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光よ、満ちろ  作者: 織 航(しき わたる)


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第7話 喰わせる腕

 意味が分からなかった。


「右腕?」


「早くしろ」


「……どうして」


「喰わせる」


 息が止まった。

 聞き間違いだと思った。

 でも、イリアの顔は少しも変わらなかった。


「――誰に」


「ガルヴァンに、だ」


「――何を?」


「お前の腕だ」


 時間が止まった。

 言葉の意味が、頭の中で形になるのを拒んでいた。

 お前の腕。

 僕は自分の右腕を見た。

 長い指。

 白い肌。

 勇者リュシアンの腕。

 自分のものではない。

 そう思っていた。

 けれど、今そこにある震えも、指先の冷たさも、全部僕のものだった。


「……嫌だ」


 声が出た。

 小さな声だった。


「嫌です」


「死にはしない」


 イリアは言った。


「この器なら戻る」


「そういう問題じゃ――」


 言い終える前に、イリアが動いた。

 剣を抜いた音は聞こえなかった。

 ただ、視界の端で銀色の線が一度だけ閃いた。

 右手は、まだ剣の柄にかかったままだった。

 左手は鞘を握っていた。

 ふいに、右肩から先の感覚が消えた。

 柄にかけていた指の感触が消える。

 いや、右手そのものの感触が消えていた。

 左手には、鞘ごと剣だけが残った。

 支えを失ったそれが左手の中でかたかたと鳴る。

 何が起きたのか分からなかった。

 僕は右腕があるはずの場所を見た。

 そこにあるはずのものがなかった。

 一瞬、痛みはなかった。

 だから余計に分からなかった。

 剣が左手から滑り落ちた。

 鞘ごと石の床に当たり、乾いた音を立てる。

 次の瞬間、焼けるような熱が来た。


「あ――」


 声が喉で裂けた。

 膝が崩れる。

 右腕の重みがなくなったせいで重心が変わった。

 床に倒れそうになった身体を、サリアの光が支えた。


「動かないでください」


 サリアの声が近くで聞こえた。


「再生が遅くなります」


 再生。

 その言葉が、ひどく遠く聞こえた。

 斬り落ちる前に、イリアがそれを掴んでいた。 

 白い腕。

 細い指。

 さっきまで剣の柄にかかっていた手。

 それが、僕から離れたものだと理解した瞬間、胃の奥がひっくり返った。


「嫌だ」


 僕は言った。


「返して……」


 イリアは答えなかった。

 そのまま、ガルヴァンへ向き直る。

 ガルヴァンの目が細くなった。

 魔王が何を理解したのか、僕には分からない。

 ただ、ガルヴァンがそれを嫌がったことだけは分かった。

 さっきまで僕の一部だったものを見て、焼けただれた巨体がわずかに身を引く。


「サリア」


「はい」


 床に光が走った。

 ガルヴァンの背後に結界が立ち上がる。

 焼けた巨体がそれにぶつかり、黒い煙を上げた。

 イリアが踏み込んだ。

 ガルヴァンの腕が振るわれる。

 イリアはそれを避けた。

 低く沈み、黒く戻りかけた腕の下を抜ける。大剣の刃が床をかすめ、火花が散った。

 次の瞬間には、もうガルヴァンの懐にいた。

 速い。

 目で追えなかった。

 イリアはガルヴァンの焼けた膝を足場にして跳び、肩口へ乗った。

 崩れかけた肉が沈み、黒い煙が上がる。けれど、彼女は眉ひとつ動かさない。

 イリアの手には僕の右腕があった。ガルヴァンはそれを一瞥すると顔を背けた。

 口を閉ざす。

 焼けた牙が、硬く噛み合わされた。

 食べまいとしている。

 僕にも、それだけは分かった。


「サリア」


「はい」


 サリアの杖が光る。

 床から白い鎖が伸びた。

 一本はガルヴァンの首へ。もう一本は焼けた下顎へ絡みつく。

 ガルヴァンが吼えた。

 閉じた口の奥で音が潰れ、広間の石が震える。

 鎖が軋んだ。今にも千切れそうだった。

 イリアはガルヴァンの顔の横に立っていた。

 片手には僕の右腕。

 もう片方の手には大剣。

 その姿を見て、頭の奥が白くなった。

 それは、さっきまで僕の一部だったものだ。

 指も、手首も、腕も。

 全部、僕のものだった。

 イリアは迷わなかった。

 大剣の柄を、ガルヴァンの牙の隙間に叩き込む。

 鈍い音がした。

 ガルヴァンが首を振る。

 イリアの身体が揺れた。けれど落ちない。


「口を――開けろ」


 イリアが低く言った。

 大剣をてこのように押し込む。

 焼けた牙がきしんだ。

 閉ざされていた口が、ほんの少しだけ開く。

 ガルヴァンはなおも顔を背けようとした。

 サリアの鎖が首を引き戻す。結界の光が歪み、白い火花が散った。


「長くは持ちません」


「一瞬でいい」


 イリアは答えた。

 その声は冷たかった。

 次に何をするのか、僕には分からなかった。

 分かりたくなかった。

 イリアは僕の右腕を持ち直した。

 そして、その切り口へ大剣の刃を当てた。

 銀色の刃が、白い腕の根元をもう一度裂いた。

 赤いものが噴き出した。

 同時に、淡い白い光が滲む。

 血なのか、光なのか、分からなかった。

 ガルヴァンの目が見開かれる。

 魔王が身を引こうとした。

 だが、サリアの鎖が逃がさない。

 イリアは開いた牙の隙間へ、僕の腕を押し込んだ。

 投げたのではない。

 押し込んだ。

 ガルヴァンが噛み潰さなくとも、喉の奥へ届かせるように。

 腕の切り口から滲む赤と白い光を、焼けた口の中へ擦りつけるように。

 ガルヴァンが暴れた。

 広間が揺れる。

 サリアの結界が軋む。

 イリアは手を離さなかった。


「呑め」


 短い声だった。

 次の瞬間、白い光が弾けた。

 ガルヴァンの喉の奥から光が走る。

 黒い肉の内側を、白い線が裂いていく。

 魔王が吼えた。

 それは怒りではなかった。

 悲鳴だった。

 胸の奥で燻っていた核が、激しく揺れる。

 白い光がそこへ届いた。

 僕は床に膝をついたまま、それを見ていた。

 右肩が熱い。

 熱いのに、そこには何もない。

 痛みがある。

 なのに腕はない。

 その腕が、今、魔王の中で燃えている。

 そのことだけが分かった。

 どうしてそうなるのかは分からない。

 でも、イリアとサリアは知っていた。

 ガルヴァンも知っていた。

 知らなかったのは、僕だけだった。


「これで届く」


 イリアが言った。

 淡々としていた。

 ガルヴァンの巨体がのたうつ。

 サリアの結界が軋む。

 黒い肉が内側から白く焼け、膨れ、裂けていく。

 僕はその光景を見ながら、ようやく理解した。

 勇者は戦うものではない。

 剣も、外套も、名前も、全部飾りだ。

 この身体そのものが武器だった。

 そして僕は、その武器に入れられた魂だった。

 ガルヴァンの胸の核が白く染まっていく。

 黒い肉の奥で、何かが割れる音がした。

 ひとつ。

 また、ひとつ。

 割れるたびに魔王の咆哮が、だんだん細くなる。

 焼けた腕が床を掻く。

 再生しかけていた指が崩れ、黒い灰になって散った。

 胸の奥の白い光が最後に大きく膨らむ。

 眩しかった。

 目を閉じようとして閉じられなかった。

 サリアの言葉が頭の中に残っていた。

 怖いなら、目を閉じない方がいい。

 僕は見ていた。

 自分の腕が魔王の中で燃えているところを。

 その光が魔王を内側から殺していくところを。

 やがてガルヴァンの巨体が崩れた。

 音は大きくなかった。

 巨大なものが倒れる音ではない。

 中身を失った殻が、力を失って床に沈むような音だった。

 黒い灰が広間に広がる。

 胸の奥で燻っていた核は、もう見えなかった。

 白い光だけが、しばらく宙に残っていた。

 それも、すぐに消えた。

 静けさが戻る。

 誰の歓声もない。

 勝利を告げる鐘もない。

 あるのは、焦げた臭いと、砕けた石と、僕の荒い息だけだった。

 イリアが床へ降りた。

 彼女の鎧には灰がついている。

 けれど、顔色は少しも変わっていなかった。


「終わったな」


 それだけだった。

 サリアが杖を下ろす。

 結界の光が薄れていく。


「核の反応、消失しました」


「――なら、戻るぞ」


 イリアが言った。

 戻る。

 その言葉で、僕はようやく自分の右肩を見た。

 そこには、もう小さな光が集まり始めていた。

 肉が戻っている。

 骨が形を取り、白い光の筋が指先の輪郭を描いていく。

 痛みはあった。

 消えていない。

 むしろ、戻っていくたびに新しい痛みが生まれている。

 僕は震えた。

 再生している。

 だから問題ない。

 この人たちは、そう考えている。

 でも違う。

 僕は、自分の腕が切り落とされるところを見た。

 自分の腕が魔王の口に投げ込まれるところを見た。

 自分の身体が、武器として使われるところを見た。

 それは戻っても、戻らない。


「立てるか?」


 イリアが聞いた。

 さっきと同じ声だった。

 僕は答えられなかった。

 サリアが近づき、僕の肩口を確認する。


「再生は始まっています。転移には耐えます」


「そうか」


 イリアは頷いた。

 僕が立てるかどうかではない。

 転移に耐えるかどうか。

 それが、この場で必要な確認だった。

 足元に光が走る。

 転移の術式が広がっていく。

 僕は床に膝をついたまま、その光を見ていた。

 勇者の剣は少し離れたところに落ちていた。

 鞘には灰がついている。

 傷ひとつない綺麗な剣。

 一度も抜かれなかった剣。

 僕はそれを見て、笑いそうになった。

 笑えるはずがなかった。

 胸の奥で、何かが折れていた。

 魔王を倒した。

 たぶん、そういうことになるのだろう。

 聖都では鐘が鳴るのかもしれない。

 人々は歓声を上げるのかもしれない。

 勇者リュシアンが猿の魔王ガルヴァンを討ったと、誰かが告げるのかもしれない。

 でも、僕は知っている。

 僕は戦っていない。

 立ち向かってもいない。

 剣も抜いていない。

 ただ、切り取られた。

 使われた。

 その結果、魔王が死んだ。

 白い光が視界を満たしていく。

 イリアの声が遠くで聞こえた。


「今日も、役に立ったな」


 その言葉を最後に、黒い広間が消えた。


 ――二人と、僕の姿が消えたあと、黒い広間には静けさだけが残った。 

 焼けた床。

 砕けた柱。

 鞘に灰をかぶった勇者の剣。

 やがて、崩れた石の隙間で小さな蛇が一匹、音もなく動いた。

 蛇はガルヴァンだった灰のそばを這い、床に残った白い焦げ跡へ舌を伸ばした。

 細い舌が、赤と白の混じった跡に触れる。

 蛇の瞳が、わずかに光った。

 そして、石の隙間へ消えた――。

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