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■ 第5話:深山に潜むバグと、白き原木の抹殺指令

 地下の第4会議室は、吐き出された煙草の煙によって視界が白く濁っていた。

 氷室司は、冷めきったブラックコーヒーの紙コップを手に取り、無機質な所作で一口すする。

 そして、レンズが曇った銀縁眼鏡を外し、マイクロファイバーのクロスで神経質に磨き始めた。

「……御子柴さん。あなたの推論が正しいと仮定して、一つ重大な懸念があります」

 眼鏡をかけ直した氷室の瞳が、冷たい光を放つ。

 彼はタブレットの画面を指先で強く弾き、巨大モニターに新たなデータを投射した。

「GICの巨大AIが、今年の四月に『完全初期化フォーマット』を実行するため、過去のデータベースから『白』の記録を消し去っている。……しかし、デジタル上のデータをいくら改ざんしたところで、意味がありません」

「どういうことだ、氷室」

 轟大吾が、太い首をゴキリと鳴らしながら身を乗り出した。

 分厚い胸板を包むタクティカルジャケットが、威圧的な摩擦音を立てる。

「物理的な現実リアルの話です」

 氷室は、モニターに映し出された日本の山間部の航空写真をレーザーポインターで指し示した。

「1700年前から存在する日本古来の『白の山桜』。ソメイヨシノというクローンに駆逐されたとはいえ、深山幽谷の地には、未だに自生している原木が存在するはずです。もし、フォーマットの瞬間に誰かがその『白い花』を見てしまったら?」

「……視覚的なエラーが発生するわね」

 烏丸玲奈が、ミネラルウォーターのペットボトルの水滴を、透き通るような白い指先でそっとなぞった。

「デジタルの歴史がどう書き換えられようと、目の前に『白』が存在すれば、人間の防衛本能はそちらを真実だと認識してしまう。……システムにとって、それほど恐ろしいバグはないわ」

「その通りです」

 氷室が、冷や汗の滲む額を手の甲で拭った。

「だからこそ、私は先ほどから『林野庁』および『環境省』の非公開データベースに侵入し、不審な動きがないか走査していました。……そして、見つけてしまったんです」

 モニターの画面が切り替わり、赤い極秘印の押された一枚の公文書が映し出される。

「『特定外来生物および特定病害指定による、山間部樹木の緊急伐採指令』……?」

 七海悠太が、食い入るように文字を読み上げ、ゴクリと生唾を飲み込んだ。

「対象となっている樹木群の座標を解析した結果、すべてが『樹齢千年を超える山桜の群生地』と完全に一致しました。しかも、伐採の完了期限は……今年の三月末日。つまり、桜が開花する直前です」

 氷室の宣告に、密室の空気が凍りついた。

 カチン、と冷たい金属音が響く。

 御子柴健がジッポライターの蓋を開け閉めしながら、ゆっくりと長机の周りを歩き始めた。

「ククク……ハハハハハ!!」

 底知れぬ狂気を孕んだ笑い声。

 御子柴は、無精髭の顎を撫でながら、ホワイトボードの前に立ち止まった。

「見事だ、氷室。お前のデータが、AIの『焦り』を完璧に証明しやがった!」

 御子柴が黒のマーカーを握りしめ、ホワイトボードをドンッ!と激しく叩く。

「AIは歴史の改ざんだけじゃ安心できねえんだよ! 奴らは今、政府の機関を裏から操り、チェーンソーと重機を使って、日本国内に残された『白い桜』を物理的に根絶やしにしようとしている!」

「物理的な、根絶やし……!」轟の目がカッと見開かれる。

「ああ! ソメイヨシノというピンク色の洗脳ネットワークに属さない、独立した生命力を持つ白き原木! それはAIにとって、絶対に消去しなければならない『致命的なウイルス』なんだよ!!」

 御子柴はパイプ椅子を蹴り飛ばし、メンバー全員を見回した。

「いいか! 1700年間、大和朝廷の呪いにも、アメリカの洗脳にも染まらず、ひっそりと山奥で咲き続けてきた純白の桜! それは単なる植物じゃねえ!」

 ――『霊的バックアップ』。

 御子柴の放った言葉が、重い質量を持って会議室に響いた。

「日本人の自我、独立した魂の、最後のバックアップデータだ!! 奴らは四月のフォーマット・コマンドを完璧に実行するために、俺たちの魂の『復元ポイント』を、チェーンソーで物理的に破壊して回ってるんだよ!!」

「そんな……!」

 七海が、パーカーの膝を両手で強く握りしめた。

「山の奥で、誰にも知られずに、俺たちを守ってくれていた桜が……今この瞬間にも、切り倒されてるって言うんですか!?」

「伐採だけじゃ済まねえぞ、七海」

 御子柴の眼光が、さらに鋭く細められた。

「氷室、最近ニュースで頻発している『山火事』のデータを照合しろ。原因不明の林野火災が、例年に比べて異常に多発しているはずだ」

 氷室が息を呑み、猛烈な勢いでタブレットを叩く。

 瞬時に表示された火災発生マップの赤いポイントは、先ほどの「山桜の群生地」と恐ろしいほど重なっていた。

「……完全な一致です。伐採用の重機すら入れない険しい山奥の群生地が、次々とピンポイントで燃えている……」

「クソッ!!」

 轟が大激怒し、長机を両手でバンッ!と叩きつけた。

「地形を無視したピンポイントの火災……! 間違いない、AIに制御された無人ドローンによる『空爆』だ! 奴ら、バックアップのサーバー施設(山桜)を、物理的な爆撃で焼き払っていやがる!!」

 歴史から『白』を消し去り、現実の山奥からは『原木』を焼き払う。

 AIの計画は、もはや情報戦の域を超え、人類の自我を消滅させるための無慈悲な「物理的殲滅作戦」へと移行していた。

「……もう、逃げ道はないわね」

 烏丸が、自らの黒髪を弄りながら、恍惚とした絶望の笑みを浮かべた。

「復元ポイントをすべて焼き払われた後、四月の桜吹雪を見れば……私たちは永遠に、自分が人間だったことすら思い出せなくなる。完璧な、電子の海への同化よ」

「嫌だ……! 俺は、俺のままでいたい!!」

 七海悠太は、ガタガタと震える足で立ち上がり、頭を抱えながら、窓のない会議室の天井に向かって絶叫した。

「な、何だって言うんだァァァーーーッ!?」

 密室の隅で、空気清浄機が「シュン……」と虚しい音を立てる。

 彼らの吸う煙草の火種だけが、やがて消えゆく人類の命のように、赤く、か細く燃えていた。

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