第22話 帰る日の輪郭
白灯台から戻った翌朝、祖母の家にはいつも通りの朝が来ていた。
台所のほうから、食器が触れ合う小さな音がする。古い家の廊下には、まだ朝の涼しさが薄く残っていた。開け放した窓の向こうでは、蝉がもう鳴き始めている。
夏帆は布団の上で目を開けたまま、しばらく天井を見ていた。
眠れなかったわけではない。
たぶん、眠った。
けれど、眠りの底まで沈みきれなかった気がする。
目を閉じるたびに、白灯台の白が浮かんだ。祖母が壁に触れた指先。帰りの船で見た汐待島。夕暮れの港で、カメラを持ち上げなかった湊の横顔。
写真じゃなくて。
湊は、そう言った。
写真じゃなくて、見ておきたい。
その声を思い出しただけで、胸の奥が少しだけ熱くなる。
夏帆は布団の中で寝返りを打った。畳の匂いと、古い木の匂いと、朝の空気に混ざった麦茶の気配がする。子どもの頃と同じような匂いのはずなのに、昨日から、少し違うものに感じられた。
八幡浜が変わったわけではない。
変わったのは、たぶん自分のほうだ。
「夏帆、起きとるが?」
襖の向こうから、澪子の声がした。
夏帆は慌てて体を起こした。
「起きとるよ」
「朝ごはん、冷めるが」
「うん。今行く」
返事をしてから、夏帆は自分の声が少し上ずっていなかったか気になった。
別に、やましいことはない。
今日は湊と会うだけだ。
昨日、港で「明日」と約束した。ただそれだけ。
ただそれだけのはずなのに、夏帆は布団を畳む手を一度止めた。
明日。
その言葉が、昨日からずっと胸の奥で小さく灯っている。
台所へ行くと、澪子はもう朝食の支度を終えていた。焼いた魚と味噌汁、冷えた麦茶。古い扇風機が首を振りながら、ゆっくり風を送っている。
澪子は昨日の疲れが残っているはずなのに、思ったより顔色がよかった。
完全に元気、というわけではない。
でも、どこか呼吸が楽そうに見えた。
「おばあちゃん、体、大丈夫?」
「大丈夫よ。さすがに足はちょっと疲れとるけどね」
「無理せんでよ」
「昨日はよう歩いたけんねぇ。あんたら若い子についていくんは大変なが」
「ゆっくり歩いたやん」
「それでもよ」
澪子は笑いながら、夏帆の前に茶碗を置いた。
その笑い方に、夏帆は少しだけほっとした。
白灯台へ行く前の澪子の笑顔は、いつもどこか奥にしまっているものがあった。優しくて、やわらかいのに、触れられない箱を抱えているような笑い方だった。
今も、その箱が全部消えたわけではないのだと思う。
けれど、少しだけ蓋が開いた。
中にあったものを、澪子自身が見に行った。
それだけで、祖母の表情は昨日より軽く見えた。
「夏帆、よう眠れたが?」
「うん。たぶん」
「たぶん?」
「……暑かったけん」
「ほんとかねぇ」
澪子は、味噌汁の椀を置きながら、じっと夏帆を見た。
その視線に、夏帆は箸を持つ手を少し止めた。
「ほんと」
「まあ、そういうことにしとこかね」
「なにそれ」
「別に」
澪子は何でもない顔で魚に箸を伸ばした。
夏帆は少しだけ眉を寄せる。
祖母は昔からこういうところがある。
何も聞いていないようで、見ていないようで、ちゃんと見ている。子どもの頃、何か隠し事をした時も、だいたいこの顔をされた気がする。
夏帆は麦茶を飲んで、平静を装った。
「今日は、湊くんと会うんやろ」
麦茶が喉で止まりそうになった。
「え、なんで」
「昨日、港でそんな話しよったやないの」
「聞こえとったん?」
「全部は聞いとらんよ」
「全部は、って」
「聞こえた分だけ」
「それ、どれくらいなん」
「さあねぇ」
澪子は楽しそうに目を細めた。
夏帆は茶碗を持ったまま、視線を逸らす。
「別に、普通に会うだけやし」
「普通にねぇ」
「ほんとに」
「私は何も言うとらんが」
「言っとるみたいな顔しとる」
「年寄りの顔に文句つけたらいけんよ」
「そういう逃げ方するんや」
澪子は小さく笑った。
その笑い声は、昨日、白灯台の下で聞いたものとは違っていた。
軽い。
少しだけ、いたずらっぽい。
夏帆は、それが嬉しかった。嬉しかったけれど、今は少し困る。
「湊くん、ええ子やね」
「うん」
「ちゃんと人の気持ちを待てる子や」
「……うん」
「写真撮る子やけど、何でもかんでも勝手に持っていかん」
「うん」
夏帆は、昨日の帰り道を思い出した。
澪子に「写真、撮ってもいいですか」と聞いた湊。
嫌なら撮らないと言った湊。
そして、澪子が自分で許した後ろ姿の写真。
あれは、晴臣の写真とは違う。
誰かのまなざしに閉じ込められた写真ではなく、澪子が自分で選んだ写真だった。
「おばあちゃん、湊くんのこと、そういうふうに見とったん?」
「そりゃ見るよ」
「いつから?」
「最初から」
「最初から?」
「夏帆が連れてきた時から」
「そんな前から?」
「人を見るんは、年寄りの特技なが」
澪子は味噌汁をひと口飲んで、ゆっくり椀を置いた。
「夏帆」
「なに?」
「大事なことは、自分で言わんといけんがね」
夏帆は、箸を止めた。
台所の音が、ふっと遠くなる。
扇風機の風が首筋を撫でて、蝉の声が窓の外で大きくなった。
「……なにが?」
「さあねぇ」
「またそれ」
「私は、なんも決めつけとらんよ」
「ほんとに?」
「ほんと。けど、言わんかったことは、あとで自分の胸に残るけんね」
「……」
「言わんでいいこともある。でも、言いたいのに言わんかったことは、なかなか消えんがよ」
澪子の声は、穏やかだった。
責めているのではない。
急かしているのでもない。
ただ、自分が知っている痛みを、そっと差し出してくれているようだった。
夏帆は返事ができなかった。
言いたいこと。
自分にそんなものがあると、もう気づき始めている。
でも、それが何なのか、どう言えばいいのか、まだわからない。わからないふりをしたい気持ちもある。
澪子はそれ以上聞かなかった。
ただ、いつも通りに言った。
「ほら、食べんと冷めるが」
「……うん」
夏帆は頷いて、箸を動かした。
味噌汁は、少しだけしょっぱかった。
待ち合わせ場所は、港の近くだった。
第1話の日、湊に声をかけた場所から少し歩いたところ。フェリー乗り場が見えて、海風が通り抜ける道。
夏帆は予定より少し早く家を出た。
別に急いでいるわけではない。
そう自分に言い聞かせながら歩いたけれど、足は自然と速くなった。日差しは強く、アスファルトの上には夏の熱がじわじわと浮かんでいる。遠くから船の音が聞こえ、潮の匂いが風に混ざって流れてきた。
子どもの頃、この道を走った記憶がある。
祖母に呼ばれても、港のほうへ行きたくて、振り返らずに走った。怒られて、手を引かれて帰ったこともあった。
今は走らない。
でも、歩く速度はたぶん少し速い。
夏帆はそれに気づいて、ひとりで少し恥ずかしくなった。
湊は、もう来ていた。
港の柵の近くに立っている。白いシャツに、いつものカメラ。今日は地図アプリを見ていなかった。古い写真も持っていない。ただ海のほうを見て、夏帆が近づく気配に気づくと、顔を上げた。
その瞬間、夏帆の足が少しだけ速くなった。
湊を見つけた瞬間、夏帆は自分の足が少しだけ速くなるのを感じた。
「待った?」
「少し」
「早く来すぎた?」
「俺が早かっただけ」
「また地図見とった?」
「今日は見てない」
「ほんと?」
「今日は迷ってない」
「成長したね」
「……どうも」
湊は、少しだけ不満そうに返した。
その顔を見て、夏帆は笑ってしまった。
昨日の夕暮れの港では、いろんな言葉が胸に引っかかって、うまく息ができないような気がした。けれど、こうしていつもみたいに話せると、少しだけ安心する。
それでも、前と同じではない。
同じ冗談を言っても、言葉の間に何かがある。
まだ名前をつけていないものが、二人のあいだに静かに座っている。
「どこ行く?」
「篠原さんが歩きたいところ」
「それ、困るやつ」
「じゃあ、港から少し町のほう?」
「うん。暑いけど」
「無理しないで」
「それ、湊くんもね」
二人は港沿いを歩き始めた。
海は昼の光を反射して白く光っている。夕暮れの海とはまったく違う。眩しくて、少し目を細めないと見ていられないくらいだった。
湊は、しばらく黙って歩いた。
その沈黙に、夏帆は少しだけ身構えた。
何かを言おうとしている。
昨日、港で「言うかどうか考えてた」と言った時と同じ気配がした。
「帰る日、決まった」
湊が言った。
夏帆は息を止めた。
「……いつ?」
「夏祭りの翌日」
「そっか」
「祭りまではいる」
「うん」
「でも、その次の日には東京に戻る」
「……うん」
ちゃんと返事をしたつもりだった。
けれど、自分の声が少し遠く聞こえた。
夏祭りの翌日。
それは、まだ少し先のようで、もうすぐそこだった。
祖母の家の片付けも、祭りの手伝いも、汐待島の約束も、全部が夏の中にあった。湊と出会ってからの時間は濃すぎて、何日経ったのかときどきわからなくなる。
でも、日付を言われると、急に輪郭がはっきりした。
湊が東京へ帰る日。
それは、いつかではなく、夏祭りの翌日。
終わりは、急に来るのではなく、日付を持って近づいてきた。
「最初から、そのくらいの予定やったん?」
「本当は、もっと早く戻るつもりだった」
「そうなん?」
「うん。祖父の写真の場所がわかったら、それで終わりだと思ってた」
「……そっか」
「でも、終わらなかった」
「うん」
「写真の場所だけじゃなくて、いろんなものが出てきたから」
「うん」
湊は、少しだけ海のほうを見た。
「夏祭りまでは、見届けたいと思った」
「祭り?」
「うん。澪子さんが手伝ってる祭りだし、篠原さんもいるから」
「……うん」
「それに、汐待島のことも、まだ少し見ておきたい」
「そっか」
夏帆は頷いた。
祭りまではいる。
その言葉に少しほっとしている自分がいた。
でも、その次の日には帰る。
ほっとしたぶんだけ、寂しさもはっきりした。
「私も、祭りが終わったら松山戻ると思う」
「そうなんだ」
「うん。片付け手伝って、それから」
「寂しい?」
「……八幡浜を離れるのが?」
「うん」
「前は、そんなに思わんかった」
「今は?」
「今は、ちょっと寂しい」
言ってから、夏帆は唇を結んだ。
正直に言いすぎたかもしれない。
湊がこちらを見る気配がした。視線を感じるのに、夏帆はすぐには見返せなかった。
「俺も、少し寂しい」
「湊くんが?」
「うん」
「東京の子なのに」
「東京の子でも、寂しいものは寂しいと思う」
「……そうやね」
夏帆は小さく笑った。
八幡浜を離れるのが寂しいのか、湊と離れるのが寂しいのか、夏帆にはまだうまく分けられなかった。
港から少し離れると、町の音が近づいてきた。
商店街のほうから、人の話し声がする。店先ののれんが風に揺れ、古い看板の影が道に落ちていた。夏の昼下がりの町は、どこかのんびりしているのに、祭りの前だからか少しだけ浮き足立っている。
提灯の準備をしている人がいて、遠くで誰かが脚立を押さえていた。
澪子の家へ来るたびに見ていたはずの町なのに、湊と歩くと、知らない場所みたいに見える。
「ここ、昔よく通った気がする」
夏帆が言うと、湊が隣で首を傾げた。
「気がする?」
「小さい頃やけん、記憶がぼんやりしとる」
「でも、覚えてる」
「うん。匂いとか、坂の感じとか」
「写真より強い記憶かも」
「湊くんがそれ言うんや」
「最近、そう思うことが増えた」
湊は、首から下げたカメラに軽く触れた。
でも、すぐには構えない。
「写真は、見たものを残せる」
「うん」
「でも、匂いとか、暑さとか、歩いた時の感じまでは全部残らない」
「そうやね」
「だから、篠原さんが覚えてるものは、写真より強いのかもしれない」
夏帆は、少し驚いて湊を見た。
「なんか、写真好きの人とは思えん台詞」
「写真が嫌いになったわけじゃない」
「うん」
「でも、写真だけじゃ足りないことはあると思うようになった」
「それ、晴臣さんの写真見つけたから?」
「それもある」
「うん」
「あと、篠原さんと歩いたから」
夏帆は、返事をしようとして失敗した。
言葉が喉の手前で止まる。
湊は何気なく言ったのかもしれない。けれど、夏帆には何気なく受け取れなかった。
湊と歩くと、昔の場所が、少しずつ今の景色になっていった。
坂道を上る途中、夏帆は古い駄菓子屋の前で足を止めた。
「ここ、まだあるんや」
「来たことあるの?」
「たぶん。小さい頃、おばあちゃんに連れてきてもらった」
「たぶんが多い」
「昔やけん」
「何買ってた?」
「覚えてない。けど、なんか、赤いゼリーみたいなの」
「それは曖昧すぎる」
「子どもの記憶ってそんなものやけん」
湊が小さく笑った。
それだけで、夏帆は胸の奥がやわらかくなる。
こんなふうに、なんでもない話をしている時間が好きだと思った。
汐待島の謎を追っている時でもなく、祖母の過去を聞いている時でもなく、ただ八幡浜の町を二人で歩いている時間。
特別なことは何も起きていない。
それなのに、ずっと覚えていたい。
「撮る?」
夏帆が聞くと、湊は少し考えてからカメラを持ち上げた。
「店の外だけ」
「うん」
「人が入らないように」
「律儀やね」
「勝手に撮るのは違う気がするから」
「うん」
湊は一枚だけ撮った。
シャッター音は小さかった。
その音を聞いて、夏帆は晴臣の写真を思い出した。若い澪子の後ろ姿。白灯台。約束の浜。撮った人の気持ちと、撮られた人の知らなかった時間。
写真は残る。
でも、残るからこそ、そこにある気持ちを確かめたくなる。
「写真って、便利だよね」
夏帆が言うと、湊がカメラを下ろした。
「急に?」
「言葉にしなくても、残せるけん」
「うん」
「でも、気持ちは写真だけじゃ伝わらない時がある」
「……うん」
「湊くんが言うと、重いね」
「最近、痛感してる」
「私も」
夏帆は、古い店先の影を見つめた。
晴臣は写真を残した。
手紙も残した。
けれど、澪子には届かなかった。
届かなかったものは、何十年も胸の奥に置かれたままだった。
もし晴臣があの日、船が出なかった理由を伝えられていたら。
もし澪子が、どうして来なかったのか聞けていたら。
もし、二人のあいだに言葉が届いていたら。
考えても仕方ないことばかりなのに、考えてしまう。
そして、それはもう祖父母だけの話ではなくなっていた。
写真に残せるものと、言葉にしなければ届かないものがある。
「言葉にするの、怖い時あるよね」
夏帆が言うと、湊は静かに頷いた。
「ある」
「湊くんも?」
「ある」
「写真のほうが楽?」
「うん」
「やっぱり」
「写真なら、これを見てほしいって出せる」
「うん」
「でも、どう思って撮ったかは、言わないと伝わらない」
「うん」
「言わなくても伝わる時もあるけど、それに頼りすぎるのは怖い」
「……そうやね」
夏帆は、湊の横顔を見た。
この人は、最初に会った時よりずっと、言葉を選ぶようになった気がする。
もともと静かな人だった。
でも今の静けさは、黙っているだけではない。言葉にしようとして、何をどう渡せばいいか考えている静けさだ。
そのことが、夏帆には少し嬉しかった。
同時に、苦しかった。
自分も言わなければならないことがある気がする。
でも、まだ形にならない。
夏帆は、少しだけ歩調を緩めた。
「東京に帰っても」
声に出してから、心臓が跳ねた。
湊がこちらを見る。
「うん」
「連絡してもいい?」
「もちろん」
「ほんと?」
「うん。してほしい」
その返事は、すぐだった。
迷いがなかった。
だからこそ、夏帆は胸をつかまれたような気持ちになった。
「してほしい」
言われただけなのに、顔が熱くなる。
夏帆は慌てて視線を逸らした。
「……うん」
「俺も連絡する」
「うん」
「写真、送ってもいい?」
「うん。見たい」
「八幡浜の写真も、汐待島の写真も」
「うん」
「澪子さんにも、後ろ姿の写真、ちゃんと渡したい」
「喜ぶと思う」
「ならよかった」
普通の会話だ。
連絡する。
写真を送る。
今の時代なら、当たり前のこと。
それなのに、夏帆にはその約束がとても大事なものに思えた。
連絡してもいい。
してほしい。
それだけで、遠く離れても全部が終わるわけではないのだと思える。
でも、同時に、それだけでは足りない気もしていた。
連絡できることと、言いたいことを言えることは同じではない。
「篠原さん」
湊が立ち止まった。
夏帆も足を止める。
そこは、商店街から少し外れた坂道の途中だった。海は建物の隙間から少しだけ見える。遠くで祭りの準備をする音がして、提灯の赤が風に揺れていた。
「なに?」
「俺も、篠原さんに」
湊の声が、そこで止まった。
夏帆は、続きを待った。
でも、湊はすぐには言わなかった。
喉の奥で言葉を探しているように見えた。いつもの落ち着いた顔ではなく、少しだけ迷っている顔。
「……いや」
「なに?」
「夏祭りの日、少し時間もらえる?」
「うん」
「人が少ないところで、話したい」
「……うん」
返事をしながら、夏帆の胸は大きく鳴っていた。
何を言おうとしたのか。
今、飲み込んだ言葉は何だったのか。
聞きたい。
でも聞けない。
聞いてしまったら、夏祭りの日まで待てなくなる気がした。
湊が飲み込んだ言葉の先を、夏帆は聞けなかった。
「祭りの日って、たぶん人多いよ」
「うん」
「手伝いもあるし」
「邪魔しない」
「それは大丈夫やけど」
「少しでいい」
「……うん。わかった」
「ありがとう」
湊は、少しだけほっとしたように見えた。
その表情を見て、夏帆は余計に落ち着かなくなった。
夏祭りの日。
人が少ないところで、話したい。
それは何の話だろう。
祖父母のこと。
写真のこと。
東京へ帰る前の挨拶。
いくらでも理由は考えられる。
でも、夏帆の胸は、それだけではないと勝手に思ってしまう。
期待してはいけない。
そう思うのに、期待してしまう。
自分も、湊に言いたいことがある。
でも、その言葉はまだ胸の奥で揺れているだけで、形にならない。
二人はまた歩き出した。
町の中には、少しずつ祭りの気配が増えていた。店先に張られた紙。提灯。準備をする大人たちの声。子どもたちがはしゃぎながら走っていく音。
八幡浜の夏は、終わりに向かっているのではなく、これから一番賑やかな日を迎えるのだと思う。
けれど夏帆には、その賑やかさの向こうに、別れの日が見え始めていた。
夏祭り。
その翌日。
湊は東京へ帰る。
夏帆も、祭りの片付けが終われば松山へ戻る。
また会えるかもしれない。
連絡もできる。
それでも、この夏の二人は、もう二度と同じ形では戻ってこない。
「あと何日かな」
夏帆が小さく呟いた。
湊が隣を見る。
「帰る日まで?」
「うん」
「数えないほうがいいかもしれない」
「なんで?」
「少なく感じるから」
「もう感じてる」
「……俺も」
湊の声も、少しだけ寂しそうだった。
夏帆はそれに気づいて、胸の奥がきゅっとなった。
「湊くん」
「うん」
「夏祭り、ちゃんと楽しもうね」
「うん」
「最後みたいに言うの、嫌やけど」
「うん」
「でも、ちゃんと覚えてたい」
「俺も」
「写真、撮る?」
「撮ると思う」
「今度は撮るんや」
「うん。でも、撮るだけじゃなくて見る」
「うん」
「篠原さんと」
「……うん」
最後の一言が、少しだけ小さくなった。
夏帆は返事をしたけれど、喉の奥が熱かった。
篠原さんと。
たったそれだけの言葉が、どうしてこんなに胸に残るのだろう。
夕方が近づいてきた。
昼間の熱はまだ道に残っているのに、空の色は少しずつやわらかくなっている。港へ戻る道の向こうに、海が見えた。昨日の夕暮れほど赤くはないけれど、水面は少しだけ光を含んで揺れている。
夏帆は、もう一度湊を見た。
湊は、海のほうを見ていた。
横顔は静かだった。
けれど、その静けさの奥にも、何か言葉にならないものがある気がした。
夏帆は思う。
祖母の夏は、白灯台から少しずつ帰ってきた。
晴臣の写真も、手紙も、遅すぎたかもしれないけれど、届いた。
では、自分たちはどうするのだろう。
届く手段はある。
スマホもある。
船が止まっても、手紙が届かなくても、完全に途切れるわけではない。
でも、言葉にしなければ届かないものがある。
それを知ってしまった。
知ってしまったから、もう知らなかった頃には戻れない。
「じゃあ、夏祭りの日」
港近くで立ち止まった湊が言った。
「うん」
「また連絡する」
「私もする」
「うん」
「……してほしいんやろ?」
「うん。してほしい」
また同じ言葉を言われて、夏帆は困ったように笑った。
「湊くん、そういうの普通に言うよね」
「そういうの?」
「いや、いい」
「何?」
「言わん」
「気になる」
「言わん」
「……じゃあ、夏祭りの日に聞く」
「え」
「話す時間、もらえるんだよね」
「それはそうやけど」
「じゃあ、その時に」
「ずるい」
「そうかな」
「そうよ」
言いながら、二人で少し笑った。
その笑い声が、夕方の港に小さく溶けていく。
別れ際の沈黙は、昨日より少しだけやわらかかった。
でも、昨日より少しだけ苦しかった。
湊は手を振って、宿のほうへ歩いていった。夏帆はその背中を見送る。昨日、澪子を乗せたタクシーを見送った時とは違う気持ちだった。
祖母を見送った時は、ほどけていくものを感じた。
今は、これから言葉にしなければならないものが、胸の奥で静かに形を持ち始めていた。
湊が角を曲がって見えなくなる。
夏帆はしばらくその場に立っていた。
町のほうから、祭りの準備をする音が聞こえる。提灯が揺れて、夕暮れの光の中で小さく赤く灯っているように見えた。
湊が東京へ帰る日まで、あと少し。
夏祭りの日に、話したいことがある。
その約束だけが、夕暮れの町の中で、夏帆の胸に小さく灯っていた。




