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汐待島で、君と夏を渡る  作者: 碓氷さゆ


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23/27

第23話 夏祭りの日

 夏祭りの日の朝は、いつもの朝より少しだけ音が多かった。

 まだ日差しはやわらかいのに、外からは人の声が聞こえてくる。どこかで軽トラックが止まる音がして、誰かが「そっち持って」と声を上げた。遠くから、提灯の紐を引くような乾いた音も混じっている。

 祖母の家の中にも、いつもより早い時間から生活の気配があった。

 台所では澪子が湯を沸かしている。廊下には、昨夜のうちに出しておいた紙袋や手伝い用の荷物が置かれていた。祭りで使うタオル、名札、町内会の人から預かったらしい封筒。どれも特別なものではないのに、今日がいつもの一日ではないことを知らせている。

 夏帆は、いつもより早く目が覚めてしまった。

 眠れなかったわけではない。

 けれど、目が覚めた瞬間から、胸の奥に小さな灯りがついているみたいだった。

 夏祭りの日。

 湊と話す約束をした日。

 そのことを思っただけで、布団の中にいるのに落ち着かなくなった。

 昨日、港近くで別れた時の湊の顔が浮かぶ。

 夏祭りの日、少し時間もらえる?

 人が少ないところで、話したい。

 その言葉は、何度思い出しても胸の中で形を変える。何の話なのか、ちゃんとわかっているわけではない。けれど、ただの世間話ではないことだけは、夏帆にもわかっていた。

 もしかしたら。

 そう思いそうになって、夏帆は布団の上で顔を隠した。

 期待しすぎて違ったら、きっと恥ずかしい。

 でも、期待しないふりをするには、湊の表情が真剣すぎた。

「夏帆、今日は早いがね」

 襖の向こうから澪子の声がした。

 夏帆は慌てて起き上がる。

「祭りの手伝いあるし」

「それだけ?」

「それだけ」

「ふうん」

「なに」

「なんでもないが」

 澪子の声は、完全に何か知っている人のそれだった。

 夏帆は襖を開けて、廊下に顔を出す。澪子は台所へ向かう途中で、白い割烹着を片手に持っていた。いつもの家の中の祖母とは少し違う、祭りの日の顔をしている。

「おばあちゃんこそ、早いね」

「年寄りは朝が早いけん」

「それ、便利な言い訳やね」

「便利なものは使わんと」

 澪子は笑って、台所へ戻っていく。

 夏帆は洗面所で顔を洗った。冷たい水が頬に当たる。鏡の中の自分は、少しだけ目が冴えていた。寝不足というより、何かを待っている顔だと思った。

 祭りの手伝いがある。

 それは本当だ。

 けれど今日の夏帆にとって、祭りはそれだけではなかった。

 湊と会う。

 話す。

 昨日言えなかったことを、聞く。

 その前に、自分は何を言えるのだろう。

 台所へ戻ると、澪子が麦茶を注いでいた。朝の食卓は簡単なものだったが、いつもより少し慌ただしい。祭りの手伝いへ行く時間が決まっているからだ。

「夏帆」

「なに?」

「今日の祭りは、今日しかないけんね」

「急にどうしたん」

「明日も似た日は来るけど、今日と同じ日は来んが」

 夏帆は箸を持つ手を止めた。

 澪子は、特別な顔をしているわけではない。味噌汁をよそいながら、ただ何気なく言っただけみたいだった。

 でも、夏帆にはその言葉がまっすぐ届いた。

「……うん」

「楽しんできなさい」

「手伝いは?」

「それも楽しむんよ」

「そんな簡単に言う」

「簡単なことほど、あとで思い出すもんよ」

 澪子は椀を置いて、夏帆を見た。

「言葉も、渡せる時に渡さんといけんがよ」

「……」

「渡したいと思った時に、相手がそこにおるとは限らんけん」

「おばあちゃん」

「重い顔せんでええ。今日は祭りなが」

「うん」

「でも、覚えとき」

 澪子は、少しだけ笑った。

 そこには、白灯台の下で長い時間をほどいた人の静けさがあった。

 夏帆は小さく頷いた。

 昨日までなら、この言葉をただ祖母の昔話として聞いていたかもしれない。けれど今は違う。澪子が言えなかった夏を知っている。晴臣の手紙が届かなかった時間を知っている。

 だから、言葉は軽くない。

 でも、怖がるためだけのものでもない。

 今日と同じ日は、もう来ない。

 祭りの準備は、午前中から始まっていた。

 八幡浜港の近くには、町の人たちが集まっていた。広場に机を並べる人、提灯を吊るす人、屋台の準備をする人。子どもたちはまだ本番前なのに、すでに祭りが始まったみたいにはしゃいでいる。

 潮の匂いに、焼けたアスファルトの匂いと、準備中の屋台から漂う甘い匂いが混じっていた。

 夏帆は澪子に言われた場所へ荷物を運ぶ。段ボール箱の中には紙コップやうちわが入っていた。軽そうに見えて、持つと意外と重い。

「夏帆ちゃん、大きゅうなったねぇ」

 後ろから声をかけられて振り向くと、町内会の女性が笑っていた。顔に見覚えはあるような、ないような。子どもの頃に何度も会っているのだろうけれど、夏帆の記憶は曖昧だった。

「もう高二です」

「昔はこのへん走り回りよったが」

「それ、みんな言う」

「ほんとのことやけんね」

「否定できん」

 女性は笑いながら、夏帆の持っていた箱を半分持ってくれた。

「澪子さんも、今年は顔色ええね」

「そうですか?」

「うん。なんか、すっきりしとる」

「……そう見えます?」

「見える見える。あんたが帰ってきたけんかねぇ」

「それだけやといいんですけど」

 夏帆は思わず、広場の端にいる澪子を見た。

 澪子は別の人と話しながら、祭りで使う受付の紙を確認している。白灯台へ行く前より、少し背筋が伸びているように見えた。もちろん年齢相応の疲れはある。それでも、どこか軽い。

 あの日、白灯台の下で置いてきたのではない。

 連れて帰ってきたのだ。

 十七歳の澪子を。

 祭りの準備をしていると、八幡浜の町が少しずつ昔の顔を見せ始めた。

 提灯が一つずつ吊るされるたびに、見慣れた港の風景が少しだけ違っていく。普段は通り過ぎるだけの道に、机が置かれ、看板が立ち、赤や白の布が揺れる。

 子どもの頃の夏帆は、きっとこの変化が好きだった。

 いつもの町が、今日だけ少し特別になる。

 大人たちが忙しそうに動いていて、子どもたちは邪魔にならないようにと言われながら、結局その隙間を走り回る。

 夏帆もそうだったのだろう。

 自分ではほとんど覚えていないのに、町の人たちは覚えている。

「夏帆ちゃん、そこ置いとって」

「はい」

「そっちの紐、引っ張ってくれるが?」

「これですか?」

「そうそう。上手いがね」

「いや、引っ張ってるだけです」

「それが大事なんよ」

 大人たちはよく笑った。

 方言の「が」があちこちで跳ねる。

 なにしよるが。そっちやないが。そこ置くが。早うせんと暑なるが。

 が、が、が。

 子どもの頃の夏帆なら、港のカラスみたいだと思ったかもしれない。

 でも今は、その響きが少しだけ胸に染みた。

 うるさいのではなく、そこに人がいる音だった。

 午前中の準備がひと段落した頃、澪子は広場の端に置かれた椅子に座っていた。夏帆が麦茶を持っていくと、澪子は「ありがとう」と受け取った。

「疲れた?」

「少しね。でも大丈夫」

「無理せんでよ」

「そればっかりやね、あんたも湊くんも」

「心配されるようなことするけんやろ」

「言うようになったが」

 澪子は小さく笑った。

 そこへ、年配の男性が近づいてきた。夏帆は顔を知らなかったが、澪子はすぐに「ああ」と声を上げた。

「澪子さん、今年も来たがね」

「来たよ」

「無理せんでええんよ」

「今日は来たかったんよ」

「そうなが」

「うん。今年は、来られてよかった」

 その言葉を聞いた瞬間、夏帆は胸の奥が熱くなった。

「今年は、来られてよかった」

 男性は深く聞かなかった。

 ただ「そうか」と頷いて、少しだけ笑った。

「なら、ええ祭りになるが」

「そうやね」

 澪子も笑った。

 夏帆は、二人の会話を黙って聞いていた。

 誰も、白灯台のことは知らない。

 若い頃の澪子が、どこで何を待っていたのか。何を箱にしまっていたのか。どうして今年、その箱を開けることになったのか。

 町の人たちは知らない。

 それでも、澪子の「来られてよかった」は、ちゃんと今の祭りの中にあった。

 過去に戻ったのではない。

 今の澪子として、ここに来ている。

 それが夏帆には嬉しかった。

 昼を過ぎると、祭りの準備はさらに慌ただしくなった。

 夏帆は一度、祖母の家に戻った。夕方からの手伝いに備えて、少し休むためだった。けれど、実際にはあまり休めなかった。

 澪子が押し入れの前で、何かを探していたからだ。

「おばあちゃん、何しよるん?」

「ちょっとね」

「また何か出してきた?」

「祭りやけん」

「祭りやけん?」

 澪子は振り向いて、細長い箱を見せた。

 夏帆は嫌な予感と、少しだけ期待が混じった気持ちでその箱を見る。

「……浴衣?」

「そう」

「え、急に?」

「祭りやけん」

「動きにくくない?」

「若い子は何着ても動けるが」

「それ、雑じゃない?」

「似合うと思うよ」

 澪子は、箱の蓋を開けた。

 中には、淡い水色の浴衣が丁寧に畳まれていた。白に近い青地に、薄い朝顔の柄が散っている。派手ではないけれど、涼しげで、夏の夕方に似合いそうな色だった。

「これ、おばあちゃんの?」

「家にあったものよ。昔、夏帆のお母さんも着たかもしれんね」

「お母さんが?」

「たぶんね。記憶は曖昧やけど」

「そこ曖昧なんや」

「長く生きとると、曖昧なことも増えるが」

 澪子はそう言って笑った。

 夏帆は浴衣を見下ろした。

 着たい、と思った。

 でも、それを口にするのが少し恥ずかしかった。

 湊に見せたいと思ったからかもしれない。

 そう気づいて、余計に言えなくなる。

「無理にとは言わんよ」

「……着る」

「うん」

「でも、ちゃんと着られるかわからん」

「そこは任せなさい」

「おばあちゃん、着付けできるん?」

「それくらいできるが」

「疑ってないけど」

「顔が疑っとる」

「してない」

 澪子は楽しそうだった。

 浴衣に袖を通す時、夏帆は少し息を止めた。

 肌に触れる布は思ったより軽い。澪子が帯を結んでくれる間、夏帆は鏡の中の自分を見ていた。制服でも、普段着でもない。松山の学校にいる自分でも、八幡浜へ手伝いに来た自分でもない。

 祭りの日の自分。

 今日しかいない自分。

 袖を通した瞬間、夏帆は少しだけ、いつもの自分ではない気がした。

「どう?」

「似合うよ」

「ほんと?」

「ほんと。夏帆は水色が似合うが」

「そうかな」

「うん。海の色やけんね」

 澪子は帯の形を整えながら言った。

 海の色。

 その言葉に、夏帆は鏡の中の浴衣をもう一度見た。

 八幡浜の海。

 汐待島へ渡った海。

 白灯台の下から見た海。

 そして、湊と並んで見た夕暮れの海。

 その全部が、今の自分の中にある。

「湊くん、驚くかねぇ」

「おばあちゃん」

「私は何も言うとらんよ」

「言った」

「似合うけん、驚くやろって話なが」

「もう」

 夏帆は抗議したけれど、澪子はどこ吹く風だった。

 夕方になる頃には、港町は祭りの色に変わっていた。

 提灯に灯りが入り始めると、昼間とはまるで違う空気になる。赤い光が道に落ち、屋台の明かりが少しずつ増え、人の声が重なっていく。

 潮の匂いに、焼きそばの匂い、甘いシロップの匂い、炭火の匂いが混ざる。子どもたちの笑い声が弾け、どこかで太鼓の音が試し打ちのように鳴った。

 夏帆は受付の手伝いをしながら、何度も港の入口のほうを見てしまった。

 まだ来ない。

 そう思うたびに、自分で自分が恥ずかしくなる。

 別に待っているわけではない。

 いや、待っている。

 認めたほうが早い。

「夏帆ちゃん、誰か探しよるが?」

「えっ」

「顔が忙しいよ」

「すみません」

「ええよええよ。祭りの日やけんねぇ」

 町内会の女性に笑われ、夏帆はますます顔が熱くなった。

 その時だった。

 人の流れの向こうに、湊の姿が見えた。

 白いシャツに、暗めのパンツ。首からいつものカメラを下げている。浴衣ではない。だからこそ、祭りの中で少しだけよそ者みたいに見えた。

 でも、もう夏帆にとって湊は、この町にただ迷い込んだ人ではなかった。

 何度も一緒に海を渡った人。

 祖母の過去を一緒に見つけてくれた人。

 明日には、もう少し遠くなるかもしれない人。

「湊くん」

 夏帆が声をかけると、湊はこちらを向いた。

 そして、止まった。

「……」

 湊は、何も言わなかった。

 その沈黙が長く感じて、夏帆は落ち着かなくなる。

「なに?」

「いや」

「いや?」

「似合ってる」

「……ありがとう」

「うん」

 それだけ言うと、湊は少しだけ視線を逸らした。

 夏帆は、自分の胸が祭りの音より大きく鳴った気がした。

 湊が言葉に詰まった一瞬で、夏帆の胸は祭りの音より大きく鳴った。

「湊くんは浴衣じゃないんや」

「宿の人にも言われた」

「言われたんや」

「着ればよかったのにって」

「ちょっと見たかったかも」

「……来年機会があれば」

「来年?」

 聞き返してから、夏帆はしまったと思った。

 来年。

 何気ない言葉だったのかもしれない。

 でも、その一言だけで、胸の奥がふわっと揺れた。

 湊も、自分が言ったことに気づいたように少し黙った。

「……機会があれば」

「うん」

 夏帆は小さく頷いた。

 来年も会えるのか。

 そんなこと、まだ何も決まっていない。

 けれど、湊の口から「来年」という言葉が出たことが、嬉しかった。

 受付の手伝いが一段落すると、澪子がやって来た。

「夏帆、少し回ってきたらええよ」

「でも、手伝い」

「今は人足りとるけん」

「本当に?」

「ほんと。湊くんも来とるんやろ」

「おばあちゃん」

「何も言うとらんよ」

「絶対言ってる」

「ほら、行っておいで」

 澪子は、湊にも目を向けた。

「湊くん、夏帆をあんまり遠くへ連れていかんようにね」

「はい」

「帰れんなるがよ」

「おばあちゃん」

「冗談なが」

 冗談だとわかっている。

 でも、その言葉に夏帆は少しだけ胸を突かれた。

 帰れんなるがよ。

 昔、祖母たちが使っていた言葉。

 約束の浜の記憶にもつながる言葉。

 けれど今日の澪子の声は、怖くなかった。

 帰れなくなる前に戻っておいで。

 でも、少しだけ行っておいで。

 そんなふうに聞こえた。

 夏帆と湊は、祭りの中を歩き始めた。

 屋台の明かりが、浴衣の袖に揺れる。足元の下駄は少し歩きにくいけれど、それも祭りの日らしかった。湊は歩幅を合わせてくれているのか、いつもよりゆっくり歩いている。

「歩きにくくない?」

「少し」

「大丈夫?」

「大丈夫。湊くん、心配性やね」

「浴衣だから」

「浴衣じゃなくても心配するやん」

「……するかも」

「認めた」

 夏帆が笑うと、湊も小さく笑った。

 屋台には、かき氷、焼きそば、くじ引き、スーパーボールすくい。どれも特別珍しいものではない。でも、港町の夜と提灯の灯りの中にあるだけで、少し違って見えた。

「かき氷、食べる?」

「浴衣にこぼしそう」

「じゃあ、ラムネ?」

「それなら」

「何味?」

「ラムネに味の種類ある?」

「最近あるよ」

「知らなかった」

「湊くん、祭り初心者?」

「東京でも祭りはある」

「でも?」

「こういう港の祭りは初めて」

「そっか」

 湊の「初めて」が、この町にあることが嬉しかった。

 二人はラムネを買って、広場の端に寄った。ビー玉を押し込む音が小さく鳴る。夏帆は少し苦戦して、湊が横から「押すところ、そこ」と教えてくれた。

「わかっとる」

「でも苦戦してた」

「浴衣やけん」

「関係ある?」

「ある」

 夏帆はそう言って、やっと開いたラムネをひと口飲んだ。

 冷たい炭酸が喉を通っていく。

 湊は、その様子を見て少し笑っていた。

「なに」

「いや」

「また、いや」

「楽しそうだと思って」

「祭りやけんね」

「うん」

 湊の手が、カメラに触れた。

 夏帆は気づいたけれど、何も言わなかった。

 湊は少し迷ったあと、ちゃんとこちらを見た。

「撮ってもいい?」

「私を?」

「うん」

「……変に撮らんでよ」

「変には撮らない」

「ほんと?」

「たぶん」

「たぶんなんや」

「いや、本当に」

「そこは最初から本当にって言ってよ」

 夏帆が言うと、湊は少しだけ笑った。

 カメラを構える前に、もう一度聞くような視線を向けてくる。

 夏帆は小さく頷いた。

 いいよ。

 声にしなくても、たぶん伝わった。

 湊はシャッターを切った。

 正面からではなく、少し斜め。提灯の灯りが横から差し、夏帆の水色の浴衣とラムネの瓶が一緒に写る角度だった。

 撮られる瞬間、夏帆は少し照れた。

 でも嫌ではなかった。

 今度は、夏帆が選んで写る写真だった。

「見せて」

「うん」

 湊がカメラの画面を見せてくれる。

 そこには、自分なのに少し自分ではないような夏帆が写っていた。提灯の灯りのせいか、浴衣のせいか、それとも湊が撮ったからか。

 いつもより、少しだけ大人びて見えた。

「……変じゃない」

「変に撮らないって言った」

「たぶんって言った」

「撤回した」

「うん。綺麗に撮れてる」

「被写体がいいから」

「そういうの、さらっと言わんで」

 言った瞬間、夏帆の顔が熱くなった。

 湊も、少しだけ気まずそうに視線を逸らす。

「……事実だから」

「なおさら言わんで」

「ごめん」

「謝られたら、それはそれで困る」

「難しい」

「難しいね」

 二人は顔を見合わせて、少し笑った。

 そのあと、夏帆は自分のスマホを取り出した。

「湊くんも撮る?」

「俺?」

「うん。いつも撮る側やん」

「撮られるのは慣れてない」

「じゃあ練習」

「練習?」

「そう」

 湊は少し戸惑ったが、結局カメラを下ろして立った。

 夏帆はスマホを構える。

 提灯の明かりの下に立つ湊は、やっぱりこの町の人ではないように見えた。でも、もう完全なよそ者にも見えない。八幡浜の夏の中に、ちゃんと立っている。

「笑って」

「急に言われても」

「じゃあ、そのままで」

「それでいいの?」

「うん。湊くんらしい」

 シャッターを押した。

 画面の中の湊は、少し困ったような顔をしていた。

 でも、その表情が夏帆には好きだった。

「見せて」

「うん」

「……変じゃない?」

「変じゃない」

「本当に?」

「たぶん」

「仕返し?」

「うん」

 湊が小さく笑った。

 祭りの灯りの中で、二人はしばらく屋台を回った。

 くじ引きで小さなキーホルダーを当てたり、子どもたちの太鼓を少し離れて聞いたり、澪子に頼まれて飲み物を運んだりした。町の人に声をかけられ、そのたびに夏帆は少し照れ、湊は丁寧に頭を下げた。

 楽しかった。

 ちゃんと楽しかった。

 でも、その楽しさの奥に、ずっと別の緊張があった。

 あとで話す。

 人が少ないところで。

 その約束が、祭りの灯りの向こうで静かに待っている。

「楽しいね」

 夏帆が言うと、湊は頷いた。

「うん」

「でも」

「うん」

「……あとで、話すんよね」

「うん」

「忘れとるかと思った」

「忘れるわけない」

「……そっか」

 湊の声は静かだった。

 その静けさが、祭りの音の中でかえってはっきり聞こえた。

 夏帆はラムネの瓶を両手で持ったまま、足元を見た。浴衣の裾が風に揺れる。下駄の鼻緒が少しだけ指に当たって痛い。

 祭りの灯りが明るいほど、言葉になる前の沈黙が濃くなった。

「怖い?」

 湊が聞いた。

 夏帆は顔を上げる。

「え?」

「話すこと」

「……ちょっと」

「うん」

「湊くんは?」

「怖い」

「そうなん?」

「うん」

「怖くなさそう」

「そんなことない」

「そっか」

「でも、言わないほうが怖いと思った」

「……うん」

 それは、澪子が朝に言ったことと似ていた。

 言葉は、渡せる時に渡さなければならない。

 明日も似た日は来るけれど、今日と同じ日は来ない。

 夏帆は、湊の横顔を見た。

 この人は、何を言おうとしているのだろう。

 そして自分は、何を返せるのだろう。

 答えはまだわからない。

 でも、もう逃げたくないと思った。

 しばらくして、祭りの中心では太鼓の演奏が始まった。

 人の流れがそちらへ向かい、港の端へ続く道は少しだけ空いた。提灯の灯りはまだ届いているけれど、屋台の明るさからは少し離れている。

 湊が、夏帆を見た。

 言葉はなかった。

 でも、夏帆にはわかった。

 行く?

 そう聞かれた気がした。

 夏帆は小さく頷いた。

 その前に、受付の近くにいる澪子のところへ行く。何も言わずに離れるのは、少し気が引けたからだ。

 澪子は、夏帆の顔を見るなり、何かを察したように目を細めた。

「夏帆」

「なに?」

「行っといで」

「……どこに」

「さあねぇ」

「おばあちゃん」

「帰れんなる前には戻るがよ」

「わかっとる」

「湊くん」

「はい」

「夏帆を泣かせんようにね」

「えっ、おばあちゃん」

「努力します」

「湊くんも真面目に答えんで」

 澪子は楽しそうに笑った。

 けれど、次に夏帆を見た目は、少しだけ優しかった。

「大丈夫。行っといで」

「……うん」

 澪子は何も聞かずに、ただ夏帆を送り出した。

 夏帆と湊は、祭りの中心から少し離れた。

 背中側では、太鼓の音と人の声が重なっている。屋台の明かりも、提灯の灯りもまだ見える。けれど、一歩ずつ歩くたびに、その賑わいは少しずつ遠くなった。

 港の端へ向かう道は、風がよく通った。

 潮の匂いが濃くなる。足元の石畳に、提灯の赤い光が細く伸びている。空には夜が降り始めていて、海は黒に近い青色になっていた。

 夏帆は、湊の隣を歩きながら、自分の心臓の音ばかり気にしていた。

 何を言われるのか。

 何を言うのか。

 ちゃんと聞けるのか。

 ちゃんと返せるのか。

 考えても答えは出ない。

 それでも、隣に湊がいることだけは確かだった。

 防波堤の近くで、湊が立ち止まった。

 祭りの音が、少し遠くなった。

 海の向こうには、灯りがいくつか揺れている。船の明かりか、対岸の町の明かりか、夏帆にはわからなかった。

 湊は海のほうを一度見て、それから夏帆を見た。

「篠原さん」

「うん」

 声が少し震えた気がした。

 湊の手は、カメラには触れていなかった。

 今日は、写真ではない。

 言葉の時間なのだと、夏帆は思った。

「昨日言えなかったこと、言ってもいい?」


お読みいただきありがとうございます。

夏帆と湊の夏を最後まで見守っていただけたら嬉しいです。

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