第8話 勝利の後始末
白い石の床が戻ってきた。
黒い広間も、焦げた臭いも、ガルヴァンの悲鳴も、いきなり遠ざかった。
けれど、右肩の痛みだけは残っていた。
いや、残っているどころではなかった。
戻っている。
骨が伸びる。
肉が形を取り直す。
皮膚の下を、細い光が這う。
指の輪郭ができるたびに、焼けるような痛みが走った。
「あ、ああ……」
声が漏れた。
自分の声ではない。
勇者リュシアンの声だった。
それでも痛がっているのは僕だった。
白い部屋の床に膝をつく。
左手で右肩を押さえようとして、触れるのが怖くて止まった。
そこにはもう、腕が戻りかけていた。
なかったはずのものが、またある。
あるはずのものが、さっきまでなかった。
その事実が気持ち悪かった。
サリアがそばに膝をついた。
「再生は順調です」
静かな声だった。
僕は顔を上げられなかった。
順調。
その言葉が、胸の奥に冷たく落ちる。
切り落とされた腕が戻っている。
だから順調。
魔王は死んだ。
だから成功。
僕が何を思ったかはそこに入っていない。
「痛みは残りますか」
サリアが聞いた。
僕は答えられなかった。
痛い。
でも、何が痛いのか分からなかった。
右肩なのか。
戻っていく腕なのか。
それとも、さっき見たものなのか。
自分の腕が魔王の口へ押し込まれる光景が、まだ目の奥に焼きついている。
白い腕。
細い指。
切り口から滲む赤と白い光。
あれは僕の身体だった。
僕のものではないと思っていた。
でも、痛みは僕のものだった。
「……返して」
声が漏れた。
自分でも、何に向けた言葉なのか分からなかった。
腕は戻っている。
それでも、返してほしかった。
何を。
身体か。
名前か。
昨日までの自分か。
分からない。
イリアは少し離れたところで、大剣についた灰を払っていた。
こちらを見ることもなく言う。
「戻っているだろう」
その声に、胸の奥が冷えた。
「そういう話じゃ……ない」
かすれた声だった。
イリアがようやくこちらを見た。
「――なら何の話だ」
「僕の腕です」
「今もお前についている」
「……切ったじゃないですか」
「必要だった」
短い言葉だった。
そこには謝罪も、迷いもなかった。
「ガルヴァンは喰わなかった。なら喰わせるしかない。全身を近づければ暴れられる。腕だけなら早い」
イリアは淡々と言った。
「実際、終わった」
終わった。
それだけだった。
僕は右腕を見た。
指が戻っていた。
まだ薄い光が皮膚の下を走っている。爪の形が整い、手首の筋が浮かび、さっきまでなかった手が当たり前のようにそこにある。
動かしてみようとして、できなかった。
怖かった。
動いたら、それが本当に自分の腕だと認めることになる気がした。
白い部屋の奥で、扉が開いた。
アニエスが入ってきた。
白衣は相変わらず汚れていない。
魔王城の灰も、血も、焦げた臭いも、この人には届いていないように見えた。
「終わったね」
彼女は言った。
イリアが頷く。
「核は消えた」
「器の損耗は?」
「右腕を使った。再生中だ」
アニエスの視線が僕の腕へ落ちる。
心配している目ではなかった。
神社で見た目と同じだった。
ただ、観察している。
「初回で腕を落としたか」
アニエスは少しだけ目を細めた。
「ずいぶん思い切ったね」
「喰わなかった」
「記憶が残っていたんだろう」
「面倒な魔王だった」
「でも、これで終わった」
アニエスは薄い板へ指を滑らせた。
赤く瞬いていた光が、静かに消える。
「ガルヴァンの核反応は消失。昨日の討伐記録に矛盾はなくなった」
「昨日の……?」
僕は顔を上げた。
アニエスはこちらを見ない。
「聖都にはすでに告げてある。猿の魔王ガルヴァンは、勇者リュシアンによって討たれた、と」
「でも、まだ生きていたんでしょう」
「核が残っていた」
「それは――生きていたのと何が違うんですか」
「人々にとっては違わない」
アニエスは淡々と言った。
「彼らが知る必要があるのは、ガルヴァンがもう聖都を脅かさないということだけだ」
胸の奥が冷たくなった。
「じゃあ、今のは何だったんですか」
「後始末だよ」
アニエスは言った。
「すでに告げた勝利を、事実にするための後始末」
勝利を、事実にする。
そのために、僕の腕は切られた。
そのために、僕の腕は魔王の口へ押し込まれた。
「僕の腕で……」
言葉が震えた。
「どうして、あんなことができたんですか」
アニエスが、そこで初めて僕を見た。
「君の身体は、普通の肉ではない」
静かな声だった。
「勇者リュシアンの器は、光の精霊を編んで作られている」
光の精霊。
聞いたことのない言葉だった。
けれど、さっき見た白い光が浮かぶ。
切り口から滲んでいた、赤と白の光。
ガルヴァンの喉の奥で弾けた光。
「あれが……」
「そう。魔王の核は、闇の精霊と深く結びついている。勇者の器の光は、その核に触れると内側から焼く」
「だから、腕だけでも」
「届けばいい」
アニエスは言った。
「全身である必要はない。器の一部でも、核まで届けば反応する」
意味は分かった。
分かってしまった。
僕の身体は、魔王を斬るためのものではなかった。
魔王の中へ入って、内側から焼くためのものだった。
剣も、外套も、勇者という名前も、たぶんそのためにある。
魔王の前まで、この身体を運ぶために。
「じゃあ、僕は……」
言いかけて、止まった。
言葉にしたくなかった。
武器。
材料。
供物。
どれも違う気がした。
でも、どれも完全には間違っていない気がした。
「器だけでは動かない」
アニエスは言った。
「器は形を戻せる。腕も、脚も、喉も、目も。けれど、魂が入っていなければ立てない。魔王の前へは行けない。恐怖も、判断も、反応もない」
「そのために……」
「そう」
アニエスは頷いた。
「君の魂を入れた」
必要とされている。
でも、それは僕自身を見られているということではなかった。
腕が必要だった。
魂が必要だった。
勇者リュシアンという形を動かすものが必要だった。
それだけだ。
僕は右腕を抱えた。
戻りかけた腕は、まだ熱を持っている。
「……隠すんですか」
僕は聞いた。
「何を?」
「ガルヴァンが、まだ完全には死んでいなかったことを」
「隠すというより、知らせない」
アニエスは薄い板を閉じた。
「昨日の勝利は、今日の処理で事実になった。人々に伝えることは変わらない」
「腕を切ったことも?」
「不要だ」
「僕が何もできなかったことも?」
「不要だ」
「剣を抜かなかったことも?」
「不要だ」
すべて、同じ声だった。
僕の中で何かが沈んでいく。
思い描いていた勇者像とはあまりに違っていた。
「人々は勇者の勝利を信じる。それで聖都は明日も動く」
アニエスは言った。
「途中の手順は、希望にはならない」
希望。
その言葉が、ひどく遠かった。
僕は勇者の身体をしている。
人々から見れば、たぶん希望なのだろう。
でも、僕自身は今、希望から一番遠い場所にいる気がした。
イリアが扉へ向かう。
「休ませろ。次に使えなくなると困る」
次。
その言葉に、身体が震えた。
またある。
ガルヴァンだけではない。
魔王は、まだいる。
僕は顔を上げた。
「次も……同じことをするんですか」
イリアは振り返らなかった。
「必要ならな」
それだけ言って、部屋を出ていった。
サリアも立ち上がる。
扉の前で一度だけ振り返った。
「眠れるなら、眠ってください」
穏やかな声だった。
「再生には休息が必要です」
僕は笑いそうになった。
眠れるわけがない。
でも、声にはならなかった。
サリアも部屋を出ていく。
残ったのは、アニエスだけだった。
彼女はしばらく僕を見ていた。
「恨むかい」
聞かれた。
僕は答えられなかった。
恨む。
たぶん、恨んでいる。
でも、アニエスがいなければ、僕は神社で死んでいた。
助けてと頼んだのは僕だ。
生きたいと願ったのも僕だ。
その結果がこれだとしても、最初の言葉は僕の口から出た。
「分かりません」
そう答えるしかなかった。
アニエスは小さく頷いた。
「今はそれでいい」
白衣の裾が揺れる。
「君はまだ、壊れていない」
それが慰めなのか、確認なのか分からなかった。
アニエスも部屋を出ていった。
扉が閉まる。
白い部屋に、一人残された。
鐘は鳴らない。
もう昨日、鳴っている。
人々はもう喜んだ。
祈った。
勇者リュシアンの勝利を信じた。
僕が見たものは、その勝利の裏側だった。
僕は白い部屋の壁にもたれ、戻ったばかりの右腕を見た。
指を動かす。
動いた。
ちゃんと動いた。
それが怖かった。
戻っている。
形は戻っている。
でも、切り落とされた瞬間の感覚は残っている。
イリアの手に握られていた白い腕も。
ガルヴァンの口の中で弾けた光も。
戻っていないものの方が、多かった。
僕は右手を握った。
川上さんの目が浮かぶ。
助けて。
あのとき動かなかった手。
今は戻っている手。
でも、やっぱり何も掴めていない。
外は静かだった。
誰も知らない。
僕が今日、何をされたのか。
勇者リュシアンの勝利が、何でできているのか。
その静けさの中で、僕は声を殺して息を吐いた。
泣いているのか、吐きそうなのか、自分でも分からなかった。
どれくらい、そうしていたのか分からない。
白い部屋には窓がなかった。
外の光も、時間を告げる音もない。
床に刻まれた模様だけが、ゆっくりと明滅している。
その光が、戻ったばかりの右腕の皮膚の下にも残っているように見えた。
扉が開いた。
サリアだった。
彼女は部屋に入ってくると、まず僕の右腕を見た。
顔を見るより先に、腕を見た。
「再生は終わりましたね」
穏やかな声だった。
僕は返事をしなかった。
サリアは近づき、膝を折る。
右手に触れられそうになって、思わず腕を引いた。
サリアの指が、空中で止まる。
「痛みますか」
「……触らないでください」
声は小さかった。
けれど、サリアはそれ以上近づかなかった。
「分かりました」
本当に分かっているのかは、分からなかった。
サリアは立ち上がる。
「お部屋へ移ります」
「部屋……?」
「勇者リュシアン様のために用意された部屋です」
その言葉で、胸の奥がまた冷えた。
僕のためではない。
勇者リュシアンのための部屋。
サリアは扉の方へ一歩下がった。
「歩けますか」
歩けない、と言いたかった。
けれど、この身体は立ててしまうのだろう。
腕も戻った。足もある。傷も残っていない。
だから問題ない。
そう判断される。
僕は壁に手をついて立ち上がった。
右手で壁に触れた瞬間、肩がびくりと震えた。
手はある。
指もある。
力も入る。
それが、まだ怖かった。
サリアは何も言わず、先に廊下へ出た。
白い部屋の外には、細い廊下が続いていた。
来るときに見た白い石と同じ壁。けれど、ここは光が弱い。床に刻まれた模様も少なく、人の気配もほとんどなかった。
誰にも会わない道を選んでいる。
そう思った。
僕が何をされたのか。
まだ腕の再生が終わったばかりであること。
ガルヴァンが本当は残っていたこと。
見られてはいけないものを、見られない場所へ移している。
いくつか角を曲がった先で、サリアは一枚の扉の前に立ち止まった。
白い扉だった。
中央には、胸元の紋章と同じ形が刻まれている。
「ここです」
サリアが言った。
「勇者リュシアン様のお部屋です」
扉が開く。
中は、静かだった。
白い壁。
薄い布のかかった寝台。
窓際の机。
衣装棚。
水差しと杯。
何もかも整っていた。
けれど、僕のものはひとつもなかった。
部屋というより、誰かの帰還を待つために置かれた箱のようだった。
「休んでください」
サリアは言った。
「明日、改めて説明があります」
明日。
その言葉が遠く聞こえた。
今日がまだ終わっていないのに、もう次の日の話をされている。
「……鍵は」
僕は訊いた。
「かかるんですか」
サリアは少しだけ黙った。
「――内側からは開きます」
「外へ出てもいいんですか」
「今夜は、お控えください」
それは答えになっていなかった。
サリアは静かに頭を下げる。
「何かあれば、お呼びください」
どうやって。
そう聞きかけて、やめた。
呼べば来る。
それは、助けに来るという意味ではない。
扉が閉まる。
僕は勇者の部屋に一人残された。
寝台の端に腰を下ろす。
柔らかかった。
その柔らかさが、気持ち悪かった。




