第21話 夕暮れの港で
タクシーの扉が閉まる音は、思っていたよりも小さかった。
澪子は後部座席の窓を少しだけ開けて、外に立つ夏帆と湊を見た。疲れているはずなのに、その顔は白灯台へ向かう前よりも、どこか穏やかに見えた。
「夏帆、今日はありがとうね」
「うん。帰ったら、ちゃんと休んでね」
「わかっとるが。湊くんも、ありがとう」
「こちらこそ、ありがとうございました」
湊が頭を下げると、澪子は少しだけ目を細めた。
「また、写真見せてね」
「はい」
「でも、今日はもう撮りすぎんように」
「……気をつけます」
「ふふ。ええ返事やね」
運転手が静かに車を出す。
タクシーは港沿いの道をゆっくり曲がり、夕方の光の中へ小さくなっていった。夏帆はそれを見送りながら、胸の奥に残っていた緊張が、少しずつほどけていくのを感じた。
白灯台へ行った。
祖母は、自分の足であの場所に立った。
約束の浜は見えなかった。見なかった。けれど澪子は、それでいいと言った。
待つためではなく、帰るために。
その言葉をはっきり聞いたわけではないのに、夏帆にはそう思えた。
タクシーの姿が角を曲がって消えても、夏帆はしばらくその場を動けなかった。
隣で、湊も黙っていた。
港には、夕暮れの気配が降り始めていた。昼間の強い日差しはやわらぎ、海の上には橙色が薄く広がっている。遠くで船のエンジン音がして、係留された船のロープが、風に揺れて小さく軋んだ。
「……少し歩けるって、どうして?」
夏帆が聞くと、湊は港の向こうを見たまま答えた。
「すぐ帰る気になれなかった」
「私も」
「澪子さん、来てよかったって言ってた」
「うん」
「よかった」
「うん。本当に」
それ以上の言葉は、すぐには出てこなかった。
祖母の夏がほどけたあと、港には夏帆と湊の時間だけが残った。
夏帆は、湊と並んで歩き出した。
八幡浜港は、出会った日の港と同じ場所のはずだった。
フェリー乗り場があり、船があり、潮の匂いがあり、少し湿った風が吹いている。遠くには島影が見えて、夕方の水面はゆっくり色を変えていた。
けれど、同じには見えなかった。
あの日、湊は地図アプリと古い写真を見比べながら、港の片隅で立ち尽くしていた。首からカメラを下げた、地元の子ではない少年。困っているようで、でも誰かに助けを求めるのは少し下手そうで。
夏帆は一度通り過ぎようとして、結局、足を止めた。
あの時は、こんなふうになるなんて思っていなかった。
古い写真の場所を探すだけだと思っていた。
祖母の過去に触れることになるなんて、白灯台へ渡ることになるなんて、潮が引いた浜で言えなかった想いに出会うなんて、想像もしていなかった。
そして、湊と何度も一緒に海を渡ることになるなんて。
「ここで会ったんだよね」
夏帆が言うと、湊が少しだけ視線をこちらへ向けた。
「うん」
「最初、めっちゃ困っとった」
「そんなに?」
「うん。地図見て、写真見て、また地図見て」
「……たぶん、かなり困ってた」
「やっぱり」
「でも、声かけてくれて助かった」
「ほっとけんかっただけよ」
「篠原さんらしい」
「そう?」
「うん」
湊の声は静かだった。
その静けさが、前より近く感じる。
夏帆はなんとなく港の水面へ視線を逃がした。夕暮れの光が、波の上で細く砕けている。橙色と金色が混ざって、船の影がゆっくり伸びていた。
湊の手が、首から下げたカメラに触れた。
夏帆は横目でそれを見た。
きっと撮るのだと思った。写真を撮る湊の姿は、もう見慣れている。灯台でも、港でも、船の上でも、彼はいつも景色の中から何かを見つけていた。
けれど、湊はカメラを持ち上げなかった。
指先が少しだけカメラに触れたまま、すぐに離れる。
「撮らんの?」
夏帆が聞くと、湊は海を見たまま答えた。
「今は、いい」
「また?」
「うん」
「綺麗なのに」
「だから、見ておきたい」
「写真じゃなくて?」
「写真じゃなくて」
夏帆は、少しだけ息を止めた。
湊の横顔は夕暮れの色を受けて、いつもよりやわらかく見えた。風が前髪を揺らしても、彼はカメラに手を伸ばさない。
ただ、海を見ている。
同じ夕暮れを、夏帆と一緒に。
湊は、カメラではなく、同じ夕暮れを夏帆と見ていた。
「……湊くん、変わったね」
「そう?」
「うん。前なら、絶対撮ってそう」
「前なら撮ってたと思う」
「今は?」
「今は、撮ったら少しもったいない気がする」
「もったいない?」
「写真にしたら残るけど、撮ってる間、俺はその景色をファインダー越しに見ることになるから」
「うん」
「今は、そうじゃなくて見たい」
「……そっか」
夏帆は、小さく頷いた。
言葉の意味はわかる。
けれど、その奥にあるものまでわかってしまいそうで、胸のあたりが少しだけ落ち着かなかった。
湊は、何を見ておきたいのだろう。
夕暮れの港。
八幡浜の海。
それとも、この時間そのもの。
聞けそうで、聞けなかった。
二人はしばらく、港沿いを歩いた。
足元には夕日で長く伸びた影が並んでいる。近づいたり、少し離れたりしながら、それでも同じ方向へ伸びていく。
「おばあちゃん、少し軽くなった気がする」
夏帆が言うと、湊は静かに頷いた。
「うん」
「でも、晴臣さんには会えないんだよね」
「うん」
「手紙も写真も届いたけど」
「遅かった」
「うん」
「でも、届かないままよりは、よかったと思いたい」
その言い方が、少し痛かった。
湊は、晴臣の孫だ。
会ったことのない十七歳の祖父の後悔を、写真と手紙ごと抱えて、ここまで来た。澪子に届けることができた。けれど、それで過去がやり直せるわけではない。
晴臣と澪子は、もう会えない。
十七歳の夏には戻れない。
「おばあちゃん、晴臣さんのこと、ずっと怒っとったわけじゃないと思う」
「うん」
「でも、ずっと待っとったんやと思う」
「うん」
「来んかった人を、待っとった」
「……うん」
「来られんかった人やってわかっても、待った夜は消えんって言ってた」
「うん」
湊は、海を見ながら小さく息を吐いた。
「祖父も、たぶん同じだったと思う」
「同じ?」
「行けなかったことは、ずっと消えなかったんだと思う。手紙を書いても、写真を残しても」
「……うん」
「でも、届けられなかった」
「うん」
潮の匂いが、風に混じって流れてくる。
夏帆は、白灯台の下で澪子が言った声を思い出した。
もう、待たんでもええんやね。
あの言葉は、誰かを責めるものではなかった。
晴臣を許すというより、十七歳の自分を迎えに行く言葉だった。
「言葉にするのって、難しいね」
夏帆が呟くと、湊がこちらを見た。
「うん」
「簡単なら、晴臣さんも手紙をしまわせなかったかも」
「うん」
「でも、難しいからって、言わんでいいわけじゃないんだよね」
「……うん」
そこで、二人の会話が途切れた。
言葉にしなければ届かない。
それは、澪子と晴臣の話だったはずだ。
昔の約束の話で、届かなかった手紙の話で、船が出なかった日の話だったはずだ。
なのに今、その言葉は夏帆の胸の奥で、まっすぐ自分に向かってきていた。
届く手段があっても、言葉にしなければ届かない。
今の時代なら、連絡先を交換すればいい。
東京と愛媛でも、メッセージは送れる。電話もできる。写真だってすぐに送れる。船が止まっても、手紙が届かなくても、完全に途切れるわけではない。
でも、それでも。
言葉にしなかった気持ちは、やっぱり届かない。
「俺、そろそろ東京に戻らないといけない」
湊の声が、夕暮れの中に落ちた。
夏帆は、足を止めそうになった。
でも止めなかった。
止まってしまったら、何かが顔に出そうだった。
「……そっか」
「最初から、長くいる予定ではなかったから」
「うん」
「祖父の写真の場所を探すだけのつもりだった」
「うん」
「でも、思ってたより、ずっと長くここにいた気がする」
「わかる」
「篠原さんも、松山に戻るんだよね」
「うん。ずっと八幡浜におるわけじゃないけん」
自分でそう言って、胸が少し痛んだ。
松山には帰る家がある。
学校がある。友達がいる。夏休みが終われば、また制服を着て、いつもの通学路を歩いて、いつもの教室で授業を受ける。
それは寂しいことではなかったはずだ。
八幡浜へ来る前は、むしろそれが当たり前だった。
湊にも東京に帰る場所がある。学校があって、家があって、彼の日常がある。ここにずっといる理由はない。
それなのに。
帰る場所があることが、今は少しだけ寂しかった。
「私たちは、連絡できるね」
夏帆は、わざと少し軽く言った。
「うん」
「船が止まっても、手紙が届かんでも、スマホがある」
「うん」
「東京と松山って、遠いけど、連絡できん距離じゃない」
「うん」
「会おうと思えば……まあ、簡単ではないけど、会えん距離でもない」
「うん」
「でも、それでも言わんかったら、伝わらんのやね」
湊が黙った。
その沈黙に、夏帆は自分が何を言ったのか、少し遅れて気づいた。
心臓が、ひとつ大きく鳴る。
「……そうだね」
湊の声は、静かだった。
いつもより、ほんの少し低い気がした。
夏帆は、港の水面へ視線を落とした。夕暮れの色が濃くなって、海は橙から茜色へ変わり始めている。
この夏が終わるのが寂しいのは、八幡浜を離れるからだけではない。
そのことを、夏帆はもう気づいていた。
気づいてしまっていた。
湊と出会えてよかった。
一緒に汐待島へ渡れてよかった。
祖母の過去を一緒に見つけてくれてよかった。
慎重で、少し心配性で、写真を撮るのが好きで、でも大事な時には撮らずに見てくれる。
白灯台の下で、澪子の時間を守ってくれた。
帰り道で、写真を撮っていいかちゃんと聞いてくれた。
今も、綺麗な夕暮れを写真にせず、隣で見ている。
この人が東京へ帰る。
この港で隣にいる時間が、もうすぐ当たり前ではなくなる。
そう思った瞬間、胸の奥がきゅっと狭くなった。
好き、という言葉が浮かびそうになって、夏帆は慌てて目を伏せた。
まだ、そこまで言えるほど自分の気持ちに名前をつけられない。
でも、名前をつけないままでは、きっと届かない。
祖母と晴臣のことを見てきたからこそ、それがわかってしまう。
「篠原さん」
湊に呼ばれて、夏帆は顔を上げた。
「なに?」
「一人だったら、ここまで来られなかったと思う」
「湊くんが?」
「うん」
「写真もあったし、地図もあったやん」
「それだけだったら、ただ探して終わりだった」
「……」
「祖父の写真を、謎のままじゃなくて、誰かの気持ちとして見られたのは、篠原さんがいたからだと思う」
夏帆は、言葉に詰まった。
湊はまっすぐこちらを見ている。
夕暮れの港で、その視線を受け止めるのは、少し難しかった。
「私も」
「うん」
「湊くんがいたから、おばあちゃんに聞けた」
「うん」
「一人やったら、たぶん、箱の中の写真を見つけても、気づかんふりしたかもしれん」
「そう?」
「うん。怖かったと思う。おばあちゃんがしまってたものを、勝手に開けるみたいで」
「でも、聞いた」
「うん」
「澪子さん、ありがとうって言ってた」
「……うん」
思い出したら、また泣きそうになった。
聞いてくれてありがとう。
澪子はそう言った。
踏み込んだのではなく、寄り添ってくれたのだと。
夏帆は、港の風を吸い込んだ。潮の匂いが肺の奥に入ってくる。懐かしいのに、今はもう、ただ昔の匂いではなかった。
この匂いの中に、湊と歩いた夏も混ざっている。
「篠原さんと来られてよかった」
湊が言った。
その声があまりに静かだったから、夏帆はすぐに返事ができなかった。
祖父の写真を探す旅のこと。
澪子の過去を辿った時間のこと。
白灯台へ行ったこと。
きっと、その全部を言っている。
でも、それだけではない気がした。
「……私も、湊くんと来られてよかった」
夏帆が言うと、湊は一瞬だけ目を伏せた。
その仕草が、いつもの落ち着いた彼らしくなくて、夏帆の胸がまた小さく鳴った。
二人のあいだに、少しだけ沈黙が落ちる。
でも、それは気まずい沈黙ではなかった。
言葉にする前のものが、そこにある気がした。
港の風が吹いた。
夏帆の髪が頬にかかる。直そうとして手を上げると、同じタイミングで湊の手も少し動いた。
触れそうになって、触れなかった。
湊の指先が途中で止まる。
夏帆も、自分の手を止めた。
たったそれだけのことで、心臓がうるさくなる。
「……風、強いね」
夏帆が言うと、湊は少し遅れて頷いた。
「うん」
「港やけんね」
「うん」
「……なにその返事」
「ごめん。ちょっと、考えてた」
「なにを?」
「言うかどうか」
「え?」
湊は、そこでまた黙った。
夏帆は思わず、湊の横顔を見る。
聞きたい。
何を言おうとしたのか。
でも、聞いたら何かが変わってしまう気がして、怖い。
祖母たちは、言えなかった。
だから届かなかった。
それを知ったばかりなのに、今の夏帆も同じように言葉の前で立ち止まっている。
「……言葉にするのって、難しいね」
夏帆がもう一度言うと、湊は小さく笑った。
「本当に」
「簡単ならよかったのに」
「うん」
「でも、簡単だったら、こんなに大事に思わんのかも」
「……そうかもしれない」
夕暮れは、少しずつ濃くなっていった。
港の建物の影が伸び、船の白い側面が茜色に染まる。遠くで誰かが笑う声がして、すぐに風に紛れた。
この時間が、永遠に続けばいいと思った。
でも、続かないこともわかっていた。
夏休みは終わる。
湊は東京へ帰る。
夏帆は松山へ戻る。
八幡浜の港で並んで夕暮れを見る時間は、きっと限られている。
だからこそ、今が眩しい。
「明日」
湊が言った。
「明日?」
「少し時間ある?」
「うん。たぶん」
「帰る前に、もう一度会いたい」
「……うん」
返事をしたあとで、夏帆は自分の声が少し小さかったことに気づいた。
湊はまっすぐこちらを見ていた。
「無理ならいい」
「無理じゃない」
「本当に?」
「うん。会える」
そう言うと、湊の表情がほんの少しやわらいだ。
その変化だけで、胸が苦しくなる。
「じゃあ、明日」
「うん。明日」
明日。
たったそれだけの約束なのに、今の夏帆にはとても大きく思えた。
祖母たちの約束とは違う。
潮が引く夜でも、灯台の下でもない。
船が止まれば会えないような約束でもない。
スマホで連絡できる。
時間も場所も決められる。
それでも、明日会うという約束が、こんなにも大事に感じる。
夏帆は、夕暮れの港で頷いた。
祖母の夏は、少しずつほどけていった。
けれど、自分の夏は、まだ言葉にならないまま、胸の奥で揺れていた。
お読みいただきありがとうございます。
夏帆と湊の夏を最後まで見守っていただけたら嬉しいです。
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