第6話 右腕を出せ
その瞬間、足が止まった。
まただ。
バスの中と同じだった。
目が合っただけで身体が動かなくなる。
魔王の胸の奥で、白い光がひとつ、弱く瞬いた。
「……どうやって」
ようやく、声が出た。
自分でも驚くほど細い声だった。
「どうやって、戦うんですか」
イリアがこちらを見た。
「戦う?」
「武器も、何も……」
言い終える前に、イリアが腰の後ろから何かを外した。
こちらへ投げてくる。
反射的に受け取った。
重い。
剣だった。
鞘に収まった、細身の剣。柄には金色の装飾が施され、鍔には胸元の紋章と同じ形が刻まれている。傷ひとつない。綺麗すぎるほど綺麗な剣だった。武器と言うより飾りに見えた。
「勇者の剣だ」
イリアは短く言った。
勇者の剣。
その言葉だけで、胸の奥が少しだけ熱くなった。
剣を持てば、何かが変わる気がした。
この身体なら。
この剣なら。
もしかしたら、本当に。
ガルヴァンの喉の奥で、低い音が鳴った。
焼けた口がわずかに開く。
焦げた肉が剥がれ、黒い息が漏れた。
その奥で白い光がまた弱く瞬く。
「結界を張ります」
穏やかに言いながらサリアが杖を掲げた。
杖の先が、静かに光った。
床の亀裂をなぞるように白い線が走り、崩れた広間の空気がぴんと張る。
光の糸が何本も重なり、見えない壁の形を作っていく。
また魔法だ、と遅れて思った。
こんな状況でなければ見惚れていたかもしれない。
子どものころに夢見ていたものが、今、目の前にあった。
けれど、その光は僕を助けるためのものではなかった。
ガルヴァンを遠ざけるためでもない。
僕が後ろへ逃げないように。
そして、これから起きるものを外へ漏らさないように。
そういう形で、広間を閉じていた。
「ガルヴァンが再生しきる前に、核を焼き切ります」
「核……」
「胸の奥です」
そう言われて、僕はガルヴァンの胸を見た。
白い光。
黒い肉の中で燻る、小さな火。
あそこへ行けと言っている。
あの目の前へ。
あの口の届くところへ。
剣を握る手に力が入った。
ガルヴァンの暗い目が、こちらを見ている。
喉がひゅっと鳴った。
剣を持っている。
勇者の身体をしている。
魔王を倒すための場所に立っている。
それなのに、僕は動けなかった。
川上さんの目が浮かぶ。
助けて。
あのときも、手は動かなかった。
今も、剣を握ったまま動けない。
「リュシアン」
イリアの声がした。
僕の名前ではない名で呼ばれる。
「前へ出ろ」
足が動かない。
ガルヴァンの指が、もう一本曲がった。
黒い肉が盛り上がる。
焼け落ちた肩が少しずつ形を戻していく。
サリアの結界が淡く震えた。
「早く」
穏やかな声だった。
けれど、その穏やかさが怖かった。
この人たちは、知っている。
僕がどうなるのかを。
何人も見てきたからそんな声で言えるのだ。
ガルヴァンの顔が、わずかに持ち上がった。
暗い目が僕を捕まえて離さない。
剣の鞘が指の中でかすかに震えた。
武者震いではない。
僕の手が震えているだけだった。
ガルヴァンの喉の奥で、また音が鳴った。
今度は少し違った。
口が開く。
焼けた牙が見える。
低く、湿った音だった。
黒い指が床を掴んだ。
石が砕ける。
ガルヴァンの巨体がゆっくりと持ち上がった。
完全には立てていない。
片腕は半分焼け落ち、肩から先は黒い肉が泡立つように戻りかけている。脚もまだ歪んでいた。けれど、それでも大きかった。
広間の奥に沈んでいたものが、山のように起き上がる。
ひとつ、床を踏む。
黒い足が石を割った。
もうひとつ、前へ出る。
焼けた皮膚が裂け、そこから白い煙が漏れた。
近づいてくる。
のっそりと。
けれど、確実に。
僕は後ずさろうとした。
足が動かなかった。
サリアの結界が淡く光り、広間の床に円を描いている。逃げ場はない。逃げようとしても足が動かない。僕は剣を抱えたまま、その場に立ち尽くしていた。
ガルヴァンの影が、僕の足元にかかった。
焼けた顔が近づく。
暗い目が開いている。
あの目だ。
バスの中で男と目が合ったときと同じだった。
見られただけで、身体の奥が固まる。
ガルヴァンの口が開いた。
焼けた牙が見えた。
黒い息が、喉の奥から漏れる。
食われる。
そう思った。
全身が固まる。
けれど、ガルヴァンは噛みつかなかった。
開いた口が途中で止まった。
なぜか、そこで止まった。
ガルヴァンの暗い目が細くなる。
僕を見ている。
いや、僕ではない。
この身体を見ているように見えた。
勇者リュシアンの器を。
ガルヴァンの巨体が、わずかに後ろへ下がる。
「喰わないか」
イリアが低く言った。
驚きではなかった。
苛立ちに近い声だった。
「核に残っているのでしょう」
サリアが答える。
「記憶が?」
「おそらく」
「面倒だな」
何の話をしているのか、分からなかった。
核。
記憶。
喰わない。
聞こえているのに、意味がつながらない。
ガルヴァンは目の前にいる。
焼けた牙も、黒い息も、石を割る足も、全部そこにある。
でも、イリアとサリアはまるで手順を確認するように話していた。
その瞬間、嫌な予感がした。
イリアがこちらへ歩いてくる。
ガルヴァンではなく、僕の方へ。
「え?」
声が漏れた。
「何を――」
「右腕を出せ」




