第5話 前のリュシアン
知らない名前だった。
アニエスの声が、少しだけ低くなった。
「ガルヴァン……?」
「猿の魔王」
アニエスは短く答えた。
「つい先ほど、前のリュシアンが内側から焼いた。けれど、核までは焼き切れなかった」
「前の……リュシアン?」
胸の奥がざわついた。
前の。
その言い方が嫌だった。
「君の前に、この器へ入っていた魂だ」
「その人は?」
「残っていない」
即答だった。
部屋が静かになる。
いや、低い音は続いていた。
床の光も動いている。
けれど、僕の耳には何も入らなかった。
残っていない。
それは死んだということだ。
いや、僕も死んだと言われた。けれど、ここにいる。
その人は、ここにもいない。
「……どういう意味ですか」
声がかすれた。
「言葉通りだよ」
アニエスは薄い板を閉じた。
「魂は消えた。器は戻った。だから君を入れた」
吐き気がした。
僕が着ている身体。
僕が立っている足。
僕が見ている目。
その直前まで、別の誰かがここにいた。
その誰かはもういない。
そして今、僕がいる。
「ガルヴァンというのは……死んでないんですか」
「まだね」
アニエスは淡々と言った。
「魔王は核が残れば再生する。身体が焼け落ちても、腕が潰れても、喉が裂けても、核が残っていれば時間をかけて戻る」
「再生……」
「君の器と似たようなものだよ」
アニエスは僕を見た。
「器は魂を失っても、形を戻す。魔王は身体を失っても、核から形を戻す。違うのは、こちらには魂を入れ直す必要があり、あちらは核そのものが魔王であることだ」
意味は分かった。
分かりたくなかった。
「前のリュシアンが、ガルヴァンの中で光を放った。魔王の身体は焼けた。だが、核は残った」
アニエスの声は静かだった。
「完全に戻る前に焼き切る」
「それを……僕が?」
「そう」
白い石の扉が開いた。
そこに二人の女が立っていた。
一人は、黒髪の剣士だった。
細い腰。長い脚。背中に負った大剣。銀色の鎧は傷だらけなのに、立ち姿には少しの揺れもない。
もう一人は、白い外套をまとっていた。
淡い金の髪をゆるく結び、胸元に杖を抱えている。表情は穏やかだった。けれど、その目は少しも笑っていない。
二人とも、僕を見た。
驚きはなかった。
懐かしさも、喜びもない。
ただ、確認するような目だった。
「定着したか」
黒髪の女が言った。
「している」
アニエスが答える。
「なら行くぞ」
行く。
その言葉だけで、身体が強張った。
「どこへ?」
僕は聞いた。
白い外套の女が、静かに頭を下げた。
「お初にお目にかかります、勇者リュシアン様。私はサリア。こちらはイリア。私たちは、あなたの随伴者です」
随伴者。
仲間。
そう聞いたはずなのに少しも安心できなかった。
イリアと呼ばれた女が僕を頭から足元まで眺める。
「歩けるな」
「え?」
「立っている。なら歩ける」
「待ってください。僕は――」
「説明は移動中に聞け」
イリアはそれだけ言って部屋の外へ向かった。
サリアが近くの箱を開ける。
中から白と黒の衣服を取り出した。
「そのままでは転移に耐えません。着替えてください」
「転移……?」
「魔王城へ向かいます」
喉が乾いた。
「今から?」
「はい」
サリアの声は穏やかだった。
「猿の魔王ガルヴァンは、まだ完全には死んでいません」
部屋の低い音が、また揺れた。
「前のリュシアン様が内側から焼きました。けれど、核が残りました」
「核……」
「魔王としての中心です」
サリアは静かに言った。
「そこが残っている限り、ガルヴァンは再生します。今はまだ焼けた身体のままですが、時間が経てば腕も、脚も、喉も戻るでしょう」
背中が冷たくなった。
「あなたには、その核を焼き切っていただきます」
意味が分からなかった。
分からないのに、身体だけが先に怖がった。
指先が強張る。
足が床に張りついたように動かない。
「僕に、戦えっていうんですか」
「戦えとは言っていません」
サリアは衣服を差し出した。
「あなたは、勇者リュシアンです」
答えになっていない。
けれど、それ以上は何も言ってくれなかった。
僕は衣服を受け取った。
手が震えている。
イリアが扉の外から言った。
「急げ。形を戻されると面倒だ」
「形を……」
「再生だ」
イリアは苛立ったように言った。
「魔王の核はしぶとい。焼け残れば、また肉を作る。骨を戻す。腕を生やす。喉を開く。そうなれば、もう一度最初からだ」
最初から。
その言葉の意味を、僕はまだ知らない。
それでも、嫌な響きだけは分かった。
「半分焼けても、死ぬまでは魔王だ」
僕は何も言えなかった。
白い薄布を脱ぎ、渡された服に袖を通す。
黒い下衣。
白い上衣。
胸元の留め具。
金糸で縫われた紋章。
服は、ぴたりと身体に合った。
まるで、最初からこの身体のためだけに作られていたように。
いや、実際そうなのだろう。
勇者リュシアンのための服。
僕のためではない。
サリアが外套をかける。
指先が一瞬だけ肩に触れた。
冷たかった。
「怖いですか」
サリアが小さく聞いた。
僕は答えられなかった。
「怖いなら、目を閉じない方がいいです」
「え?」
「魔王の前では、目を閉じると余計に怖くなります」
それは助言のようだった。
けれど、その言葉はひどく慣れていた。
今まで何人にも同じことを言ってきたような声だった。
僕はサリアを見た。
「あなたたちは……何人見てきたんですか」
サリアは微笑んだ。
答えなかった。
イリアが戻ってきた。
「行くぞ」
足元の床に光が走った。
白い線が円を描く。
その円の中に、細かい文字が浮かび上がる。
神社で見た白い光とは違う。
もっと冷たく、もっと整っていた。
「忘れない方がいい」
アニエスが僕を見る。
「何を……?」
「君は助けてと言った」
胸の奥が痛んだ。
「だから私は助けた」
「これは、助かったって言うんですか」
「少なくとも、君はまだ考えている」
アニエスの目は薄かった。
「死んでいたら、それもできない」
言い返せなかった。
光が足元からせり上がる。
イリアが大剣の柄に手を置く。
サリアが杖を胸の前に立てる。
二人の表情は変わらない。
まるで、これから出かける場所が魔王城ではなく、隣の部屋であるかのようだった。
僕だけが、息の仕方を忘れるほど戸惑っていた。
白い光が視界を埋める。
その向こうで、アニエスの声が聞こえた。
「行っておいで、勇者リュシアン」
次の瞬間、床が消えた。
身体が落ちる。
いや、落ちているのではない。
引き伸ばされている。手も足も、声も、心臓の音も、白い線になってほどけていく。
吐きそうだった。
目を閉じかける。
けれど、サリアの言葉が頭に残っていた。
怖いなら目を閉じない方がいい。
僕は必死に目を開けた。
白が消える。
黒い石の床が見えた。
焦げた臭いがした。
焼けた毛の臭い。
血の臭い。
砕けた石と、冷たい風。
そこは広間だった。
砕けた柱。
焼けた床。
壁に残る拳の跡。
そして、広間の中央に黒く焼けた巨体が沈んでいた。
胸の奥で小さな白い光が燻っている。
その周りで、黒い肉が少しずつ盛り上がっていた。焼け落ちたはずの皮膚が泡立つように形を取り戻していく。焦げた腕の先で、黒い指が一本、ゆっくりと曲がった。
「猿の魔王ガルヴァンだ」
イリアが言った。
僕は、声を出せなかった。
その巨体がかすかに動いた。
焼けただれた顔がこちらを向く。
暗い目が開いた。
死にかけているはずの魔王が、僕を見た。




