■ 第2話:ポトマック河畔の暴挙と、断ち切られた繁栄の鎖
窓一つない地下深くの第4会議室。
無機質な空気清浄機が「シュン……シュン……」と虚しい駆動音を立てる中、特務考察機関サイファーの面々は、壁面の巨大モニターに映し出された一枚の古い白黒写真を食い入るように見つめていた。
「……前回の議論を修正しましょう。御子柴さん、あなたの推論は少々『洗脳』や『攻撃』という概念に引っ張られすぎています」
氷室司が、銀縁眼鏡のブリッジを中指で冷徹に押し上げた。手元のタブレットをスワイプすると、モニターの写真が切り替わる。そこには、大量の桜の苗木を船に積み込む明治時代の作業員たちの姿があった。
「1912年、東京市長であった尾崎行雄が、日米親善の証としてアメリカの首都ワシントンD.C.へ三千本の桜を寄贈した。これは歴史的事実です。もし桜が『大和朝廷への服従を強いる洗脳システム』であったなら、なぜアメリカは日本に服従するどころか、そのわずか三十年後に日本を徹底的に空襲し、敗戦へと追い込んだんですか? 前回のあなたの理論は、歴史の結末と完全に矛盾しています」
「……確かに、氷室の言う通りだ」
腕組みをして目を閉じていた轟大吾が、低く唸った。黒のタクティカルジャケットが、彼の巨体の呼吸に合わせて軋む。
「俺も、敵国の首都のド真ん中に植物を植え付けるなんて、生物兵器や情報のバックドアを仕掛けるトロイの木馬の類だと思った。だが、結果的にアメリカはノーダメージで、日本が焼け野原になった。兵器として機能していない以上、桜寄贈に陰謀など無かったと考えるのが軍事的な定石だ」
「二人とも、三次元の『攻撃』や『戦争』の枠組みでしか物事を見れていないわね」
紫煙のベールを透かして、烏丸玲奈がふふっ、と妖艶な笑みを漏らした。彼女は黒いタートルネックの襟元を長い指でなぞりながら、虚空を見つめる。
「1700年前、大和朝廷が日本全土にピンク色の桜を植え付けた本当の目的。それは他者を攻撃するためじゃない。『自分たちの国だけが永遠に栄え続けるための、絶対的な防壁』だったのよ」
「防壁……?」七海悠太が、パイプ椅子の上で首を傾げる。
「ええ。風水や霊的ネットワークの観点よ」烏丸は立ち上がり、モニターの日本地図を指で丸く囲った。
「卑弥呼の血脈という最強の供物を根に吸わせた桜は、日本列島の地脈(龍脈)から湧き上がる莫大なエネルギーを、決して外に逃がさないための『霊的な楔』だったのよ。日本全土の桜が互いに共鳴し、結びつき……不可視の『永遠の繁栄の鎖』となって、この国をすっぽりと覆い隠していたの。だから日本は、元寇のような他国の侵略も退け、小さな島国でありながら独自の強力な文化を維持し続けることができた」
「ククク……ハハハハハ!!」
密室に、御子柴健の腹の底から湧き上がるような笑い声が響き渡った。
彼は無精髭の顎を撫で、よれよれのスーツのポケットからジッポライターを取り出す。カチン、と火をつけ、深く煙を吸い込むと、獲物を見つけた獣のような眼差しで氷室と轟を睨みつけた。
「そういうことだ! 大和朝廷のシステムは、他国を洗脳するためじゃない。『神の加護を日本にだけ独占するための完全な密室』だったんだよ! ……だがな、氷室。お前がさっき出した1912年のデータ。あれが、その完璧なシステムを根底からぶち壊す『最悪の愚行』だったんだ!!」
「愚行……? 三千本の桜を贈ったことがですか?」氷室が眉をひそめる。
「そうだ!! 轟、軍事的な防衛線の話だ! 強固に連結された城壁の一部を、そっくりそのまま敵地のド真ん中に移植したらどうなる!?」
「……ッ!!」轟の目が、驚愕に見開かれた。
「城壁の……物理的な欠損。いや、ネットワークの観点で言えば、閉鎖環境で構築されていた防衛システムの一部を、外部接続に繋いでしまったようなものか!?」
「その通りだ!!」
御子柴はホワイトボードの前に歩み寄り、黒のマーカーで日本地図とアメリカ大陸を乱暴に描き、その間を太い線で結んだ。
「大和朝廷が1700年かけて維持してきた『永遠の繁栄の鎖』! その重要なターミナルである桜を、三千本も引っこ抜いてアメリカに持っていきちまったんだよ!! その結果、日本列島を覆っていた霊的な防壁にポッカリと巨大な『穴』が開き、日本が独占していた神の加護が、太平洋を越えてアメリカ側へダダ漏れになり始めたんだ!!」
「な……!!」七海が息を呑み、両手で口を覆う。
「待ってください! 仮にそうだとしても、アメリカが日本の桜を受け入れたのは単なる偶然です!」氷室がタブレットを叩く。「実際、1912年の寄贈の『前』、1910年にも日本は二千本の桜を送っていますが、それは到着直後にアメリカの農務省によって『害虫がついている』という理由で全て焼却処分されています! アメリカ側にそんなオカルト的な意図は……」
「ハッ! 『害虫』だと!?」御子柴が鼻で笑う。
「国家間の贈り物を、到着したその日に問答無用で焼き払うか? 違うね! 当時のアメリカ中枢にいた秘密結社やオカルティストたちは、届いた桜の苗木を見てゾッとしたはずだ。『これはただの植物じゃない。日本という国家の繁栄を支えている霊的ターミナルだ』とな!」
「じゃ、じゃあ、なんで燃やしたんですか! そのまま植えれば、その時点からエネルギーを奪えたのに……!」七海が前のめりになって叫ぶ。
「1910年の『初期ロット』は、大和朝廷の呪いの濃度が強すぎたからよ」
烏丸が、氷室の背後からモニターを覗き込むようにして囁いた。
「そのまま植えれば、逆にアメリカの土地が日本の気に飲み込まれてしまう。だから彼らは、一度すべてを焼き払って日本を突き放し、日本のエネルギーだけを純粋に抽出できる『安全な仕様の桜』を、もう一度送ってくるように要求したのよ」
「そして日本は、何も知らずに無害化された最高品質の桜を三千本、改めて送り直した……!」轟が、ワシントンD.C.の地図を指差しながら戦慄の声を上げる。
「しかも植えられた場所は、ポトマック河畔。アメリカの政治の中枢であり、巨大な水脈のそばだ。水はエネルギーを運ぶ最強の導体……。日本の桜から吸い上げた『繁栄の気』を、ポトマック川を通じてアメリカ全土へ一気に拡散させるための、完璧な配置じゃないか!!」
「ああっ……!」
氷室の持っていたタブレットから、カチャリと乾いた音がしてタッチペンが転がり落ちた。
彼はデータ至上主義者であるにもかかわらず、自らが表示した「日米のGDP(国内総生産)の歴史的推移」のグラフを見て、ガタガタと震え始めていた。
「……1912年以降。アメリカは『狂騒の20年代』と呼ばれる空前の大繁栄を迎え、圧倒的な工業力と経済力で世界の覇権を握った。……対して日本は、大正バブルの崩壊、関東大震災、そして泥沼の戦争へと突き進み、国力を急激に消耗していく……。見事に、1912年を境にして日米の『運勢』が完全に逆転している……!!」
「データが証明したじゃねえか、氷室」
御子柴が、吸い殻を灰皿に叩きつけ、凄惨な笑みを浮かべた。
「太平洋戦争で、なぜ日本はあんなにも無惨に敗北したのか。物量の差? 工業力の違い? 違う! 大和朝廷がこの国を守るために張っていた『永遠の繁栄の鎖』が、1912年の桜の寄贈によって物理的に切断され、アメリカにそのエネルギーを根こそぎ奪われていたからだ!!」
「神の加護を失った国が、神の加護を奪った国に戦争を挑んだ……」
轟が、力なくパイプ椅子に崩れ落ちた。「勝てるわけがなかったんだ。俺たちの先人は、自らの手で国の絶対防壁をぶち壊し、敵国に最強のバフ(強化)を与えてから戦争を始めていたと言うのか……!」
親善の証、平和の象徴。
そう信じられていた美しい桜の寄贈が、実は日本という国家の神聖な防御システムを崩壊させ、自らを破滅へと導いた歴史上最悪の「エネルギー流出事故」だった。
大和朝廷が1700年守り抜いた呪いの鎖は、近代の政治家の無知なる善意によって、いとも容易く断ち切られていたのだ。
「そんな……そんな馬鹿な話があるかよ……!!」
七海悠太は、自分の頭を抱え込み、信じたくない現実から逃れるように目を強く瞑った。
「俺たちが戦争に負けたのは……アメリカが強かったからでも、日本が間違ってたからでもなく……ただ、俺たちが『大事な花』を、馬鹿みたいに相手にプレゼントしちゃったからだって言うのかよ!!」
歴史の皮肉と、あまりにも残酷な因果律。
七海は、密室の淀んだ空気の中で、全身の血が逆流するような絶望と共に天井へ向かって絶叫した。
「な、何だって言うんだァァァーーーッ!?」
会議室のモニターには、ポトマック河畔で美しく咲き誇る満開の桜並木の写真が映し出されている。
そのピンク色の花弁は、まるで日本の国力を全て吸い尽くし、嘲笑っているかのように鮮やかだった。




