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光よ、満ちろ  作者: 織 航(しき わたる)


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第11話 エルフの賢者

 二人とともに光の院を出るころには、外の歓声は少し遠くなっていた。

 人々はまだ道の端にいる。

 頭を下げる。

 手を合わせる。

 勇者の名を呼ぶ。

 でも、僕の頭の中に残っていたのはフィルの声だった。

 勇者様でも、怖いんだ。

 僕が口にしたのは、勇者の言葉ではなかった。

 ただの僕の言葉だった。

 だからこそ、なかなか消えなかった。 

 あの子は、怖いと言った僕を、まだ勇者様として見ていた。

 そのことが心の奥にすっと入ってきていた。

 帰り道、広場の端で誰かが言った。


「アニエス様の仰った通りだ」


「勇者様は、今も変わらずおられる」


「エルフの賢者様は、やはり間違えない」


 エルフ。

 僕はその言葉に反応した。

 隣を歩くサリアを見る。


「サリアさん」


「はい」


「エルフって、本当にいるんですか?」


 サリアは少しだけ黙った。


「物語の中には――」


「物語?」


「少なくとも、記録上、実在が確認された種族ではありません」


「じゃあ、アニエスさんは?」


「アニエス様は、二百五十年前からこの聖都におられます」


 答えになっていなかった。


「人は、説明できないものに名前をつけます」


 サリアは前を向いたまま言った。


「長く生き、老いず、勇者リュシアン様を支える方。聖都の人々は、アニエス様をエルフの賢者と呼びます」


「本当にエルフかどうかは、分からない?」


「分からなくても困る者はいません」


 それは、勇者と同じだと思った。

 本物かどうかは関係ない。

 人々がそう呼び、そう信じ、それで生きていけるなら、それで足りる。

 僕は遠くの塔を見上げた。

 勇者リュシアン。

 エルフの賢者アニエス。

 どちらも、誰かが必要としている名前だった。

 その中身が何でできているのかを誰も知らない。

 そして、知らなくても困らない。

 僕だけが、少しずつ気づき始めていた。

 この聖都は白い石でできている。

 けれど、その白さの下に何が埋まっているのか、まだ何も見えていなかった。


 白い建物の奥へ戻るころには、足が重くなっていた。

 光の院からここまで長い距離を歩いたわけではない。

 道も整っていた。

 石畳は滑らかで段差も少ない。

 人々は道を開け誰も僕の歩みを邪魔しなかった。

 それなのに身体の芯から疲れていた。

 部屋へ戻るのかと思っていた。

 けれど、サリアは建物内に入ると僕の部屋に続く廊下に向かわなかった。


「こちらです」


 それだけ言って、さらに奥へ進む。


「どこへ行くんですか」


「アニエス様のところです」


 アニエス。

 白衣の女。

 神社で死にかけていた僕の前に現れた女。

 僕をこの世界へ連れてきた女。

 そして、聖都の人々がエルフの賢者と呼ぶ女。

 足が少し遅れた。


「光の院での儀礼は終わりました。次は、今後の説明があります」


「今後?」


「はい」


 その一言だけで、息が詰まった。

 今後。

 次がある。

 昨日のようなことが、またある。

 分かっていたはずなのに言葉にされると息が浅くなる。

 廊下の奥に白い扉があった。

 他の扉と同じ白さなのに、そこだけ少し冷たく見えた。

 サリアが扉を叩く。


「入れ」


 中から声がした。

 アニエスの声だった。

 扉が開く。

 部屋は広かった。

 壁一面に棚が並び、紙束や古い本、透明な瓶、石のようなものが置かれている。

 部屋の中央には大きな机があり、その上に地図が広げられていた。

 地図には、聖都ルミナを中心に円がいくつも描かれている。

 円の外側には、森、街道、廃村、川、山の名前らしい文字が並んでいた。

 赤い印が一つある。

 聖都から少し離れた、円の外側。

 そこだけ他の印より濃く塗られていた。

 アニエスは机の向こうに立っていた。

 白衣。

 長い髪。

 細い体。

 感情の薄い顔。

 神社で見たときとほとんど変わらない。

 僕は思わず彼女の耳を見た。

 長くはなかった。

 少なくとも、僕の知っている物語に出てくるような尖った耳ではない。

 アニエスはそれに気づいたのか少しだけ目を細めた。


「どうしたんだい」


「……いえ」


「エルフの耳を探していた?」


 胸の内を言い当てられて言葉が詰まった。

 アニエスはかすかに笑った。


「君の世界のエルフは、耳が長いのかな」


「たぶん……」


「こちらの物語でも、そう語るものはあるね」


「じゃあ、あなたは違うんですか」


「さあ」


 アニエスは軽く首を傾げた。


「人間は、説明できないものに名前をつける。長く生きる女。老いない女。不滅の勇者を支える女。そういうものを、彼らはエルフと呼んだ。それで足りたんだよ」

 

 答えになっていなかった。

 でも、サリアの言葉と同じだった。

 分からなくても困る者はいない。

 きっと、この聖都ではそうなのだ。

 アニエスは僕から視線を外し、机の上の地図へ目を落とした。


「光の院はどうだった」


 どうだった。

 その言い方が、あまりにも軽かった。


「……子どもがいました」


「いるだろうね」


「怪我人も」


「いる」


「魔物に襲われた人たちですか」


「多くはそうだ」


 アニエスは地図の一点を指で叩いた。


「魔物は、城壁の外だけにいるわけじゃない。森、街道、廃村。人の暮らしの端には、闇の精霊が溜まりやすい場所がある」


「――闇の精霊」


「魔物のもとになるものだ」


「闇の精霊に触れた獣は、まず性質を変えます。人を避けなくなる。飢えていなくても襲う。さらに深く入り込めば肉体も変質します」


 サリアが静かに補った。


「肉体も?」


「骨が太くなり、牙や爪が伸び、皮が硬くなる。小さな獣でも人を殺せる力を持つようになります」


 僕は光の院の入口にいた子どもの傷を思い出した。

 片方の頬に残っていた、大きな痕。


「じゃあ、あそこにいた人たちは……」


「魔物被害者、病人、孤児、貧しい者。光の院は、それらをまとめて受け入れている」


 アニエスが言った。


「勇者リュシアンが訪れる理由は分かっただろう?」


「……希望だからですか」


「そうだ」


 アニエスは否定しなかった。


「治せなくてもいい。救えなくてもいい。勇者がそこに立つだけで、人々は明日を信じられる」


 治せなくてもいい。

 救えなくてもいい。

 その言葉が胸の中で嫌な音を立てた。

 フィルの熱が、まだ掌に残っている気がした。


「それって……騙しているだけじゃないんですか」


 声が出ていた。

 イリアがわずかにこちらを見る。

 サリアは何も言わない。

 アニエスだけが、少しも表情を変えなかった。


「そうだね」


 あっさりと認めた。


「嘘だよ」


 息が止まった。


「けれど、嘘だから価値がないわけじゃない」


「どういう意味ですか」


「真実を教えれば、あの子たちは安心するのかい」


 アニエスは僕を見た。


「勇者は魔王に喰わせるための器です。聖都はそれを隠しています。君たちは本当は守られていません。そう言えば、フィルは笑うのかな」


 何も言えなかった。


「嘘は汚い。けれど、人を立たせる嘘もある。聖都は二百五十年、それで保っている」

 

 二百五十年。

 その長さが、うまく想像できなかった。

 僕が生きてきた時間より、ずっと長い。

 国も、家も、人も、何度も入れ替わるほどの時間。

 その間ずっと、聖都ルミナの人々は勇者リュシアンが生きていると信じてきた。

 老いず、死なず、魔王が現れれば討伐へ向かう不滅の勇者。

 アニエスが、二百五十年前から変わらず聖都にいるエルフの賢者として語られているように。

 リュシアンもまた、変わらずそこにいる勇者として語られている。

 けれど、僕は昨日見てしまった。

 その不滅が何でできているのか。

 身体が戻ることと、魂が残ることは同じではない。

 それでも聖都は、勇者リュシアンが今も生きていると信じている。

 イリアとサリアの名前も、勇者のそばにあるものとして知られているのだろう。

 それが本人なのか。

 名前なのか。

 役目なのか。

 僕にはまだ分からなかった。


「――どうしてそこまでして、勇者を残すんですか」


 僕は訊いた。


「人間には象徴がいる」


「それだけですか」


「それだけで――聖都は残る」


 アニエスは地図に目を戻した。


「そして、象徴だけでは魔王は倒せない。だから器がいる」

 

 器。

 また、その言葉だった。

 僕は胸の奥が冷えるのを感じた。


「次があるんですね」


「ある」


 アニエスは地図の外縁にある赤い印を指した。


「聖都の防衛圏の外側で、魔王の反応が出ている」


 魔王。

 昨日の黒い巨体が浮かんだ。

 ガルヴァン。

 喉の奥。

 白い光。

 僕は無意識に息を止めていた。


「ガルヴァンじゃ……ないんですか」


「違う」


 アニエスは短く答えた。


「ガルヴァンは処理した。反応は別だ」


「別の魔王……」


「まだ弱い。核も小さい。だから今のうちに潰す」


 イリアが言った。

 当然のような口調だった。


「聖都の防衛圏とは何ですか」


 僕は訊いた。

 サリアが地図上の円を指した。


「この聖都を中心に張られている術式圏です。闇の精霊の濃度を薄め、魔物の侵入を抑えます」


「壁とは違うんですか」


「壁は獣や人を止めます。防衛圏は、闇そのものを薄めます」


 サリアの指が赤い印へ移る。


「けれど、魔王が外縁に居座れば周囲の森や獣が変質し始めます。魔王自身が聖都へ来なくても、被害は広がる」


「魔王が来ないのに?」


 僕が訊くと、サリアは頷いた。


「魔王は、ただ強い魔物ではありません」


 サリアは地図の赤い印を指した。


「闇の精霊の核を持ち、周囲の魔物を引き寄せ、従える存在です。魔王が防衛圏の外縁に近づけば、そこにある闇も、魔物も、核に引かれます」


「魔物を従える……?」


「人の軍のように命令するわけではありません。けれど、魔物は魔王の核に引かれます。魔王が憎悪を向けた場所へ魔物も流れる」


 サリアの指が、赤い印から細い街道へ移った。


「防衛圏が十分に働いていれば、それらは内側へ入り込む前に止まります。けれど外縁が弱まれば抜けてくるものが出ます」


 光の院。

 フィル。

 カテリーナ。

 頬に傷のある子ども。

 あそこにいた人たちは、そういう被害の先にいたのだ。

 勇者が必要なのは嘘だからではない。

 嘘でも、必要とされているからだ。

 そのことが余計に苦しかった。


「それなら――」


 僕は地図を見た。


「どうして、この聖都の周りは保っているんですか。魔王が魔物を呼ぶなら、聖都の近くにも魔物はいるんですよね」


 サリアは一瞬だけ言葉を止めた。

 代わりに、アニエスが答えた。


「防衛圏があるからだよ」


「闇を薄めるだけじゃなくて?」


「魔物の流れを逸らしている」


 アニエスは地図の円を指でなぞった。


「人間を見つけにくくし聖都へ向かう足を鈍らせる。術式だけではない。長い時間をかけて、そういう流れを作ってきた」


「そんなことができるんですか」


「魔王が魔物を呼ぶなら呼ばせない方法もある」


 アニエスは淡々と言った。


「この聖都は、そうやって残ってきた」


 言葉だけを聞けば、ただの説明だった。

 けれど、サリアが黙ったことが気になった。

 イリアも口を挟まない。

 この部屋の空気だけが少しだけ冷たくなったような気がした。


「……アニエスさんが、それを?」


「私だけではない」


 アニエスは答えた。


「サリアの術式も、イリアの家が守ってきた外縁の拠点もある。人間が積み上げてきたものは少なくない」


 その言い方は否定ではなかった。

 全部ではない。

 でも、何かはしている。

 アニエスが何者なのか、僕にはまだ分からない。

 けれど、この聖都の白い石の下に彼女の手が深く潜んでいることだけは分かった。

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