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光よ、満ちろ  作者: 織 航(しき わたる)


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第9話 光の院

 眠れたのかどうか分からなかった。

 目を開けると、白い天井があった。

 昨日と同じだった。

 白い壁。

 白い寝台。

 薄い布。

 窓の外から差し込む朝の光までどこか白く見えた。

 僕はしばらく動かなかった。

 身体は、もう戻っている。

 そう分かっていた。

 指を動かせば動く。

 痛みも、昨日ほどではない。

 息もできる。

 けれど、それだけだった。

 眠ったからといって昨日の広間が消えるわけではない。

 黒い灰。

 焼けた臭い。

 イリアの声。

 サリアの光。

 ガルヴァンの喉の奥で弾けた白い光。

 どれも、目を閉じるたびに戻ってくる。

 僕は右手を見ようとして、やめた。

 見なくても、そこにあることは分かっていた。

 あるからこそ気持ちが悪かった。

 扉が叩かれた。

 返事をする前に喉が少しだけ強ばる。

 昨日、最後にこの部屋を出ていったサリアの声を思い出した。

 眠れるなら、眠ってください。

 再生には休息が必要です。

 眠れるわけがなかった。


「リュシアン様」


 扉の向こうから声がした。

 サリアだった。


「入ります」


 答える前に、扉が開いた。

 サリアは昨日と同じように静かな顔で入ってきた。

 手には畳まれた衣服を抱えている。白い布地に、金糸の刺繍が見えた。

 僕は寝台の上で身を起こした。


「……おはようございます」


 声は掠れていた。


「おはようございます」


 サリアは軽く頭を下げる。

 昨日と同じだった。

 穏やかで乱れがない。

 それが少し怖かった。


「再生の確認をします」


 サリアは近づき、僕の手首に視線を落とした。

 僕は反射的に手を引きかけた。

 サリアの指が止まる。


「触れても?」


 昨日はそんなふうに聞かれなかった。


「……はい」


 淡い光が手首から肘へ流れた。

 痛みはない。

 ただ、自分の身体を他人に確かめられている感覚だけが残った。


「安定しています」


 サリアは言った。


「今日の移動には支障ありませんね」


「……移動?」


「光の院へ向かいます」


 知らない言葉だった。


「どこですか」


「聖都の東側にあります。孤児院と救護院も兼ねています」


「僕が……そこへ?」


「はい」


「どうして?」


 サリアは少しだけ間を置いた。


「勇者リュシアン様は魔王討伐の後に必ず光の院を訪れます」


「……勝利報告ですか」


「報告ではありません」


 サリアは畳んだ衣服を椅子の背に置いた。


「儀礼です」


 儀礼。

 その言葉が、ひどく遠いものに聞こえた。


「人々は、勇者リュシアン様の姿を待っています」


「でも、僕は――」


 言いかけて、止まった。

 僕は勇者じゃない。

 そう言おうとした。

 けれど喉の奥で言葉が引っかかった。

 出ない。

 息はできる。

 声も出る。

 でも、その言葉だけが形にならない。

 僕は喉に手を当てた。

 サリアはそれを見ていた。

 驚いた様子はなかった。


「無理に言葉にしない方がよろしいかと」


「……今のは、何ですか?」


「勇者リュシアン様の存在を損なう言葉は、術式に阻まれることがあります」


 淡々としていた。


「存在を――損なう?」


「聖都の人々にとって、勇者リュシアン様は必要です」


「僕にとっては?」


 口から出た声は、自分でも驚くほど低かった。

 サリアは答えなかった。

 答えないことが答えになっていた。


「……行かなきゃ、駄目ですか」


「はい」


「昨日あんなことがあったのに」


「昨日のことがあったからです」


 サリアは言った。


「ガルヴァンの処理は終わりました。聖都には、勇者リュシアン様が健在であることを示す必要があります」


「――健在」


 笑いそうになった。

 健在。

 腕を切られて、魔王の口に押し込まれて、泣くことも吐くこともできないまま連れ戻された。

 それでも身体が戻っていれば健在なのだ。


「こちらが衣装です」


 サリアが抱えていた衣服を差し出した。


「着替えを手伝います」


「……自分でできます」


「分かりました」


 サリアは一歩下がった。

 服は白かった。

 白い上衣。

 金糸で縁取られた外套。

 胸元には、光を象った紋章が刺繍されている。

 綺麗だった。

 綺麗すぎた。

 服を替える。

 袖を通す。

 留め具をかける。

 最後に外套を肩へかけた。

 布は軽い。

 けれど、首の後ろに何か冷たいものが乗ったように感じた。

 サリアが勇者の剣を持ってきた。

 鞘に収まったままの剣。

 昨日、魔王城の広間で落ちていた剣。

 一度も抜けなかった剣。


「お持ちください」


 僕は剣を見た。


「これも必要なんですか」


「はい」


「抜かなかったのに――」


「人々は、剣を持つ勇者リュシアン様を知っています」


 サリアは少しだけ目を伏せた。


「武器じゃなくて……飾りですか」


「象徴です」


 サリアは否定しなかった。

 僕は剣を受け取った。

 重さはそれほどでもない。

 けれど、腰に下げると身体の片側だけが沈むような気がした。

 この剣ではガルヴァンを倒せなかった。

 倒す必要もなかった。

 必要だったのは剣ではない。

 それ以上は、考えたくなかった。

 部屋を出ると、廊下にはイリアがいた。

 鎧は着ていない。

 けれど腰には剣がある。

 立っているだけで空気が硬くなるようだった。

 

「歩けるな」

 

 イリアは僕を見ると、短く言った。

 問いではなかった。


「……はい」


「なら行くぞ」


 それだけ言って歩き出す。

 僕はサリアに促され、その後に続いた。

 廊下は長かった。

 白い石でできている。

 壁には細い文様が刻まれていて、ところどころに淡い光が流れている。

 人の声はほとんどしない。

 ここは城なのか、神殿なのか、研究所なのか。

 僕にはまだ分からなかった。

 ただ、どこを見ても白く、清潔で、冷たかった。

 外へ出る前に、大きな扉の前で足が止まった。

 扉の向こうから音が聞こえた。

 ざわめき。

 人の声。

 遠くで鳴る鐘。

 僕は息を止めた。


「顔を上げろ」


 イリアが言った。


「下を向くな」


「無理です」


「無理でもやれ」


 短い声だった。


「勇者リュシアンは、人前で震えない」


 僕は手を握った。

 震えている。

 たぶん、見えている。

 それでも、イリアは何も言わなかった。

 扉が開く。

 光が入ってきた。

 外は、眩しかった。

 聖都が広がっていた。

 白い石の街だった。

 高い壁。

 整った道。

 赤茶色の屋根。

 遠くには塔があり、その上で旗が揺れている。

 道の両側には人がいた。

 多すぎるほどいた。

 誰かが息を呑む音が聞こえた。

 次の瞬間、声が広がる。


「勇者様だ!」


「リュシアン様!」


「今日もご健在だ」


「ガルヴァンを退けられたんだ」


「光の勇者様!」


 声が重なっていく。

 僕は足を止めそうになった。

 でも後ろにサリアがいる。

 前にはイリアがいる。

 止まれなかった。

 人々は手を合わせていた。

 泣いている者もいた。

 膝をつく老人がいた。

 子どもを抱えた母親が、こちらへ向かって頭を下げている。

 僕は何もしていない。

 そう思った。

 ガルヴァンを倒したのは、僕じゃない。

 僕は剣を抜けなかった。

 立ち向かえなかった。

 ただ、使われただけだ。

 でも、人々は知らない。

 僕が昨日、何をされたのか。

 この身体が何のために使われたのか。

 誰も知らない。


「手を――」


 サリアが小さく言った。


「え」


「手を上げてください」


 言われるまま、僕はゆっくりと手を上げた。

 歓声が大きくなる。

 誰かが泣いた。

 誰かが僕の名を呼んだ。

 いや、僕の名ではない。

 リュシアン。

 勇者リュシアン。

 僕ではない名前。

 その名前に、人々は縋っていた。

 僕は手を下ろせなかった。

 掌が少しだけ汗ばんでいた。

 道は広場へ続いていた。

 広場の先に、白い建物がある。

 正面に大きな扉。

 その上に、光を象った紋章。

 門の前には子どもたちが並んでいた。

 細い子が多い。

 包帯を巻いた者もいる。

 杖をついた老人。

 片腕を吊った男。

 顔に火傷の痕がある女。

 そこだけ、広場の歓声とは違う静けさがあった。


「光の院です」


 サリアが言った。

 僕たちが近づくと、扉の前に立っていた年配の女が深く頭を下げた。


「お待ちしておりました、勇者リュシアン様」


 勇者。

 また、その言葉だった。

 僕は何も言えなかった。

 建物の中は外よりも少し暗かった。

 薬草の匂いがする。

 清潔な布の匂い。

 古い木の匂い。

 それから、どこかに血の匂いが薄く残っていた。

 広い部屋に寝台が並んでいる。

 子どもたちがこちらを見ていた。

 怯えた目。

 期待する目。

 よく分からず周りに合わせている目。

 そのどれもが、僕の胸を締めつけた。


「こちらへ」


 院長らしい女が案内する。

 イリアは黙って歩く。

 サリアは僕の半歩後ろにいた。

 途中、幼い子どもが僕を見上げた。

 片方の頬に大きな傷跡がある。

 その子は僕の剣を見て、それから僕の顔を見た。


「勇者様」


 小さな声だった。

 僕は足を止めた。


「魔王、もう来ない?」


 どう答えればいいのか分からなかった。

 来ない。

 そう言えば、この子は安心するのかもしれない。

 でも、僕は昨日見た。

 魔王は死んでいなかった。

 核が残ればまた動く。

 そして必要なら、僕はまた使われる。

 答えられないでいると、サリアが静かに言った。


「リュシアン様は、そのためにおられます」


 子どもは少しだけ笑った。

 僕は、何も言えなかった。

 部屋の奥に小さな祭壇があった。

 白い石でできた台。

 中央には透明な石が置かれている。

 光は弱い。

 息をするように、ぼんやりと明滅していた。


「リュシアン様には、こちらに手を」


 院長が言った。

 僕は祭壇の前に立つ。

 手を伸ばす。

 指先が石に触れる。

 冷たい。

 台座の奥で、かすかに光が揺れた。

 僕が何かをしたわけではない。

 ただ、石がこの身体に反応しただけなのだと思う。

 それでも周りから小さな息が漏れた。


「光が」


「祝福だ」


「やっぱり、リュシアン様だ」


 違う。

 そう言おうとした。

 僕は――。

 そこから先が出ない。

 喉が締まる。

 胸の奥で何かが止める。

 言葉が形になる前に、押し戻される。

 僕は手を石から離した。

 そのとき、列の端にいた少女と目が合った。

 僕より少し年下に見えた。

 痩せた少年の肩を支えている。

 少年は顔色が悪く、唇も薄い。

 けれど目だけは、こちらをじっと見ていた。

 少女は迷ったように一歩出て、すぐに止まった。

 院長が振り返る。


「カテリーナ」


 少女はびくりと肩を揺らした。


「申し訳ありません」


 彼女はすぐに頭を下げた。


「弟が……どうしても、勇者様を近くで見たいと」


 カテリーナはそう言って、少年の肩を支え直した。


「長く歩くと、すぐ息が切れるんです。今日は、朝からずっと待っていて」


「名前は?」


 気づけば、僕は聞いていた。

 少女が顔を上げる。


「フィルです」


 少年は小さく頷いた。


「フィル」


 僕はその名前を繰り返した。

 フィルは僕を見ていた。

 怖がっているようにも、期待しているようにも見えた。


「勇者様は……」


 フィルが掠れた声で言った。


「魔物、怖くないんですか」

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