103.契約書
「その石をあなた、戸塚さんにお渡ししたのは私です。このビルの外観を見て何も思い出せないのは無理もありません。このビルでお渡ししたのではありませんので」
女性は言った。
「少々お待ちください」
女性は別の部屋へと向かった。そして、その後一枚の紙を持って戻ってきた。
「こちらの契約書に覚えはございませんか?」
女性はオレに紙を渡した。それはオルダの譲渡契約書であった。
契約書には、譲渡日について、その目的について、オルダの声が聞こえるようになることについて納得をしたこと、オルダについてインターネット等不特定多数の者に公開しないこと、などが書かれており、乙に佐々木氏、甲にオレの名前が書かれていた。そして、甲のオレの名前は、明らかにオレの筆跡であった。
「記憶は無いです。ただ、筆跡は間違いなくオレのものです」
「そうですか。この契約を結んだあと、主人のオルダを戸塚さんにお渡ししました」
女性は言った。
「戸塚さんは自分の意志で契約をされたのかと思っていましたが、記憶障害が残っていたのですね。そうしますと、この契約書も無効なのかもしれません」
「あ、いえ、自分は今、オルダハンターとして生計が成り立っていますので、今となってはむしろありがたいと思っています」
「それならば良かったです」
「オレがこのオルダをいただいた場所はどこなのでしょう?」
「当時夫が入院していた高輪の病院です。戸塚さんに足を運んでいただきました」
「オレが自分で行ったんですか?」
「はい、来ていただきました」
女性は嘘を言っているとは思えなかった。
畑谷をそれを聞いて、
「自分で移動したことも覚えてないんすか?」
「全く」
「無意識で移動っすか。怖っ」
「誤解させたようで申し訳ありません。娘の運転する車で、群馬の病院から移動いただいた形です」
女性がオレたちの会話を遮るように言った。
「ああ、なるほど」
オレは頷いた。
「あの~、オレ、誰かに連れられてオルダ探しを始めてした気がしていて、その時にオルダを貰ったような気がしているんですけど」
女性は首を傾げた。
「もしかしたら、娘が高輪の病院に移動する前にオルダに関する説明をしたのかもしれないです」
なるほど。その可能性もあり得る。高輪の病院に行った記憶が残っていないのだから、オルダを手にした経緯に記憶違いがあってもおかしくはない。
オレが考え込んでいると判断したのかもしれない。畑谷が突然話を変えた。
「旦那さんが亡くなったのを機に宝石商はやめられたんですか?」
「ええ。相続税を払わなければならなくて、銀座の路線価は高額ですから、貯金の大部分と店の宝飾品をほとんど売り払ってなんとか払いきった形です」
「そうなんすね」
「このビルを売ってしまっても良かったのですが、他の土地で暮らせる気がしなかったものですから」
「オルダも全部売ってしまわれたんすか?」
「いいえ、一つだけ残しております」
「残ってるんすか?」
「はい、あちらに」
女性がアンティーク調のキャビネットを指した。ガラス張りの扉の奥に、少し水色にも見える透明度の高いラベンターヒスイが飾られていた。
「戸塚さんの石もそうですが、主人は緑色のものよりも白っぽいヒスイが好きでして、あれだけは家に残していたのです」
ヒスイは鏡面加工されており、
「オレの店にあった加工と似てるっすね」
と畑谷が言った。
オレは頷いた。かつてオークションにかけられたものかもしれないとオーナーが言ったのは、佐々木氏の加工方法だったからなのかもしれない。
同時に、オレは疑問を持った。
オレのオルダは元々佐々木さんのものである。だから、オルダが共鳴しなくても不思議はない。
しかし、なぜ畑谷のオルダは共鳴しないのだろう。契約書の内容にも引っかかる部分があった。『不特定多数の者に公開しないこと』という部分だ。もしかしたら、と思った。
「あの、こちらの契約、稲塾大学の岡田教授とも結ばれましたか?」
女性は「岡田教授…」と呟いて、
「髪の毛がモジャモジャの?」
「はい、そうです」
「ええ、主人が亡くなる直前くらいですか、一度店に来られました」
「店に来たんですか」
「どこから聞いたのかは分かりませんが、うちでオルダを扱っていると言う話を聞いたようで。でも、売り物になるようなオルダはオークションにかけておりましたので、うちに残っていたのは、そこのオルダの他は主人が昔集めた価値の低いものだけで。それをいくつかお譲りしました。その際に主人が契約書を交わしておりました」
「昔集めていたというのは、例えば…根音村で収集されたものであったり?」
女性は目を丸くした。
「根音村のことをご存知で?」
「ああ、はい」
「根音村のものも含まれていたかとは思います。かれこれ30~40年前でしょうか。主人がオルダの存在に気づき、色んな土地に足を運び、オルダ探しをしておりまして、その時にたまたま訪れた根音村にオルダの収集家がおられまして」
オルダの収集家、おそらく根屋家のことだろう。
「その方から譲っていただいたのを機に、オルダオークションを開催するようになったんですよ」
「そうだったんですね」
「もし、その方に出会っていなかったら、私は相続税を払えなくて、このビルを手放していたかもしれません」
オルダでどれだけ儲かったんだ、と内心思ったが口には出さなかった。
しかし、これで分かったことがある。畑谷のオルダは、岡田教授が佐々木氏から譲り受けたものであることだ。そして、そのオルダは根屋家から佐々木氏が購入したものの可能性があり、根屋家が持っていた時点で既に笹嶺神社のオルダと挨拶していた可能性がある。もちろん、岡田教授が根屋家を訪れた際に挨拶をしていた可能性もある。
そして、オレのオルダもまた佐々木氏のもので、佐々木氏が笹嶺神社で挨拶を済ませていたのだろう。
話を聞き終えた後、オレは女性に訊いた。
「お仏壇にお線香をあげてもよろしいでしょうか?」
奥の和室に仏壇が見えた。
「ええ、ぜひ」
女性は言った。
仏壇には男性の遺影が飾られていた。
「こちらが佐々木さんですか?」
「ええ」
顔を見ても、やはり記憶は戻らなかった。
線香をあげ、女性に礼を言い、オレたちは佐々木ビルを後にした。




