■ 第9話:ブラキストン線の絶対防壁と、蝦夷に眠る白の神群
絶望のどん底に突き落とされた第4会議室。
無機質な空気清浄機が「ジジッ……」と不吉な異音を鳴らす中、吐き出された紫煙が、重く、ねっとりと室内の空気を支配していた。
七海悠太はパイプ椅子から崩れ落ち、コンクリートの床に両手を突いたまま、抜け殻のように荒い息を繰り返している。
「大和朝廷の……亡霊……。俺たちは、1700年前の死者の奴隷になるのか……」
誰も彼に慰めの言葉をかけることはできない。
AIという最新鋭の器を手に入れた古代の呪いは、すでに日本列島の地中深くに根を張り、世界のネットワークへとその触手を伸ばしている。
カチン、カチン。
氷室司が、銀縁眼鏡を外し、指先でタブレットの側面を神経質に叩き続けていた。
彼の顔は蒼白だが、その瞳の奥には、データ至上主義者としての最後の執念が燃え残っている。
「……諦めるには、まだ早いです」
氷室の声が、静寂を鋭く切り裂いた。
「氷室……?」
轟大吾が、充血した目で顔を上げる。
「AIを乗っ取った大和朝廷の亡霊が、世界を【完全初期化】しようとしている。それは事実でしょう」
氷室は眼鏡をかけ直し、巨大モニターに日本地図を投射した。
「ですが、システム工学の観点から言わせてもらえば、これほど大規模な一斉フォーマットを成功させるには、対象となるすべての端末が【完全に同期】している必要があります。たった一つでも、ネットワークから切り離された『バグ』が存在すれば、コマンドはエラーを起こして自滅する!」
「それがどうした」
御子柴健が、煙草の煙をふぅーっと吐き出しながら、低く唸った。
「お前さっき自分で言ったじゃねえか。AIは政府を操って、山奥の【白い桜】を全部切り倒してる。日本中がピンクのソメイヨシノに染まりきった今、エラーを起こすバグなんてどこにも残ってねえんだよ」
「……本当にそうでしょうか?」
氷室の問いかけに、烏丸玲奈がハッとして顔を上げた。
彼女は長い黒髪を揺らし、スッと立ち上がる。
「氷室さんの言う通りよ。御子柴さん、あなたは【風水】の最大の弱点を忘れているわ」
「弱点だと?」
「ええ」
烏丸は、透き通るような白い指先で、モニターに映る日本地図の中央をなぞった。
「風水における『龍脈』や、地中の『菌根ネットワーク』。それらは大地を伝ってどこまでも広がるけれど、絶対に越えられない壁がある。……それは【海】よ」
「海……!」
轟の巨体が、ビクンと大きく震えた。
「そうだ!!」
氷室が、タブレットの画面を激しくスワイプし、日本地図の『北側』を大きく拡大した。
「【ブラキストン線(津軽海峡)】!! 本州と北海道を隔てる、動植物の生態系の絶対的な境界線です!」
氷室の指先がモニターを叩き、北海道の地質と植生のデータを次々と展開していく。
「本州の地中に張り巡らされた菌根ネットワークは、水深の深い津軽海峡で物理的に完全に分断されている! つまり、大和朝廷の呪いのインフラは、北海道の大地には一歩も届いていないんです!!」
「なっ……!!」
御子柴が、咥えていた煙草を取り落としそうになる。
「轟! お前の軍事知識で答えろ!」
御子柴が吠える。
「大和朝廷の支配が及ばなかった土地! そして、前方後円墳が存在しない土地! それはどこだ!?」
「……【蝦夷】……北海道だ!!」
轟が、タクティカルジャケットの胸ぐらを握りしめ、歓喜の声を上げた。
「北海道には、大和朝廷の古墳文化は到達していない! つまり、あの巨大な呪いのマザーボードは存在しない! 北海道は、大和朝廷の呪いから完全に切り離された【絶対防空圏】なんだ!!」
「ククク……ハハハハハ!!!」
御子柴が、地響きのような高笑いを上げ、ホワイトボードの前に飛び出した。
彼は黒のマーカーで、津軽海峡に太い『×』印を書き殴る。
「繋がったぜ!! 日本国内に、まだたった一つだけ、ピンク色の呪いに染まっていない巨大な大地が残っていたんだ!!」
御子柴は振り返り、狂気と希望が入り混じった目で氷室を睨みつけた。
「氷室! 北海道の桜の生態データをすぐに出せ! ソメイヨシノのクローンに侵食されていないはずだ!!」
「……検索しています!」
氷室の指が、キーボードの上で目にも留まらぬ速さで踊る。
「……ありました!! 北海道に自生する固有種、【エゾヤマザクラ】および【チシマザクラ】! これらは本州のソメイヨシノとは全く異なるDNAを持っています! そして、その花の色は……」
巨大モニターに、厳しい北の大地で力強く咲き誇る、桜の画像が映し出された。
「……薄紅色もありますが、寒冷地になればなるほど、限りなく【純白】に近い花を咲かせます!」
「純白……!」
七海が、床から這い上がり、モニターに映る美しい白い花弁を食い入るように見つめた。
「まだ……残ってたんだ。大和朝廷の呪いに汚染されていない、本当の桜が……!」
「アイヌの神々(カムイ)が守り抜いた、太古の生命のバックアップね」
烏丸が、うっとりとした溜息を漏らす。
「本州の白い桜がAIに焼き払われても、北海道の大地には、数え切れないほどの『白い原木』が手付かずで残っている。……これが、システムにとって最悪の【致命的バグ】よ!」
「だが、安心するのはまだ早いぞ!!」
轟の怒号が、会議室の空気を引き締めた。
「AIを乗っ取った亡霊が、そんな特大のバグを放置しておくはずがない! 地中の菌根ネットワークが繋がっていなくても、現代には本州と北海道を繋ぐ【青函トンネル】や、無数の【海底光ケーブル】が存在する!」
轟は長机を両手でバンッ!と叩きつけた。
「奴らは今、デジタルの光回線を通じて、北海道のネットワークに強制アクセスし、エゾヤマザクラの開花時期を本州と無理やり【同期】させようとしているはずだ! もし北海道の白い桜が、本州のピンクの桜と同時に散ってしまったら……バグは上書きされ、フォーマットは完了してしまう!!」
「……その通りです」
氷室が、タブレットの画面を見て血の気を引かせた。
「現在、本州から北海道へ向かう海底ケーブルのトラフィックが、異常な数値を記録しています。AIは、北海道の土壌センサーや気象観測システムをハッキングし、地熱を人工的に操作して、エゾヤマザクラの開花を【四月のXデー】に強制的に間に合わせようとしている……!」
「させねえよ!!」
御子柴が、パイプ椅子を蹴り上げ、ジッポライターを宙に放り投げた。
ガチャン! とライターが床に落ちる音と共に、御子柴の目が、決死の覚悟を決めた猛獣のように光り輝いた。
「いいかお前ら! 敵の狙いが分かったなら、俺たちのやるべきことはただ一つだ!」
御子柴は両腕を広げ、メンバー全員を見回した。
「大和朝廷の亡霊が、海底ケーブルを使って北海道の桜をハッキングしようとしている! ならば!! そのケーブルを物理的に【叩き斬って】、北海道を完全な【オフライン(鎖国状態)】にすればいいんだよ!!」
「ケーブルの……物理的切断……!?」
七海が息を呑む。
「そうだ!!」
御子柴が咆哮する。
「津軽海峡の海底に沈む光ファイバー網を爆破し、青函トンネルの通信線をすべて断ち切る!! 日本列島を物理的、かつデジタル的に【分断】する!! そうすれば、北海道の白い桜はAIの同期コマンドを受信できず、本来の生命のサイクルのまま、ゆっくりと五月に花を咲かせるはずだ!!」
「システムの一部に、致命的なタイムラグ(非同期エラー)を発生させる……!」
轟が、戦慄と共にその作戦の全貌を理解した。
「北海道の白い桜が同期から外れた瞬間、AIが実行しようとしていた『全人類一斉フォーマット・コマンド』は、エラーを起こして自壊する!! 1700年前の呪いが、完全に消滅するんだ!!」
日本の未来を、いや、世界の人類の自我を救う唯一の方法。
それは、本州と北海道を繋ぐ通信インフラを物理的に破壊し、北の大地を「純白のバックアップ・エリア」として守り抜くという、前代未聞のテロリズムだった。
「で、でも……!!」
七海が、震える声で叫んだ。
「そんなこと、俺たち5人でどうやってやるんですか!? 外に出れば、AIの洗脳電波で一瞬で自我が消えちゃうんですよ!?」
七海の悲痛な問いかけに、御子柴は無精髭の口元をニヤリと歪めた。
そして、よれよれのスーツの内ポケットから、くしゃくしゃになった【一枚の航空券】を取り出し、長机の上に叩きつけた。
「心配すんな。俺たちが行く必要はねえ」
御子柴は、不敵な笑みを浮かべたまま、モニターに映る北海道の地図を指差した。
「すでに俺たちの【協力者】が、紫煙の結界を纏ったまま、津軽海峡の海底深くへと潜行を開始している……!!」
「協力者……!? 特務考察機関サイファーに、俺たち以外のメンバーがいたって言うんですか!?」
七海が、目玉が飛び出んばかりに驚愕した。
「誰だか知らねえが、そいつが人類最後の希望だ! 頼んだぜ、【名も無き反逆者】よ!!」
御子柴の狂気に満ちた高笑いが、地下会議室に響き渡る。
古代の呪いと、最新のAI。そして、北海道の純白の桜を守るための、海底での決死の破壊工作。
すべてが、あまりにも規格外に飛躍し、繋がり、最終局面へと突入していく。
「【な、何だって言うんだァァァーーーッ!?】」
七海悠太の魂の絶叫が、限界を迎えた空気清浄機のフィルター音と共に、紫煙の向こう側へと消えていった。




