはっきり聞こえた。
夏帆はラムネの瓶を両手で持ったまま、足元を見た。浴衣の裾が風に揺れる。下駄の鼻緒が少しだけ指に当たって痛い。
祭りの灯りが明るいほど、言葉になる前の沈黙が濃くなった。
「怖い?」
湊が聞いた。
夏帆は顔を上げる。
「え?」
「話すこと」
「……ちょっと」
「うん」
「湊くんは?」
「怖い」
「そうなん?」
「うん」
「怖くなさそう」
「そんなことない」
「そっか」
「でも、言わないほうが怖いと思った」
「……うん」
それは、澪子が朝に言ったことと似ていた。
言葉は、渡せる時に渡さなければならない。
明日も似た日は来るけれど、今日と同じ日は来ない。
夏帆は、湊の横顔を見た。
この人は、何を言おうとしているのだろう。
そして自分は、何を返せるのだろう。
答えはまだわからない。
でも、もう逃げたくないと思った。
しばらくして、祭りの中心では太鼓の演奏が始まった。
人の流れがそちらへ向かい、港の端へ続く道は少しだけ空いた。提灯の灯りはまだ届いているけれど、屋台の明るさからは少し離れている。
湊が、夏帆を見た。
言葉はなかった。
でも、夏帆にはわかった。
行く?
そう聞かれた気がした。
夏帆は小さく頷いた。
その前に、受付の近くにいる澪子のところへ行く。何も言わずに離れるのは、少し気が引けたからだ。
澪子は、夏帆の顔を見るなり、何かを察したように目を細めた。
「夏帆」
「なに?」
「行っといで」
「……どこに」
「さあねぇ」
「おばあちゃん」
「帰れんなる前には戻るがよ」
「わかっとる」
「湊くん」
「はい」
「夏帆を泣かせんようにね」
「えっ、おばあちゃん」
「努力します」
「湊くんも真面目に答えんで」
澪子は楽しそうに笑った。
けれど、次に夏帆を見た目は、少しだけ優しかった。
「大丈夫。行っといで」
「……うん」
澪子は何も聞かずに、ただ夏帆を送り出した。
夏帆と湊は、祭りの中心から少し離れた。
背中側では、太鼓の音と人の声が重なっている。屋台の明かりも、提灯の灯りもまだ見える。けれど、一歩ずつ歩くたびに、その賑わいは少しずつ遠くなった。
港の端へ向かう道は、風がよく通った。
潮の匂いが濃くなる。足元の石畳に、提灯の赤い光が細く伸びている。空には夜が降り始めていて、海は黒に近い青色になっていた。
夏帆は、湊の隣を歩きながら、自分の心臓の音ばかり気にしていた。
何を言われるのか。
何を言うのか。
ちゃんと聞けるのか。
ちゃんと返せるのか。
考えても答えは出ない。
それでも、隣に湊がいることだけは確かだった。
防波堤の近くで、湊が立ち止まった。
祭りの音が、少し遠くなった。
海の向こうには、灯りがいくつか揺れている。船の明かりか、対岸の町の明かりか、夏帆にはわからなかった。
湊は海のほうを一度見て、それから夏帆を見た。
「篠原さん」
「うん」
声が少し震えた気がした。
湊の手は、カメラには触れていなかった。
今日は、写真ではない。
言葉の時間なのだと、夏帆は思った。
「昨日言えなかったこと、言ってもいい?」
お読みいただきありがとうございます。
夏帆と湊の夏を最後まで見守っていただけたら嬉しいです。
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