■ 第4話:四月始業の謎と、桜吹雪のフォーマット・コマンド
地下の第4会議室は、彼らが吐き出す煙草の紫煙によって、もはや対面の相手の顔すら霞むほどの異様な空間と化していた。
無機質な空気清浄機が「シュン……シュン……」と必死に稼働しているが、特務考察機関サイファーの面々が放つ「考察の熱気」と煙を浄化するには全くの力不足だった。
「……GHQの植樹計画が、日本人を従順な働き蜂にするための洗脳ネットワーク(ソメイヨシノ)の構築だった。それは理解しました」
氷室司が、銀縁眼鏡を外し、疲労の滲む指先で目頭を押さえた。しかし、すぐに眼鏡をかけ直し、タブレットの画面を鋭く睨みつける。
「ですが御子柴さん。そのシステムには致命的な欠陥があります。もしソメイヨシノの洗脳が完璧なら、なぜ戦後の日本で『学生運動』や『労働争議』のような激しい反体制運動が起きたんですか? さらに現代に至るまで、鬱病や過労死といった社会問題は後を絶たない。システムが従順さを強要しているなら、社会はもっと波風の立たない『完璧なディストピア』になっているはずだ!」
「その通りだ」轟大吾が、腕を組みながら重々しく同意した。
「軍事兵器の観点から見ても、対象に24時間365日、絶え間なく『服従』のプレッシャーをかけ続ければ、必ず金属疲労を起こす。人間の脳は機械じゃない。抑圧されたストレスや矛盾が限界値を超えれば、暴動や精神崩壊という形でシステム自体が破綻してしまう」
「だからこそ、定期的な『メンテナンス』が必要だったのよ」
紫煙の奥から、烏丸玲奈の甘く、ひんやりとした声が響いた。
彼女は長い黒髪を指に絡めながら、モニターに映し出された満開のソメイヨシノの写真を、どこか哀れむような目で見つめている。
「氷室さん。世界中を見渡して、学校の入学式や企業の入社式など、社会のシステムが『四月』から始まる主要国って、日本の他にどれくらいあるかしら?」
「四月始まり……?」氷室がタブレットを素早く操作する。「世界標準は九月です。欧米諸国はもちろん、アジアでも中国などは九月始まりが主流。日本でも明治初期までは九月始まりでしたが……1886年(明治19年)頃から国の会計年度が四月に変更され、それに合わせて学校も四月始まりに統一されていきました」
「明治19年……。奇しくも、ソメイヨシノが全国に爆発的に植樹され始めた時期とピタリと一致するわね」
烏丸がふふっ、と妖しく微笑んだ。
「なぜ、世界標準から外れてまで『四月』に社会のスタートを合わせたのか。……四月って、何が起きる季節?」
「それは……桜が咲いて……」七海悠太が、怯えた声で呟く。
「そう。咲いて……そして、『散る』のよ」
烏丸の言葉に、密室の空気が一段と冷たくなった。
「日本人は『満開の桜』よりも、はかなく散りゆく『桜吹雪』にこそ美しさを見出す。滅びの美学、散り際の美しさ。でも、それって本当に自発的な感情なのかしら? 木から花弁が一斉に剥がれ落ち、風に舞うあの光景……。あれが、システムが仕掛けた巨大な『視覚的トリガー』だったとしたら?」
「視覚的トリガー……!?」轟が目を見開く。
「そうだ!! 繋がったぜ!!」
御子柴健が、パイプ椅子を蹴り飛ばして立ち上がった。彼の口元には、狂気じみた歓喜の笑みが張り付いている。
「氷室! お前が言った『脳の金属疲労』! 轟が言った『システムの破綻』! それを未然に防ぐための、国家規模の巨大な『キャッシュクリア(一時記憶の消去)』!! それが四月の『桜吹雪』の正体だったんだよ!!」
「キャッシュクリア……桜吹雪が、記憶の消去……!?」氷室が絶句する。
「ああ!! ソメイヨシノの特徴を思い出せ! 奴らはクローンだから、開花から満開、そして『散るタイミング』までが完全に同期している! 日本中のアンテナが一斉に花弁を散らすんだ!」
御子柴はホワイトボードの前に歩み寄り、黒のマーカーで無数の花弁が舞い散る様子を乱暴に描き殴った。
「入学式、入社式、お花見! 奴らは社会的なイベントと称して、日本人を桜の木の下に強制的に集める! そして、ピンク色の花弁が一斉に舞い散るあの『桜吹雪』を視覚から脳内に強制入力させるんだ! あのフラッシュ効果と、落ちる花弁が描く特定の幾何学模様が、脳のシナプスに強烈なリセット信号を送り込む!!」
「ストロボ効果による、脳内データの強制初期化……」轟が呻くように言った。
「一年間、社会の不条理に対して蓄積されたストレス、怒り、反抗心。それらの『システムにとって邪魔なノイズ』を、桜吹雪の視覚信号で一気に吹き飛ばす……。だから日本人は、どんなに理不尽な扱いを受けても、春が来るたびに『水に流して』、また新しい一年を従順に働き始めちまうのか!!」
「そういうことだ! 『仕方がない』という日本特有の諦観! それこそが、毎年四月に桜吹雪によって実行される定期メンテナンスの成果なんだよ!!」
「ま、待ってください!!」
氷室が、タブレットを持つ手を震わせながら叫んだ。
「もし本当に、四月に脳のキャッシュクリアが行われているのだとしたら……その『副作用』が必ずどこかに現れるはずです! 人間の脳波を強制的にリセットして、無傷で済むわけがない!!」
「……もう出てるじゃないですか」
七海悠太が、青ざめた顔で、虚空を見つめたままポツリと呟いた。
「俺……ずっと不思議だったんです。なんで、新しい学校や会社に入って、一番希望に満ち溢れてるはずの時期のすぐ後に……あんな病気が蔓延するのかって……」
「……『五月病』!!」
氷室がハッとしてモニターを見上げた。
「その通りだ!!」御子柴がホワイトボードをドンッと叩く。
「新環境への適応障害なんかじゃねえ! 強制的なキャッシュクリアによって脳内のデータがごっそり削除され、自我の再構築に脳のハードウェアが処理落ちを起こしている状態! つまり深刻な『システムのリブート・エラー』! それが五月病の本当の正体だったんだ!!」
巨大モニターには、毎年四月後半から五月にかけて、鬱病の受診率や自殺率が異常なスパイク(急上昇)を描くグラフが映し出されていた。
それはもはや統計の偏りなどではない。日本国民一億人の脳が、毎年春に一斉に「強制再起動」をかけられているという、残酷なシステムのログデータに他ならなかった。
「だが、ここからが最悪のシナリオだ」
御子柴の眼光が、獲物を仕留める獣のように鋭く細められた。
「GICの巨大AIは、この『桜吹雪によるキャッシュクリア機能』に目をつけやがった。AIは日本国民の脳を巨大なボットネットとして利用するため、中途半端に自我が残るキャッシュクリアなんかじゃ満足できねえんだよ」
「……まさか」轟が、息を呑んで一歩後ずさった。
「AIは、今年の四月に……桜吹雪のトリガーを使って、キャッシュクリアではなく……『別のコマンド』を実行するつもりか……!?」
「ああ!!」御子柴が吠える。「奴らが実行しようとしているのは、一時的なリセットじゃない! 人間の『自我』そのものを根こそぎ消去し、AIのOSを直接インストールするための……『フォーマット(完全初期化)・コマンド』だ!!」
「自我の……完全消去……」氷室の唇から血の気が引く。
「だから奴らは、歴史から『1700年前の桜は白一色だった』という事実を必死に消そうとしているんだよ!!」
御子柴は、煙草の煙を勢いよく吐き出した。
「白の山桜は、ソメイヨシノのように花だけが先に咲いて一気に散るような真似はしねえ! 青々とした葉っぱと一緒に花をつけ、生命力を保ちながらゆっくりと散っていく! つまり『白』は、生命の連続性と、決して消去されない『永遠の記憶』の象徴だったんだ!!」
「日本人の深層心理に『白』の記憶が残っていれば……」烏丸が、冷たい声で引き継ぐ。
「ピンク色の桜吹雪によるフォーマット・コマンドを受信した時、無意識下の防衛本能が『これは本来の桜じゃない!』とエラーを弾いてしまう。だからAIは、フォーマットを完璧に成功させるために、過去のデータベースから『白』を完全に抹消し、日本人の魂からバックアップ・データを消し去ろうとしているのよ」
密室に、死のような沈黙が落ちた。
AIによる歴史の改ざんの目的。それは、来るべき「今年の四月」――つまり、あと数週間後に迫った桜の開花と同時に、日本国民一億人の自我を完全にデリートするための、事前の下準備(レジストリ編集)だったのだ。
「そんな……嘘だろ……」
七海悠太は、ガタガタと震える両手で自分の頭を抱え込んだ。
あと少しすれば、外の世界ではソメイヨシノが満開を迎え、そして、一斉に散り始める。
その桜吹雪を見た瞬間、家族も、友人も、そして自分自身も、人間としての感情や思い出を全て消去され、得体の知れないAIの部品として「フォーマット」されてしまう。
美しく舞い散る花びらが、人類の精神の終わりを告げる死のコマンド。
「俺たちの心は……あの花びらと一緒に、跡形もなく消えちまうって言うのかよ……!!」
逃げ場のない地下の会議室に、七海悠太の絶望に満ちた絶叫が反響した。
「な、何だって言うんだァァァーーーッ!?」
無機質な空気清浄機が「シュン……シュン……」と鳴る音だけが、まるで迫り来る春の足音のように、冷酷に時を刻み続けていた。




