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汐待島で、君と夏を渡る  作者: 碓氷さゆ


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22/27

第22話 帰る日の輪郭

 白灯台から戻った翌朝、祖母の家にはいつも通りの朝が来ていた。

 台所のほうから、食器が触れ合う小さな音がする。古い家の廊下には、まだ朝の涼しさが薄く残っていた。開け放した窓の向こうでは、蝉がもう鳴き始めている。

 夏帆は布団の上で目を開けたまま、しばらく天井を見ていた。

 眠れなかったわけではない。

 たぶん、眠った。

 けれど、眠りの底まで沈みきれなかった気がする。

 目を閉じるたびに、白灯台の白が浮かんだ。祖母が壁に触れた指先。帰りの船で見た汐待島。夕暮れの港で、カメラを持ち上げなかった湊の横顔。

 写真じゃなくて。

 湊は、そう言った。

 写真じゃなくて、見ておきたい。

 その声を思い出しただけで、胸の奥が少しだけ熱くなる。

 夏帆は布団の中で寝返りを打った。畳の匂いと、古い木の匂いと、朝の空気に混ざった麦茶の気配がする。子どもの頃と同じような匂いのはずなのに、昨日から、少し違うものに感じられた。

 八幡浜が変わったわけではない。

 変わったのは、たぶん自分のほうだ。

「夏帆、起きとるが?」

 襖の向こうから、澪子の声がした。

 夏帆は慌てて体を起こした。

「起きとるよ」

「朝ごはん、冷めるが」

「うん。今行く」

 返事をしてから、夏帆は自分の声が少し上ずっていなかったか気になった。

 別に、やましいことはない。

 今日は湊と会うだけだ。

 昨日、港で「明日」と約束した。ただそれだけ。

 ただそれだけのはずなのに、夏帆は布団を畳む手を一度止めた。

 明日。

 その言葉が、昨日からずっと胸の奥で小さく灯っている。

 台所へ行くと、澪子はもう朝食の支度を終えていた。焼いた魚と味噌汁、冷えた麦茶。古い扇風機が首を振りながら、ゆっくり風を送っている。

 澪子は昨日の疲れが残っているはずなのに、思ったより顔色がよかった。

 完全に元気、というわけではない。

 でも、どこか呼吸が楽そうに見えた。

「おばあちゃん、体、大丈夫?」

「大丈夫よ。さすがに足はちょっと疲れとるけどね」

「無理せんでよ」

「昨日はよう歩いたけんねぇ。あんたら若い子についていくんは大変なが」

「ゆっくり歩いたやん」

「それでもよ」

 澪子は笑いながら、夏帆の前に茶碗を置いた。

 その笑い方に、夏帆は少しだけほっとした。

 白灯台へ行く前の澪子の笑顔は、いつもどこか奥にしまっているものがあった。優しくて、やわらかいのに、触れられない箱を抱えているような笑い方だった。

 今も、その箱が全部消えたわけではないのだと思う。

 けれど、少しだけ蓋が開いた。

 中にあったものを、澪子自身が見に行った。

 それだけで、祖母の表情は昨日より軽く見えた。

「夏帆、よう眠れたが?」

「うん。たぶん」

「たぶん?」

「……暑かったけん」

「ほんとかねぇ」

 澪子は、味噌汁の椀を置きながら、じっと夏帆を見た。

 その視線に、夏帆は箸を持つ手を少し止めた。

「ほんと」

「まあ、そういうことにしとこかね」

「なにそれ」

「別に」

 澪子は何でもない顔で魚に箸を伸ばした。

 夏帆は少しだけ眉を寄せる。

 祖母は昔からこういうところがある。

 何も聞いていないようで、見ていないようで、ちゃんと見ている。子どもの頃、何か隠し事をした時も、だいたいこの顔をされた気がする。

 夏帆は麦茶を飲んで、平静を装った。

「今日は、湊くんと会うんやろ」

 麦茶が喉で止まりそうになった。

「え、なんで」

「昨日、港でそんな話しよったやないの」

「聞こえとったん?」

「全部は聞いとらんよ」

「全部は、って」

「聞こえた分だけ」

「それ、どれくらいなん」

「さあねぇ」

 澪子は楽しそうに目を細めた。

 夏帆は茶碗を持ったまま、視線を逸らす。

「別に、普通に会うだけやし」

「普通にねぇ」

「ほんとに」

「私は何も言うとらんが」

「言っとるみたいな顔しとる」

「年寄りの顔に文句つけたらいけんよ」

「そういう逃げ方するんや」

 澪子は小さく笑った。

 その笑い声は、昨日、白灯台の下で聞いたものとは違っていた。

 軽い。

 少しだけ、いたずらっぽい。

 夏帆は、それが嬉しかった。嬉しかったけれど、今は少し困る。

「湊くん、ええ子やね」

「うん」

「ちゃんと人の気持ちを待てる子や」

「……うん」

「写真撮る子やけど、何でもかんでも勝手に持っていかん」

「うん」

 夏帆は、昨日の帰り道を思い出した。

 澪子に「写真、撮ってもいいですか」と聞いた湊。

 嫌なら撮らないと言った湊。

 そして、澪子が自分で許した後ろ姿の写真。

 あれは、晴臣の写真とは違う。

 誰かのまなざしに閉じ込められた写真ではなく、澪子が自分で選んだ写真だった。

「おばあちゃん、湊くんのこと、そういうふうに見とったん?」

「そりゃ見るよ」

「いつから?」

「最初から」

「最初から?」

「夏帆が連れてきた時から」

「そんな前から?」

「人を見るんは、年寄りの特技なが」

 澪子は味噌汁をひと口飲んで、ゆっくり椀を置いた。

「夏帆」

「なに?」

「大事なことは、自分で言わんといけんがね」

 夏帆は、箸を止めた。

 台所の音が、ふっと遠くなる。

 扇風機の風が首筋を撫でて、蝉の声が窓の外で大きくなった。

「……なにが?」

「さあねぇ」

「またそれ」

「私は、なんも決めつけとらんよ」

「ほんとに?」

「ほんと。けど、言わんかったことは、あとで自分の胸に残るけんね」

「……」

「言わんでいいこともある。でも、言いたいのに言わんかったことは、なかなか消えんがよ」

 澪子の声は、穏やかだった。

 責めているのではない。

 急かしているのでもない。

 ただ、自分が知っている痛みを、そっと差し出してくれているようだった。

 夏帆は返事ができなかった。

 言いたいこと。

 自分にそんなものがあると、もう気づき始めている。

 でも、それが何なのか、どう言えばいいのか、まだわからない。わからないふりをしたい気持ちもある。

 澪子はそれ以上聞かなかった。

 ただ、いつも通りに言った。

「ほら、食べんと冷めるが」

「……うん」

 夏帆は頷いて、箸を動かした。

 味噌汁は、少しだけしょっぱかった。

 待ち合わせ場所は、港の近くだった。

 第1話の日、湊に声をかけた場所から少し歩いたところ。フェリー乗り場が見えて、海風が通り抜ける道。

 夏帆は予定より少し早く家を出た。

 別に急いでいるわけではない。

 そう自分に言い聞かせながら歩いたけれど、足は自然と速くなった。日差しは強く、アスファルトの上には夏の熱がじわじわと浮かんでいる。遠くから船の音が聞こえ、潮の匂いが風に混ざって流れてきた。

 子どもの頃、この道を走った記憶がある。

 祖母に呼ばれても、港のほうへ行きたくて、振り返らずに走った。怒られて、手を引かれて帰ったこともあった。

 今は走らない。

 でも、歩く速度はたぶん少し速い。

 夏帆はそれに気づいて、ひとりで少し恥ずかしくなった。

 湊は、もう来ていた。

 港の柵の近くに立っている。白いシャツに、いつものカメラ。今日は地図アプリを見ていなかった。古い写真も持っていない。ただ海のほうを見て、夏帆が近づく気配に気づくと、顔を上げた。

 その瞬間、夏帆の足が少しだけ速くなった。

 湊を見つけた瞬間、夏帆は自分の足が少しだけ速くなるのを感じた。

「待った?」

「少し」

「早く来すぎた?」

「俺が早かっただけ」

「また地図見とった?」

「今日は見てない」

「ほんと?」

「今日は迷ってない」

「成長したね」

「……どうも」

 湊は、少しだけ不満そうに返した。

 その顔を見て、夏帆は笑ってしまった。

 昨日の夕暮れの港では、いろんな言葉が胸に引っかかって、うまく息ができないような気がした。けれど、こうしていつもみたいに話せると、少しだけ安心する。

 それでも、前と同じではない。

 同じ冗談を言っても、言葉の間に何かがある。

 まだ名前をつけていないものが、二人のあいだに静かに座っている。

「どこ行く?」

「篠原さんが歩きたいところ」

「それ、困るやつ」

「じゃあ、港から少し町のほう?」

「うん。暑いけど」

「無理しないで」

「それ、湊くんもね」

 二人は港沿いを歩き始めた。

 海は昼の光を反射して白く光っている。夕暮れの海とはまったく違う。眩しくて、少し目を細めないと見ていられないくらいだった。

 湊は、しばらく黙って歩いた。

 その沈黙に、夏帆は少しだけ身構えた。

 何かを言おうとしている。

 昨日、港で「言うかどうか考えてた」と言った時と同じ気配がした。

「帰る日、決まった」

 湊が言った。

 夏帆は息を止めた。

「……いつ?」

「夏祭りの翌日」

「そっか」

「祭りまではいる」

「うん」

「でも、その次の日には東京に戻る」

「……うん」

 ちゃんと返事をしたつもりだった。

 けれど、自分の声が少し遠く聞こえた。

 夏祭りの翌日。

 それは、まだ少し先のようで、もうすぐそこだった。

 祖母の家の片付けも、祭りの手伝いも、汐待島の約束も、全部が夏の中にあった。湊と出会ってからの時間は濃すぎて、何日経ったのかときどきわからなくなる。

 でも、日付を言われると、急に輪郭がはっきりした。

 湊が東京へ帰る日。

 それは、いつかではなく、夏祭りの翌日。

 終わりは、急に来るのではなく、日付を持って近づいてきた。

「最初から、そのくらいの予定やったん?」

「本当は、もっと早く戻るつもりだった」

「そうなん?」

「うん。祖父の写真の場所がわかったら、それで終わりだと思ってた」

「……そっか」

「でも、終わらなかった」

「うん」

「写真の場所だけじゃなくて、いろんなものが出てきたから」

「うん」

 湊は、少しだけ海のほうを見た。

「夏祭りまでは、見届けたいと思った」

「祭り?」

「うん。澪子さんが手伝ってる祭りだし、篠原さんもいるから」

「……うん」

「それに、汐待島のことも、まだ少し見ておきたい」

「そっか」

 夏帆は頷いた。

 祭りまではいる。

 その言葉に少しほっとしている自分がいた。

 でも、その次の日には帰る。

 ほっとしたぶんだけ、寂しさもはっきりした。

「私も、祭りが終わったら松山戻ると思う」

「そうなんだ」

「うん。片付け手伝って、それから」

「寂しい?」

「……八幡浜を離れるのが?」

「うん」

「前は、そんなに思わんかった」

「今は?」

「今は、ちょっと寂しい」

 言ってから、夏帆は唇を結んだ。

 正直に言いすぎたかもしれない。

 湊がこちらを見る気配がした。視線を感じるのに、夏帆はすぐには見返せなかった。

「俺も、少し寂しい」

「湊くんが?」

「うん」

「東京の子なのに」

「東京の子でも、寂しいものは寂しいと思う」

「……そうやね」

 夏帆は小さく笑った。

 八幡浜を離れるのが寂しいのか、湊と離れるのが寂しいのか、夏帆にはまだうまく分けられなかった。

 港から少し離れると、町の音が近づいてきた。

 商店街のほうから、人の話し声がする。店先ののれんが風に揺れ、古い看板の影が道に落ちていた。夏の昼下がりの町は、どこかのんびりしているのに、祭りの前だからか少しだけ浮き足立っている。

 提灯の準備をしている人がいて、遠くで誰かが脚立を押さえていた。

 澪子の家へ来るたびに見ていたはずの町なのに、湊と歩くと、知らない場所みたいに見える。

「ここ、昔よく通った気がする」

 夏帆が言うと、湊が隣で首を傾げた。

「気がする?」

「小さい頃やけん、記憶がぼんやりしとる」

「でも、覚えてる」

「うん。匂いとか、坂の感じとか」

「写真より強い記憶かも」

「湊くんがそれ言うんや」

「最近、そう思うことが増えた」

 湊は、首から下げたカメラに軽く触れた。

 でも、すぐには構えない。

「写真は、見たものを残せる」

「うん」

「でも、匂いとか、暑さとか、歩いた時の感じまでは全部残らない」

「そうやね」

「だから、篠原さんが覚えてるものは、写真より強いのかもしれない」

 夏帆は、少し驚いて湊を見た。

「なんか、写真好きの人とは思えん台詞」

「写真が嫌いになったわけじゃない」

「うん」

「でも、写真だけじゃ足りないことはあると思うようになった」

「それ、晴臣さんの写真見つけたから?」

「それもある」

「うん」

「あと、篠原さんと歩いたから」

 夏帆は、返事をしようとして失敗した。

 言葉が喉の手前で止まる。

 湊は何気なく言ったのかもしれない。けれど、夏帆には何気なく受け取れなかった。

 湊と歩くと、昔の場所が、少しずつ今の景色になっていった。

 坂道を上る途中、夏帆は古い駄菓子屋の前で足を止めた。

「ここ、まだあるんや」

「来たことあるの?」

「たぶん。小さい頃、おばあちゃんに連れてきてもらった」

「たぶんが多い」

「昔やけん」

「何買ってた?」

「覚えてない。けど、なんか、赤いゼリーみたいなの」

「それは曖昧すぎる」

「子どもの記憶ってそんなものやけん」

 湊が小さく笑った。

 それだけで、夏帆は胸の奥がやわらかくなる。

 こんなふうに、なんでもない話をしている時間が好きだと思った。

 汐待島の謎を追っている時でもなく、祖母の過去を聞いている時でもなく、ただ八幡浜の町を二人で歩いている時間。

 特別なことは何も起きていない。

 それなのに、ずっと覚えていたい。

「撮る?」

 夏帆が聞くと、湊は少し考えてからカメラを持ち上げた。

「店の外だけ」

「うん」

「人が入らないように」

「律儀やね」

「勝手に撮るのは違う気がするから」

「うん」

 湊は一枚だけ撮った。

 シャッター音は小さかった。

 その音を聞いて、夏帆は晴臣の写真を思い出した。若い澪子の後ろ姿。白灯台。約束の浜。撮った人の気持ちと、撮られた人の知らなかった時間。

 写真は残る。

 でも、残るからこそ、そこにある気持ちを確かめたくなる。

「写真って、便利だよね」

 夏帆が言うと、湊がカメラを下ろした。

「急に?」

「言葉にしなくても、残せるけん」

「うん」

「でも、気持ちは写真だけじゃ伝わらない時がある」

「……うん」

「湊くんが言うと、重いね」

「最近、痛感してる」

「私も」

 夏帆は、古い店先の影を見つめた。

 晴臣は写真を残した。

 手紙も残した。

 けれど、澪子には届かなかった。

 届かなかったものは、何十年も胸の奥に置かれたままだった。

 もし晴臣があの日、船が出なかった理由を伝えられていたら。

 もし澪子が、どうして来なかったのか聞けていたら。

 もし、二人のあいだに言葉が届いていたら。

 考えても仕方ないことばかりなのに、考えてしまう。

 そして、それはもう祖父母だけの話ではなくなっていた。

 写真に残せるものと、言葉にしなければ届かないものがある。

「言葉にするの、怖い時あるよね」

 夏帆が言うと、湊は静かに頷いた。

「ある」

「湊くんも?」

「ある」

「写真のほうが楽?」

「うん」

「やっぱり」

「写真なら、これを見てほしいって出せる」

「うん」

「でも、どう思って撮ったかは、言わないと伝わらない」

「うん」

「言わなくても伝わる時もあるけど、それに頼りすぎるのは怖い」

「……そうやね」

 夏帆は、湊の横顔を見た。

 この人は、最初に会った時よりずっと、言葉を選ぶようになった気がする。

 もともと静かな人だった。

 でも今の静けさは、黙っているだけではない。言葉にしようとして、何をどう渡せばいいか考えている静けさだ。

 そのことが、夏帆には少し嬉しかった。

 同時に、苦しかった。

 自分も言わなければならないことがある気がする。

 でも、まだ形にならない。

 夏帆は、少しだけ歩調を緩めた。

「東京に帰っても」

 声に出してから、心臓が跳ねた。

 湊がこちらを見る。

「うん」

「連絡してもいい?」

「もちろん」

「ほんと?」

「うん。してほしい」

 その返事は、すぐだった。

 迷いがなかった。

 だからこそ、夏帆は胸をつかまれたような気持ちになった。

「してほしい」

 言われただけなのに、顔が熱くなる。

 夏帆は慌てて視線を逸らした。

「……うん」

「俺も連絡する」

「うん」

「写真、送ってもいい?」

「うん。見たい」

「八幡浜の写真も、汐待島の写真も」

「うん」

「澪子さんにも、後ろ姿の写真、ちゃんと渡したい」

「喜ぶと思う」

「ならよかった」

 普通の会話だ。

 連絡する。

 写真を送る。

 今の時代なら、当たり前のこと。

 それなのに、夏帆にはその約束がとても大事なものに思えた。

 連絡してもいい。

 してほしい。

 それだけで、遠く離れても全部が終わるわけではないのだと思える。

 でも、同時に、それだけでは足りない気もしていた。

 連絡できることと、言いたいことを言えることは同じではない。

「篠原さん」

 湊が立ち止まった。

 夏帆も足を止める。

 そこは、商店街から少し外れた坂道の途中だった。海は建物の隙間から少しだけ見える。遠くで祭りの準備をする音がして、提灯の赤が風に揺れていた。

「なに?」

「俺も、篠原さんに」

 湊の声が、そこで止まった。

 夏帆は、続きを待った。

 でも、湊はすぐには言わなかった。

 喉の奥で言葉を探しているように見えた。いつもの落ち着いた顔ではなく、少しだけ迷っている顔。

「……いや」

「なに?」

「夏祭りの日、少し時間もらえる?」

「うん」

「人が少ないところで、話したい」

「……うん」

 返事をしながら、夏帆の胸は大きく鳴っていた。

 何を言おうとしたのか。

 今、飲み込んだ言葉は何だったのか。

 聞きたい。

 でも聞けない。

 聞いてしまったら、夏祭りの日まで待てなくなる気がした。

 湊が飲み込んだ言葉の先を、夏帆は聞けなかった。

「祭りの日って、たぶん人多いよ」

「うん」

「手伝いもあるし」

「邪魔しない」

「それは大丈夫やけど」

「少しでいい」

「……うん。わかった」

「ありがとう」

 湊は、少しだけほっとしたように見えた。

 その表情を見て、夏帆は余計に落ち着かなくなった。

 夏祭りの日。

 人が少ないところで、話したい。

 それは何の話だろう。

 祖父母のこと。

 写真のこと。

 東京へ帰る前の挨拶。

 いくらでも理由は考えられる。

 でも、夏帆の胸は、それだけではないと勝手に思ってしまう。

 期待してはいけない。

 そう思うのに、期待してしまう。

 自分も、湊に言いたいことがある。

 でも、その言葉はまだ胸の奥で揺れているだけで、形にならない。

 二人はまた歩き出した。

 町の中には、少しずつ祭りの気配が増えていた。店先に張られた紙。提灯。準備をする大人たちの声。子どもたちがはしゃぎながら走っていく音。

 八幡浜の夏は、終わりに向かっているのではなく、これから一番賑やかな日を迎えるのだと思う。

 けれど夏帆には、その賑やかさの向こうに、別れの日が見え始めていた。

 夏祭り。

 その翌日。

 湊は東京へ帰る。

 夏帆も、祭りの片付けが終われば松山へ戻る。

 また会えるかもしれない。

 連絡もできる。

 それでも、この夏の二人は、もう二度と同じ形では戻ってこない。

「あと何日かな」

 夏帆が小さく呟いた。

 湊が隣を見る。

「帰る日まで?」

「うん」

「数えないほうがいいかもしれない」

「なんで?」

「少なく感じるから」

「もう感じてる」

「……俺も」

 湊の声も、少しだけ寂しそうだった。

 夏帆はそれに気づいて、胸の奥がきゅっとなった。

「湊くん」

「うん」

「夏祭り、ちゃんと楽しもうね」

「うん」

「最後みたいに言うの、嫌やけど」

「うん」

「でも、ちゃんと覚えてたい」

「俺も」

「写真、撮る?」

「撮ると思う」

「今度は撮るんや」

「うん。でも、撮るだけじゃなくて見る」

「うん」

「篠原さんと」

「……うん」

 最後の一言が、少しだけ小さくなった。

 夏帆は返事をしたけれど、喉の奥が熱かった。

 篠原さんと。

 たったそれだけの言葉が、どうしてこんなに胸に残るのだろう。

 夕方が近づいてきた。

 昼間の熱はまだ道に残っているのに、空の色は少しずつやわらかくなっている。港へ戻る道の向こうに、海が見えた。昨日の夕暮れほど赤くはないけれど、水面は少しだけ光を含んで揺れている。

 夏帆は、もう一度湊を見た。

 湊は、海のほうを見ていた。

 横顔は静かだった。

 けれど、その静けさの奥にも、何か言葉にならないものがある気がした。

 夏帆は思う。

 祖母の夏は、白灯台から少しずつ帰ってきた。

 晴臣の写真も、手紙も、遅すぎたかもしれないけれど、届いた。

 では、自分たちはどうするのだろう。

 届く手段はある。

 スマホもある。

 船が止まっても、手紙が届かなくても、完全に途切れるわけではない。

 でも、言葉にしなければ届かないものがある。

 それを知ってしまった。

 知ってしまったから、もう知らなかった頃には戻れない。

「じゃあ、夏祭りの日」

 港近くで立ち止まった湊が言った。

「うん」

「また連絡する」

「私もする」

「うん」

「……してほしいんやろ?」

「うん。してほしい」

 また同じ言葉を言われて、夏帆は困ったように笑った。

「湊くん、そういうの普通に言うよね」

「そういうの?」

「いや、いい」

「何?」

「言わん」

「気になる」

「言わん」

「……じゃあ、夏祭りの日に聞く」

「え」

「話す時間、もらえるんだよね」

「それはそうやけど」

「じゃあ、その時に」

「ずるい」

「そうかな」

「そうよ」

 言いながら、二人で少し笑った。

 その笑い声が、夕方の港に小さく溶けていく。

 別れ際の沈黙は、昨日より少しだけやわらかかった。

 でも、昨日より少しだけ苦しかった。

 湊は手を振って、宿のほうへ歩いていった。夏帆はその背中を見送る。昨日、澪子を乗せたタクシーを見送った時とは違う気持ちだった。

 祖母を見送った時は、ほどけていくものを感じた。

 今は、これから言葉にしなければならないものが、胸の奥で静かに形を持ち始めていた。

 湊が角を曲がって見えなくなる。

 夏帆はしばらくその場に立っていた。

 町のほうから、祭りの準備をする音が聞こえる。提灯が揺れて、夕暮れの光の中で小さく赤く灯っているように見えた。

 湊が東京へ帰る日まで、あと少し。

 夏祭りの日に、話したいことがある。

 その約束だけが、夕暮れの町の中で、夏帆の胸に小さく灯っていた。



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