第10話 怖くないわけじゃない
その瞬間、昨日の広間が戻った。
黒い巨体。
開いた口。
白い光。
焼ける臭い。
右肩の奥に、まだ牙の感触が残っている気がした。
でも、勇者リュシアンは怖がらないのだろう。
少なくとも、この子たちはそう信じている。
「……怖いよ」
サリアがわずかにこちらを見た。
イリアも振り返った。
僕は続けた。
「怖くないわけじゃない」
「勇者様でも、怖いんだ」
フィルの目がわずかに大きくなる。
そして、ほんの少しだけ笑った。
「うん、怖いよ」
術式は喉を締めなかった。
サリアは止めなかった。
それは勇者の言葉ではなかった。
ただの僕の言葉だった。
「でも――」
でも、何だ。
自分でも分からなかった。
ここにいたくない。
逃げ出したい。
それなのに、フィルの細い手を見ていると言葉が止まらなかった。
「怖いままでも、行かなきゃいけない時がきっと来るんだと思う」
カテリーナが弟の肩を抱いた。
その目に、少しだけ光が戻ったように見えた。
院長が静かに頭を下げる。
「――リュシアン様。この子にも、祝福を」
「祝福……」
僕は聞き返した。
院長は祭壇の前に並ぶ子どもたちを見た。
「勇者様が、手を置いてくださるだけでいいのです」
それで何が変わるのか分からなかった。
病が治るわけでもない。
痛みが消えるわけでもない。
僕には、誰かを祝福する力なんてない。
それでも、フィルは待っていた。
怖いと言った僕を、まだ勇者様として見ていた。
「手を」
サリアが言った。
今度は命令ではなかった。
儀礼の手順を口にする。
僕は手を上げる。
フィルの頭に触れる。
髪は柔らかかった。
少し熱がある。
細い身体が、ほんのわずかに震えていた。
何か奇跡が起きたわけではない。
病が治ったわけでもない。
身体に光が満ちたわけでもない。
でも、フィルは少しだけ息を深く吸った。
「ありがとう……ございます」
小さな声だった。
僕は手を離した。
掌に、まだ彼の熱が残っていた。
昨日、この手に残っていたのは焼けるような熱だった。
魔王の口の奥で弾けた白い光。
自分のものだったはずの腕が、自分から離れていく感覚。
けれど今、掌に残っているのはフィルの体温だった。
弱くて、少し熱くて、すぐに消えてしまいそうな熱。
それなのに、なかなか消えなかった。




