第20話 待つためではなく
白灯台の下で、澪子はしばらく海を見ていた。
潮はまだ高い。
岩場の近くまで水が寄せていて、約束の浜は見えなかった。
第10話の夜、夏帆と湊が見た白い砂は、今は海の下に隠れている。
昼の海は明るく、波の音も穏やかだった。
けれど夏帆は、その水面の下にあの小さな浜があることを知っている。
潮が引けば現れる場所。
澪子が待った場所。
夏帆と湊が、真実の手がかりを見つけた場所。
夏帆はそっと湊を見た。
湊も同じことを考えていたのか、スマホを出しかけて、すぐにしまった。
潮の時間を確認しようとしたのだろう。
澪子はそれに気づいたようだった。
「潮、まだ高いね」
夏帆が言うと、澪子は頷いた。
「うん」
「待てば、浜が出るかもしれんけど」
そこまで言って、夏帆は言葉を止める。
待てば。
その言葉が、この場所では少し重かった。
澪子は海を見たまま、静かに言った。
「今日は、浜は見んでええ」
「今日は、浜は見んでええ」
「いいの?」
「うん」
澪子の声は落ち着いていた。
「今日は、白灯台を見に来たけん」
湊も、何も言わずに頷いた。
澪子は海へ向けていた視線を、少しだけ足元へ落とす。
「あの浜は、待つ場所やった」
「うん」
夏帆は答える。
「夏帆たちは、知るために行ったんやろ」
「うん」
「何があったのか、どこで待ったのか、確かめるために」
「うん」
澪子は小さく息を吐いた。
「でも、私は今日は、待ちに来たんやない」
「うん」
「だから、見んでもええ」
その言葉を聞いて、夏帆はようやくわかった。
澪子は逃げているのではない。
約束の浜を見るのが怖くて避けているのではない。
今の澪子にとって、そこへ降りる必要がもうないのだ。
昔は、待つために降りた。
夏帆と湊は、知るために降りた。
でも、今日の澪子は、待っていない。
だから、見ないことも選べる。
見ないことも、澪子の選択だった。
澪子は白灯台の壁へもう一度手を伸ばした。
白い壁に、指先がそっと触れる。
さっきより少しだけ自然な動きだった。
「また来るかはわからんけど」
「うん」
夏帆が答える。
「でも、今日は来てよかった」
「うん」
澪子は灯台の壁を軽く撫でる。
そこに誰かへ宛てた手紙を書くように。
声にはしなかったけれど、その指先が何かを置いていくようにも、何かを連れて帰るようにも見えた。
やがて澪子は、ふっと笑った。
「十七の私も、そろそろ帰ろうかね」
夏帆の胸が詰まった。
「十七の私も、そろそろ帰ろうかね」
「おばあちゃん……」
「長いこと置いとったけんね」
澪子は冗談めかして言った。
けれど、その目は少し潤んでいるように見えた。
「そろそろ、連れて帰ってもええやろ」
「うん」
夏帆は頷いた。
湊も何も言わず、静かに頭を下げた。
白灯台は、何も答えない。
ただ、夏の光の中で白く立っている。
それで十分だった。
三人は、白灯台に背を向けた。
来た時と同じ道を戻る。
坂道も、夏草も、石段も、海風も、何も変わっていないはずだった。
けれど、夏帆には少し違って見えた。
行きは、白灯台へ近づくたびに息が詰まるようだった。
帰りは、白灯台が背中の向こうで少しずつ遠ざかっていく。
それが、寂しくもあり、ほっとするようでもあった。
澪子の歩幅はゆっくりだ。
でも、行きより少しだけ肩の力が抜けている。
夏帆は隣を歩きながら、その変化を感じていた。
湊は少し後ろから、やはり足元を見ている。
でも、今度は見守る視線が少し柔らかかった。
同じ道なのに、帰り道は少し違って見えた。
「晴臣さん、ここで一回転びかけたんよ」
ふいに澪子が言った。
「え」
夏帆が振り向く。
「写真撮りながら歩くけん」
「危ない」
「ほんと危ないが。私、どこ見よるがって怒った」
「晴臣さんは?」
「光、って」
「光?」
「そう。木の間から光が入っとって、それが綺麗やったんやと」
澪子は呆れたように言いながら、少し笑った。
「転びかけてまで撮るもんやないやろって言うたら、転んでないから大丈夫って」
「湊くんも気をつけて」
夏帆が言うと、湊はすぐに答えた。
「俺は歩きながら撮りません」
「ほんとに?」
「……たぶん」
「たぶんなんや」
澪子が笑う。
夏帆も笑った。
白灯台からの帰り道で、晴臣の話をして笑える。
それが不思議だった。
少し前なら、晴臣の名前を出すだけで空気が硬くなっていた。
でも今は、痛みだけではない記憶が口にできる。
晴臣が写真を撮ろうとして転びかけたこと。
澪子が怒ったこと。
それでもきっと、二人で笑ったこと。
そういう小さな記憶が、帰り道の風の中でふわりと戻ってきていた。
神社の石段の近くで、三人は休憩した。
木陰には、海からの風が届いている。
澪子は水筒のお茶を飲み、帽子を少し持ち上げて額をぬぐった。
「疲れた?」
「疲れた」
「正直」
「もう正直に言うことにしたが」
「それがいい」
夏帆が笑うと、澪子も笑った。
湊は少し離れたところで、海の見える方を見ていた。
それから、少し迷うように澪子へ向き直る。
「澪子さん」
「ん?」
「写真、撮ってもいいですか」
夏帆は、湊を見る。
湊の手は、鞄の中のカメラに触れていた。
けれど、まだ取り出していない。
「私を?」
澪子が聞く。
「はい。でも、嫌なら撮りません」
湊の声は真剣だった。
晴臣が撮った写真とは違う。
今度は、撮る前に聞いている。
澪子は少し考えた。
視線を海へ向け、それから夏帆を見る。
「……後ろ姿ならええよ」
「ありがとうございます」
「夏帆もおいで」
「私も?」
「一人で写るのは、恥ずかしいが」
夏帆は一瞬驚いて、それから頷いた。
「うん」
澪子と夏帆は、海が見える方を向いて並んだ。
目の前には汐待島の海。
遠くに港。
さっきまでいた白灯台は、背中の向こうにある。
湊がカメラを構える。
「撮ります」
「はいはい」
澪子が少し照れたように言う。
シャッター音が一度だけ響いた。
それは、晴臣の写真とは違う写真だった。
勝手に残されたものではない。
澪子が、自分で選んだ写真。
待つためではなく、帰るための写真。
今度は、澪子が選んだ写真だった。
湊はカメラの画面を確認し、すぐに澪子へ見せに来た。
「こんな感じです」
「どれどれ」
澪子は画面を覗き込む。
夏帆も横から見る。
そこには、海を見て並ぶ澪子と夏帆の後ろ姿が写っていた。
澪子の帽子。
夏帆の肩。
海の青。
白灯台へ続く道の帰り。
「ええやないの」
澪子が言った。
湊は少しだけほっとしたように息を吐く。
「よかったです」
「晴臣さんより、ちゃんと聞くぶん偉いね」
「それは……」
「褒めとるんよ」
澪子がそう言うと、湊は小さく頭を下げた。
夏帆は、その写真を見ながら、胸の中が温かくなるのを感じた。
晴臣が残した澪子の後ろ姿。
湊が撮った澪子と夏帆の後ろ姿。
似ているけれど、意味は違う。
過去の写真と、今の写真。
待つ前の背中と、帰る途中の背中。
その違いが、夏帆にはとても大切に思えた。
港へ戻る頃には、澪子は少し疲れていた。
それでも足取りはしっかりしている。
汐待港の近くまで来ると、また年配の女性が声をかけてきた。
「白灯台、見たが?」
「見たよ」
澪子が答える。
「どうやった?」
「まだ、白かった」
「そりゃ白灯台やけんね」
「ほんと、それなが」
二人は顔を見合わせて笑った。
夏帆はそのやりとりを聞きながら、胸がじんわり温かくなる。
澪子の声は、行きよりも少し軽かった。
島の女性は、澪子の顔を見て、深くは聞かなかった。
ただ、にこりと笑う。
「また来たらええが」
「そうやね」
「今度は、もうちょっと涼しい時に」
「ほんとやね」
澪子はそう答えた。
また来ると約束したわけではない。
でも、もう二度と来ないと閉じる言い方でもなかった。
それだけで十分だった。
帰りの船は、昼下がりの光の中を出た。
澪子は窓際に座り、夏帆はその隣に座る。
湊は斜め前の席で、荷物を足元に置いている。
船が汐待港を離れると、澪子は島の方を見た。
白灯台は見えない。
けれど、その方向を見ているのはわかった。
「疲れた?」
夏帆が聞くと、澪子はすぐに答えた。
「疲れた」
「正直」
「今日は正直に言う日なが」
澪子は少し笑った。
それから、ゆっくり息を吐く。
「でも、来てよかった」
「でも、来てよかった」
夏帆は頷いた。
「うん」
「夏帆、連れてきてくれてありがとう」
「うん」
「湊くんも」
斜め前の湊が顔を上げる。
「ありがとうございました」
「こちらこそです」
「旅行会社さん、助かったが」
「それはよかったです」
湊は真面目に返す。
澪子が笑った。
船の揺れが、身体をゆっくり運んでいく。
汐待島が少しずつ遠ざかる。
夏帆は、窓の外を見た。
古い写真。
八幡浜港で出会った湊。
汐待島。
白灯台。
約束の浜。
読まれなかった手紙。
残された写真。
澪子と湊の対面。
そして、今日の白灯台。
ばらばらだったものが、少しずつ繋がって、澪子のところへ戻ってきた。
全部が解決したわけではない。
待った夜が消えたわけでもない。
でも、澪子はもうあの場所で誰かを待ってはいなかった。
十七歳の自分を、そろそろ帰ろうかね、と言った。
夏帆は、祖母の横顔を見る。
澪子は少し疲れた顔をしていた。
けれど、来る前よりも呼吸が楽そうに見えた。
澪子の夏は、少しだけ岸へ戻ってきた。
八幡浜港へ戻ると、夕方の気配が少しずつ近づいていた。
空の色が、昼の青からやわらかく変わり始めている。
澪子は疲れていたので、夏帆が腕を支えた。
湊が荷物を持つ。
「歩ける?」
「歩けるけど、今日は無理せん」
「えらい」
「えらいやろ」
澪子は少し得意げに言った。
港の近くでタクシーを呼び、澪子を先に乗せる。
湊も荷物を積むのを手伝った。
「夏帆は?」
澪子が車内から聞く。
「少しだけ港にいる」
「湊くんと?」
「うん」
澪子は夏帆と湊を交互に見た。
それから、少しだけ口元を緩める。
「あんまり遅くならんように」
「うん」
「湊くん、夏帆をよろしくね」
「はい」
湊は真面目に答えた。
澪子はそれを見て、ふふ、と笑う。
「ほんと、真面目なが」
タクシーのドアが閉まり、車がゆっくり走り出す。
夏帆はそれを見送った。
澪子の姿が見えなくなると、港の音が少しだけ大きく聞こえた。
船のエンジン音。
遠くの車の音。
海鳥の声。
水面が、少しずつ夕方の色を受け始めている。
湊が隣に立った。
「少し歩ける?」
夏帆は湊を見る。
「うん」
二人は港の方へ歩き出した。
白灯台から帰ってきたはずなのに、夏帆の中では、まだ海が揺れていた。
祖母の夏は、少しずつほどけている。
長く止まっていたものが、ようやく現在へ戻ってきた。
でも、それで全部が終わったわけではない。
湊が隣にいる。
東京から来た少年。
写真を持ってきた少年。
この夏、一緒に海を渡った人。
夏帆は、まだそのことをうまく言葉にできない。
ただ、港の夕方の風が、少しだけ胸をざわつかせた。
白灯台から帰ってきたはずなのに、夏帆の中では、まだ海が揺れていた。
祖母の夏は、少しずつほどけている。
けれど、自分の夏は、まだ終わっていない。
お読みいただきありがとうございます。
夏帆たちがたどる、祖母たちの夏を見守っていただけたら嬉しいです。
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